覚えていますか
高遠さんの話
俺が二葉君の家庭教師になったのは、ただ家が近くで母親同士が知り合いだ、という理由からだった。
「あんた、明日から西條クリニックの弟さんの家庭教師、してくれない?」
「え?」
食べていた箸を止めて、突拍子もないその提案にまぁ、いいか。と頷く。
「いいよ、どうせ暇だし。」
あまり考えずに了解したのは、暇だからだ。
大学4回生。心理学と福祉を学び、来年度からはそのまま大学教授からのコネで就職が決まっている今、特にやることはない。
…まぁ、大学を卒業と、国家資格に合格する必要があるんだけど。
最初に西條家に行った時、ドアを開けてくれたのはその家のお兄さん一葉君だったのを今でも覚えてる。
「…高遠さんですね。お待ちしておりました、本日より弟をよろしくお願いします。部屋はそちら、入ってすぐの階段を上がっていただいて…」
俺より頭一つ下にあるその顔は、少しだけ緊張したように目線を合わせると、淡々と話し始める。
神経質そうに眼鏡を指先で押さえて落ちないようにしながら、俺のためにスリッパを出す姿になんだか微笑ましい気持ちになった。
それ程年下ではなくて、確か高校3年生だったかな。しっかりしているために親御さんにも頼りにされて、クリニックで受け付けをしたり、お客さんの苦情対応をしているのを見たことがある。
頭もとても良いとか。
二葉君の家庭教師、一葉君でも出来るんじゃないかな…
あっという間に部屋に通され、用意してもらった冷えた麦茶を飲みながら弟の二葉君の部屋を見回す。
母親と二葉君は用事が思ったより長引いてしまい、今から帰ってくるとのこと。麦茶を置いて、そう説明した一葉君は一礼をして部屋から出て行ってしまった。
あの日は、家庭教師一日目で。
帰って来た母親と二葉君の台風のような質問責めにくたくたになり、帰りに一葉君に挨拶も出来なかった。
そして、あの日以来、一葉君とは挨拶もろくに出来ていない日々が続いている。
”ピンポーン”
家庭教師に来続けて、季節は冬になった。
二葉君の学力は順調に伸びているため、このままだと十分に希望校には合格出来ると思う。
でも、油断は禁物。
最近は毎日西條家に通っている。
いつものようにインターホンを鳴らす、けど、いつものみたいに誰かが走って来る音はしなくて。
不思議に思った俺の前で、ゆっくりとドアが開いた。