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 しばらくして車が停車したのは見知らぬ邸宅の前だった。

 基地に向かうものと思っていたエルザがぽかんと邸宅を見上げていると、青年はトランクから荷物を取り出し、玄関の扉を開けたまま待っている。

 自分を待っているのだと理解すると、慌ててエルザは彼の前を通り過ぎ、屋敷の中に足を踏み入れた。背後でぱたんとドアの閉まる音が聞こえた。


「こっちだ」


 青年は玄関ホールを横切り、廊下を進む。慌ててついて行くと、暖炉のある部屋に通された。広い部屋には大きなグランドピアノが主張するように置かれ、品のいい家具が置いてある。


「適当に座っていてくれ」


 ソファの脇にエルザの荷物を置くと、青年は踵を返して部屋を出て行った。

 ひとり取り残されたエルザは、仕方なくソファの端っこにそっと腰掛ける。クッションの利いたソファは座り心地が良く、緊張した体をふんわりと受け止めた。


 ――そう言えば、まだ名前も聞いていない。


 そのことに思い至り、ついてきてよかったのかと途端に不安が襲う。基地に向かうものと思っていたから安心していたが、ここはどう考えても個人宅である。彼がどういう人物なのか、何も分からないのだ。


 ――でも、助けてくれたわ。


 手の中にあるハンカチをきゅっと握りしめる。いい人だと思いたくて、エルザは頭を振った。

 しばらくすると、水差しとグラスを持った彼が戻ってきた。

 エルザにグラスを持たせると、水差しから水を注ぐ。テーブルの上に水差しを置くと、差し向かいのソファにどかりと座った。


「落ち着いたか」


 低い声で静かに問われ、エルザは彼を見て頷いた。グラスの水で口を湿らせると、エルザはグラスをテーブルに置き、立ちあがってぺこりと頭を下げた。


「先程はありがとうございました。あの……、お名前をおうかがいしていませんでした。私は、エルザ・ヒンメルと申します。はじめまして」


 ひといきにそう言うと、顔を上げる。

 青年は何かを考えるように少しの間黙っていたが、ぽつりと口を開いた。


「跳び箱は跳べるようになったか」


「は?」


 よくわからないことを言われて思わず首をひねる。

 青年は右手を額に添えて苦い表情で首を振った。


「……いや、なんでもない。忘れてくれ。とにかく座りなさい」


 跳び箱ってなんだろう、と思いながらもエルザはおとなしくソファに座りなおした。


「俺はレオンハルト・カイザー。君のご両親とは親しくさせていただいていた。任務で留守にしていたものだから、葬儀には行けなかった。申し訳ない……お悔やみ申し上げる」


 エルザは目の前の男を見つめた。

 艶のある黒髪に琥珀色の瞳。整った容貌は二十代後半くらいに見えるが、本当にこんな若い人と両親が親しくしていたのだろうかと疑問だった。

 不信感が顔に出ていたのだろうか、レオンハルトは口の端にかすかな笑みをのせてつけたした。


「大戦の時に大怪我をしてね。当時大学病院で医師をなさっていたヒンメル先生にはとてもお世話になった。それ以来の付き合いだ」


「そうですか……」


 なにはともあれ、この人が父の言っていたレオンハルト・カイザー少佐その人であるならば、警戒する必要はないように思えた。


「……君が、第一発見者だと聞いたが。その、話を聞いても?」


 レオンハルトは言いにくそうに視線を彷徨わせる。

 まだ胸は痛むが、両親と親しくしていたというこの人にはきっと知ってもらった方がいいのだろうと思い、エルザはしっかりと頷いた。


「あの日は……、日曜日だったんです。土日も関係なく研究室に通いづめだった両親は、久し振りに家でゆっくり過ごそうと決めていて。私は両親に体を休めてほしくて、お昼前に買い物をしにひとりで家を出ました。おいしいものをたくさん作ろうと思って、食材を買い込んで、焼き立てのパンを買って、家に帰ったんです」


 買い物について行こうかという母に、エルザは首を振った。普段忙しい両親には、自分の休暇の間だけでも、雑事を気にせずのんびりする時間を持ってほしいと思っていたからだ。

 エルザも、久しぶりの家族水入らずの休日を楽しみにしていた。前日に家じゅうの掃除を済ませ、煮込み料理を用意している。父のお気に入りのワインも買ってあるし、抱えた紙袋の中で温かく熱を発するのは母の大好きな焼き立てパンだ。

 あとはサラダを作って、スープを作って、とあれこれ頭の中で考えながら玄関を開けて、ただいま、と奥に向かって声をかけた。


 出迎える声はいくら待ってもなかった。

 台所に買ってきたものを置くと、せっかくの休みなのに、まさかまた仕事をしているのかと思って、父の書斎を覗いた。無人の書斎はいつも通り散らかっていて、人の気配はなかった。

 食堂兼居間は台所から見渡せるようになっていて、いないのは分かっていたし、エルザの部屋に両親がいるとは思わなかったので、あとは両親の寝室しかなかった。


「両親は、寝室で首をつっていたんです」


 カーテンを閉め切った薄暗がりの中。

 ゆらゆらと揺れるそれはまさに悪夢のようで。


「私の悲鳴をお隣の奥さんが聞いて、駆けつけてくれました。それから後の事は……、あまりよく覚えていません。親戚もいませんから、お隣のご主人と奥さんがいろいろと手配をしてくれて、なんとか無事に葬儀は終えることができました」


 話し終えて口を閉じると、レオンハルトはきゅっと眉根を寄せて深いため息をついた。


「辛い話をさせた。すまない」


 自分の方が辛そうな声音を出す彼に、エルザは小さく首を振った。根拠もなく、この人はいい人なんだと確信した。

 ずっと悩んでいたことがぽろりと零れ落ちたのは、そのせいだろう。


「……私は、実の子どもじゃないから置いて行かれたんでしょうか」


 伏せた顔の向かいで、レオンハルトが息を飲む気配がした。


「知っていたのか」


 両親が自分にも話さなかった真実を、この人には話していたのだとわかって、エルザは少し寂しくなった。


「はい。昔、人が話しているのを聞きました」


 近所には多かれ少なかれ、口さがない人がいるものだ。噂話をうっかり聞いてしまったエルザは、自分と両親の間に血のつながりがないことを十の頃から知っていた。

 両親がそれを自分に告げない以上は、エルザから両親に聞くつもりはなかった。なにより、それで両親との関係が変わってしまうのではないかと怖かった。いつか話してくれるのを待とうと思っているうちに、こんなことになってしまったのだ。


 両親と血がつながっていなかったことが辛いのではない。

 もちろん事実を知った時は多少なりとも動揺した。両親を失望させないようにと勉強も頑張ったし、忙しい母に代わって家事にも精を出した。

 しかし、それがエルザの感傷にしか過ぎないことは程なくしてよくわかった。努力をしようとしまいと、両親の態度は何一つ変わらないのだ。

 父も母も、他の家庭と変わらないように愛情を注いでくれたし、エルザは両親の事が大好きだった。だから、三人で築いた絆の前では、血のつながりなど瑣末な問題だと思えたのだ。

 辛いのは、ひとりで置いて行かれたことだ。

 愛していたのなら、連れて行ってくれればよかったのに。

 大好きな両親の行くところなら、どこへでもついて行ったのに。


「本当の両親の事は?」


「そこまでは……知りません」


「……医者だった君のご両親が研究者になった理由を知っているか?」


「もっといい薬を作るためだと聞いています。精度の良い薬を作ればより多くの命が救えると、父がよく言っていました」


「そう思うようになったきっかけが何か、知らないか?」


「……いいえ、知りません」


 ふむ、とレオンハルトは口元に手を当てて、慎重に言葉を選ぶように話す。


「君の実の母親は、ヒンメル夫人の妹君だ。君を産んですぐ、病で亡くなった」


 はじめて聞く話だった。母に妹がいたことすら知らなかったのだ。


「ほんの少し処置が早ければ、助けられたはずの命だった。そのことを、ヒンメル夫妻は大層気に病んでいた。独身だった妹君は父親の名前も明かさず逝ってしまったために、夫妻は君を引き取り育てると同時に、このような悲劇を繰り返さないためにも、研究者の道へ進むことを決意したそうだ」


「そうでしたか……」


 実の母もこの世にはもうおらず、父親に至っては名前すらわからない。頼りに思っていたわけではないが、なんだか急に孤独がひしひしと身に染みて、エルザは両腕で自分を抱きしめた。

 その様子をじっと見つめて、考え込んだ後、レオンハルトは口を開いた。


「ヒンメル氏とはよく酒を酌み交わしたが、彼は酔うといつも君の話ばかりだった」


 顔を上げると、思い出を懐かしむように細められた瞳と視線が合った。口調が少し柔らかくなっている。

 父は外で酒を飲んでご機嫌で帰って来ることがたまにあった。誰と飲んでいるのかなど考えたことはなかったが、レオンハルトは飲み仲間のひとりであったようだ。


「彼の手帳には家族で写った写真がいつも入っていてね。酔うといつもその写真を見せて、どうだ、可愛いだろう、うちの娘は。気立ても良くて、しっかりしていて、悪いところなんかひとつもないんだぞ――って自慢ばかり」


 ひそやかな吐息めいた笑いが漏れた。


「さんざん自慢して気がすんだら、最後には必ず泣き出すんだ。いつか嫁に行く日が来るんだよなあ、さみしいなあって。いい年をした大人が、まだ来もしない未来を憂いて、しくしくしくしく」


 父は家でも酒を飲むと涙もろくなった。泣き上戸なのだ。そんな父の背中をぽんぽんと母がなだめるようにたたく、ふたりの寄り添う姿を思い出した。


「ご両親は、君の事をとても愛していたよ」


 レオンハルトは静かな声で諭すように言う。


「血がつながっているとかいないとか、そんなことは関係なく、君の事を愛していた。それだけは信じてあげてほしいんだ」


 優しい表情を浮かべたレオンハルトの姿がぐにゃりとゆがむ。涙が溢れそうになって思わず俯くと、握りしめたハンカチが目に入った。皺の寄ってしまったハンカチで目元をぬぐう。

 顔を上げると気遣わしげな視線とぶつかった。嬉しい気持ちを伝えたくて、エルザは微笑んでみせたが、あまり成功したようには思えなかった。


「……はい」


 レオンハルトがほっとしたように息をついたところで、部屋の扉が唐突に開く。


「まったく、急に消えたと思ったら家に帰ってるなんて! せめてひとことくらい言ってからに――」


 入ってきたのは背の高い美女だ。ぶつぶつと文句を言いながらもヒールを鳴らして部屋に入ってきた彼女は、エルザに目を留めると口をつぐんだ。

 艶やかな美女にじっと見つめられて、エルザは思わず緊張する。

 ゆるくウェーブしたブロンド、空色の瞳、軍服をまとった体はスレンダーで、スカートから伸びた足はすらりと長く美しい。涼しげな眼もとは近寄りがたい印象を与えるが、次の瞬間、にこりと笑いかけられるとがらりと印象が変わった。


「まあ! あなたが噂のエルザ嬢ね。あらあら、かわいらしい子だこと……、あら、目が赤いわ。泣いているの? ……まさか、この男になにか変なことでもされたのかしら?」


 噂って何だろうと思ったが、質問する隙はなかった。

 矢継ぎ早に問いかけながらつかつかと近寄って隣に座ると、エルザの頬に手を添えて上を向ける。頬に残る涙の痕にほっそりした綺麗な指を這わせると、整った眉をひそめた。エルザが間近に迫った吸い込まれそうな碧い瞳に目を奪われていると、突然がばりと抱きしめられた。


「ああ、なんてかわいそうなのかしら。本当に男なんてろくでなしばっかり。でも安心して。あたしが来たからにはもう大丈夫よ。この男の好きにはさせないわ」


 美女の腕の中に閉じ込められて、優しく髪を撫でられている。ほんのりと香る甘い香りが鼻をくすぐって、エルザはさらに混乱した。


「あっ、あの……?」


 離れようとするのだが、思いのほか強い彼女の力がそれを許さなかった。腕の中に囚われたままじたばたと動くエルザの髪を、美女はうっとりと撫で続ける。どうすればいいのかわからず焦っていると、テーブルをはさんだ向かいから憮然とした声が飛んできた。


「人聞きの悪いことを言うな。俺が一体何をするというんだ。それから、べたべたくっつくんじゃない」


 じっとりと睨まれた彼女はエルザの頭をそっと胸に引き寄せ、流し目でレオンハルトを見る。


「うふん、レオンったら妬かないのよ」


 名残惜しそうに抱きしめていた腕を解き、エルザの顎に手を添えてそっと覗きこむ。


「あたしのことはティナって呼んで。よろしくね」


「……あ、はい。よろしくおねがいします、ティナさん」


 至近距離の美しい笑みにどぎまぎしながらもなんとか返事をすると、ティナは人差し指を立ててエルザの唇に軽く当てた。


「さんづけなんて他人行儀で寂しいことはやめてちょうだい」


 ほっそりした指がエルザの唇をなぞる。その妖艶さにエルザは顔を赤くして言いなおした。


「わわ、わかりました、ティナ」


 エルザの言葉に満足げに微笑むと、ティナは顔を傾けて頬に軽い音を立てて口付ける。

 エルザが目を白黒させている間にさっと立ちあがってひらりと舞うように移動すると、渋い表情のレオンハルトが座るソファのひじ掛けに浅く腰かけた。


「いい加減にしろ」


「いいじゃない。知ってるでしょ、あたしかわいい子は大好きなの」


 レオンハルトが片手で顔を覆って深いため息をついた。


「……大尉。一応俺は立場上、上官だったと思うんだが」


「ええ、そうね。でもここは職場じゃないし、今はプライベートよ。あたしとあなたの仲で今さらかしこまるのも気持ち悪いでしょ」


「職場でもかしこまったことなんかないだろうお前は……」


 レオンハルトはがっくりと疲れたようにうなだれる。ティナは彼の苦悩などお構いなしだ。


「あら、袖のところ糸が出てるわ」


 指摘を受けてレオンハルトが左手の手首を確認する。


「ん……、ああ、ボタンが取れてる。知らないうちに落したかな」


「珍しいわね、そういうとこ意外といつもきちんとしてるのに」


「面倒だな。予備があったか……?」


 顔を寄せて話すふたりの近い距離感に、親密さを感じる。整った容貌のふたりが寄り添うと、まるで絵画を見ているように華やかだった。見惚れていたエルザはティナのひと言で我に返った。


「それで、こんなとこに呼び出したりして一体何事?」


 ティナが不思議そうにレオンハルトに問いかけた。

 レオンハルトは腕組みをしてソファの背もたれにもたれかかった。


「ヒンメル夫妻の事は知っているか」


 ティナはちらりとエルザに視線を投げると、言葉を選びながら答える。


「ええ……、先日お亡くなりになったというのは知っているわ」


「世間では自殺ということになっているが、他殺の可能性がある」


 レオンハルトの突然の言葉に、エルザは耳を疑った。さっと血の気が引いて行くのを感じる。


「他殺? だって、両親は首をつって……。それに軍の方も……」


 両親の死の際、軍の捜査が一度入っている。一通り捜査したうえで、自殺という結論になったはずなのだ。

 エルザの疑問を、レオンハルトの静かな声がさえぎった。


「自殺を装うことはできる」


「あなたがそう思う根拠を聞かせてくれないかしら」


 ティナがレオンハルトを困ったような目で見ている。彼女にとってもこの展開は予想外だったのだろう。


「ヒンメル氏は生前、身の危険を感じていると俺に打ち明けた。それに……人の命を何よりも大切だと思う彼らが、自殺などするわけがない」


 あ、とエルザは小さい声を上げた。

 その点だけはずっと腑に落ちなかったのだ。何よりも命が尊いと常日頃から言っていた両親が、自殺という手段を選んだことを信じがたいと思っていた。それだけに、置いて行かれたことが余計に辛かったのだ。


「身の危険ってどういうこと?」


「ヒンメル氏は研究者だった。彼は薬物の研究をしていたが、その過程で副産物として強い力をもつ毒物を作り出してしまった」


「毒物……?」


「ああ。詳しいことは俺には分からないが、ヒンメル氏によると、常温で気化しガス状になる。空気中に拡散して体内に入ると少量でも高い確率で死に至らしめる猛毒だそうだ」


 初めて知る事実に衝撃で言葉を失うエルザとは反対に、ティナは腕組みをして冷静に聞いている。


「ヒンメル氏は機密事項として隠し続けていたが、どこからか情報が漏れてしまったらしい。その毒物の精製法を渡せと言う者が現れた。だが、ヒンメル氏は突っぱねた。自分の作っているものは人を助ける薬であって死に至らしめる毒などではない。人を無差別に殺戮するような毒ガスを渡すわけにはいかないと」


「それで相手が強硬手段に出たってわけ?」


「ああ。事実、何度かヒンメル氏は危ない目に遭っている。それでも彼は精製法を隠し続けた」


「それで、その相手はいったい誰なの」


 ティナの問いに、レオンハルトが困ったように眉根を寄せる。


「それが……ヒンメル氏にもはっきりとは分かっていなかったようだ。間に人を介してのやり取りだったらしい」


 ふむ、とティナは顎に手を添えて考え込む。


「毒ガスとなると用途は限られてくる。おそらくは特定のターゲットが決まっているのではなくて、無差別に大量の殺人を目的とする。そんなものを使用する目的というと……、テロか戦争くらいなものかしら。それに、現物ではなく、精製法を渡せというからには、自分達で毒物を精製するための施設及び人材が用意できる人物ね。財力が必要だわ。……まさかとは思うけど、あなたが疑っているのは軍の高官?」


 レオンハルトは苦い顔で頷いた。


「お前も知っているだろう、軍事思想に傾いた一派があることを」


「大戦から十年、内乱もあってまだ国力の回復も十分とは言えないのに、領土の拡大こそ軍の使命だとか謳っている愚かな人達のことでしょう。あんなの、馬鹿げているわ。軍は国を守るためにありこそすれ、略奪するためにあるものではない。まったく、何のために王の頭を挿げ替えたと思っているのかしら」


 ティナのハスキーな声がばっさりと切り捨てる。


「内乱後、軍内部の人事に入れ替わりがあったと言っても、高官のほとんどは権力にものを言わせて据え置きだ。当時の軍事思想を引きずっている者がいたとしてもおかしくはない」


 レオンハルトは暗い声で続けた。


「毒ガスなんてものが手中にあれば、状況は大きく変わるだろう。確実に勝利を手にする根拠になり得るとしたら、精製法を狙う意味はあるだろうな」


 エルザはふたりの話をただ聞いていることしかできなかった。両親の死が自分の手に負えない陰謀に関わっていたなんて、考えたこともなかったのだ。

 うーん、とティナが困ったように天を仰いだ。


「あなたが他殺を疑う根拠は分かったわ。で? ヒンメル夫妻のことを事件にしてもう一度捜査をやり直せってこと?」


「そうだ。もし毒ガスの精製法が相手の手に渡ってしまったのなら、突き止めなくてはならないだろう。そんなものを使わせてはならない。それに……、これは勘だが」


 レオンハルトの声が自信なさげにひそめられた。


「おそらく精製法はまだ相手の手に渡っていないのではないかと思っている」


「どうして?」


「先程、ヒンメル家に空き巣が入った」


 ティナが驚いてエルザに目を向ける。


「まあ、本当なの?」


「あ、はい……。買い物から戻ってきたら誰もいないはずの家で人の気配がして、怖くなって外に飛び出たら、少佐がいらしていて。それで助けていただいたんです」


「犯人は銃を所持していた。応戦したが二階にある書斎の窓を破って逃げられた。床に血痕が残っていたから、傷は負わせたと思うんだが」


「ふうん、あなたが取り逃がすなんて。らしくないわね」


 揶揄するような言葉に、レオンハルトはむっとしたようだった。


「室内は暗かったし、相手が何人いるかも分からなかったんだ。そんな状況で彼女を置いて深追いはできない」


 げふんと咳払いをひとつすると、レオンハルトは続けた。


「とにかく、空き巣が入った。荒らされていたのは書斎だけだ」


「空き巣の目的が金品じゃなかったってことね」


 ティナの言葉にレオンハルトが頷きを返す。


「研究資料なら研究室にあるはずだし、自宅にあった資料だってヒンメル夫妻を殺害した時にも奪えたはずだ。なのに事件から数日たった今夜、空き巣に入った。精製法――おそらくはその一部が不明であるということが事件後に発覚したということではないだろうか」


 うーん、とティナが唸る。


「推論でしかないわね。……けれど一理あるわ」


 エルザは研究資料の一部を持ってきていたことを思い出した。手下げのなかから資料を取り出し、テーブルの上に置く。


「これ、今日の昼間に父の書斎で見つけたものです。共同研究者のラング先生に頼まれていた分ですが、何かお役に立ちますか?」


 ふたりはしばらく無言でぱらぱらと資料を見ていたが、やがて顔を見合わせた。


「……お前、わかるか」


「やめてよ、こんなの解読できるわけないでしょう」


 ふたりしてげんなりした表情でテーブルに資料を戻す。


「これは借りてもいいだろうか? 専門家の意見を仰いだ方がよさそうだ」


 はい、とエルザは頷いた。明日ラング氏のところへ持っていくつもりだったが、内容を精査してもらって、問題ないと判明してからでも遅くはないだろう。


「じゃあ手配はしておくわ。あとは、調書の洗い直し、空き巣に関しての現場検証、共同研究者に聴取も必要かしら」


「そうだな。念のため彼女に護衛も頼む」


「護衛?」


 不穏な単語にエルザが驚いて思わず聞き返すと、レオンハルトは真面目な表情で頷いた。


「ああ。君が研究についての知識があるとないとにかかわらず、何らかの情報を持っていると相手方は考える可能性がある。そうなると狙われるのは君だ」


「だから基地じゃなくここへ連れてきたのね」


 ティナが納得したように頷いた。


「犯人が軍人だった場合の事を考えると、猛獣の檻の中にえさを投げ込むようなものだからな」


 エルザは絶句した。

 頭の中が混乱している。両親の死から、めまぐるしく明かされる真実に理解がついて行かない。

 混乱が表に出ていたのか、レオンハルトがいたわるように言う。


「今日はいろいろあって疲れただろう。安心してゆっくり休むといい。――ああ、それから、身の安全が確保できるまではここにいなさい」


「えっと……」


 エルザは何から聞いていいのかさえ分からなくなったが、聞かなければならないことはたくさんある。

 そもそもここはどこ?


「あの……、ここは少佐のお屋敷でしょうか」


「ん? そうだが」


「他にご家族の方は?」


「俺ひとりだ」


「メイドの方とか」


「掃除と洗濯を頼んでいる通いの家政婦がひとり。夜は誰もいない」


「こんな大きなお屋敷に……?」


 ぽかんと口を開けたエルザの言葉に、レオンハルトは困った風にため息をついた。


「なんなら独身寮の方が楽なくらいなんだが、周りがうるさいんだ」


「当たり前でしょ。少佐なんて地位の男が寮になんていてみなさいよ。みんな息が詰まって休息どころじゃありゃしないわ」


 ティナが冷静に突っ込んだ。明後日の方向へ話が流れていく。


「あの、えっと……、その、ご迷惑では……」


 なんと言っていいのかわからなくて、エルザは手元に視線を落とした。

 自宅に帰れない以上、行くあてはない。命を狙われる危険性があるのならなおさらだ。でも、今日初めて会った人の家に転がり込むことが正解なのか不正解なのか、こんな状況では判断がつかなかった。

 素直に頷くことができないでいると、ティナがレオンハルトの頭を軽く小突いた。


「男の一人暮らしの家にこんないたいけな乙女が引っ張り込まれるなんて、そりゃあ不安に決まってるじゃないの。ああ、安心して、エルザ。この男はね、こんなだけど、あなたの嫌がることはけしてしないわ。それに、あたしもちょくちょくあなたの顔を見に来るから。そうねえ、なんならしばらく泊りこもうかしら」


「こんなってどういう意味だ」


 レオンハルトが不満そうにこぼしたが、すぐに切り替えて真摯な声を出す。


「迷惑ならこんなことは言わない。目の届くところにいてもらった方が身の安全も図りやすいし、もし相手が軍人であるのなら、俺の名前も牽制程度には働くだろう。男の一人暮らしという点については、まあ、俺を信用してもらうほかない。……君が嫌でなければ、ここにいてもらえると助かるのだが」


 真剣な表情でそう言われてしまえば、もう拒否することはできなかった。

 エルザは心を決め、はいと小さな声で頷くと、ぺこりと頭を下げた。


「お世話になります」


 そう言って顔を上げると、安心したようなレオンハルトの微笑みが目に飛び込んできた。

 その笑顔はとても優しくて、エルザはようやく少しだけ肩の力を抜くことができたのだった。


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