第五章 第十四話
ドロドロとした砲撃音が聞こえてきた。
昔、ノモンハンで聞いた音よりも、幾分甲高い。九〇式一〇糎榴弾砲の現行型は、改良により初速と射程が向上している。甲高い砲撃音はそのためだった。
僅かな時間を置いて、対岸に着弾する。土煙が巻き上がり、衝撃波がここまで伝わってきた。
夜明け直前から6時間ほど続いている光景だ。
ある種、懐かしくすらある。ノモンハンの時、米軍がやっていた準備砲撃によく似ていたからだ。
4年でウチの軍隊もここまで、米軍に染まったか。
妹尾誠大尉は、正直微妙な気分でその光景を眺めていた。
かつて一発必中に近い、過酷な目標を砲兵に強いていた日本陸軍とは思えない変貌ぶりだった。
弾薬を惜しまないことはいいことだ。その分、兵士の命が助かるのだから。
ただ、何となく微妙なのだ。
妹尾が知っている日本陸軍とは何となく違うような、そんな気がしていた。
ただ、妹尾の感想は大きな間違いだ。
日本陸軍は、未だに砲撃の命中精度に関する過酷な要求を、取り下げてはいない。変わったのは、個人の技量ではなく弾着観測と修正のシステム化によって、それを成し遂げつつあるという点だけだった。
砲と砲弾の数は、兵站システムが進歩したために、数が投入可能になったからやっているに過ぎない。実際の砲兵は昔と左程変わらない、命中精度への過酷な要求をされ続けている。
ただ、新任の将校が多くなった関係上、訓練はともかく、実地での命中精度にはそこまでうるさく無くなってはいたが。
日本軍はシンガポール要塞を正攻法で攻略する予定だった。砲撃や空爆により、要塞に打撃を与えつつ、ジョホール水道を舟艇により押し渡り、制圧するのだ。
そのためには、膨大な量の弾薬が必要だった。
シンガポールの要塞砲の多くは、夜明けとともに開始された海軍の戦艦による艦砲射撃と空母艦載機による航空攻撃で破壊されている。何があったのかは分からないが、要塞砲の反撃は散発的なものだった。
本来は絶対的に優位なはずのシンガポールの要塞砲は、日本海軍の戦艦『土佐』『相模』と巡洋戦艦『乗鞍』『白馬』の4隻に対して、効率的な反撃を加えることなく沈黙している。
ジョホール水道入口付近に配備されていた15インチ砲台や9.2インチ砲台も例外ではない。
ただ、散発的とはいえ反撃はあった。『土佐』と『相模』には各1発づつの15インチ砲弾が直撃していたし、『乗鞍』と『白馬』には数発の9.2インチ砲弾が命中している。
戦闘能力は維持できており、それ程大きな損害ではない。
ただ、海軍は大事をとって戦艦は後退させていた。『長門』型二隻と『剣』型2隻がドック入りしている現在、日本海軍にとって戦艦はしばらくは替えが効かない戦力だったからだ。
戦艦の後退は、空母の艦載機による航空支援や、巡洋艦や駆逐艦による艦砲支援は続行されているから、大きな問題とはなっていないが。
ただ、セレター軍港のあるジョホール水道の東側には、日本か、枢軸国か、どちらが敷設したのか不明な機雷が大量に存在していたため、水道に侵入しての砲撃は行われていない。入り組んだ地形故に、魚雷艇などの攻撃が危惧されたためでもある。
日本陸軍は水道の横断地点を、水道の幅が狭い、ジョホール水道の中央部分に設定していた。
そのため、シンガポール島上陸部隊に対する砲撃支援の多くは、陸軍自身が負わねはならなくなっていた。
陸軍はシンガポールの攻略のため、3個野戦重砲連隊と4個独立砲兵中隊を派遣していた。
野戦重砲連隊は米軍のM2重榴弾砲のライセンス生産品である一式二〇糎榴弾砲(実口径20.3センチ)を装備した一個砲兵大隊と、九六式一五糎加農砲装備の3個砲兵大隊からなっており、火力に優れている。
また、独立砲兵中隊は九六式二四糎榴弾砲を2門装備する、対要塞戦用の砲兵部隊だ。打撃力は重砲大隊に匹敵した。
その上、各師団には10センチ榴弾砲と15センチ榴弾砲を装備した野砲兵連隊も存在していたから、火砲の総数は、300門に迫る勢いだった。
これほどの砲を集めたのは、日本陸軍史上において、あるいは初めての事だったかもしれない。
ただ、シンガポール防衛隊は要塞砲こそ、その多くを戦艦との砲戦で失っていたが、野砲はその多くが健在だった。
イギリス軍の25ポンド野砲は存外射程が長く、最大射程で1万2000メートルを超える性能を持っている。15センチ榴弾砲以上の砲であるならばともかく、10センチ榴弾砲はやや射程面で劣った。
あるいは近衛師団の近衛野戦重砲旅団のように、すべての砲が自走化されていたなら、頻繁な陣地転換で翻弄する、という手も使えたかもしれない。
だが、日本陸軍にはそこまでの予算的余裕はなかった。
現状ではせいぜい、甲師団の一部のみ自走砲化できている程度だ。
このままの状態で、砲戦を行った場合、日本陸軍の砲兵戦力は負けはしなくても、大きな損害を受ける可能性があった。
そのため、日本陸軍はこの砲戦に新型砲弾を投入している。
二式射程延伸弾と呼ばれる砲弾だ。
これは、砲弾尾部にガス発生剤を搭載し、ノズルも設け、そこからガスを噴射するという仕掛けを施した砲弾だ。通常の砲弾の場合、砲弾の後方には空気の渦が発生し、それが大きな空気抵抗となる。二式射程延伸弾はガスによりその空気の渦を吹き飛ばして、空気抵抗を軽減し射程を伸ばす仕掛けだった。ガスそのものには推進力はない。
後にベースブリード弾と呼ばるものと同一の仕掛けだ。
この新型砲弾の投入で、九〇式一〇糎榴弾砲の射程は、1万4800メートルにまで延伸していた。旧来の砲弾を使用した場合の射程が1万2000メートル程度であったことを考えるなら、飛躍的な射程の向上だ。
勿論、二式射程延伸弾にも欠点はあった。
ガス発生剤とノズルを付加するため、炸薬量は減るから威力は減少する。また、ガス発生剤はどうしても燃焼のばらつきがあるから、命中精度が下った。
ただ、その辺は砲と砲弾の数で補いが着くことだ。
増加するであろう砲弾需要に答えるため、日本軍は2週間ほどの時間を使って補給路の再設定を行なっていた。
日本軍は、ジョホールバルから北東100キロほどにある都市、メルシンを占領。メルシンを起点としての補給路を主軸に据えた、新しい補給計画を整備していたのだ。
これにより、日本軍の主補給路はクアンタンからクアラルンプールを経由するこれまでの補給路と比較するなら、4分の1以下に短くなっている。やや整備が劣っていた道路については、工兵を投入して大急ぎで整備されていた。
ただ、メルシンは、港湾としては小規模だ。
そのため日本軍は、メルシン付近の砂浜も利用して貨物の陸揚げを実施していた。
2等輸送艦を砂浜にビーチングさせて、トラックごと物資を揚陸することもあったが、多くの場合は砂浜の沖に停泊した貨物船から、別の輸送手段に載せ変えて運ぶ形になっている。
つまり、貨物船からクレーンにより大発や小発、あるいは水陸両用車輌に貨物を載せ変え、砂浜まで運ぶのだ。
この輸送には、新型の水陸両用車が2種類投入されていた。
一種はアメリカ製でレンドリースにより導入されたDUKW水陸両用車だった。この車輌は2トン半程度の貨物か25人程度の兵員を輸送可能だ。
コタバル上陸戦において、大きな損害を受けた日本軍が対策として、急遽導入した車輌だった。装甲こそなかったが、水陸どちらでも利用できる輸送車両であり、使い勝手がいい。
生産が開始されてからあまり日が経っていなかったから、導入出来た数は200両程度だ。
もう一種は日本製の三式水陸両用車だ。それはコタバル戦の後、昭和重工が勝手に試作し、売り込んできた車輌だった。4トンの物資、あるいは50人の兵員を輸送できる。
構造としては、一般的な水陸両用車と差はない。舟型構造の車体を持ち、水上ではスクリューを、地上ではタイヤを使って機動する。昭和重工が生産している4トントラックからディゼルエンジンと走行装置のみならずシャーシまで流用して、生産性を高くしている点が特徴といえば特徴だった。
これも生産開始から日が浅く、50両程度しか配備されていない。
ただ、これらの車輌は可動率が高く、耐久性もあり、ピストン輸送にも耐えた。
この輸送船からの積み替え作業を効率化するために、多くの貨物は木箱や軽合金製の箱につめ込まれて輸送船に積載されていた。箱と中身の重量は、合わせて2トン以内になるように調整されている。ドラム缶を載せ替えるより、ドラム缶の詰まった箱を載せ替えるほうが、簡単なのだ。
勿論、箱の重量分輸送船への積載量自体は減る。だが、積み下ろしの時間を考えるなら、荷物をバラバラに積むよりも、遥かに輸送効率は高かった。
水陸両用車と大発や小発、戦車揚陸艦による砂浜輸送、そしてメルシンの港湾設備を使った荷揚げの総輸送量は、平均して一日5000トンに達する。旧来のクアンタン-クアラルンプール経由の輸送と合わせるなら、シンガポール攻略部隊は、一日に平均して6000トンの物資を受け取ることが出来た。
これは日本のシンガポール攻略部隊が一日に必要とする物資量より、多い量だ。
この輸送は軽くでも海が荒れると、それでストップするような危うい輸送だった。だが、日本軍に取っては幸運なことに、1943年の9月、10月は比較的晴天で風の弱い日が多かった。
そのため、日本軍はシンガポール攻略を開始するまでの2週間で攻勢に必要な量の物資蓄積を完了していた。
日本軍はこの日、夜明けとともに砲撃を開始していた。6時間に及ぶ砲撃により、敵の砲兵の多くに打撃を与えているようだ。朝に比べるなら、敵の砲兵は随分とおとなしくなっていた。
妹尾の中隊の戦車はジョホールバル到着後、二式重戦車に戻っている。補給路の整備に伴い、補充がやっと到着したからだ。
省力生産モデルらしく、砲塔が鋳造になっていたり、エンジンが三式中戦車と同型の水冷ディーゼルエンジン一基になっていたり、変更点は存在する。
だが、性能は低下していない。むしろ、エンジン出力が40馬力ほど向上していたから、僅かではあったが、悪路走破性は増している。
「しかし、砲兵連中も随分奢ったもんですねぇ」
ハッチから頭をのぞかせながら、操縦手が言った。彼は若手だ。4年も前の満州の果ての戦場など、知らないだろう。
「アメちゃんの本気はもっとスゴイぞ」
妹尾は実感を込めて、重々しく言った。
「ノモンハンだと、アメちゃんはこの倍は撃ってたぞ」
操縦手は「まさか」という顔をする。彼にとっては、この砲撃とて凄まじい砲撃なのだろう。
「上には上がいるんだよ。それに、露助はそれに対抗するだけの砲撃をかましてきたんだぞ?」
あくまでも初めは、だけどな。
妹尾がそう言うと、操縦手は恐ろしげに身体を震わせた。
「世の中おっかないもんばっかりですわ」
操縦手はそう言うと、首をハッチの中に引っ込める。
妹尾は苦笑を浮かべると、対岸を見つめた。最初はこちらがわに向けて盛んに打ち返していた敵軍の砲撃も、その反撃は徐々に弱々しくなっている。
数門生き残っていた9.2インチや6インチの要塞砲も、味方の野戦重砲によって潰されたらしくほぼ沈黙していた。
「そろそろ始まるかもしれんなぁ」
不意に、妹尾の背後から声が掛かる。
妹尾が驚いて振り向くと、彼の乗車の後で飛田恒雄大佐がくろがね四輪に乗り、日本光学製の双眼鏡に目を当てていた。
「何をやっているんですか? 大佐殿。危ないですよ?」
妹尾は顔をしかめながら言った。妹尾の中隊が布陣しているこの小高い丘は、敵の砲兵陣地からは15キロほど離れている。シンガポールの砲兵の主力である25ポンド野砲の射程からは外側だ。だが、要塞砲の射程内ではある。
「はん」
飛田は馬鹿馬鹿しい、とでも言いたげに、妹尾の言葉を笑い飛ばした。
「こんなとこまで狙うほど、イギリス人は暇じゃない。砲や弾の数どころか、射程ですら負けてるんだ。砲を何とかしないうちに、こっちを狙うなんて、出来るものか」
確かに、飛田の台詞には一理あった。
現状、枢軸側の砲兵は大部分が沈黙へと向かっており、危険度は低い。
ただ、危険がないわけではない。指揮官クラスがホイホイと出てきていい場所ではないのだ。
飛田という男は、「動いてから考える」機甲科の人間らしく、呆れるほどにフットワークが軽い。
例えば参謀をやっていたなら、「軽率」と評されるだろう人物だ。そういう意味で、彼は機甲科将校として天賦の才を持っていると言えた。
妹尾は、くろがね四輪の運転手を見た。年若い少尉だ。多分、新米。連隊司令部の人間だろう。何度か会議の時に、資料準備などをしている姿を見かけた記憶がある。
止めろよ。
妹尾は視線で少尉に訴えかかる。
無理です。
少尉は子鹿のように震えながら、首を振った。
ちっ、使えねぇ。
妹尾は自分のことを棚に上げて、そう思った。
「連隊長がこんな所に来て、大丈夫なんですか?」
「こいつを見ろ」
妹尾の問いかけに、飛田は後部の荷台を指した。
通常、兵員あるいは物資を載せるための荷台には、大型のバッテリーとダイポールアンテナを備えた機器が据え付けられている。
大型の無線機だった。大隊レベルの指揮車輌に据え付けられている装備だ。妹尾の中隊指揮戦車に備え付けられている無線機よりも、高出力である。
「準備がいいですね」
「まあな」
妹尾の呆れ気味の声に対し、飛田は誇らしげに胸をそらす。
褒めてねぇよ。皮肉も通じやしねぇ。
妹尾は頭を抱えたい気分に襲われた。
「で、何のためにここまで? 少なくとも今日の昼間は、私らに出番はありませんよ?」
その通りだった。
第一独立重戦車連隊は今日の夕方、シンガポールに上陸する予定だった。上陸第一派がシンガポールのジョホール水道側を制圧してから上陸するのだ。二式重戦車は上陸作戦に必ずしも適してはいない。
「知ってるさ、そんなことは。私は海軍さんの新兵器を見に来たんだ。使えるかどうか、をな」
「新兵器ですか?」
妹尾は胡散臭げな表情を浮かべながら言った。
上陸第一派には、横須賀第1特別陸戦隊が当てられている。彼等はコタバルでの損害を本国からの補充により回復していた。彼等は日本軍全体でも数少ない上陸戦専門部隊だ。
今回の作戦はジョホール水道を押し渡る必要があったから、彼等が第一派になっていた。彼等が上陸し、橋頭堡を確保した後、日本陸軍の後続部隊が上陸する予定だ。
だが特別陸戦隊は、陸軍的な基準からするなら、軽歩兵部隊でしかない。車輌も装備してはいるが、その多くは九四式軽装甲車や一式装輪偵察車のような、軽装甲車輌が主体だった。
第一独立重戦車連隊の隊長であり、日本陸軍の機甲科の首魁のような男である、飛田が注目する車輌があるとは思えない。
「なんだ、知らんのか?」
飛田は少し驚いたような声で言った。
「海軍さんの新兵器は、昭和重工がでっち上げた戦車だそうだ。ちょっと興味が湧かないか?」
「それは確かに興味が出ますね」
妹尾は頷く。
妹尾は昭和重工と聞いてから、俄然興味が出てきた。
昭和重工は自動車や装甲車両、工作機械、重機などを生産しているメーカーだ。
機甲科将校である妹尾にとっては、馴染みのあるメーカーだった。
昭和重工の車輌には安定した性能を叩きだす、安心出来る車輌が多い。ただ、昭和重工はたまに突飛な車輌を作ることがあった。例えば、3基の航空機用ガソリンエンジンで水面や陸上を浮上走行する、試製浮上水陸両用車、いわゆるホバークラフトなどである。
妹尾自身はおもしろい仕掛けだと思うのだが、最大乗員2名程度の上に航続距離が100キロに満たないのでは、あまりに実用的ではなかった。
堅実かと思えば、突飛に走る。
そういう意味では昭和重工は、なかなか目の離せないメーカーなのだ。
「そろそろ始まりそうだな」
飛田がつぶやくように言った。妹尾も私物の双眼鏡を取り出し、少し先のこちらがわの海岸線を見る。海軍特別陸戦隊と思しき部隊が、100両以上の車輌と30両ほどの戦車を海岸線ギリギリまで進めていた。今にも波を被りそうなほどだ。
ああ、なるほど。あれが新型か。
妹尾はひと目で納得する。その戦車の見た目が、あまりにも特徴的だったからだ。
その戦車の砲塔は一見、九七式中戦車と同じもののようだった。特徴的な角ばった形状であり、短い主砲が突き出ているから、遠くからでもすぐ分かる。
だが、問題なのは車体だ。その車体は異形だった。
一言で言うなら、その外見は履帯が付いた舟だった。正確に言うなら、戦車の前後左右に舟型の浮きをつけているのだろう。
「いやあ、思い切ったというか、やっつけたというか・・・・・・」
評価に困るクルマですねぇ。
妹尾は苦笑を浮かべながら言った。実に「昭和重工的な」戦車だ。
賭けてもいい。あの戦車のベースは九七式中戦車だ。
履帯の形状や車体上部の構造が、九七式中戦車そのものだった。
「特三式内火艇というらしい」
飛田が笑いを含んだ声で言った。
「九七式のをちょっと改良した上で、浮きをつけた戦車だそうだ」
「使えるんですかねぇ」
「知らんよ。そいつを見に来たんだ」
飛田がそう言った直後、海岸線に並んだ特三式内火艇がゆっくりと前進を始めた。次々とジョホール水道の水面へと入り込んでゆく。
普通なら、戦車はそのまま水中に沈んでゆくだろう。だが、特三式内火艇はそのまま水面に浮き、航送を始める。
「よく浮くもんだ」
「意外と早いですね」
飛田は呆れたような声に妹尾は、そう感想を言った。
特三式内火艇は、九七式中戦車の車体に舟型の浮きをつけた車輌だ。鋼製で内部に多数の仕切りを設けられたその浮きは、仕切りの内部に浮力材が重点されている。浮きは車内からの操作により、取り外しのみ可能となっていた。
それらの浮きが作り出す浮力は、20トン近い重量の九七式中戦車を海上に浮かび上がらせる事ができた。九七式中戦車にはスクリューは装備されていないから、地上と同様に履帯を動かすことで推進する。
効率はあまり良くないが、仕方の無いことだった。特三式内火艇は、コタバル上陸作戦以後に開発された車輌なのだから。
スクリュー等の航送装置を搭載するのは、時間的に不可能だったのだ。
特三式内火艇は徹底した割り切りによって開発された車輌だった。
昭和重工は陸海軍の上陸部隊がコタバルで苦戦した、との報告を得た直後、この車両の開発を開始していた。シンガポールへの上陸戦が既に視野に入っていた段階であり、水陸両用の戦車が早期に必要になると予測したからだ。
ただ、時間がなかった。
とにかくなかった。
だから、昭和重工はありものでなんとかした。
車輌を新規に開発する時間なぞ、どこにもない。そのため、既存の九七式中戦車をそのまま流用した。
二式重戦車はあまりにも重いし、三式中戦車は流用出来るほど数がない。九七式中戦車改も現行の主力戦車であり、車輌は前線に送られていたから、流用は厳しい。
その点、旧式化した九七式中戦車は仏印などに送る目的でストックされた余剰が、それなりにあったから流用は簡単にできる。浅い河川であれば渡河が可能なように設計された九七式中戦車は、水密性にも問題がすくなかった。部品も大部分が九七式中戦車改と互換性があるため、前線での修理にも不安はない。
九七式中戦車は三菱重工の製品だったが、昭和重工という企業はそういうところに斟酌はしない社風だった。
九七式中戦車は短砲身の75ミリ砲を装備しており、榴弾威力に優れていた。上陸戦における歩兵支援には向いている。対装甲火力は不足気味だったが、そちらは穿孔榴弾で我慢してもらうことにした。70ミリ程度の装甲は抜けるのだから。
現在ではやや薄めになってしまった装甲は、砲塔前面部分を80ミリにまで増強していた。車体は浮きが増加装甲代わりになるから、装甲の増強は見送られている。
特三式内火艇は、水上を最大で6ノット程度で航行することが出来た。
勿論、静水面での話だが。
この時のジョホール水道は比較的水面が穏やかだったから、特三式内火艇は5ノット程度は出せていた。
ジョホール水道の幅は、場所によって差はあるが、平均しておよそ2キロから3キロ程度だ。海軍特別陸戦隊が航行に選んだ場所は、2.5キロ程度だった。これは、枢軸軍の防衛線が薄い地点を選んだためだ。
特三式内火艇は、水面を這うようにして、しかし意外と高速で進む。彼等の後ろには、アメリカから緊急輸入された、150両のLVT-2水陸両用兵員輸送車が続いている。LVTには兵員24名が乗車していたから、十分な歩兵戦力を発揮可能だろう。
特三式内火艇がシンガポール島海岸線まで、1000メートルを切った辺りだった。
海岸線の十数箇所で発砲が行われる。
海岸線に隠匿していた、対戦車砲だろう。
その対戦車砲弾は、数発が特三式内火艇の砲塔に命中する。車体は大部分が水面下に沈んでおり、ほとんど砲塔しか水面上には出ていないため発生した事象だ。
だが、80ミリにまで増強された特三式内火艇の砲塔装甲は、遠距離から放たれた対戦車砲弾に耐えた。
この時使用された対戦車砲は、全てがドイツ製5センチ対戦車砲だ。最新の7.5センチ対戦車砲や17ポンド対戦車砲は数が少なく、多くは内陸に温存されていた。
海岸線の水際防御には、数的に主力であった5センチ対戦車砲が回されていたのだ。
「少しばかり早すぎだな」
「もう少し、引きつけるべきですね。敵も焦っているのでは?」
飛田と妹尾は、枢軸軍の攻撃をそう評した。
たしかに枢軸軍は、焦っていた。後が無いからだ。そのため、対戦車砲の射程に入った直後、発砲を始めてしまった。また、水陸両戦車であるから、装甲が薄いだろう、という希望的観測も彼らにはあった。
装甲厚については知らないから仕方がない。だが、特三式内火艇は実質的に砲塔部分しか水上に出ていない。まともな命中率を確保するには、もっと引き付けるべきだった。
その代償を、彼等は血で支払うことになる。
特三式内火艇から、即座に反撃が行われた。敵対戦車砲付近に榴弾が炸裂する。
不安定な海上からの砲撃のため、こちらも命中精度は低い。だが、掩体壕から射撃位置まで引きずり出されていた対戦車砲は、砲撃には弱い状況にあった。榴弾の至近炸裂で沈黙してしまう。
海岸線の敵対戦車砲は、その多くが特三式内火艇を有効射程に収める前に撃破されてしまっていた。海岸線の対戦車砲はほとんど有効に機能せずに沈黙してしまったのだ。
特三式内火艇は対戦車砲により2両が海上で沈んでいたが、、大部分は生き残りシンガポール島への上陸に成功する。
僅かに生き残っていた対戦車砲が、側面からの奇襲により3両の特三式内火艇を撃破することに成功する。だが、代償として多数の生き残りから集中射撃を受け、対戦車砲は完全に沈黙した。
そして、後続のLVTはほぼ無傷なまま上陸に成功する。
「上陸は順調に行きそうですね」
妹尾はその光景を眺めながら言った。
これで、橋頭堡はできた。後続部隊が上陸もスムーズに行くことだろう。
「思ったより、面白い見ものだったな。海軍さんの新型は意外に使えそうだ」
飛田はそう言うと、双眼鏡から目を離す。
「我々の上陸は、夕方だ。準備しておけ」
「了解しました」
妹尾は頷く。敬礼は省略する。ここは戦地だったから、狙撃兵対策に上官への敬礼は、公的な場や屋内以外では行わないように訓示が出ていた。
「司令部に戻られるので?」
妹尾は一応確認する。飛田は彼の指揮官であったから、居場所は把握しておきたかった。
「いや、これから16師団の方へ行って、対空戦車とやらを見てくる」
「いい加減、司令部に戻ってくださいよ」
妹尾は呆れ気味に言った。だが、彼の上官にはその呆れは届かない。
「夕方までには戻るさ。上陸の準備はしておけよ。出せ」
飛田は運転手の少尉に命令を出す。くろがね四輪は、ゆっくりと丘を下っていった。
まったく、あの人は。
おそらく飛田は、自分の好奇心が満たされるまで、シンガポール攻略に「間に合わせた」兵器を見物し続けるだろう。彼はそういう貪欲さを持った人物だったし、連隊には彼を止めるだけの権限と精神力を持った人間はいなかった。
今回は俺が巻き込まれなかっただけ、良しとするか。
妹尾はため息を吐くと、車内に戻った。




