第四章 第一話
「酷いな」
「酷いもんです」
飛田恒雄大佐の呟きに、妹尾誠大尉はそう答えた。二人は丘の上に立ち、風景を眺めていた。
彼らの目前では、戦車中隊の教練が行われている。彼らが立っているのとば別の、もう一つの小高い丘に工兵が陣地を築き、それを敵陣地に見立て、突破するという形式の訓練だ。
その陣地はなかなか巧妙に構築されていた。模擬の速射砲や機銃が簡易とは言えトーチカに収められており、しかもそれが相互に支援するような形になっている。
模擬の速射砲や機銃を本物と取り替えれば、そのまま防御陣地として使えそうなほどだ。
それも当然だった。本土から来たばかりの、増援の工兵が仏印の地質や天候になれるために演習で作ったものなのだから。演習のはずが、本気になりすぎたのはご愛嬌だ。
故にこの陣地はなかなか堅固だった。
妹尾の中隊に随伴歩兵が一個大隊程度ついても、抜けるかどうか。
そういう出来の陣地だ。
とは言え、飛田と妹尾の眼前で発生している光景は、そういう次元のお話ではない。
曲りなりにも斜面を登れているのは、半分の2個小隊程度。残りは麓近辺で右往左往していた。
登れている2個小隊も、登れているだけだ。戦術行動と呼ぶには程遠い機動しか取れていない。
有り体にいえば、ただ前に進んでいるだけだ。
練度が低いにもほどがあった。
とは言え、仕方のない話でも有る。彼らはつい先日まで戦車なんてものには触ったこともない連中ばかりだからだ。
彼らは、仏印の現地住民の志願兵だった。
一応は志願者の中からタクシーの運転手だったり、トラックの運転手だったりした連中を集めてはいた。
ただ、植民地住民の中では自動車運転は、特殊技能の領域に入る。人数はどうしても少なく、全員を自動車運転ができる人間で固めることは出来ていない。
穴埋めには修理工などの、「機械」に触れる回数が多い人間を選別していたが、それでも穴埋め仕切れていなかった。酷いのになると自転車の修理工、なんて人間が選抜されている始末だ。
この練度も仕方がない、と言えた。
「まあ、連中、戦車に乗って間がないですからねぇ」
「それは言い訳にはならんな、妹尾君。敵も私はそんな事情、斟酌せんよ。まったく、何を考えているのやら」
「いや、まあ、色々考えているのでは? 上も」
「ふん!」
妹尾の言葉に、飛田は不機嫌そうに答える。
飛田が指揮する第1独立重戦車連隊は、仏印の攻略がほぼ終了した6月になっても、未だに仏印にいた。
本来の予定では仏印攻略後、日本軍は速やかにマレー方面に侵攻する予定だった。
だが、マレー方面への侵攻は未だ行われていない。予定はあるが、遅れていた。
マレー方面へ侵攻するために必要な船舶の確保に、手間取っていたからだ。
原因は、国防省がニューギニア島で壮絶な消耗戦を展開している、アメリカ、カナダ、オーストラリアの各軍を援護するために、ボルネオ島への侵攻が急遽決定したためだった。
ボルネオ島はニューギニア島西部を中心に展開しているドイツ・アジア軍団への燃料供給地帯の一つだ。この島を落とせば、ドイツ・アジア軍団の燃料事情は一気に悪くなるはずである。
ただ、そのためにマレー方面への侵攻を、取りやめるわけにも行かなかった。
シンガポールは未だにアジア最大の艦艇補修基地であり、要塞だった。放置しておくという選択肢はない。
放置などしたら、欧州から続々と到着しているドイツのUボートと、英仏の潜水艦による通商破壊が更に強化されてしまう。
また、先のインドネシア沖合での海戦で生じた英仏の損傷艦は、その多くが、シンガポールのドックで補修を受けていることが分かっていた。
これも早い段階でシンガポールを攻略したい理由だ。
ただ、シンガポールは要塞化されており、海上からの攻略は難しい。
マレー半島を経由して、陸上からの攻略の必要性がある。
だが、仏印とマレーの間の陸地にはタイがあった。タイは日米へ対しての好意的中立を保っていたが、兵員と物資の領内通過など、認めてもらえるはずがないだろう。常識的に考えて。
戦略的に考えるなら、両方を同時に攻略することが望ましかった。だが、そのためには多量の船腹が必要になる。
日本は日米や日豪間の貿易船団、大陸との貿易に使用している船舶、国内航路の輸送船舶などのスケジュール調整を行い、必要量の船腹を手当しようとしていた。
現在、日本の商船保有量は900万トンを超えている。だが、経済規模の拡大により輸送量も相対的に増加していたし、仏印への物資輸送も継続していたから、船腹には決して余裕はなかったのだ。
少なくとも、関係各所との調整は必須だった。
この事態が好転するのは、日本の戦時標準船とアメリカのリバティ船の、大規模生産が完全に軌道に乗ってからだ。
現時点では、短くてもあと2週間程度のスケジュール調整が必要だった。
その間、飛田の第1独立重戦車連隊に命じられたのは、仏印防衛義勇軍の訓練だった。
日本は仏印に、臨時政府を樹立させ自治させようと考えていた。正直な所、頭数に余裕のない日本陸軍は、各地に長期の軍政を敷くことが難しかったのだ。
日本的には、市場と資源への自由なアクセスさえ出来ればいいので、現地人に自治してもらうのは、何の問題もない。連合国の占領下に入るということは、欧州という市場と生活物資の供給源を失うこととイコールだ。日米豪と貿易をしなければ早晩、経済的に破綻する。
臨時政権を樹立してもしなくても、その事実は変わらない。むしろ臨時政府を樹立しなければ、その地域の資源は占領した連合国の言い値になる。
なら、臨時政府を樹立して、多少でも交渉をできるようにしたほうがマシなのだ。
彼らには選択肢はなかった。
また、アメリカも今回の戦争をファシズムと民主主義の戦いと定義付けていたから、日本の統治方法には肯定的だ。
ただ、仏印は政治的、民族的な問題から、少なくとも3つ程度には分割しなければまとまりそうになかった。
国防省(というか陸軍)にしろ、外務省にしろ、逓信省にしろ、仕事の手間が増えるから正直な所、分割とかやりたくないのだ。
だが、だからといって、臨時政府内部で喧嘩をされても困る。
その喧嘩に枢軸国が乗っかってくると、もっと困る。
だから、嫌々分割して自治してもらう予定だった。
自治となると、どうしても治安維持能力や、ある程度の防衛能力が必要となる。そのために組織されたのが仏印防衛義勇軍だ。
仏印防衛義勇軍は、現状では全民族ひとまとめで訓練を行なっていた。そのほうが効率がよく、教官役が少なくて済むからだ。
そもそも、この防衛義勇軍の構想は、各地の独立運動指導者へ外務省が接触した時の対応ミスが発端だった。独立指導者達からの軍事援助の要請に、外務省があまり深く考えずにイエスと答えてしまったのだ。
外務省は、国防省(正確に言えば陸軍)に丸投げればいいや、と軽く考えての回答だったのだが、投げられた方としては冗談ではなかった。
この当時、急速に規模を拡大させていた陸軍にとって、教官ができる軍人は貴重な存在だったからだ。
そもそも、予算はどうするんだ?
いや、陸軍さん、予算激増中じゃないですか。
てめぇ、予算は全部使い道決まってんだよ! だから、予算つうんだ!
などという微笑ましいやり取りを経て、予算は外務省が財務相に土下座してひねり出し、教育用人員の派遣は主に陸軍が、物資の調達は逓信省が行う、という形で落ち着くことになる。ちなみに、逓信省は寝耳に水だ。
ただ、早くも問題が発生していた。
仏印の攻略は、陸軍にも予想外に速い速度で進行している。そのため、国内からの教育用人員の派遣が間に合わなかったのだ。彼らは未だ残務処理のため本土にいる。
それに反して、物資は潤沢に供給されていた。
1941年に制定された、アメリカのレンドリース法のおかげだった。レンドリース法は、アメリカと他国の間で物資と基地等のサービスのやり取りを行うことを可能とするよう、定めた法律だ。
日本は南洋諸島と本土の軍港の一部を米軍基地として提供したり、戦車等一部の兵器を逆レンドリースすることで、輸送機やトラックなどの物資を受け取っていた。
ただ、この時期の日本の工業生産力は、アメリカの4割強にまで達している。
当初は不足が予測された輸送機やトラックの類は、7割程度は日本国内で自給出来たし、自給の方が安価な場合すらあった。
そのため、日本は不足分を補う程度にしか、レンドリースを利用していない。結果、日本向け需要を見越して、アメリカで生産されていた物資はダブついていた。
逓信省は防衛義勇軍用の物資に、このダブついた日本向け物資を割り当てたのだ。費用に関しては、日本やアメリカからの借款という形になっている。
輸送に関しては仏印の陸軍向け輸送船団に同時に積載できたから、船腹の圧迫は最小限で済んていた。
このため、仏印防衛義勇軍が訓練に使用している戦車も、アメリカ製M3中戦車だった。
この戦車はアメリカ国内の戦車生産基盤が整っておらず、75ミリ法搭載の旋回砲塔の生産に自信が持てなかった時期に作られた戦車だ。
M3中戦車は砲塔に37ミリ戦車砲を搭載し、車体右側のスポンソン部に75ミリ砲を搭載する、少し特殊な構造となっている。
M3戦車の評価はあまり高くない。一言で言えば、微妙な評価だ。
この戦車の供給を提示された時、カナダは「ありがたくいただきますが、うちのラム巡航戦車への技術協力もしてください」と答え、オーストラリアは「ありがたくいただきますが、うちのセンチネル巡航戦車への技術協力もしてください」と答え、日本は「ガワ要らないから、車体だけください」と答えたことから、各国の評価がだいたい分かる。
アメリカの高い生産能力と品質管理能力から、短期間で6000輛近くも生産されたM3中戦車だったが、アメリカ軍でもあまり評判が良くなかった。そのため、M4中戦車が開発されると短期間で置き換えられ、現状では概ね交換が完了している。
M3中戦車の車台を利用したM7自走砲は、その多くがまだ現役だったが、M3中戦車そのものを使っているのはアメリカ軍でも州軍の一部と、海兵隊の一部だけだ。
結果、M3中戦車はその多くが行き先をなくし、余っていた。日本はこれを格安で手に入れ、防衛義勇軍に供給したのだ。
M3中戦車は歩兵支援用として割り切れば、まあまあ悪くない戦車だった。また、信頼性が高く操縦も容易だ。
初心者向けと言えなくもない車輌なのである。砲が2つあって、車長の指示出しが面倒であるなどの、構造的欠陥を除けば、だが。
本来、防衛義勇軍はまず歩兵や砲兵の戦力を強化すべきだった。
だが、歩兵の教官は人員の調整に時間がかかっており、まだ日本本土から出発していなかった。
また、砲兵は高度な数学的能力と専門教育が必須だ。そのため、高等教育を受けた人間の少ない旧植民地の人々には、素養のある人間が少ない。
そのため砲兵に関しては、時間を掛けて教育しなければならなかった。陸軍は、実質的に数学の基礎から教えるつもりで、1年間の集中的な専門教育を行う予定だ。ただ、こちらも教官は本土を出ていなかった。
歩兵用火器や一部の砲は、米国製を中心に供給されていたが、教官がいないのでは訓練にならない。
独立歩兵連隊から数人、教官の経験のあるものを引っ張りだされ、一応は教育を進めていたが、手が足りていない。歩兵は多数を揃える必要が有るため、教官もそれなりの数が必要だった。
それに対して第1独立重戦車連隊は、ノモンハンの生き残りを集めた精鋭部隊だ。教官経験のある人間が、何人も揃っていた。
戦車部隊は仏印全体で一個連隊も作れば、まあそれなりには動けるようになる。その程度の数なら、第1独立重戦車連隊の人間で教育を受け持つことができたのだ。
また、戦車隊の創設は独立運動家達からの、強い要望により決定していた。
彼らにとって戦車とは、宗主国軍のみが持つ力の象徴だ。どれほど人数を集めてデモを行なっても、戦車が出てくれば即座に蹴散らされる。
戦車とはまさに、権力と暴力、そして宗主国の支配そのものだった。
宗主国の支配から独立できる能力があることを国民に示すため、彼らが戦車を欲するのは、自然な流れだった。日本に取っても部品やらメンテナンスの請負やらで、儲けるいい機会でもある。
日本でも部品レベルならアメリカ製兵器の同等品が簡単に用意できたからだ。日本の工業規格はアメリカ工業規格への、非常に強いインスパイアが元になっていたから可能なことだった。
政府レベルでは防衛義勇軍構想は、国益にかなっている。不利益と言えば、せいぜいが省庁実務者レベルに感情的なしこりを残した程度だが、こんなのは日常茶飯事だ。
ただ、教官を抽出される側である飛田としては、たまったものではない。自分の部隊の訓練に滞りが出るからだ。
故に、彼はここ最近、非常に不機嫌だった。
毎日引き回される、妹尾にとってもこの状態はきびしいものがある。終始不機嫌な上官の横にいるなど、胃に来ることこの上ない。
ただ、彼の怒りは純粋に陸軍上層部に向いていたから、まだマシだったが。
少なくとも、飛田の連日連夜の電話攻勢にさらされている、永田鉄山ほどには厳しくはない。彼の強烈な後押しで、戦車の教官は歩兵や砲兵の教官よりもはるかに早く到着することが決まっていたぐらいだ。
「ふん。まあ、ビルマ方面に飛ばされんだけマシと思うか」
「まあ、あの辺りは何やかやと五月蝿いですからねぇ、いまは」
現在、フランス植民地軍は二種のルートで仏印からの後退をしていた。
一つは北部の港湾から船によるマレー方面へのルート。
もう一つは陸路により、南西部のビルマ方面へと後退ルートだ。
前者のルートは南遣艦隊への航空機の補充が完了し、また海上護衛総隊の潜水艦部隊が展開した結果、ほぼ完全に封鎖ができている。
フランス植民地軍がこのルートを使用出来たのは、一週間に満たない期間だけだった。
だが、その僅かな期間でフランス植民地軍は、4万人に及ぶ将兵を脱出させている。フランス陸軍第二機甲師団の生き残りもその中に含まれていた。
殿として残った数千の兵員は、日本陸軍をして感嘆させるほどの奮戦を示し、最後の船の出港を確認してから降伏している。彼らはその多くが外人部隊の人間だった。
脱出船の何割かは、南遣艦隊の艦載機や海上護衛総隊の潜水艦に補足され、沈むことになる。だが、それでも多くの兵員と装備がマレーへの輸送に成功し、マレー防衛のために配属されることとなった。
問題は陸路だ。
陸路でビルマ方面へ後退しているフランス植民地軍の状況は、一言で言って地獄だった。
ビルマと仏印の国境付近は山岳地帯であり、道路整備があまり進んでいない。フランス植民地軍の多くは車輌を喪失しており、徒歩か、良くてもトラックでの移動だったから、その道行は過酷だ。傷病兵の多くは脱落し、そしてその大部分はそのまま土になった。
日本軍の追撃部隊は、路上に放棄された車輌や遺体を多く確認している。
ただ、フランス植民地軍も、ただ後退していたわけではなかった。彼らもいくつかの手段で妨害を続けていた。
例えば仕掛け爆弾や障害物の類だ。
道路に地雷を仕掛けるのは序の口であり、放棄した車輌に動かしたら爆発するよう爆弾を仕掛けたり、路上に倒した木材の下に地雷を仕掛けるなど、なかなかいやらしい仕掛けもしている。
車輌にしろ木材にしろ、一つに爆弾が仕掛けられていた以上、全ての車輌や木材に爆弾が仕掛けている前提で、日本軍は行動しなければならない。全て工兵のチェックを経てからでなければ動かせないとなると、非常に時間がかかった。
このため、日本軍の追撃の足は鈍ることになる。ただ、その時間を計算に入れても本来なら、フランス植民地軍の多くは補足されているはずだった。
最大の問題は、枢軸国のもう一つの妨害だ。
敵コマンド部隊による、輸送部隊への襲撃がここに来て大きな問題となっていた。
日本軍は日本版ジープであるくろがね四輪や、イギリスのハンバー装甲車に「強いインスパイアを受け」開発された一式装輪偵察車、九七式軽装甲車などの、軽快車両を先頭にして追撃を行なっている。これらの部隊は戦車部隊ほどではないにしろ、燃料を必要とした。
だが、敵のコマンド部隊は戦線後方に侵入し、燃料の輸送部隊を中心に襲撃を繰り返している。お陰で追撃の最前線では燃料が不足気味となり、追撃速度は鈍っていた。
「なんでも、敵の部隊に後方に回りこまれてるそうじゃないですか」
「あれか、敵の挺身隊のことかね」
「ええ」
「部下も心配しているのか?」
「ええ、まあ」
妹尾は言葉を濁す。敵のコマンド部隊の噂は、仏印に進駐している日本軍、全体に広がっていた。
一部では前線部隊が包囲されただの、逆襲を食らって壊滅しただの、いや、逆に包囲して撃滅しただの、憶測と誇張と嘘が交じり合って、わけのわからない有様になっている。
それは所詮、噂の域を出ず、大抵の兵隊はありえない、と思っていたし、仏印派遣軍司令部は噂は事実ではないから、吹聴するなとの命令も出していた。
だが、それでも兵隊の中には迂闊な奴も居る。現地人にそういう話をしてしまい、情勢に動搖を与えていた。
「はぁん。あれだろう? 追撃の連中がやられたのやられてないのと。適当な噂を街中でペラペラと話す、迂闊なのが居るんだろ?」
妹尾は飛田の質問に、苦笑でその質問に答える。
彼は自分の部下には、そういう人間はいないことを確信していた。だが、他に部隊にいないとも限らない。さすがに正直にそう答えることは気がとがめた。
「ほうっておきたまえ、あんなくだらん噂。そのうち消えてなくなる」
「まあ、人の噂も七十五日といいますしねぇ」
「七十五日ねぇ。もっと短期間で終わると思うが」
「は?」
妹尾は思わず聞き返す。何か、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。
「別に君なら知っても構わんだろうよ。上も莫迦ばかりじゃない、ってことだ」
「はぁ。一応、聞かなかったことにします」
「懸命だ」
飛田は妹尾を見ると、ニヤリと笑い、そう言った。その後、視線を仏印防衛義勇軍の訓練風景へ移す。
妹尾も飛田の視線に釣られて、仏印防衛義勇軍の方を見た。
麓に全車両が集まり、乗員が降りて整列していた。
あまりの酷さに教官が呆れたのだろう。全車両を呼び戻して、義勇軍の兵員に対し教官が訓示をたれているようだった。
妹尾はふと、飛田を見る。彼は唇に指を当て、何かを考えているようだった。
しばらくすると、飛田は唇を釣りあげた笑顔を浮かべる。なにか、ろくでもないことを考えついた時の顔だった。
「妹尾大尉。質問だ」
「はっ。何でしょうか」
妹尾は背筋を伸ばし、答える。彼は内心で覚悟を決めていた。賭けてもいいぐらい、面倒事だからだ。
「うちの連隊で、今日、待機任務中の大隊はいくつある?」
「はっ。第一大隊は待機任務中のはずです」
「うん、いいな」
そう言うと飛田は笑顔で言った。
「では、防衛義勇軍の諸君に、戦車の動かし方の真髄を見せてやるとしようか。演習の展示をするぞ。第一大隊の中隊、全部で競争だ。ビリには、そうだな。連隊駐屯地を完全装備で2周してもらうか。ああ、勿論短機関銃は控え銃で、だ」
明らかに訓練するための口実だった。演習の展示、ということにすれば、教官役も一時的にだが呼び戻せる。それは防衛義勇軍の演習の一つでもあるからだ。
妹尾は内心で顔をしかめた。ダナン郊外にある連隊駐屯地は、180輛近い戦車を保管、整備するためにかなり広い。外周は軽く見積もっても5キロはくだらないだろう。
戦車兵の装備は歩兵よりは軽い。
とはいえ短機関銃か拳銃とその弾薬は装備するし、救急キットや携帯食料、水筒など、全て合わせると10キロは軽く超える重量になる。
また、抱え銃ということは装弾状態で3キロ以上の重さのある一〇〇式短機関銃を、胸の前で抱えながら走らなければならないということだ。そのために必要とされる体力は想像絵を絶する。
しかも、この酷暑だ。
控えめに言って、悪夢だった。
「さあ、妹尾大尉。帰って準備だ」
酷く楽しそうな声でそう宣言すると、飛田は歩き出す。
そして、妹尾はため息をつきながら追いかけた。
この日、仏印独立義勇軍の戦車兵は、異常に気合が入った日本陸軍戦車部隊の演習を見せられることになる。
その鬼気迫る演習風景を見せられた、仏印の義勇兵たちは、後に「日本人たちは優しいが厳しく、そして時々妙に怖い」という感想を持つことになる。
戦後東南アジア庶民の日本人感に、なにか余計な要素が加わった原因の一つは、間違いなくこの日の第1独立重戦車連隊の演習だった。




