11
やがて食卓の上の料理が綺麗になくなると、片づけを済ませ、ハーブティーを入れて居間へ向かった。
居間ではレオンハルトが仕事を持ち帰ったのか、書類に目を通していた。テーブルにハーブティーの入ったカップを置くと、レオンハルトが顔を上げて礼を言った。
ティナの姿が見当たらず、きょろきょろとしていると、ハーブティーを一口すすったレオンハルトが「あいつなら電話をかけると言って出てった」と短く言った。
静かな室内にふたりきりになって、エルザは急に緊張し始めた。いつもと感じの違う服を着てきたことが突然恥ずかしくなってきて、今さら頬が熱くなる。
ぎこちなくソファに腰掛け、ハーブティーを一口飲む。ハーブのさわやかな香りが鼻をくすぐって、少しだけ落ち着きを取り戻した。
今日はちゃんとお礼を言いに来たのだ。取り乱している場合ではない。
ぐっと膝の上でハーブティーのカップを両手で握りしめて、覚悟を決める。
「あの、私、少佐にずっとお礼を言いたかったんです」
書類をテーブルに置いたレオンハルトがくすっと笑いをこぼした。
「礼なら耳にタコができる程聞いた覚えがあるが」
「……そんなには言っていません。それに、何度お礼を言っても足りないと思っています」
ぷっと少し膨れたエルザを面白そうに見つめる。琥珀色の視線の優しさにどぎまぎしながら、続けた。
「そうじゃなくて……最初にここに連れて来ていただいた時の事です。あの時、車の中で泣いている私をそっとしておいてくださいました」
「うん?」
「私、あの頃はずっと泣いていました。両親を失って、悲しくて不安で、どうしたらいいのかわからなくて。いろんな人が心配をして、慰めてくれました。泣かないで、そんなことじゃご両親が心配するよ、元気を出しなさい――そう言って慰めてくださるんです」
手元のカップに視線を落とした。波打つハーブティーの水面がゆらゆらと揺れて灯に煌めいた。
「皆に心配をかけていることが申し訳なくて、その度に頑張って涙を止めて、笑って見せて。もう大丈夫、心配しないでって言いました。でもそうすればする程、心の中は辛くて悲しくて。でも誰にもそんなこと言えなくて。いつまで頑張ればいいんだろうって思っていました」
泣いている人がいたら、慰めるのは当然なのだ。心配してくれる人、慰めてくれる人がいてくれるのは本当にありがたいことだとエルザにもよくわかっている。ただ、それが重荷になることがあるということを、彼女はこの時思い知った。
レオンハルトは口を挟むことなくじっとエルザの言葉に耳を傾けている。
「あの時、車の中で突然泣き出した私に、少佐は何も言わずにただハンカチを貸してくださって。思う存分泣いていいんだって言ってくださったような気がして、それがすごくうれしかったんです」
ハンカチを差し出してくれたことから、無関心なのではないとわかる。けれど、それ以上の何もしない。何もしない、何も言わない優しさがあると、エルザは初めて知った。
「だから、お礼を言いたかったんです。ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。顔を上げると、レオンハルトは目元を和ませてエルザを眺めていた。
「そうか……俺にも君にしてあげられたことがあったんだな」
呟いた声はどこか嬉しそうで、胸の内がほんのりと温かくなった。
「でも、それは君から教わったことだ」
「え?」
言葉の意味がわからず首をかしげた。レオンハルトはその様子を見て苦笑をこぼす。
「本当に覚えていないんだな、君は」
エルザの脳裏にいつかのレオンハルトの言葉が蘇る。
『……君は覚えていないようだが』
そういえば、いつかそんなことを言っていた。結局何のことかわからないままだったが。
「君が幼い頃一度会ったことがある。大戦で大怪我をして入院していた時だ」
レオンハルトが懐かしむように目を細めた。
「当時俺がいた部隊は前線でこてんぱんにやられて、仲間は俺を残して全員死んでいった。何の因果か、俺だけは瀕死の状態で助かって病院に運ばれたんだ」
壮絶な過去を語るレオンハルトの表情は、落ち着いたものだった。過去の悲劇を乗り越えて糧にしている強さが、そこにはあった。
「病院のベッドの上で、皆と一緒に死ぬことができればよかったのにと何度思ったかしれない。皆を死なせたのは俺に能力がなかったからだ。もっと俺に判断力や決断力があればきっと、こんな事態にはならなかった。どうやったら死んだ奴らに顔向けができるのか、償えるのか。俺は途方に暮れていて」
琥珀色の瞳がエルザを捉える。澄んだ瞳がきらりと煌めいて、エルザは吸い込まれそうになる。
「そんな時に君が現れたんだ」
はは、と軽い笑い声が空気を震わせた。
「情けないことにひとり泣いていた俺を、君は心配して声をかけてくれた」
あ、と声が漏れる。
エルザの脳裏に映像が閃いた。
ベッドの上に半身を起こして、静かに涙する青年。
「あの時の……」
「思い出したか」
レオンハルトが心なしか嬉しそうに微笑んだ。
記憶にある青年の姿は、もっと線が細くて、今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気だった。今とは全然違う。
「随分雰囲気が変わっているので、わかりませんでした」
素直にそう言うと、レオンハルトはまあ十年も経っているからな、と肩をすくめた。
「君はあの時言ったんだ。涙を流すのは、体を軽くするためだと。たくさんの涙を流して体を軽くして、それでまた走り出すことができるんだと」
――思い出した。
あの時、エルザは母の言った言葉を青年に教えてあげたのだ。
『あのね、エルザもとびばこがとべなくて、くやしくて泣いちゃったの。そしたらね、お母さんがいうのよ。なみだをながすのは、からだをかるくするためだって。たくさん泣いて、くやしいきもちとなみだのぶんだけからだがかるくなったら、きっととびばこがとべるようになるのよって。だから、いっぱい泣けばいいのよって』
顔が真っ赤になるのがわかった。
あの時は子どもなりに、彼を慰めたくて必死だったのだ。今思えば恥ずかしくていたたまれない。
「私、恥ずかしい話を……」
エルザはこの家へ初めて来たときのことを思い出した。
『跳び箱は跳べるようになったか』
レオンハルトの質問の意味がここにきてやっとわかる。あれはこのことだったのだ。
子どもの頃のお節介は今になって聞くと恥ずかしい限りだったが、十年も昔のちっぽけなことがらを忘れずにいてくれたことが嬉しくて、エルザの胸に熱が満ちる。
「君のおかげで俺は思う存分泣いて、また走り出そうと思えるようになった。その時に決めたんだ。これからは誰も失わないように自分に力をつける。もうこんなことは繰り返さない」
レオンハルトの澄んだ視線は、まっすぐ前を見ている。
「大戦が終わって軍人の仕事はだいぶ変わったが、いつまたあんな悲劇が起こるとも知れない。現に頭の固い軍国主義のじじいどもが軍の上層部には揃ってる。だから、俺はできるだけ上にいってやろうと決めた。戦争なんていう悲劇を繰り返さないように。自分の発言が力を持つ地位まで」
エルザには想像もできない世界で彼は生きているんだと思い知らされた。自分の周囲の事で精いっぱいの自分とは違う。
まぶしいような気持ちで見つめる琥珀色の瞳はきらりと灯に輝いた。いつか知らない間にエルザの事など忘れて違う道をどんどん先へ行ってしまいそうな気がして、急に寂しくなった。つかまれた腕はもう離されているのだから、これからはただ流されていくだけではいけないのだ。
「……あまり」
「ん?」
「あまり、ご無理はなさらないでください……ね」
けれど、彼にとってエルザはただ恩人の娘であるにすぎない。だから、そんな言葉しか口には出せなかった。本当に言いたいことは他にあるような気がするのに、うまく言葉にできない。
もどかしい気持ちで、レオンハルトを見つめた。こんなことは初めてで、もてあました気持ちが表情に表れているかもしれない。
レオンハルトは何かに急に気がついたかのように黙ってエルザを見つめ、まぶしいものを見るように瞳を細めた。瞳が優しい色を帯びる。
「そうか……君はいつのまにか大人になっていたんだな。その色、よく似合っている」
なぜか急に褒められて、顔が火照る。顔から火が出そうで、思わず俯いた。
「あ、ありがとうございます……」
消え入りそうな声でどうにかお礼を言うが、会話が続かない。
そのまま会話が途切れて、室内に静寂が舞い降りる。気まずさに耐えきれなくなったところで、レオンハルトが部屋の入口に視線をやって口を開いた。
「いつまで立ち聞きしてるつもりだ」
その台詞にぎょっとして顔を上げると、ティナがひょっこりと顔を出した。
「いやん、お邪魔しちゃ悪いかと思って」
片目をつぶってぺろりと舌を出してみせる。今の会話を聞かれていたと知って、エルザは恥ずかしさのあまり叫びだしそうになった。
ティナは恥ずかしさで頭を抱えて悶絶するエルザの横に来てひらりと座ると、冷めてしまったハーブティーを口に含んだ。喉を潤すと、何事もなかったかのようにあっけらかんと話しかける。
「引越しは済んだ? ひとり暮らしはどう?」
真っ赤に染まった頬を両手で挟んで冷やしながら、この人にはたぶん一生かなわないなあと脈絡なく思った。
「荷物はもともとそんなにありませんでしたし、引っ越しは無事に済みました。ひとりの家には慣れましたけど……」
先を迷うように言葉を切る。けれど、素直な気持ちを口に出した。
「やっぱり、少し寂しい時はあります」
情けないですね、と眉を下げて笑ってみせる。
「いつでも来るといい」
エルザの心中を気遣うレオンハルトの言葉に嬉しくなったが、そこまで甘えるのも悪いような気がした。
エルザはレオンハルトとティナを交互に見て、視線を手元に落した。
「でも……その、おふたりのお邪魔なのでは……」
頬を染めてもじもじとするエルザを見て、ふたりが顔を見合わせた。
レオンハルトが額に手を当てて眉をしかめると、深いため息をつく。
「君は何かとても不本意な誤解をしているようだ」
ティナは頬に手を当ててうっとりと陶酔している。
「あたしの美しさが罪なのね」
「……あの?」
状況についていけず首をかしげていると、真横からティナの白い手が伸びて来て顎をすくい上げられた。空色の瞳が近くで妖しく煌めく。
「あなたの事あんなに何度も抱きしめたのに、わからないのね」
間近に迫った美貌と、意味深な台詞に頬が熱くなる。
あわあわと焦っていると、片手をとられ、そのままティナの胸に当てられる。
あまりの事態に固まるエルザに、ティナは困ったように微笑んだ。
「女にしてはいくらなんでも胸がなさすぎるわよねえ」
……まさか。
いやいやいやいや。
わかりきった答えを回避しようと脳内がフル回転するが、そんな都合のいい答えは他にはなかった。
硬直するエルザの目を覗き込んで、ティナが追い打ちをかける。妖艶な笑みは少し意地悪に見えた。
「……それとも、下も触ってみる?」
「ひえええええ!? けけけけっこうです!」
なんとか拒否だけはすると、あら残念、と笑いながらティナが言って体を離した。ソファの上でずりずりと後ろにいざって距離をとる。
「まったく……、ローゼンベルグ前将軍が墓の下で泣くぞ」
「あら、いいのよ。上に判で押したような父のコピーが四人もいるんだから。五男坊はちょっとくらい変わっていた方が面白いじゃない」
からからと笑う彼女……もとい彼に、ちょっとどころじゃない、と言いかけた言葉を飲み込んだ。まさかこんな罠があろうとは。
「本名はティノっていうの。驚かせてごめんなさいね」
にこりと邪気のない笑みを見せられて、エルザは何も言えなくなった。確かに、女性と思いこんでいたとはいえ、今まで気付かなかった自分もどうかと思う。
「あたしね、レオンみたいな仏頂面で愛想がなくて乱暴者で人使いが荒くて、幼女への特別な思いを抱き続けるむっつりな変態は好みじゃないの」
「……喧嘩売ってんなら買うぞコラ」
悪意しか感じないティナの台詞に、ぎらりとレオンハルトの目が光る。さらりと無視して、ティナはエルザの耳元に唇を寄せた。
「かわいい子が好みなのよ。……あなたみたいなね」
ハスキーな声で耳元にささやかれ、離れ際にふっと息を吹きかけられて、エルザの肌が粟立った。
「……………!!」
声にならない悲鳴が口から洩れる。
ああやっぱり、この人は規格外だ。
頭の中は大混乱だったが、ひとつだけ確実なことがあった。
狭いソファの上を限界まで後ずさってティナから距離をとりながら、真っ赤になった顔を隠したくて俯いた。
「……驚きましたけど。でも、ティナはティナだから」
うまく回らない頭で適切な言葉を探す。けれど結局綺麗な言葉が見つからなくて、子どもみたいなことしか言えなかった。
「わ、私だって優しくてお姉さんみたいなティナが大好きです……」
恥ずかしすぎて語尾が消え入りそうな声になる。真っ赤に染まった頬を両手で覆って隠す。
一瞬の静寂の後、ぶはっとティナが噴き出した。面白いことを言ったつもりはないのだが、ティナは腹を抱えて笑っている。
「あの、変なこと言いました……?」
ますます恥ずかしくなって縮こまった。なんだかもう泣きたい。
「あは、ちがうの。あなたのそういうところが好きだなって思ったのよ」
ティナが笑いすぎて目尻にたまった涙をぬぐいながら言う。なんだか釈然としなかったが、ティナが嬉しそうに笑うので、それでいいことにしておいた。
この人達は規格外で、住む世界が違っていて、自分なんかとは共通点もない。それでも、一度は人生が交差したのだから、ここからは自分次第。
置いて行かれないように。手を引いてもらうんじゃなくて、走って追いかけよう。今ならそれができるはずだから。
きっと、そうやってたどりついた未来は素敵なものになると思えた。
「私、がんばります」
急な決意表明に、ふたりはきょとんと顔を見合わせ、次いで優しい微笑みを浮かべた。
窓の外にはきれいな満月。夜空にぽっかり浮かんだ月が優しい琥珀色の光で世界を照らしていた。
読んでくださった方、ブックマークしてくださった方、ありがとうございました!




