第五章 第十七話
「『シンガポール陥落ス。敵軍遂ニ白旗ヲ掲グ。山下将軍、敵将パーシヴァル将軍ニ、降伏ヲ要求。イェスカ? ノーカ?』と。まあ、随分格好が良いことですな」
「茶化すな、大佐。別に二者択一なんぞ、迫った覚えはないぞ。単に、『降伏するのかどうかだけ、まず明言頂きたい』と言っただけだ」
心底うんざりした顔で、山下奉文陸軍中将は言った。
ここはシンガポール南東部のフォート・カニング・パークの司令部の一室だ。もともとは枢軸軍シンガポール司令部があった施設であるが、現在は日本軍の司令部が置かれている。
山下の対面では、飛田恒雄大佐が愉快そうに笑いながら座っている。飛田の手には、2日前に本土で発刊された新聞が握られていた。
そこには一週間前のシンガポール降伏会議の様子が、「誇張」された形で書かれている。
山下としては、苦々しい現実だった。
この新聞記事のお陰で、日本本土での彼の人気は高くなっているらしい。だが、政治的に目立ちたくない彼にとっては迷惑極まりない話だ。
彼はかつて陸軍派閥の一つ、皇道派に属していたことがある。
皇道派は陸軍の中では少数派だ。天皇親政を理想とし、政治的な行動を多くとった派閥であり、政治家や天皇陛下の覚えは非常にめでたくない。
一言で言うと、睨まれている。
それは、皇道派の行動が原因だった。
数年前に皇道派の中の過激派が、クーデター未遂事件を起こしたことがあった。それが山下にとっては大きな政治的失点になり続けている。
彼はクーデターを計画した将校は、山下のかつての部下であり、クーデターの同調者だと疑われたのだ。
彼自身はクーデター計画のことは知らなかった。
だが、山下はかつての部下を見捨てる事ができず、事件発覚後に弁護を行なってしまった。それが、政治的失点になっている。
彼自身は、職を辞する覚悟で弁護を行ったのだが、当時の陸軍大臣川島義之と陸軍次官だった永田鉄山からの慰留により、軍にとどまったという経緯があった。
永田自身は皇道派の対立派閥である統制派の人間だったが、山下の慰留には全力を尽くしている。
永田からするなら、戦車の重要性を理解している人間を、くだらない派閥闘争により失うのは馬鹿馬鹿しい話だったからだ。山下は陸軍省軍事調査部長を努めた折に、ソ連やドイツの軍備調査を行なっていたし、ドイツにも留学経験があり、戦車に理解があった。
統制派の人間には砲兵や歩兵の出身者が多く、戦車に対して理解の有る人間は少なかった。それこそ、ネジが何本か飛んだ飛田や、そもそもネジが無さそうな石原莞爾ぐらいしか存在しない有様だ。その分、航空機に関する知見に富んだ人間は、多かったのだけれども。
永田が予想する将来の戦争には、彼の派閥の人間の多くは、着いてこれない可能性が高かった。着いてこれそうなのは、東条英機や石原莞爾などに限られていたのだ。だが、これらの人材は、人格面や性格面で問題の有る人間ばかりだった。
また、統制派には派閥抗争が大好きな人間も多い。
永田としては、彼等の暴走を抑える対立軸を残しておきたい、という目算もあったのだ。彼等の視線が皇道派の生き残りに向かっている限り、抑えはやりやすい。
政治的には皇道派は破滅していた。
彼等の主張、天皇親政は天皇陛下自身によって批判され、求心力を失っている。生き残っていても、悪影響は少ないと永田は判断していたのだ。
もっとも、統制派に関しても政治的な影響力は激減している。
陸軍内部ではともかく、日本の国家的政治判断にはほとんど関われない状態だ。件のクーデター未遂の結果、陸海軍大臣の現役武官制度が廃止されたからだ。
皇道派と統制派の派閥抗争が、クーデター未遂事件を生んだことを考えるなら、喧嘩両成敗と言えた。
永田としても痛手ではあったが、陸軍内の主流派の領袖となれたことを考えるなら、悪くない結果でもある。永田自身は、陸軍が国政に口を出し過ぎるのはよろしくないと思っていたからだ。
海軍的にはとばっちりだったが、元々政治にはそれほど野心の無いというか、興味が薄い海軍は、予算の向上を引き換えにこの条件を飲んでいた。
永田にとって山下は、エキセントリックな飛田や石原より、遥かに地に足の着いた人間だ。石原や飛田に一軍を預けるには不安があったが、山下はマシだと、永田には思えた、
その後の山下は、基本的には左遷と地方周りを続けていたが、今回の枢軸国との戦争の勃発と永田の後押しにより、やっと中将に昇進。方面軍を指揮する要職に就くことになった。
永田は山下に期待していた。
仏印とマレーの占領に手間取ると、連合国全体の戦争スケジュールに悪影響を与えることになる。政治的に、それは避けるべき自体だった。
総理大臣の吉田茂からも、直接要求されたほどだ。
結果は永田の期待以上だった。
日本の進撃速度は、枢軸国どころか連合国、いや、日本軍自体の予想すら上回っていたのだから。
当初はアメリカとの共同攻略すら視野に入れていた、シンガポールの攻略を日本独力で成し遂げることが出来たのは、外交上の大きな成果だった。
「これで、中央への帰還が叶うのでは?」
「中央には、あまり興味が無いなぁ。部隊を指揮している方が余程面白いよ」
そう言うと、山下は呵呵と笑った。
彼は既に政治的な野心を放棄している。中央に挙げられている、統制派の報告にはそう書かれていた。
飛田が見る限り、それは事実だ。
現在の彼は、どちらかというなら昔の武人のような人間だった。
名誉や昇進に対する欲求は強い。だが、それよりも何よりも、自分の軍事的才能を使う場面を欲している。
山下は永田にとっては良い駒だった。戦場と昇進と勲章を用意すれば、結果を出す有能な軍人なのだから。
宗教に嵌って、同盟国との最終戦争論をぶちあげたり、軍官僚としては有能であるが、敵対者を謀略で突き落とそうとしたりして、内外に油と火種を撒くことに余念のない、直属の部下達よりは余程に使いやすい存在なのだ。
仏印とマレーの攻略戦において、中央から山下のもとに届いた情報の中には、明らかに操作された誤情報が幾つかあった。まず間違いなく、中央の悪意ある人物が行った謀略だろう。
普通であれば、山下はこの情報操作により致命的な失策を犯すはずだった。だが、この誤情報は早い段階で指摘され、修正されている。
飛田とその周辺の手によって。
飛田の行動は、日本陸軍という組織全体から見るなら、正しい。だが、派閥論理で見るなら裏切りに近い。
だが、飛田は派閥がどうこうなど、気にしない人間だ。そんなものより、自分の戦術理論が正しいことを証明することのほうが重要だった。第一、永田が中央にいる限り、彼は切られることはあり得ない。彼以上に使える戦車派の人間はいないのだ。
そのためには、足を引っ張る味方は邪魔だった。
永田の元には、飛田かが送った誤情報の報告がいくつも届いている。今頃、永田は頭を抱えているだろう。
阿呆共をどうするかについて。
永田閣下も大変だな。
飛田は他人ごとの様に思う。アクの強い部下を持つと大変だ。手綱を握るにも一苦労だからな。
永田の部下の中で、最もアクの強い人物は、ぼんやりとそんなことを思った。
「まあ、中央には戻る気はないが、別方面への転戦もしばらく無いだろうなぁ」
どことなく、寂しそうに山下は言った。
「当面はマレーで軍政だろう」
「でしょうねぇ」
まあ、妥当だろう、と飛田は思う。
マレーの陥落に伴い、山下が指揮する第25軍には10万に及ぶ捕虜が投降していた。彼等をまずは何とかしないと、何も出来ない。
山下はその処理に忙殺されることになるだろう。マレー攻略軍司令としての、義務でも有る。
そして、それ以外にも理由があった。
山下は仏印とマレーで絶大な戦果を上げた。上げすぎたのだ。
派閥的に弱小でいてくれなければならない旧皇道派が、大きくなりすぎる可能性があるほどに。
永田自身は旧皇道派の伸長を、それほど危惧してはいない。伸びたところで何が出来るのか。クーデターを起こしかけた派閥など、現在の日本では日陰者以下だ。
山下ほどに使えるというなら、話は別だが。
永田の現状認識では、そうだった。
だが、永田の部下達は違った。特に、派閥のバランスについて五月蝿い東条英機辺りは、永田を強くつついている。
参謀総長とは言え、永田は自分の派閥を無視するわけには行かなかった。そのため、永田はスマトラ島の攻略には、自派閥の人間を司令官に当てることにしている。
派閥間のバランスを取るためだ。
スマトラ島攻略は多少手間取っても、問題は少ない。パレンバンの油田は可能であれば早期確保したいが、絶対ではない。スマトラ島の敵部隊は航空部隊が主力であり、元は航空関連の役職についていた人間が多い永田の派閥に取っては、適任者が多い土地でもあった。
「まあ、永田閣下的には、本命はビルマだと思いますがね」
「他人事の様に言うね」
山下は苦笑する。
「ビルマとなれば、君も派遣されるだろう? あすこはマレーなんぞより、よっぽど戦車戦に適した土地だ。ドイツもイギリスも、フランスや、イタリアすらも戦車を集めてるというじゃあないか」
「とは言え、日本単独というわけでもありませんしね」
飛田は笑いながら言った。
確かに、ビルマ侵攻は日本単独の攻勢ではない。
連合国軍の総力を上げての侵攻になる予定だった。ビルマ防衛のため、枢軸国軍は投入可能な総力を上げている。
ビルマは枢軸国にとって、中国とのほぼ唯一に近い貿易ルートであり、さらに数少ないタングステン鉱山を持った植民地だ。マレーが陥落した今、枢軸側に取ってはインドや中東に次ぐ重要地域と言ってもいい。
その重要地域に、枢軸国は戦車師団を中心した多数の兵員を集中させていた。
その数は30万を超える。
日本陸軍は、それほどの戦力を揃えた地域を、単独で陥落させようなどとは欠片も思っていなかった。
日本軍はアメリカ軍に指揮権を移譲。連合国軍の総力を持って、ビルマを攻略する予定だった。
日本の現在の軍政能力では、仏印とマレー、ボルネオ島やスマトラ島の治安維持で能力的に限界に近い、という理由もある。
これ以上、占領地を増やしても治安維持に割ける丙師団の編成が追いつかないのだ。
もちろん、政府内部でも軍内部でも、指揮権移譲には、異論があった。
だが、物理的限界は残酷だ。ごまかしが効かない。
治安維持に失敗して、ゲリラが跳梁するぐらいなら、アメリカに押し付けてしまったほうがいい、と政府内では判断された。
指揮権ぐらいは安いものだ。
日本軍を盾に使うのでは? という危惧もあった。だが、それは論理的に否定されている。
もしも、日本軍を盾に使ったなら、アメリカは最大にして最強の同盟国を失うことになるのだ。
アメリカ人は、そこまで愚かでも臆病でもない。
それは、ノモンハンでの戦いが証明していた。
「アメちゃんはそれなりに、信用できますよ。すみません、時間です」
飛田はそう言うと、席を立つ。
部下たちの訓練の時間だった。
彼の部隊は再編中だ。装備も二式重戦車の後期生産型に置き換えられている。
仕上がりの確認は必要だった。
「ま、ビルマは別の方が指揮を執るでしょうが、近い将来、閣下は別方面に派遣されますよ」
「そうかね? そうだといいが」
山下は、微笑みながら席を立つ。
「保証します。自分は、そういう方面には耳がよいので」
「だといいな。期待せずに待つとしよう」
期待してもいいと思いますよ。閣下は、この後、砂漠戦の研究が待ってるんですから。
飛田は、そう心のなかでつぶやく。
山下が次に投入される戦場を、飛田は知っていた。そこは、日本陸軍が初めて経験する、過酷な戦場となるはずだ。
永田は、そういう場所にこそ山下を投入するだろう。
有能であるし、失敗しても自分の派閥の傷にはならないからだ。そう言う政治的冷酷さを、永田鉄山という男は持っていた。
「それでは閣下。ありがとうございました。あなたの下での戦争は、楽しかったです。本日付けで、第一独立重戦車連隊は、第25軍の指揮を離れ、第15軍指揮下に入ります」
「了解した、大佐。武運を祈る」
そのまま2人は敬礼の後、握手をして、別れる。
この日から、連合国軍の作戦は次のフェーズに移行した。
次の目標は、ビルマだった。




