2
鐘が鳴っている。
哀しげな音色の教会の鐘。
エルザは空を見上げていた。
心中とはうらはらに、雲ひとつない晴天だった。
まだ気温は低いけれど、洗濯日和のこんな日はシーツを干したくなる。太陽の光を浴びて、からりと乾いたシーツはとても気持ちが良くて、母はいつも喜んだ。
『お日様の匂いがして気持ちいいわね』
母の声と笑い顔がまぶたの裏に蘇る。
鼻の奥がつんと痛んで、見上げていた青空がぐにゃりとゆがんだ。
泣けるだけ泣いた後はいつも涙なんてもう出ないと思っても、何かの拍子で堰を切った途端、途切れることなくあふれだしてくる。
真新しい墓の前で立ちつくしたまま涙をこぼすエルザの後ろから、そっとハンカチが差し出された。
それに気付いて振り返った視線が、心配そうに陰った黒い瞳とぶつかった。
「……ユリウス」
ありがとう、とひそやかな声で礼を言ってハンカチを受け取る。頬に滑らせると、肌触りの良い木綿が涙を吸い取っていった。
「大丈夫か」
彼はエルザを見下ろしてぶっきらぼうに問う。
ただでさえ長身のユリウスは、軍服を着ているとさらに威圧感が増す。知らない人ならおびえてしまう程だが、幼馴染の彼がとても優しくて照れ屋だということを、エルザはよく知っていた。
「ええ。来てくれてありがとう」
心配をかけたくなくて、エルザはどうにか口元にわずかの笑みを浮かべた。
「おじさんとおばさんには世話になったから」
短くそう言って、エルザの背後にある墓に視線を投げると、痛ましげに眉根をぎゅっと寄せた。エルザの脇をすり抜けて一歩近づくと、つい先程埋葬が終わった真新しい墓の前にしゃがみこみ、小さな花束をそっと置いて目を瞑る。
数秒の祈りを捧げて立ち上がると、ユリウスはエルザの華奢な肩にぽんと手を置いた。
「終わったんだろう。送って行く」
答えも待たずに右手を握りこまれ、ずんずんと歩きだす。小柄なエルザと長身のユリウスとでは歩幅の差がありすぎて、エルザは小走りになってしまう。
――いつもは歩くスピードを合わせてくれるのに、今日はなんだか余裕がないみたい。きっと、どう接していいのか分からなくて困っているんだわ。
それも無理はないと思う。
自殺した両親に置いて行かれたひとり娘にかける言葉など、そうそう思いつくものではないのだろうから。
手を引っ張られながらも必死について歩いていると、墓地の入口で見知った顔に声をかけられた。
「ああ、エルザ。探していたんだよ」
「ラング先生」
ラング氏に向かってエルザがぺこりと頭を下げると、ユリウスは立ち止ってぱっと手を離した。
「いや……、君には何と言っていいのか。本当に惜しい人をなくしたよ。研究はまだまだこれからだったっていうのに」
ラング氏は眉尻をハの字に下げて、ポリポリと寝癖の残る後ろ頭をかいた。
「今日は来て下さってありがとうございます」
再度深々とお辞儀をする。
下げた頭の上から深いため息が落ちてきた。
「ヒンメル先生がこんなことになってしまって、研究室も大わらわだ。いいところまで行っていたのに……、先生の担当区分をやり直すのにもひと苦労なんだ」
彼が言っているのは研究の進捗状況だ。父の共同研究者だった彼にとって大変な問題であるということはエルザにも良くわかっている。わかってはいるが、今日は両親の葬儀の日だ。その日に父が研究を放棄してしまったかのような言い方をされた気がして、エルザは唇をかみしめた。申し訳ないと思うと同時に、心の片隅で冷たい感情が広がって行くのを感じる。
エルザの表情が曇ったことに気付きもせず、ラング氏は研究に関する自身の苦労話をつらつらと垂れ流している。
父は、彼の研究者としての手腕をかっていたが、母はいつも『悪い人ではないんだけれどねえ』と言って苦い笑みを浮かべていた。
この人はいつもこうなのだ。口を開けば出てくるのは自分の苦労話、研究者の待遇への不平不満、要領の悪い助手に対する愚痴。彼の人生における喜びというものが一体何なのか、エルザには到底理解できなかった。
ラング氏はエルザの心中など構いもせず、話を進めていく。
「こんな時に言うのも何なんだが……、お父さんの研究資料が君の家に残っていたりはしないかね? 私は共同研究者だが、分担して研究を進めていたものでね。わからないことがたくさんあって困っているんだよ。だからもし資料が家に残っているのだとしたら、それを譲ってもらえないだろうか」
父の書斎には最近入っていなかった。最近の分は研究室にあるとしても、過去の研究ノートくらいならあるかもしれない。なにより、これ以上ラング氏の相手をしていたくなくて、エルザは頷いた。
「書斎を探してみます。昔の資料くらいならあるかもしれません」
「そうかい。君も辛いだろうに、こんなことを頼んでしまってすまないね」
ユリウスはエルザの隣でずっとおとなしくふたりのやり取りを聞いていたが、心のこもっていない口先だけの言葉に腹をすえかねたらしい。これ以上聞いていられないとばかりに、仏頂面でずいと間に割って入った。
「お話はお済みですか。では、失礼します」
ラング氏にぺこりと形だけ頭を下げると、再びエルザの手をとって歩き始めた。頭が冷えたのか、今度はエルザのペースに合わせて歩いてくれる。
墓地の門をくぐって、石畳を歩く。道に沿って植えられた桜並木のつぼみが膨らみ始めている。まだ少し先になりそうだが、満開になればさぞかし美しいだろう。
庭の桜が開花するのを母は楽しみにしていた。毎年、春にはユリウスも呼んで、庭で花を見ながらバーベキューをするのが恒例だった。
こうして歩いていると、何もかもが以前と変わらない。両親が死んでしまったなんて嘘のように、世界は何ひとつ変わらずに回って行くのだ。
「今年はできないね、バーベキュー」
ぽつりと呟いた言葉に返事はなかった。
エルザは黙って右隣を歩くユリウスをちらりと見上げた。
「あの……、ごめんね、ユリウス」
「何が」
「さっきの……ラング先生のこと」
ラング氏に悪気がないのは分かっているが、両親になついていたユリウスはきっと怒っているに違いない。両親の死を偲びにわざわざ来てくれた彼に申し訳なかった。
そう思って謝ったのだが、ユリウスは余計に苛立ったようだった。
「なんでお前が謝るんだ」
「その……、嫌な思いをさせたかと思って」
ユリウスは急に立ち止まると、もじもじと話すエルザに向き直り、つないでいない方の人差し指をびしりと顔の前に突きつけた。
「嫌な思いをさせたのはさっきのあいつ。お前はむしろ嫌な思いをした側だ。お前が謝る必要はないだろうが」
「そ、そっか。ごめんね。……あ、その、ありがと」
口癖のようにまた謝罪の言葉を口にしてしまった自分に気付いて、慌てて言い添えた。
ユリウスは突きつけた手を引っ込めてぐしゃぐしゃと自分の頭をかきまぜると、深いため息をこぼした。怒ったかと思えば今度は落ち込んだような声を出す。
「いや……、謝るのは俺だな。すまない」
「どうして?」
心当たりがなくてきょとんと見上げると、頬がうっすらと赤くなっていた。
「お前が一番辛いのに、八つ当たりした。……それに、こんな時に気の利いた言葉一つ見つからない。俺は情けないな」
手のひらで目元を隠して俯くユリウスの髪は、さっきの行動のせいでぐちゃぐちゃに飛び跳ねていた。
自分の事を考えてくれる人がまだいる。
そう思うと少しだけ胸の中が温かくなって、肩の力が少し抜けたような気がした。つま先立ちになりながら手を伸ばして、背の高いユリウスの髪を整えるように撫でる。艶のある焦げ茶の髪はすぐに綺麗にまとまった。
「情けなくなんかないわ。ユリウスがいてくれてよかった。私はひとりじゃないってわかったから、がんばれるわ。ありがとう、ユリウス」
されるがままおとなしく頭を撫でられていた年上の幼馴染は、頬を赤くしながら頷いた。そのまま、手を引いてまた歩き始める。
「これから、どうするんだ」
「そうね……。春からは大学が決まっているし、在学中の生活は両親の遺してくれたものでなんとかやっていけると思う。それからは自分の働きでやっていけるように頑張るつもり」
「俺が面倒みてやれたらいいんだが」
申し訳なさそうにユリウスが言う。彼の過保護ぶりにエルザは呆れた。いつまでエルザのことを小さな子どもだと思っているんだろう。
「面倒って……。私もう十八歳よ。自分の事は大体なんとかなるわ。それに、ユリウスは軍の独身寮でしょう?」
ユリウスは士官学校を卒業してすぐ軍に入隊し、以後ずっと独身寮で生活している。たまに時間を見つけては両親を訪ねて来てくれていた。
「ねえ、ユリウス。あなたが両親に恩を感じているのは分かっているわ。でも、私のために自分を犠牲にするようなことはしなくていいのよ。私なら大丈夫だから」
そう言うと、ユリウスは納得のいかないような微妙な表情を浮かべた。
ヒンメル家の隣家に住んでいたユリウスは、幼いころに戦争で父を、士官学校に入った直後に病気で母を失った。父親がいなくては不便なこともあるだろうと、ユリウスが小さいころから両親は何くれとなく彼の世話を焼いた。
素直で優しいユリウスを両親はかわいがっていた。父に至っては、ユリウスにならエルザを嫁にやってもいいとまで言っていた程だ。
「母さんが病気になった時、おじさんとおばさんは良くしてくれた。いい医者を紹介してくれたし、生活の面倒もいろいろ見てくれた。母さんは助からなかったけど、どうしたらこの恩が返せるか、ずっと考えていたんだ。だから、俺に出来ることなら何でもしたい。何かできることがあるなら言って欲しい」
右斜め上から真摯な声が降って来る。素直で優しいけれど、時々こういう頑固な面がある。正しいと思ったことは貫きたいのだろう。それはエルザには好ましく思える一面だった。
「うん、ありがとう。でも心配しないで。本当に大丈夫なの。……あ、じゃあ、たまに会いに来てくれる?」
そう言って右隣りの幼馴染を見上げると、彼は不満そうに口をへの字に曲げた。
「なんだ、そんなことでいいのか」
「そんなことじゃないわ。私はそれだけでとてもうれしいのよ」
ふてくされたような彼の表情に、ふふっと小さな笑いがこぼれた。
笑い声が出たのはいつぶりだろう。もうわからないくらいだった。
――ちゃんと笑える。まだ大丈夫。
ひとつひとつ、確認作業をしているみたいだ。
いつか、こんなことを考えないで済む日が来るだろうか。
それはまだ遠い先のことのように思えた。
「そういえばね、いつかお父さんが言ってたの。自分達に何かあったら、レオンハルト・カイザー少佐を頼りなさいって。私はお会いしたことがないのだけれど、ユリウスは知っている?」
軍に入ってもうじき一年になろうというユリウスなら知っているかもしれないと思ってエルザは尋ねた。
「レオンハルト・カイザー? ……ああ、知ってる。というか有名人だ。軍の英雄だぞ。お前、知らないのか」
そんなに有名人だとは知らなかった。
父からも詳しい話を聞いていないので、エルザは素直に頷いた。
「十年前の大戦は覚えているだろう?」
相槌を打ちながら、十年前のことを思い出した。
当時、武力に偏った思想をもっていたこの国アゼラシアの前王は、領土拡大を目的に隣国セドニスに攻め込んだ。最初こそ順調だったものの、戦局は次第に悪化。徐々に押し返され、国境線はなんとか守ったが大敗を喫した統率力のない前王に軍が内乱を起こし、退位にまで追い込んだ。新しく即位した現王はお飾りのような存在で、現在では実質的には軍が統治をおこなっている。国民のためを謳う軍の仕事は、政治から犯罪捜査、治安の維持まで多岐にわたる。
「大戦では多くの軍人が犠牲になった。それこそ星の数だ。全滅なんて珍しくないことだったし、あの戦況で生きて帰って来られた方が珍しい」
大戦当時、ユリウスは十二歳、エルザに至っては八歳だったが、よく覚えている。戦争は国境地帯付近で起きており、市街地まで影響が出ることはなかったが、大人達は張り詰めた空気を醸し出し、軍人達がばたばたと走りまわっていた。
当時父は大学病院に医師として勤めていたが、病院は傷を負った軍人であふれかえっていた。母に連れられて行ったことがあるが、王都の病院に運び込まれるのは、一命を取り留めたものの、すぐには動けない重症患者ばかりだった。腕がなかったり、足がなかったり。重症患者ばかりを見てショックを受けたことを覚えている。
「そんな中でレオンハルト・カイザー少佐は――、ああ、当時は少佐じゃなかったが、瀕死の状態で帰還した。部隊の他の者は全滅して、たったひとりで帰ってきたんだ。重傷を負っていたそうだが、わずか三ヶ月で彼は復帰した。それから大戦が終結する二年後まで、隊の仲間をただのひとりも死なせずに、国境を越えて来ようとするセドニス軍を押し返した」
「ひとりも?」
エルザは驚いた。戦争という殺人を目的とした争いの中で、ひとりも死なせないなんて言うことが可能なのだろうか。
「だから、少佐は軍の英雄なんだ。敗戦した戦争だけど、彼の功績は大きい。あっという間に出世して、今では少佐の地位についてる。軍人ならみんな憧れる男だよ」
ユリウスの語りに熱が入る。彼も少佐に憧れめいた感情を持っているのだろう。
ふうん、とエルザはそっけなく返した。
「そんなすごい人と父さんはどうして知り合ったのかしら」
「さあ……、やっぱり病院じゃないのか?」
十年前、あの絶望に満ちた場所にその英雄とやらはいたのだろうか。思い返してみたけれど、それらしい人物は思い当たらなかった。
「……ユリウスはどうして軍人になんかなっちゃったの」
思わずこぼれた言葉に、エルザは慌てて口を押さえた。
「あっ、あの、なんでもないの。ごめんなさい」
自分が口を出す問題ではないことは十分分かっているのに、それでもあきらめきれない自分がいる。大切な人には、危険な仕事をしてほしくない。もう、これ以上失いたくないのだ。
慌てて発言を取り消そうとするエルザをさえぎって、ユリウスは静かな声音で言う。
「俺が軍隊に入ったのは、食いっぱぐれがないからだよ」
軍が権力を持つこの国では、軍に入るのが一番確実に稼げる方法だった。もちろん、軍人にならない人も多くいるし、軍に入ったものの退役して一般の生活を送る人もいる。
父親を早くに亡くしたユリウスは、母一人子一人の家庭で、金銭的な苦労もあったという。そんな過去も、彼の決断の理由のひとつになっているのだろう。
「それと……、大切なものを守る力がほしかったからだ」
ユリウスは、エルザの手を握る力を強めた。
――そういうことを言うから、これ以上文句が言えないのよ。
心の中で悪態をついて、エルザは不満げに口をとがらせた。
ユリウスがひょいと身をかがめてエルザの顔を覗き込む。
「まだ怒っているのか」
不安そうに黒い瞳が揺らぐ。
ユリウスが士官学校に入る前、当時十三歳だったエルザは軍人になどならないでほしいと言い募った。平素穏やかなふたりが喧嘩になったのは、この時のただ一回だけである。
結局、ユリウスは自身の意思を変えることなく士官学校を無事卒業し、軍に入った。彼の人生は彼が決めること。やりきれない想いを抱えていても、エルザにはどうしようもないことだった。
「ちがうの。怒ってなんかない。……ただ、怖いの」
「何が怖い?」
「危険なことは……しないで」
「うん」
「私をひとりにしないで」
「わかった」
エルザの栗色の頭にぽんと大きな手が乗る。壊れ物を扱うかのように優しく撫でられて、エルザは猫のように目を細めた。
「ユリウスがいてくれてよかった」
再度そう言うと、ユリウスはくすぐったそうに微笑んだ。
いつの間にか止まっていた足を再び動かす。
「少佐に会いに行くのか?」
「うん。葬儀のお知らせは基地宛てにお送りしたんだけど、今日はお見えになっていないようだったから、明日にでも訪ねてみようかと思ってるの」
「そうか。おじさんが親しくしていた人なら、挨拶も必要だもんな」
納得したようにユリウスが頷く。
話題がお互いの近況に移り、話しながら歩いているうちにいつしか自宅に着いていた。
「じゃあ、俺は寮に戻るよ」
「送ってくれてありがとう」
ユリウスの右手がふわりと空を舞い、エルザの目元を掠める。
「……ちゃんと寝ろよ。隈ができてる」
「うん。ユリウスのおかげで、今日は眠れそう……かな」
エルザがわずかの笑みを口の端に浮かべると、ユリウスはようやく安心したように手を離した。解放された右手がつかまるものを失って不安定に揺れる。
何度も振り返って手を振るユリウスの姿が街角に消えるまで、エルザは玄関の前で見送った。
ユリウスの姿が見えなくなると、エルザはため息をひとつこぼして玄関の鍵を開ける。ドアを開けて中に入り、内側から鍵を閉めた。
「……ただいま」
奥に向かって言ってみたけれど、家の中は静まり返っていて返事は当然ない。
馬鹿みたいと呟いて、重い体を引きずって階段を上がり、二階の父の書斎に向かった。
書斎の扉をあけると、煙草の匂いがふわりと漂った。机の上の灰皿には吸殻が山盛りになっている。父はヘビースモーカーで、一日に何本も煙草を吸った。
片付けなきゃと思いつつも、しばらくこのままでもいいかなと考えなおす。吸殻を片付けてしまうと、父の気配も消えてしまうような気がして寂しかった。
父が使っていた座り心地の良い皮の椅子に座り、大きな机の引き出しを上から順に開けていく。
「あれ……」
引き出しの中に資料はなかった。
その代わり、一番下の引き出しには不自然な空間があった。まるで、そこにあった何かをごっそり引き抜いたみたいに。
「父さんが研究室に持って行ったのかしら」
不思議に思ったが、きっとそうなんだろうと思いなおし、次は机の上に積まれた書類に目を通し、本棚と、部屋のそこかしこに乱雑に積み重ねられた本などをざっと調べた。
父は片づけが苦手で、いろんなものを放り出してはよくものをなくす癖があったので、思いもかけないところから失せ物が出てくることがよくあった。思った通り、雑多なものにまぎれて資料と思わしきものが数点見つかった。
明日、基地に行く前に研究室に寄ってラング先生に渡そう。
椅子に座って机の上に上体を倒す。こてんと頬を机の上につけると、ひんやりしていて気持ちが良かった。目を瞑ると煙草の匂いが強くなったような気がした。