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 彼はベッドの上で半身を起こして、頬を流れる涙をそのままにぼんやりと窓の外を見ていた。涙は後から後から流れ出て、手元のシーツに染みを作っているのに、ぬぐおうともせずに流れ落ちるに任せている。カーテンのあいた窓から差し込む光に、頬を伝う涙の粒がきらりと光った。

 どこか儚さを感じるその光景は、エルザの目を奪った。

 放っておいたら消えてしまいそう。そう思ったから、幼いエルザは名前も知らない青年に問いかけた。


『泣いてるの?』


 青年は肩をびくりと揺らすと、こちらを向かないままあわてて手の甲で涙をぬぐった。強情な子どもがそうするように否定する。


『……泣いてない』


 エルザは小首を傾げた。

 だって涙がこぼれているのに。

 エルザはそっと病室に踏み込んだ。


『おけががいたいの?』


『違うよ』


『じゃあ、びょうきがつらいの?』


『違う』


 考え得る理由を否定されて、エルザは途方に暮れた。

 ここは病院だ。怪我が痛いのでもなく、病気でもないのだとしたら、彼はどうして泣いているのだろう。


『……かなしいの?』


 青年はエルザの方へ視線を向けようともしない。それでも答えは返ってきた。俯いて絞り出した、諦めたようでいて諦めきれないようなその声はくぐもって聞こえた。


『悔しいんだ』


『くやしい……?』


 エルザは考えた。

 青年がこちらを向いてくれないのが不服だったのか、泣かせたままにしておくのが嫌だったのか。今ではもう覚えていない。

 ただ一生懸命だった。

 ひとりひっそりと静かに泣くこの人の涙を止めたかった。

 とにかく元気づけようと、エルザは母の言葉を思い出して話し始めた。


『あのね――』


 * * * * * * * * * 

 

 久しぶりによく寝た気がした。

 ベッドに半身を起こしてぼんやりと考える。

 夢を見ていた気がするが、あまりよく思い出せない。ただ、最近いつもみる誕生日の夢とは違っていたことだけは確かだ。

 懐かしいような、もどかしいような。

 ……思い出せない。

 あくびをひとつすると、ベッドから出て時計を確認する。時計の針は起きだすのに常識的な時間を指している。

 ふと違和感を感じて自分の服を見下ろす。

 昨日来ていた服のままで、寝間着に着換えていなかった。


 ――そうだ、昨夜ティナのピアノを聞いていて……。


 やってしまった。

 大きなため息が漏れる。

 きちんとベッドに寝ていたということは、誰かが運んでくれたのだろう。おそらくはレオンハルトが。

 これ以上迷惑はかけたくないと思うのに、どうしてこうなのだろう。


 ――とにかく、謝らなくちゃ。それからお礼も。


 よし、と息を吸い込み、気合を入れる。

 身支度を手早く済ませて扉をあけると、昨日と同じ位置にフランクが立っていた。


「おはようございます」


「お、おはようございます。ずいぶん早いんですね」


「ええ、少佐が朝早くに家を出るとおっしゃるので」


「まさか……、少佐はもうお仕事に?」


「ええ、先程」


 エルザはがっくりと肩を落とした。

 今日こそはきちんと朝の挨拶をして、できれば朝ごはんの用意をして、お見送りくらいはしなければ、と思っていたのに。まさかそんなに朝早く家を出るとは思っていなかったのだ。


「……明日は夜明け前に起きます」


「はい?」


 心中の決意が漏れ出ていたようだ。フランクが首をかしげた。


「いえ、なんでもありません。……あの、昨日は無理を言ってすみませんでした。少佐に怒られたりはしませんでしたか?」


 気になっていたことを聞くと、フランクは視線を彷徨わせて遠くを見るような目になる。


「ああ……、いえ、お気になさらず。怒られては……いませんよ。少しばかり当たりがきつかったような気はしますが……」


 妙に歯切れが悪い。

 やっぱり迷惑をかけてしまったんだわ、と反省する。


「もう無理は言いませんから。……あ、でも、お昼ご飯はご一緒してくださると、とっても嬉しいです」


 どうせふたりとも昼食はとるのだから、そこは目をつぶってもらおう。そう思って提案すると、フランクは嬉しそうに頷いた。

 朝食をとり、自分の分の洗濯を済ませる。それが終わると、エルザは研究室に行くことにした。昨夜ティナに返してもらった資料をラング氏に届け、その帰りに食材の買い物をするつもりだった。

 研究所まではフランクが車で送ってくれた。

 ラング氏の研究室の扉をノックして、返事を待ってドアを開ける。


「ラング先生、家にあった資料をお持ちしました」


 そう言って資料を差し出すと、ラング氏は寝癖のついた後頭部をわしわしと掻きながら受け取り、ぱらりぱらりと中を確認する。


「ああ、ありがとう。――家にあった分はこれだけかい?」


「私がわかる範囲ではこれだけだと思いますが。足りないでしょうか」


 不安になって問い返すと、ラング氏はうむ、と唸る。


「どうにも情報が足りなくてね。……これはこれで受け取っておくから、もし他に何か見つかったら知らせてもらえないだろうか」


 もう散々探したんですけれど――という言葉を飲み込んで、エルザは頷いた。


「わかりました。ご期待に添えるかどうかわかりませんが、もし何か見つかりましたらご連絡いたします」


 では、とぺこりと頭を下げて研究室を出る。

 扉が背後でパタンと閉まって、詰めていた息を緩めた。横にたつフランクの視線に気付くと、苦笑いを浮かべた。


「苦手なんです、あの人」


 ひみつですけど、と小さい声でつけたした。


「父の研究室に寄ってもいいですか」


 両親の遺品がまだ研究室には残っているだろう。研究に関するものはともかく、私物は片付けておいた方がいいだろうし、持って帰れるものがあるなら持って帰りたかった。


「もちろんです」


 快く頷いたフランクとともに父の研究室へ向かう。研究室の前まで来たところで、廊下の奥の方から声をかけられた。


「エルザ!」


 振り向くと、向こうからユリウスが手を振って走って来る。

 すっと自然な動作でエルザの斜め前に立ったフランクの腕に手をかけ、首を振る。


「幼馴染です。大丈夫」


 少し迷うような表情を見せたが、結局フランクは脇へ一歩下がった。

 エルザの目の前までやって来ると、ユリウスは困惑した表情を浮かべてフランクとエルザを交互に見比べた。


「心配になって昨日家まで行ってみたんだけどいなかったから、もしかしたらここに来るかもと思って。……お前、今どうしてるんだ? この人は?」


 書斎の窓は道に面している。昨日来たと言うのなら、派手に破られたあの窓を見たのだろう。

 心配をかけてしまったこと、連絡ができなかったことがひどく申し訳なかった。


「ごめんね、心配かけて。この方はフランク・グロスさん。護衛してくださる方よ」


「護衛?」


 ユリウスが浅く頭を下げたフランクを横目でちらりと見る。困惑した視線を向けられて、エルザは小さく頷いた。


「話せば長くなるの。中で話すわ」


 エルザがそう言ってドアを開ける。

 中を見て、言葉を失った。

 研究室内は、滅茶苦茶に荒らされていたのだ。

 ユリウスが隣で息を飲む気配がした。


「……通報してきます。あなたが一緒なら安全ですね?」


 フランクが険しい表情でユリウスに確認する。気圧されたかのように息を飲み、ユリウスはゆっくりと頷いた。

 それを確認すると、フランクはエルザに視線を移し、含めるように言う。


「僕が戻って来るまで、この方とここにいてください。いいですね」


 はい、と答えると、フランクは身をひるがえして廊下を走り去った。

 ドアを静かに閉めると、廊下の壁にもたれかかる。

 見上げたユリウスの黒い瞳が不安げに揺れていた。


「一昨日の夜から、レオンハルト・カイザー少佐のお家でお世話になってるの」


 話していいものかわからなかったが、特に口止めもされていなかったと思い、核心に触れない範囲で情報を選んで、ぽつりぽつりと口に出してみる。


「一昨日の夜、泥棒が入って。ちょうど家に訪ねて来て下さった少佐に助けてもらったの。それで、家には居られないし、行くあてもなかったから、少佐のお家に泊めてもらって」


 ユリウスは腕組みをして聞いている。眉間のしわが深い。


「護衛って?」


「……両親は他殺の可能性があるんだって。両親が研究していた薬の件で、狙われたのかもしれない。その情報を持っているかもしれないと疑われると、私まで狙われる可能性もあるから、念のためにって」


 ユリウスは何とも言えない渋い顔をしている。こんなことを急に言われたら戸惑うのも無理はないだろうと思う。


「あの、ごめんね、心配させて。そんな事情だったから、居所ぐらいは連絡しなきゃとは思ったんだけど、外に出てもいいものかわからなくて」


 謝るエルザの栗色の頭に、ユリウスの大きな手が乗る。


「謝らなくていい。心配は……したけど。いや、今もしてる」


「今は大丈夫よ、少佐がいろいろと気を配ってくださって」


 ユリウスに安心してほしくて言ったが、反対にユリウスの表情はどんどんと陰っていく。不思議に思っていると、ユリウスは迷うように口を開いた。


「少佐は確かに英雄と呼ばれる人だが、……一方で悪い噂もある」


 エルザはきょとんとユリウスを見上げた。先日は熱っぽく少佐の事を語っていた彼と、どこか違っている。


「大戦時、少佐がたったひとりで生還したのは、敵方と何か取引があったんじゃないかって噂がある」


 ユリウスの言葉に、エルザは困ったように視線を彷徨わせた。生真面目な彼がそんな根拠のない噂を口にするとは思わなかったのだ。


「……噂なんて。そんな不確かなもので判断するのはよくないと思うわ。それに、十年も前の話じゃない」


 確かめようもない十年も前の話。もしそれが事実だったとしても、今回の件には関係があると思えない。


「おじさん達が自殺した時、調査が入ったろ」


 話が急に変わって、エルザは瞳を瞬いた。


「あの時、現場で軍の紋章が入ったボタンが発見されてる」


「ボタン?」


「これだ」


 そう言ってユリウスは軍服の袖口を示す。そこには獅子の紋章の飾りボタンがついていた。


 ――ボタン。袖の、ボタン。


 脳裏に低い声が響く。


『ん……、ああ、ボタンが取れてる。知らないうちに落したかな』


 ボタンのとれた袖。だらりと下がる糸。

 あれは少佐の軍服の上着だ。

 思わず息を詰めたエルザに気付かず、ユリウスは続ける。


「おじさんには軍人の知り合いも多かったし、家に出入りもあったから、特に取り上げられることはなかったみたいだが。……おじさん達の件が事件だって言うんなら、犯人はもしかして軍人じゃないのか」


 エルザは言葉に詰まった。それはレオンハルト達が立てていた仮説と終着点が同じだからだ。決定的に違うのは、ユリウスがレオンハルトの事を疑っているということだった。


「本当に少佐は信用して大丈夫なのか」


 ユリウスが身をかがめてエルザの顔をのぞきこむ。

 黒い瞳にまっすぐ射抜かれて、エルザは身を固くした。


「でも……」


 言葉を探して視線が彷徨った。


「あの日、助けてくれたのよ」


「タイミングが良すぎると思わないか」


「え……?」


 思ってもみなかった言葉を投げかけられて、エルザは戸惑う。


「その出会いそのものが仕組まれていたんだとしたら」


 ユリウスは思いもかけないことを考えている。そんな手の込んだことをエルザは思いつきもしなかった。

 琥珀色の一対の瞳が思い浮かぶ。

 曇りのないその色はいつも綺麗で澄んでいて。

 だから、違うと言いたかった。


「……理由がないわ」


「おばさんに妹がいたの知ってたか」


 また唐突に話題が変わる。

 なによりも、本人でさえ一昨日知ったばかりの事実をユリウスが知っていたことに驚いた。


「どうしてユリウスが知っているの?」


 ユリウスが瞬間口ごもる。話しにくそうにがしがしと後ろ頭を乱暴にかいた。


「その人は軍の高官の屋敷で働いていたらしいんだが、ある時急に仕事を辞めて、半年後に死亡している。……今から十八年前だ」


 エルザは確信した。ユリウスは知っている。エルザでさえ知らなかったことを。

 両親と血がつながっていないことをユリウスに話したことはないのに。


「……ユリウスは知っていたの? 私は一昨日まで何も知らなかった」


 知らなかったのは自分だけ。

 感じるのは疎外感。まるで世界から置いて行かれたよう。


「俺も知ったのは最近だ。少佐がそれについて調べてるって話があったんだ」


「少佐が? どうして?」


「その高官がもしお前の父親だったとしたら、これは醜聞だ。メイドに手をつけて妊娠させた挙句捨てたんだからな。お前はその生き証人ってことだ」


 エルザはあまりの事に言葉を失う。

 何も知らなかった自分をすでに巻き込んで画策された陰謀があると、ユリウスは言っているのだ。


「……でも、私何も知らないわ。父親が誰かなんてそんなこと」


 実の両親がどんな人達なのか、考えたことはあった。

 それは何ひとつ情報を持たないエルザにとって雲をつかむような空想であり、手を伸ばせば消えてしまうような儚いものだった。


「それが真実かどうかなんて関係ないんだ。そう主張する者がいればそれだけでことは足りる。血縁関係なんて証明できるもんじゃないんだからな」


 ユリウスは淡々と続ける。

 幼馴染は知らないうちに随分と大人になってしまったみたいだった。まるで知らない人と話している気分になる。


「それが少佐とどう関係があるの」


「名家の出でもない少佐がこんなに早く出世したのはなにも戦功だけじゃない。随分と汚い手段も講じたって聞いている」


「私は誰かを蹴落とすために少佐が用意した駒だっていうの……?」


 エルザの声が震える。


「可能性の話だ。でも、否定はできないと思わないか」


 ユリウスはレオンハルトを信じることができないようだ。

 エルザだってまだレオンハルトと知り合ってから三日しかたっていない。けれど、あの優しさが嘘だとは思えなかったし、思いたくなかった。暗闇に堕ちたエルザの心をすくい上げてくれたのは彼の優しさだったから。


「……少佐はいい人よ」


 根拠にもならない言葉しか、もう残っていない。

 それでもユリウスには分かってほしくて言い続けた。彼もまた、大切な幼馴染だったから。

 必死に言い募るエルザを見下ろして、ユリウスは心配そうに眉根をぎゅっと寄せた。


「お前はそうやって疑うことを知らない。お前が傷つくのを見たくないんだ」


 ――疑うべきなの?


 エルザは混乱していた。

 何が正しいのかわからない。

 レオンハルトが嘘をついているのだとしたら。

 ユリウスが正しいのだとしたら。


 ――だって、私には何もできない。


 足元が急に崩れていくような不安に襲われて、緑の瞳が涙に潤む。


「……そうだとしても、どうしようもないの。家にはまだ帰れないし、行くあてもないのよ」


 ぽろぽろとこらえていた涙があふれ出した。

 正しいのか、間違っているのかもわからない。

 ただ周囲の優しさにすがることしか、今の自分にはできない。

 それが本物であろうと、偽物であろうと、選択できる立場ではないのだ。

 大きな川の流れに流される木の葉のように。

 なんて情けないんだろう。

 流れる涙を手の甲で拭う。

 唐突に引き寄せられて、視界が黒で埋まる。気付けばユリウスに抱きしめられていた。大きな手が優しい手つきで髪を撫でる。


「ごめん」


 ユリウスが耳元で囁いた。

 腕の中で頭を振る。栗色の髪がさらりと揺れた。


「俺にもう少し力があったら……」


 ユリウスが苦しげなつぶやきをこぼす。彼がそこまで思いつめる必要なんてどこにもないのに。

 彼にまで気を遣わせてしまったことが申し訳なくて、エルザはそっとユリウスのたくましい胸板を押し返した。

 自分がしっかりしなければならない。すべては自分の身に起きたことなのだから。


「私なら……大丈夫。心配しないで」


 どうにか笑ってみせると、目尻にたまった涙を長い指がすくい取った。

 真摯な瞳がいつもより近い。

 そのことに気がついて、エルザは少し慌てた。幼馴染の距離ではない。


「あんまり気を許しすぎない方がいい。頼むから気をつけてくれ」


「あ、その、わかったわ。本当に大丈夫。だから……」


 離して、と言う前にのんびりとしたフランクの声がかかる。


「お二人はそういうご関係で?」


 振り返ると、廊下の先でフランクがこちらを面白そうに眺めていた。


「だったらどうだっていうんです」


 あわあわと頬を染めて慌てるエルザとは反対に、ユリウスは噛みつくような勢いだ。フランクのこともよく思っていないように見える。


「いえ……、どうということはありませんが。まあ僕に矛先が向かないなら何でもいいんです。ええ」


 フランクは明後日の方向を見ながらよくわからないことを言う。

 顔をしかめるユリウスの力が弱くなった隙に、エルザはするりと腕の中から抜け出した。

 熱を持った頬を両手で包みこむ。泣いたせいで鼻は詰まっているし、顔はぐちゃぐちゃになっているだろう。


「通報してくださったんですか」


「ええ。もうじき捜査も始まりますよ。捜査員が到着したら帰りましょう」


「……じゃあ、俺はもう行くから」


 何か言いたそうで、でも言葉にできないような顔をしながらユリウスが踵を返す。


「あ、待って」


 エルザはポケットを探って借りていたハンカチを差し出した。

 昨日のうちに洗濯しておいた。いつ会えるかわからなかったので、持ち歩いていたのだ。


「これ、返そうと思ってたの。ありがとう」


「ああ」


 受け取ったユリウスの右手に包帯が巻かれているのを見て、エルザは思わずその手をとる。


「怪我……」


「訓練でちょっとな。大したことないんだ。すぐ治るよ」


「……気をつけてね」


 きゅっと握りしめて、そっと離す。言いたいことはたくさんあったが、フランクの視線が気になって、それだけしか口にできなかった。


「ああ」


 ぽんと頭に大きな手が乗る。さらりとかきまぜて、そっと離れて行った。


「お邪魔してしまいましたね」


 ユリウスの後ろ姿を見送りながらフランクがあまり悪いとは思っていない様子で言う。


「いいえ。……あの、幼馴染なんです。そういうのじゃなくて」


「そうですか」


 恥ずかしくなって俯いたエルザは、フランクが厳しい目で去って行くユリウスの右手を見つめていることに気がつかなかった。


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