隣の部屋
家庭教師の先生に
恋する話
兄視点
「あら、もうこんな時間。先生いつもすいません〜、つい話しちゃうわぁ。」
やっと解放する気になったらしい。
隣の部屋から聞こえた、いつもより媚びた母の声に僕は大きなため息をついた。
ペラペラと本当に良く話す。
実の母への感想にしては辛辣だろうか。しかし、本当に感心するくらいずっと話してた気がする。
相手は弟二葉の家庭教師である、大学生の高遠さん。今時の若者にしてはしっかりして落ち着いた、物腰の柔らかい青年だ…とは近所の評判。
「いえ、こちらこそいつも美味しいお菓子をいただきすいません。ご馳走様です。」
ああまた、そんな返事して。
そうやって優しいことを言うから、母が調子に乗るのだろう。
…パキッ
知らない内に手に相当な力が入っていたらしい。折れたペン先は自分の額に命中した。
「…った。」
痛い。
そして
「高遠せんせ!もうちょっと、あとちょっとであの問題もできたよね?頑張ったんだから。ほめて、ほめてー!」
声変わり前のボーイソプラノが耳に突き刺さる。
…さっきとは違う意味で、頭が痛い。
キンキンとした声の主こそ、弟の二葉。
僕より6つも下の二葉は中学受験をして、有名な私立校に通いたいのだと言う。
そんな弟の家庭教師に彼、高遠さんが抜擢されたのは夏だった。
あれから数ヶ月。
高遠さんはこのところ毎日、大学が終わると真っ直ぐ家に来て二葉の勉強を見ている。
季節はもうすぐ、冬を迎えようとしていた。受験までもう日がないのだと言う。
優しい優しい高遠さん。
部屋が隣の僕には、全ての会話が聞こえて来る。見に行ったことはない。でも、想像出来るその勉強風景は僕がどう努力しても手に入れることが出来そうになかった。
何故なら僕は、高校3年生学年トップ。入れない大学はない、と担任に言われているからだ。
家庭教師はいらない。
得意教科は全部。
出来ることが当たり前だと、言われ続けて何年になるだろう。成績が良いくらいじゃ、教師にも親にも、もう褒められない。
諦めてるから、いいんだ。
でも、高遠先生には褒められてみたい。
その大きな手に「良くできたな」って撫でられてみたい。
解らない所に綺麗な字で説明書きをして欲しい。
成績が悪くて落ち込んだ時に「大丈夫?」って言われたい。
別に天才ではないから、僕も成績を保つために必死に勉強しているのだけれど…
一生懸命頑張ってる僕は「当たり前」らしい。なのに二葉は、ちょっと頑張っただけで先生の笑顔が見られるなんて…
なんて、
なんで?
ずるいじゃ、ないか。
「…っ…え?」
ポタ、と
綺麗に数式が書かれたノートに水滴が落ちる。
ああ、羨ましい、悔しい。
バカじゃないか、小学生でもあるまいし。褒められたいなんて思うのは幼稚過ぎる。いっそのこと、勉強せずに成績をガクッと落としてやろうか。
そんなことしても
高遠先生は僕のことを見てなんて、くれないけど。
(今日もお邪魔したね。また、明日。)
帰り際にそうやって笑う、その笑顔だけで僕は”好き”を自覚してしまった。
弟の受験が終わるまで、好きでいてもいいですか?
しばらくは
言えないまま