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3


 眦から滴がひと粒こぼれおちて机の上を濡らす。

 いつの間にか眠ってしまったようだった。目を覚ますと、部屋の中は大きな窓から入る夕日の光に照らされてオレンジ色に染まっていた。

 体を起こして椅子の背もたれにもたれかかると、ぼんやりと室内を眺めた。

 眠りが浅いのか、最近はいつも同じ夢を見る。幸せだった誕生日の夢。暖かくて、優しくて、満たされていた記憶。もう、この手には戻らないものだ。


 不自然な姿勢で寝てしまったせいで痛む首を押さえて立ち上がると、エルザは見つかった資料を抱えて自室に戻る。

 スカートに皺の寄った黒いワンピースを普段着に着替え、大事にしまっておいたガーネットのネックレスをつける。結いあげていた髪をおろし、梳かして背中に流す。姿見の前に立って、鏡を見つめた。

 背中の中程まで伸びた栗色の髪、緑の瞳。顔色は悪く、目の下には確かに隈ができている。表情も冴えず、青白い肌はまるで幽霊のようだ。

 鏡の中に移る自分に両親の面影を探してみたが、母親と同じ緑色の瞳の他には何も見つからなかった。


 お腹がきゅう、と小さな音を立て、朝から何も食べていないことを思い出した。食欲はなかったが、胃に何かを入れておかないと体がもたないだろう。

 どんなに悲しいことがあっても、お腹はすくし、短い間でも眠りに落ちる。本当はすべてを放棄して、ただ楽しかった記憶の底に沈んでいたいと思っても、本能としての欲求がそれを許さなかった。

 医者だった両親は、命は何よりも大切なものだと口うるさい程に言っていた。そのことにエルザが疑問を感じたことはなかったし、両親は正しいと思っていた。

 ただ、今となっては正論が時に残酷な宣告に成り得るのだと思う。どんなに彼らが恋しくても、両親の遺志を大切にするためには、彼らを失ったまま生きることしかエルザにはできないのだから。


 台所にはもう何もない。なにか簡単に食べられるものを買ってこよう。

 そう思って、財布と鍵を持って家を出る。

 夕日を浴びながらうろうろと彷徨うように歩いた。途中、何軒かの店先を覗いたが、空腹であっても食欲のないエルザには何もかもがまずそうに見え、結局いつも行くパン屋で母のお気に入りだったパンを買った。

 パン屋のおかみさんが心配そうに声をかけ、おまけだと言っていくつかのパンを袋にぽいぽいと放り込んだ。今の自分に食べきれるかわからなかったが、心づかいがありがたかったので、お礼を言ってありがたく受け取った。


 店を出るとあたりは暗くなっていて、街灯の多い明るい道を選んで家路をたどる。人通りはまばらだったが、住宅街に近づくにつれて少なくなった。

 慣れた道は静まり返っていて、昼間とは別物のようだった。いつの間にか天気は曇りになっていたようで、月の出ていない分、暗闇は深いように感じられた。街灯の明かりがぽつぽつと暗い道を部分的に照らし、光と闇が交互に訪れる。

 ぼんやりと足元を見ながら歩いていると、家の前につく。外から眺める自宅に違和感を感じて首をかしげた。

 二階の通りに面した窓にちらちらと小さな光が瞬いているのだ。

 あれは、父の書斎だ。

 家を出る前に電気がついていないことは確認したし、光に心当たりもなかった。

 小さな光はたまに消えたり、またついたりしながらゆらゆらと移動しているように見える。


 ――誰かいる?


 そう思い至った途端、鼓動が速いリズムを刻み、パンの袋を持つ手に汗がにじむ。落ち着けと自分に言い聞かせて、玄関ドアの前に立った。

 ドアノブをそっとつかむと、出かけた時と同様に鍵がかかっていた。

 音をたてないように静かに鍵を開け、中に入る。ドアを閉めた途端、階上からばさばさと何かを落とすような物音が聞こえて、びくりと肩が跳ねた。

 はずみでパンが入っていた袋を足元に落としてしまう。紙袋はがさりと大きな音を立て、中から小さなパンが転がり出た。

 エルザは息を詰め、その場に固まったまま階上の気配をうかがった。

 しばらくは何も起きなかった。

 長い長い沈黙の後、エルザの耳はわずかに階上の床の軋む音を捉える。


 ――やっぱり誰かいるんだわ。


 背筋を悪寒が走って、エルザは身をひるがえす。大きな音を立てることにも構わず、ドアを開けると外に飛び出した。

 唐突にドアの前にあった黒いものにぶつかってしたたかに額を打つ。


「おっと」


 頭上から低い声が落ちて来る。反動で背中から倒れそうになったエルザは、腰を抱えられて抱きとめられた。

 驚いて見上げると、そこには見知らぬ軍人がひとり立っている。

 軍の仕事には犯罪捜査や治安の維持なども含まれる。エルザはほっとして潤んだ瞳を瞬かせた。

 青年はエルザから手を離すと軽く頭を下げた。


「失礼。ここはヒンメル氏の……、君、顔色が悪いようだが、どうかしたのか」


 話の途中で彼はエルザのただならぬ様子に気が付き、腕をつかんでぐいと引き寄せた。琥珀色の一対の瞳がきらりと煌めいた。


「あの……、中に誰か、いるみたいなんです」


 つかまれた腕が痛い。エルザはうまく回らない頭で必死に訴えた。

 到底説明不足のその一言とおびえた表情で、しかし彼は状況を把握したようだった。


「俺が中をあらためよう。君は俺の後ろについてきなさい。離れないで」


 そう言ってエルザの腕を解放すると、腰元のホルダーから拳銃を取り出す。ドアを開けて中に入るその広い背中を、エルザはおそるおそる追いかけた。


「たぶん、二階だと思います。父の書斎があって、そこで物音が……」


 ひそめた声で広い背中に向かって話しかけた。肩越しにちらりと振りかえって無言で頷くと、彼は階段の方へ歩みを進めた。

 一段一段、物音をたてないように静かに上って行く。父の書斎の閉ざされた扉の前で、彼はエルザの方を振り向くと、君はここにじっとしていなさいと口の動きだけで告げる。そのままドアの前に立つと右手に銃を構えた。

 左手でドアを開けると、中に飛び込んでいく。

 突如二発の銃声が轟いて、エルザは思わずうずくまって両手で耳をふさいだ。すぐあとにガラスの割れる音が響き渡る。外でなにか落ちるような物音がし、次いで誰かが走り去る足音が聞こえた。


 静寂が戻って来る。

 床に手をついて低い位置からおそるおそる書斎を覗き込むと、室内はひどく荒らされ、書類が散乱していた。窓にはぽっかりと大きな穴が開いており、そこから吹き込んでくる風がカーテンを不気味に揺らしていた。

 青年は部屋の中程で跪いて床を見ているようだった。


「取り逃がした。すまない」


 入口から覗きこむエルザに気がついて立ち上がると、彼は謝罪しながら歩み寄る。


「怪我はないか」


 そう言いながらエルザに手を貸して立ち上がらせた。ざっと全身を確認される。


「私は大丈夫です。あの、ありがとうございました」


 エルザは震える膝を励ましながら、どうにかぺこりと頭を下げた。

 何者がここにいたのかは分からないが、この荒らされた部屋を見れば、目的は物盗りと思って間違いないだろう。名前も知らないが、そんな時に居合わせてくれた目の前の心強い存在に感謝した。

 彼は小さく頷くと、固い声で言った。


「急ぎ、捜査を始めさせよう。君も一緒に来なさい。ああ、当分ここには帰ってこられないだろうから、必要なものは今まとめて持ち出すように」


「あ……、はい」


 帰ってこられない。

 その一言が心に重くのしかかった。

 大切な思い出の詰まった大切な場所。自分はこの家まで失ってしまうのだろうか。

 表情の沈んだエルザに気付くと、彼はぽりぽりと頬をかいた。少し困ったように眉尻を下げて言い添える。


「……捜査が終われば帰ってこられるよ。安心しなさい」


 少しだけ柔らかくなった声音に安堵して、エルザは荷物をまとめてきますと小さく告げて自室に入った。

 着替えを数着と、最低限必要な身の回りのものをかばんに詰める。ラング氏に渡す資料を別の手下げにまとめ、最後に家族三人で写った写真が入った写真立てを胸に抱きしめて部屋を出た。

 再度書斎を覗くと、彼はいまだ室内を調べていた。


「あの……、お待たせしました」


 彼は顔をあげて頷くと大股で廊下に出て来て、エルザの手から写真立て以外の荷物をそっと取り上げた。


「では行こうか」


 そのまま階段を下りていく。エルザは小走りになりながら後についた。

 彼が玄関のドアを開けてエルザを外に出すと、道端には黒塗りの車が一台止まっていた。後部座席のドアを開けてエルザに乗るように促す。エルザがおとなしく車に乗り込むと、トランクに荷物をおさめ、自身は運転席に乗り込んだ。

 滑るように車が発進する。

 知らない人の車の中という状況は少しばかり居心地が悪くて、エルザは手元の写真に視線を落とした。写真の中の三人は悲劇など知らないような顔で笑っている。


 両親に置いて行かれ、空き巣の被害に遭い、自宅から締め出される。なんという不運だろう。最近までの幸せな日々がまるで夢だったかのように思える。

 これからどうなるのだろうか。昼間はユリウスに大丈夫だと言ったけれど、今となっては自信など跡形もなくなってしまった。

 ぽたり、と写真立てのガラスの上に滴が落ちる。後から後から涙はこぼれ落ちて、あっという間にびしょぬれになったガラス面を右手で拭った。

 我慢しようと思っても漏れ出る嗚咽に、運転席の男が気付いていないわけがない。気を遣わせてしまうだけなのだから泣きたくないのにと思っても、涙は止まってくれなかった。

 できるだけ声をひそめて感情の波をやり過ごそうと思うエルザの目の前に、白いハンカチが差し出される。顔を上げると、運転席の男が前を向いてハンドルを握ったままハンカチを差し出していた。


「……ありがとうございます」


 かすれた声で礼を言ってハンカチを受け取ると、彼は頷くと無言で手を引いて、何事もなかったかのように運転を続ける。

 話しかけるでもなく、慰めるでもない。そっとしておいてもらえたから、気兼ねなく泣くことができる。無言の優しさが、エルザには嬉しかった。

 目元に押し当てたハンカチからはお日様の匂いがした。


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