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日米亜欧州戦争記  作者: √2
第四章 幕間にて
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第四章 第三話

  東郷茂徳がその日南京に居たのは、半分ぐらいは偶然の産物だった。

  彼はもともと、戦争に伴う金属需要の急増に伴い、鉄やタングステン、アンチモンの鉱石買取量を増やすための交渉に来ていたのだ。

  鉄は言うまでもないが、タングステンは工具用特殊鋼や戦車用の新型徹甲弾に使用されるし、アンチモンはバッテリーの電極として利用される金属だった。

  これらの資源は今後の戦力増強のために、絶対に確保する必要がある。この時期、中国の資源輸出は事実上、国民党政府が掌握していた。

  そのため外相である東郷が、直々に交渉にあたっていたのだ。

  交渉自体は順調に推移していた。

  中国は内戦の激化に伴い、消費財の多くを海外からの輸入に依存している。そのため、外貨が不足気味だった。

  ソ連やビルマ経由の対欧州貿易は、原則として資源とのバーター取引であり、外貨は確保できない。対日貿易はそれらを大量に確保できる。

  彼らにとってもいい話だ。

  そのため、東郷は輸出量倍増の約束を、取り付けることが出来ていた。

  この時期の東郷は、非常に多忙だった。

  アメリカやカナダ、オーストラリアは言うまでもなく、中南米各国やサウジアラビアなどとも折衝すべき事案が、山ほどあったからだ。

  特に中南米各国との折衝は、連合国という枠組みで見ても非常に重要だった。アメリカは過去の所業から、中南米各国の国民から嫌われている。

  そのため、アメリカと中南米各国が交渉すると、「アメリカからの高圧的な要求」が「また」あったとしか、中南米各国国民は受け取らないのだ。

  そのため、日本が間に入って交渉することが多くなっていた。

  日本が間に挟まることで、ワンクッション置くことになり、中南米各国の国民感情が和らぐのだ。だが、そのせいで日本の外交関係者の仕事は増えている。

  この時期の吉田茂首相や東郷外相のスケジュールは、秒刻みで区切られている有様だ。

  予定が詰まっている東郷は、その日のうちに東京へ発つ予定だった。

  だが、生憎と南京の天候が急変し雷雨となってしまった。そのため、彼は滞在期間を一日延期している。

  そしてその夜、東郷が宿泊する大使館に急な来客が訪れることになった。

「これは一体、どういうことか?!」

  中華民国外交部長の繆斌ぼくひんは日本大使館の接客室で言った。悲鳴染みてすらいた。

  彼は席に着く暇すら惜しいのか、手に持った書類を、叩きつけるように机の上に置く。

  彼の表情には焦燥の念が溢れており、顔色は青白くすらあった。

  繆斌は中国国民党親連合国派の有力者だ。

  もっと厳密に言うなら、アメリカのついでに日本と付き合うのではなく、日本をもっと尊重すべきであるとする、数少ない親日派だった。

  故に、東郷は繆斌を尊重していた。日本の国益に反しない限り、彼と彼の派閥への利益供与を惜しまなかったほどだ。

  蒋介石としては、財務部長に汪兆銘を任命している関係上、国内勢力のバランスを取った形だった。

「まあ、繆閣下、落ち着いてください。まずは席へ」

 東郷は、落ち着き払った声で、そう繆斌へ言った。逡巡する繆斌に対し、右手で着席を促す。

  さすがに多少は落ち着きを取り戻した繆斌は、やっとソファーに座った。

「さて、お話を伺いましょう」

 スーツを整えながら座った東郷は、ゆっくりと言った。

「なにか緊急の問題でも?」

「問題なんてものではありません!」

 繆斌はそう言うと、机上の書類を東郷に示す。書類は中国語と日本語の二種類があった。

「拝見しましょう」

 東郷は日本語の方の書類を手に取ると、ざっと目を通す。

  どうやら、仏印との国境付近で国民党軍部隊が、日本軍から攻撃を受けて壊滅した、との報告のようだった。至急伝らしく報告内容は簡単なものであり、詳細は書かれていない。戦闘があったとされるのは、4日も前だ。

  中国語の文章の方にも目を通す。東郷は中文翻訳の専門家ではない。だが、それでも彼は外交官だ。専門のドイツ語の他に英語やロシア語も堪能であったし、主要な外交相手の言語は、日常会話と簡単な読解ぐらいはできる。

  細部には自信が持てなかったが、どうやら中国語の方も同一内容のようだった。

  東郷はベルを鳴らして大使館職員を呼び出す。

「君、お茶を頼む」

  東郷はそう言うと、彼に日本語文章と中国語文章を渡すと、小声で大至急翻訳するように命じた。東郷はこういう面での正直さを、中国人には期待していない。

「それと、田村少佐を呼んでくれ。文章について確認したいから、その文章は彼に渡すように」

 東郷は退室しようとする職員に、そう声を掛ける。

  田村福助たむら ふくすけ少佐は、駐中国日本大使館の駐在武官だった。今回の事件には軍が絡んでいるし、彼は情報畑の人間だった。

  彼を呼ぶのは、ごく普通の対応と言えた。

 東郷は田村が来るまでの間、繆斌の言い分を聞くことにする。

  繆斌が言うには、仏印と中国の国境周辺で戦闘があり、その戦闘で国民党軍の一個小隊が壊滅したのだという。

 国民党軍を攻撃した武器の中に、八九式重擲弾筒があったことから相手は日本軍だと判断されていた。

  八九式重擲弾筒は国民党軍にも試験的に極少数ではあるが、輸出されている。その壊滅した部隊の生き残りの中に、八九式重擲弾筒を運用したことのある兵士がいた。彼が、間違いなく八九式重擲弾筒の音だった、と証言したのだという。

「なるほど。そちらのご主張は理解いたしました」

 東郷はゆっくり言った。

  その間に、大使館の女性職員がお茶を持ってくる。緑茶だった。

「ただ、ことがことですので、武官に確認をする必要があります。とりあえず、お茶でも」

「ありがとうございます。ですが、時間がないのです」

 繆斌は身を乗り出しながら言った。さほど気温は高くないのに、彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。

「壊滅した部隊の中には、我々の党の有力者の子弟がいるのです。現場は酷い有様で、遺体も確認できないとか」

「ああ、なるほど」

 東郷はだいたいの事情を察した。「我々の党」と言ってはいるが、親連合国派有力者の子弟が居た、ということだろう。

  最近では薄れてきているとはいえ、中国では遺体を整えて埋葬することを重視する傾向がある。

  親連合国派の有力者の子弟が日本軍の攻撃により死亡し、しかも死体の確認すら覚束ないとなると、それは問題になるだろう。

  例えば、その有力者が派閥から離反しかねないほどに。

 東郷は、「なるほど、それは問題ですな」と言いながら、茶を啜る。

  現状では、何とも言いようが無いからだ。

  繆斌は気が急いているようだったが、とりあえず田村少佐がいなければ事実確認も何も合ったものではない。

  東郷は繆斌をなだめすかすようにして、時間を稼ぐ。

  何も確認出来ていない状態で、言質を与えるわけには行かないからだ。

  しばらくすると、接客室のドアがノックされた。

「入ってくれ」

 東郷が言うと、さほど間をおかずにドアが開き、一人の男が入ってきた。国防色の軍服を身にまとった男だ。陸軍軍人らしからぬ長髪は陸軍内部ではリベラルで知られる、情報部出身ゆえなのだろう。

  少佐と言うことは40近いはずなのだが、まだ20代と言っても通るほど若々しい外見をしていた。

「いやいや、申し訳ありまへん、おそうなってしまいました」

 軽薄、と言ってもいい笑顔を浮かべながら、田村は入室してきた。エセ関西弁と相まって、実にいい加減な人物に見える。

  事実、一瞬ではあったが繆斌が眉を寄せたことを、東郷は見逃してhいなかった。

 だが、日本陸軍の情報畑は、いい加減な人間を少佐にまで出世させるほど、甘い組織ではない。この態度はおそらく、そう思わせることを狙った演技だろう。この手の人間は必要とあれば、莫迦にも、脳足りんにも、犯罪者にでもなれる。

「あ、すんまへん。おとなり失礼します」

 そう言いながら、田村は東郷のとなりに座った。その手には紙の束が握られている。

  田村は席に着くと、東郷に一枚の紙片を、目立たないように手渡した。

  東郷は紙片に目をやる。先ほどの文章が、日文と中文で内容が一致した、というメモだった。中国人は、今回は正直者だったようだ。

「頂いた文章読ませてもらいました。時間的に合いそうなのがありました。あれですな。多分、仏印で行動しとる、フランスの挺身隊への攻撃の一つだと思いますわ。その中に、御国の軍隊に関するらしい報告もありましたわ」

 田村は手中の紙束を机の上に置くと、口を開いた。

「御国の軍隊の格好をした部隊を攻撃した、いう報告がありましたわ」

「貴国は我が国の軍に攻撃を加えたことを、認められるのか?」

 繆斌は険しい表情で詰め寄った。

 随分と焦っているようだな。

  東郷は繆斌の行動を眺めながら思った。平時の繆斌は理知的で、外交官としても有能な男だ。だが、今の彼は外交官としても政治家としても失格点だ。

  ただ、分からないでもない。

  今回の事件が報告の通りなら、彼と彼の派閥は大打撃なのだ。息子を殺害された有力者は彼の派閥を離脱するだろうし、親枢軸国派は活気づくだろう。

  蒋介石の決断によっては、繆斌を外務部長から外すかもしれない。

  そういう次元の問題だった。

「いや、ちょお待ってください」

 詰め寄る繆斌を、田村は軽薄な笑顔のままでいなした。

「どうも、勘違いされとるようですんで、説明させてもらいます。まず、我が軍が攻撃したのは、あくまで御国の軍隊の軍服を着た、フランス軍挺身隊の補給部隊を攻撃したんですわ」

「どういうことだね? 田村君」

 東郷が説明を促す。

「いや、我が軍なんですが、恥ずかしい話、仏印でフランスの挺身隊に暗躍されて、えらい目におうとります。で、根から切るために、小規模の捜索部隊出して、フランス軍挺身隊の補給部隊を狙っとったそうなんですわ。で、見つけた敵軍の輸送部隊を撃滅した。と、大筋ではそういう話です。はじめに断っときます。これ、仏印の領内での作戦ですわ」

 田村は紙束の中から地図を出し、机の上に広げると、「報告にあるんは、この辺ですわ」と指をさす。そこは確かに仏印の領内だった。国境から仏印側に、20キロほど入った場所だ。

  実効支配的には怪しいとはいえ、地図上ではそこは仏印だった。

「仏印領内ですやろ?」

「確かにそうだ」

 繆斌は頷いた。

「で、そのその部隊が中国の軍服を着ていた、と?」

 東郷が確認する。重要な点だからだ。

「そうです。敵の補給部隊は、中国の軍服着とったそうで。で、我が軍はフランス軍の欺瞞工作と判断して攻撃した、いうことです」

「な、なんですと?」

 繆斌は驚愕の声を上げる。

「そのような、馬鹿な話が! 我が国の軍を誤認したのではないのですか? あるいは、位置を間違ったのでは?」

「せやけど、そういう報告ですんでなぁ」

 田村は困った風な表情を浮かべ、頭を掻いた。

「その報告に間違いが有る可能性は?」

 東郷は、繆斌に助け舟を出すように田村に聞いた。

「これは我が国の信頼に関わることだよ?」

「間違いはまず、ないと思いますわ」

 田村は間をおかずに言った。

「攻撃した部隊が攻撃直後に、無線で司令部に連絡入れとるんですわ。それと、攻撃した部隊は小隊規模ですんで、分隊長レベルで報告書出させてますねんけど、経緯の記述内容はほぼ同じやそうです。せやから、経緯は間違いはないと思います。で、位置についてですが、今、仏印ではフランスの挺身隊が暗躍してますよってに、緊急出動体制が敷かれとります。無線通信は少なくとも味方の分は全部、発信位置の特定が行われるんですわ。救援を送るためですわ。で、この報告無線も位置特定がされとるんですわ。で、この場所からさほど離れとりません」

 簡単な三角測量の原理ですわ。田村はそう言うと、無線の傍受記録と、傍受電波の発信方向が記載された資料も机の上に提示する。

「誤差はあるだろう?」

「まあ、そら多少は」

 東郷の質問に、田村は頷いた。

「それはどの程度なのですか?」

「まあ、10キロは無いですやろな。今回は、6つの無線局が傍受してますさかい、多分、1キロあるかないかぐらいにまで絞れるんちゃいますか?」

「中国軍をフランス軍と誤認した可能性は?」

「ありまへんな。連中、外人部隊やそうやから、軍服の色から違いますよって。見間違えるとは思まへん」

 田村の言葉に繆斌は愕然とした表情をする。

「こ、これは、何かの間違いでは・・・・・・」

「繆閣下、落ち着いていただきたい」

 東郷は、立ち上がり取り乱しかけた繆斌を制しながら言った。

「状況が可怪しすぎます。まず、状況を整理したい」

 東郷はそう言うと、地図に視線を落とした。

「まず、我が軍がフランス軍の補給部隊を攻撃した。これは何時のことかね?」

「4日前ですな」

「繆閣下。中国軍部隊が攻撃されたのは?」

「同じく4日前です」

「なるほど。ならば、戦闘のあった位置は?」

「仏印と中国の国境付近ですわ。仏印側ですが」

「こちらは正確な位置はわかりません。ただ、連絡があったのは景洪市駐屯の部隊からです」

 景洪市は雲南省南部の都市だ。元々は省都の昆明市との間にすら、自動車通行が可能な道路がないような、辺境と言ってもいい地域だった。

 だが、ビルマ公路が整備された後は、多少の道路整備がなされている。少なくとも、トラックは通行可能な程度の道は、各都市間で確保されていた。

  ビルマ公路が建設された結果、雲南省の治安維持が重要となった。そのため、治安維持目的の駐留軍が必要となり。その兵站を確保するために道路が必要だったのだ。

  景洪市は仏印との国境に非常に近い都市だった。

  その、景洪市に駐屯している部隊からの報告となると、同じ位置で発生した可能性が高いだろう。

「何故、我が軍は中国軍を攻撃したのだね?」

「フランス軍挺身隊の補給部隊と判断されたんですわ。軍服は欺瞞工作やと判断されたみたいです。その場にはフランス軍もおって、物資の受け渡しが行われていたようで」

「そ、それは何かの間違いでは・・・・・・?」

「それはありませんわ。少なくとも、フランスの方は確実にフランス軍の軍人やったと聞いとりますし、報告書も全てそう書いとるそうです」

「となると、やはり可怪しいですな」

 東郷は口元に手を当てながら言った。

「彼らがフランスの補給部隊だとすると、御国の軍の服装をする理由がありません。欺瞞としても、そこらの農民に化けるほうが、よほど効果的だ。となると、御国の軍が越境したとしか思えません。越境して、フランス軍に物資を譲渡したとしか」

「こちらとて、そのようなことをする理由が・・・・・・」

 繆斌はそこまで言うと、言葉をつまらせる。彼は愕然とした表情をしており、体は小刻みに震えてすらいた。

「繆閣下。御体の具合でも?」

「い、いえ。何でもありません」

 繆斌は立ち上がると、身にまとったスーツを正した。

「申し訳ありません。どうにも情報が錯綜しているようです。この件に関しては、我が政府内部で再度調査をさせていただき、御国とのお話はまた後日とさせていただきたい」

「ええ、構いません。私は明日、発ちますので、詳細は大使と田村少佐に連絡をお願いします」

 東郷は頷きながら言った。

  彼は、後は大使に任せても問題ないと判断していた。繆斌が答えにたどり着いたことに、気づいたからだ。

  東郷と田村は大使館の玄関まで繆斌を見送ると、自分用に用意された執務室へ戻る。田村も一緒だった。

「しかし、田村君。私はこういう手は好かんね」

 東郷は椅子に腰掛けると言った。この部屋が毎日「掃除」されていることを知っているからの言葉だった。

「とは言いましてもねぇ」

 田村は苦笑を浮かべながら、机の前に置かれた面談用ソファーに腰掛けて答える。

「みんな痛くないと覚えまへんので」

 今回の作戦は謀略に属する物の中でも、単純なものだった。

  仏印でフランス軍コマンド部隊に補給を提供している、国民党軍の中で、できるだけ党中央に太いパイプを持っている人間を殺傷し、国民党内部で内乱を煽る。

  ただ、それだけの策だ。

  目標が目標に選ばれたのは、偶然父親が親連合国派の有力者であったからに過ぎない。

  日本的には別に親枢軸派でも日和見派でも、どうでもよかった。別に殺す必要性もなかった。重傷辺りでも効果はあったのだ。

  ただ、パイプの先が親連合国派で有る方が良かったし、死んでくれていたほうが望ましかっただけだ。

  目標は父親に反感を持っており、その反抗の手段として親枢軸国派とは懇意だった。

  そして親枢軸国派の依頼により、仏印でコマンド部隊への物資引渡しを行なっていたのだ。勿論、親はそこまで知らない。

  実に都合が良かった。

 親連合国派の有力者の息子が死んだ。それも敵対派閥が出した命令が原因で。

  軍である以上、誰が命令を出したのかは調べがつく。

  もしも調べが付かなかったとしても、どこが怪しいか、ぐらいはすぐに分かる。

  こうなった以上、親連合国派は派閥をあげて親枢軸国派を攻撃をするだろう。

  有力者引き止めのために。派閥の存在意義を示すために。

  ここまでは割合上手く動いていた。

  ただ、動かなくても問題はない。別の手を打つだけだった。

  少なくとも今回、日本軍は表立っては国際法を犯していない。中国国民党には、日本を非難する手段も根拠も無いのだ。傷は国民党が、一方的に受けるだけだった。

「情報畑の人間と話をすると、疲れてこまる」

 東郷は机の上の水差しから、コップに水を注ぎながらいった。

「今日、繆斌外務部長が駆け込んで来なかったら、どうするつもりだったんだ?」

「一応、手は打っときましたから」

 田村は事も無げに言った。

 普通、この手の任務結果は、秘匿されるのが常だった。今回も何かあった場合には、

  事故ということにして秘匿しろ、という命令が親枢軸国派の将校から出ている。だが、景洪市駐屯部隊の隊長は、その命令が「途中の手違いで届かず、知らない」ことになっていた。

  日本円に換算すると、総額3000円ほどで発生した現象だった。

「ま、中国外務部から抗議がなかったら、あれですわ。明日、自分と大使で中国外務部に乗り込んでましたわ。それ用の資料が間に合っててよかったですわ」

 田村はニコニコと微笑みながら言った。福々しい笑顔だ。邪気の欠片もない。だが、この男は人間一人の命を奪い、親の情を利用した策を組み立てた連中の一人なのだ。

  東郷は大きくため息をついた。人間というものがわからなくなる。

  酷く、疲れていた。

  東郷はコップの水を飲み干す。ただの水のはずなのに、苦い気がした。

「私は明日、東京へ帰る。後は君と大使に任せる。万事、我が国の利益に沿うことを第一として動いてもらいたい」

「ええ、わかっとります」

 笑顔を崩さず、田村は言い切った。

「今日はもう、休んでくれ」

 そうですか、失礼します。田村はそう言うと退室する。

  田村が退席したのを確認してから、東郷は職員呼び出し用のベルを鳴らした。

  酒を持ってきてもらうつもりだった。きつい酒が良い。ウィスキーかブランデーを所望するつもりだった。

  今日はアルコールの助けがなければ、眠れそうになかったからだ。

  入室してきた職員に、東郷は酒を所望する。彼はなかなか上等なバーボンを持ってきてくれた。

  旨かった。

  だが、久しぶりの寝酒は、あまり睡眠の足しにはならなかった。

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