5
カーテンを通って室内へ差し込む柔らかな陽の光に、エルザはまつげを震わせて目を開けた。
見慣れない部屋に瞬間戸惑いを覚え、すぐに昨日の出来事を思い出して、ふうと息をついた。
昨夜事情をあらかた聞き終わった後、案内された客室はきれいに掃除がされていて、居心地のいい部屋だった。
荷物を持って案内してくれたレオンハルトは、部屋の中には入らずに戸口に立って、内側から鍵がかけられることを説明した。荷物をエルザに渡すと、おやすみ、と優しい声で告げると静かに扉を閉めて立ち去った。
ひとりになって、今後の事を考えなければ――とは思ったが、心も体も疲労を訴え、思考能力はまともに働かない。すぐにあきらめ、荷物の中から寝巻を取り出して着替え、写真立てを枕元に置いてベッドに横になった。
ふかふかのベッドには石鹸の香りのするシーツがかけられていて、潜り込むと張り詰めた体から少し力が抜けた。
疲れてはいたが、緊張のせいか眠りはなかなか訪れなかった。暗い中にひとりでいると孤独感に押しつぶされそうで、布団にくるまって両腕を抱きしめるようにさする。
外で鳥の鳴き声が聞こえるようになった頃、ようやく眠りに落ちたのだが、どうやらそのまま寝過ごしてしまったようだ。
窓辺に近寄り、繊細なレースのカーテンの隙間からそっと外を見ると、太陽は随分高いところにあった。
あわてて身支度を整えて部屋の扉をあけると、扉の脇に見知らぬ軍人が直立不動で立っていた。
驚いて身をすくませるエルザに、彼は慌てたように手を振った。
「あ、違います、怪しい者じゃありません。護衛を仰せつかりました、フランク・グロスと言います」
彼は一気にそう言って、ぺこりと頭を下げる。
エルザは肩の力を抜くと、深々と頭を下げた。
「エルザ・ヒンメルです。よろしくお願いします」
フランクは安心したようにほっと一息つく。
「あの、私はこのお部屋から出てもいいんでしょうか?」
あまりうろうろするとこの人に迷惑がかかるのかもしれない。そう思ってエルザは確認する。
フランクは人懐っこい笑顔を浮かべた。
「はい、ご自由になさっていただいて結構です。ああ、もちろん差し支えのない範囲で僕がお伴をすることになりますが」
「あの、少佐は……」
「少佐でしたら、朝早く基地に向かわれましたよ。僕と入れ違いに」
「そうですか……」
「少佐に用がおありでしたか?」
小首をかしげて問いかけるフランクに、エルザは首を振った。
「いいえ、用というわけではないのですが。お世話になっている身でこんなに寝坊をしてしまって……、朝のご挨拶もできないなんて呆れられてしまいますね、きっと」
ただでさえ迷惑をかけているのに、惰眠を貪る小娘とは思われたくなかった。事情があるにせよ、礼儀だけはわきまえておきたかった。
しゅんと肩を落としてそうこぼすと、フランクはああ、と明るい声を出した。
「疲れているだろうからゆっくり寝かせてあげなさいと少佐がおっしゃっていましたよ。僕にも静かにするようにって何度も何度も」
ぱちりと瞬きをするエルザに、フランクは親しげに笑いかける。
「少佐はお優しい方です。あなたに何があったのかはざっと聞きましたが、少佐のもとにいる限りは大丈夫です。僕も、微力ながら全力を尽くしますので!」
どん、と厚い胸板をこぶしでたたいて見せる。年若い軍人の芝居がかったしぐさが少し面白くて、エルザは口元を緩めた。
「はい」
にこりと微笑みかけると、フランクはいたずらっぽく笑った。
「では屋敷内をご案内いたしましょう――とは言っても、僕もほとんどわかりませんので、まあ探検みたいなものですね。上官の屋敷内を堂々と家探しできる機会などそうそうありませんから、楽しみです」
フランクのふざけた台詞にふふっと笑い声を落とすと、その分心が軽くなった気がした。
* * * * * * * * *
夜遅く、レオンハルトが玄関を開けると、居間の方から普段静かなこの家には不似合いな、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
不思議に思いながら居間へ向かうと、エルザとフランクがカードゲームに興じているところだった。
昨夜は沈んでいたエルザが少しは元気になったようだ。護衛が勤務時間中に遊び呆けているのはどうかとも思ったが、彼女の明るい表情を見ていたらそれもどうでもよくなった。
「少佐!」
戸口にもたれかかって眺めていると、先に視線に気付いたフランクがソファから勢いよく立ちあがる。姿勢を正すと気まずそうに視線を彷徨わせた。
次いでエルザも立ち上がる。
「少佐、おかえりなさい」
「……君には護衛の自覚があるのかな」
「はっ、申し訳ありません」
少し面白くなくて、ちくりと嫌味を言ってみると、フランクは素直に深々と頭を下げた。
「少佐、お仕事中なのをわかっていて、私が無理を言ったんです。ひとりでお部屋にいるのは少し……その、寂しくて。だから、悪いのは私なんです。本当に申し訳ありません」
フランクをかばうエルザの顔からさっきまでの楽しそうな表情は消えうせて、翡翠の瞳が悲しそうに陰る。せっかく笑っていたのに――とレオンハルトはわずかな苛立ちを覚え、そんな自分を追い払うかのように首を振った。
「ああ、すまない。怒っているわけではないよ。確認しただけだ」
エルザをまぶしそうに見つめると、ふと口の端に笑みをのせた。
「君があんな風に笑えるようになったのが彼のおかげなら、少しばかり羽目を外したとしても目をつぶることにしよう」
エルザとフランクはほっと顔を見合わせた。
「それでは、自分はこれで失礼します」
フランクは姿勢を正すと敬礼をして颯爽と去って行った。明るいフランクが居なくなると、室内は途端に静かになった。急にふたりきりになって、エルザはなんとなく慌ててしまう。
「今日はティナとご一緒ではないのですか?」
そう尋ねると、どさりとソファに座りこんだレオンハルトは嫌そうに顔をしかめた。
「そうそういつも一緒に行動しているわけではないよ」
「そうですか……。あ、少佐、お夕食はお済みですか?」
「いや、今日は忙しくて時間が取れなかった」
疲れたようにソファの背もたれに頭をのせて目を閉じる。
「あの、でしたら、ご用意ができますけれど、どうしましょうか?」
エルザの言葉にレオンハルトが顔を上げた。琥珀色の瞳がエルザを見て不思議そうに瞬く。
「……君が? 作るのか?」
「あ、はい。お台所を勝手にお借りしました。すみません」
先に言うべきだったと気付き、エルザは気まずそうに謝罪する。
「いや、それは別にいいんだが」
「お屋敷の外に出てもいいものかわかりませんでしたので、お台所にあるものを使わせていただきました。その、材料が限られていましたので、大したものはできませんでしたが」
レオンハルトは大体が外食である。屋敷内には保存のきくものしか置いていなかったはずだ。
「フランクと一緒なら外に出てもいい。伝え忘れていたか、すまなかった」
「わかりました。じゃあ、明日からはもっとちゃんとしたものをお作りしますね」
「……俺の分も作ってくれるのか」
「え? もちろんです。その、食べてくださるなら、ですけど」
今ご用意しますね、と言って台所へ向かうエルザの後ろ姿をレオンハルトはぼんやりと見つめた。
昨夜は萎れた花のようだったのが、今日はしゃんと背を伸ばして再び花開く準備をしているようだ。人はこうやって立ち直って行くのだろう。その後ろ姿は不思議と頼もしく見えた。
エルザが台所でスープを温めなおしていると、来客を告げるベルが鳴り、やがてティナがひょっこりと顔を出した。
「はあい、エルザ」
「こんばんは、ティナ」
「これ、返すわね」
ティナが持っていた茶封筒を渡す。中には昨夜の資料が入っていた。
「内容は既存の薬品に対する解析と考察ってとこらしいわ。問題はないから、どうしてもらっても構わないわよ」
「そうですか。では、明日ラング先生のところに持っていきます」
「なんだかいいにおいね」
ティナがひくひくと形のいい鼻を動かして台所に満ちる匂いを嗅ぐ。
「ちょうどよかった。ティナもお夕食はいかがですか」
エルザが尋ねるとティナは嬉しそうに頷いた。
「もうお腹ぺこぺこなの。あなたの手料理なんて嬉しいわ」
ティナと一緒に食卓の準備を整えると、料理を運んだ。
席に着いたふたりの前に、豆の煮込み、玉ねぎのスープ、じゃがいものガレット、パンといったささやかな料理が並べた。
「どうぞ」
並べ終わってそういうと、レオンハルトは立ったままのエルザをちらりと見た。
「君は食べないのか」
「私は先程いただきましたので」
「ひとりで?」
「あ、えっと、フランクさんに付き合っていただきました」
正直に答えると、レオンハルトは少し面白くなさそうな表情を浮かべた。フランクが怒られてはいけないと思い、慌てて言い訳をする。
「あの、フランクさんにはご迷惑かとも思ったのですが、ひとりで食事をするのも味気なくて、私が無理を……」
あわあわと慌てるエルザにレオンハルトは苦笑を浮かべた。
「いや、別に怒っているわけじゃない。それくらい構わないよ」
優雅な手つきでパンを小さくちぎって口に運びながら眺めていたティナが、ふふんと鼻で笑う。
「そんなことでもめるくらいなら、レオンがもっとはやく帰ってきて一緒に食事をすればいいじゃない」
レオンハルトにじろりと睨みつけられても、ティナはにやにやと口元を緩めたまま続ける。
「それに、エルザがご飯を作ってくれるってことは、あなたのご飯が済むまではエルザの家事が終わらないってことよ。それくらい気を使っておあげなさいな」
むう、とレオンハルトが口をつぐむ。
「あ、あの、お忙しいのは分かっていますから、ご無理はなさらないでください。こんなこと、お世話になっている身で大した恩返しにもならないんですから……」
ひとりでいるのがいやだなどと子どもっぽいことを言って周囲を困らせていることが申し訳なくなって、慌てるエルザの言葉をレオンハルトがさえぎった。
「恩返しなどと考える必要はない。……できるだけ早く帰るようにするから、明日からは一緒に食べよう」
エルザの頬がさっと朱に染まる。自分の気持ちを子どもっぽいと怒りも笑いもせずに、大切にしてくれたことがとてもうれしかった。
「もちろんあたしもくるわね」
あなたのご飯のためなら仕事なんて放って来るわ、と微妙なことを言うティナにレオンハルトが重いため息をついた。
「毎日来るつもりか」
「あら、だめなの?」
「……好きにしろ」
来るなと言いたかったが、エルザの嬉しそうな顔を見ると、そう答えるしかなかった。
食事を終えるとエルザは手早く片づけを済ませ、居間でなにやら話し合う二人にハーブティーを入れた。
「ああ、ありがとう。もう君は休みなさい」
レオンハルトはそう言ったが、またあの暗い中で眠りが訪れるまでの長い時間をひとりで耐える自信がなかった。エルザは迷惑を承知で言ってみる。
「あの、お邪魔はしませんから、ここにいてもいいですか?」
その言葉にふとティナが顔を上げる。
「いいけれど……もしかして眠れないの?」
答えられずに口を閉じるが、代わりに緑色の潤んだ瞳が雄弁に語る。
何か気を紛らわすものがなければ自分をうまく保てないのだ。それは例えば家事であったり、人であったり。何もすることのない夜が、一番辛い。
――やっぱり、わがままだったかしら。
撤回しようかと思っていると、ティナがふわりと微笑んだ。
「それじゃあ、おいしいご飯のお礼にあたしがピアノを弾いてあげる」
「あ、いえ、お仕事の邪魔をするつもりは……」
驚いて目を見張る。
「いいからいいから。ピアノはあたしの特技のひとつなの。たまには練習しておかないと弾けなくなっちゃうしね。さあ、座って」
エルザの肩をそっと抱いてソファに座らせると、ティナはグランドピアノの椅子に座ると鍵盤の蓋をあける。確かめるようにポーン、と音を出した。
レオンハルトは諦めているのか、異を唱えるでもなくおとなしくひとりがけのソファに足を組んで座り、目を閉じている。
ほっそりした長い指が鍵盤の上を滑るように動いて音を奏で始めた。
繊細で美しい音楽が響く。
部屋に満ちる心のこもった優しい音色。エルザはなんだか急に泣きそうになって、ぐっと涙をこらえた。優しいこの人達の想いに答えるためにも、自分は早く立ち直らなくてはならない。そう思う。
目を閉じて、深く息を吸い込む。優しい気持ちが音とともに体の隅々まで染みわたっていくように思えて、身を任せた。
* * * * * * * * *
三曲程穏やかな曲を選んで演奏を終えて振り返ると、ティナはくすっと笑いをこぼした。
「寝ちゃったわね」
「ああ」
レオンハルトが音もなく立ち上がり、エルザを起こさないよう気をつけながら抱き上げた。そのまま客室まで運び、ベッドに横たえる。
ティナが戸口にもたれかかってその様子を物珍しげに眺めていた。
「あたしだって一度でいいからお姫様抱っこで運ばれてみたいものだわね」
「他をあたれ」
にべもなく返された言葉にティナが肩をすくめる。
「書斎からは逆方向に向いた銃弾が二つ出たわ」
「片方は俺だ」
「両方とも軍の支給品の弾だった」
「やはり軍人か」
「可能性は高いわね」
レオンハルトはベッドに腰掛けると目にかかったエルザの前髪をそっと横に流す。くうくうと小さな寝息を立てて、何かから解放されたような穏やかな表情で眠りについている。
「……いじらしいじゃないの、見ていて危なっかしいくらい」
ティナの声がひどく優しく響く。
レオンハルトはエルザの寝顔を眺めながらぽつりと呟いた。
「お前はすごいな。フランクも」
「ん?」
「いや……、なんでもない」
レオンハルトには、フランクのようにエルザを笑わせることもできないし、ティナのように穏やかな眠りに導くこともできない。自分の前ではエルザはいつも緊張しているように肩に力を入れて、おどおどとしている。
自分は、彼女のために何をしてやれるだろうか。
「恩があるのはこっちだっていうのに」
ひそやかな声は闇にとけて消えていった。