第三章 第四話
彼の機体は最新鋭の機体だった。昨年末から飛行隊が編成され始めたばかりの機体だ。
機体の名前はバラクーダ。フェアリー社製の艦上攻撃機だった。
それまでの主力艦上攻撃機、アルバコアやソードフィシュと比較して速度は50%近くも向上しており、雷撃のみならず急降下爆撃すら可能となっている。
「ストリングバック(買い物籠)」と絶賛された、ソードフィッシュにも劣らぬ汎用性が確保されており、フェアリー社の前作アルバコアとは違って、現場でも比較的好印象をもって迎え入れられていた。
もちろん、複葉機だったソードフィッシュほど離着艦性能には優れていないし、何故か分からないがベテランですら着艦時にたまに大事故を起こすという、呪い染みた問題点も存在する。また、彼が搭乗している初期型のMkⅠは機体重量と比較して、ややローパワー気味だ。
だが、その辺りを加味してもこの機体は良い機体だ、と彼は思っている。機体は頑丈であるし、何より速度の向上が嬉しかった。
アメリカの新型艦上戦闘機は、自軍の艦戦シーファイアMkⅡにも匹敵する高速機であるとの情報を聞いていたからだ。
速度の向上は生存性の向上に直結する。
現在の彼の任務は索敵だった。
彼の機体にはバラクーダMkⅡ哨戒型と同様に、ASV MarkⅡレーダーが搭載され、水上艦艇を探知可能となっていた。
もっとも、ローパワー気味のバラクーダMkⅠではレーダー搭載によるアンテナの空気抵抗や重量の増加による速度低下が、無視できないレベルになってしまう。そのため本来は3座の座席を一つ潰し、複座機として運用されていたが。
お陰で航法士の業務が倍になってしまったのが、玉に瑕だった。
単機による索敵は非常に危険な任務だ。
敵に発見されると、多くの場合は迎撃を受ける。艦船へのレーダー搭載が敵味方ともに進んでいる現状では、その傾向は特に顕著だった。
つまり、索敵機の運命は3つなのだ。
情報の有無は別として生きて帰るか、情報を伝えて死ぬか、何も出来ずに死ぬか。
ただ、彼は楽観していた。
情報部から日本人達の戦闘機とレーダー技術は、それ程脅威ではないと聞いていたからだ。それはあまり根拠のない、希望的な憶測に基づく情報だったが、少なくとも彼の人種的偏見には合致していた。
だから、彼は疑わなかった。
「1時方向にレーダー反応」
レーダーの画面を凝視していた航法士から報告が入る。
彼は航法士の報告にあった方角に顔を向ける。薄い雲がかかっているため、目視は出来ない。だが、祖国のレーダー技術は世界一であると信じる彼は、迷わず機首をその方角に向けた。
バラクーダの巡航速度は高い。数分も飛ぶと艦影が見えてきた。
駆逐艦が10隻前後に巡洋艦が数隻、そして空母が少なくとも4隻見える。
「急いで打電しろ! 平文でいい。敵は最低空母4隻を含む艦隊だ」
英仏合同艦隊の司令部は、日本海軍が空母を出してくるか否かについて神経を尖らせていた。
戦艦戦力についてはこちらが上であることは、フランス軍からの情報により判明している。フランス空軍は数回ではあるが、偵察機を日本艦隊の上空に送り込むことに成功していたからだ。問題は空母戦力を出してくるかどうかだった。
日本海軍は仏印の沖合に、大小10隻を超える空母を展開している。日本海軍はその豊富な空母戦力によって、仏印上空の航空優勢を確保していた。日本海軍がその空母戦力を自分たちの迎撃に出した場合、英仏合同艦隊の巡洋艦や駆逐艦が損害を受ける可能性があったのだ。
日本海軍の巡洋艦や駆逐艦は強力である、と上層部は判断している。
故に彼の最大任務は、日本海軍が空母を出撃させるか否かの確認だった。
「打電完了しました」
航法士から報告が入る。
「よし、帰投する」
このまま接触を続けるのは危険だった。
敵が空母を持っている以上、戦闘機も持っているのは確実だったし、ここまで近づけば目視でも確認可能だったからだ。日本軍の戦闘機は、さほど高性能ではないと聞いてはいたが、数で包囲されると逃げることは出来ないだろう。
彼は大きく旋回して、母艦への帰還コースを取る。きらりと何かが彼の上で光った気がした。
彼は反射的にその光の出元を確認する。
「畜生」
彼はコックニーで罵り声を上げると、スロットルを一気に全開にまで持っていった。
光が航空機のキャノピーの反射光だったからだ。
その航空機は太い機首とほっそりとした胴体が印象的な小柄な機体だった。見る限り単座機。おそらくは敵の戦闘機だろう。ドイツ軍のフォッケウルフに似た印象を受けた。
速度計はジリジリと上がり、時速380キロ近くにまで達する。バラクーダMkⅠの事実上の最高速度だ。
だが、敵戦闘機との距離は離れなかった。
むしろ凄まじい勢いで距離が縮められている。
200キロ以上は速度差があるのぞ。話が違う。
彼が聞いている日本海軍の艦上戦闘機の最高速度は500キロ台前半の数字だった。だが、後ろから追いかけてくるあの機体は、どう考えても600キロを超える速度でこちらに向かってきている。
「機銃で牽制しろ!」
彼の命令に従って、航法士が後部機銃の7.7ミリ機銃で牽制の射撃を行う。しかし、敵戦闘機は意に介した風もなく、あっさりと距離を詰めてきた。
彼は必死にジグザグや急降下などの急激な機動を行う。少しでも時間を稼ぐためだ。
だが、敵機はその全ての機動へ容易に追随し、距離を詰める。
みるみる距離が縮まり、300メートルを切った。
敵戦闘機の翼が光る。
「畜生! 情報部の嘘つきどもめ!」
それが、彼の最後の言葉だった。
「敵哨戒機、撃墜しました」
「微妙な位置と時間で見つかったな」
小沢治三郎は戦艦『長門』戦闘指揮所内で、渋い顔をしながら言った。
敵索敵機からの通信電文は傍受されていた。こちらの発見報はすでに敵艦隊に伝わっているだろう。
無線封止をしていたが、見つかってしまった。いや、無線封止をしていたからここまで近づけた、と考えるべきか。
そう、小沢は考えなおすことにした。
日本海軍も、すでに二段索敵を実施しており、『瑞鶴』所属の二式艦上偵察機が敵艦隊を発見していた。
敵艦隊も無線封止を実施していたが、頭上を偵察機が飛んだ以上、意味はなくなっていた。
二式艦上偵察機は艦上爆撃機「彗星」から爆撃関連装備を取り払って対水上電探を装備し、火星エンジンを100/130グレードの高オクタン価ガソリンに適応するように調整した機体だ。
このガソリンは生産体制が日米どちらでも完全には整っていないため、供給量が限られていた。だがこのガソリンを、調整が施された火星エンジンで使用した場合の出力は2000馬力にも達する。このため二式艦上偵察機の速度性能は、高速爆撃機と称された彗星艦爆と比較しても向上していた。
索敵機は迎撃に出撃した敵のシーハリケーンを水平飛行で振り切り、「我レニ追イツク、ハリケーンナシ」などと打電してきたほどだ。
彼我の艦隊は現在、おおよそ300キロの距離を隔てて対峙する形になっていた。
すでに午後も遅い時刻だ。一時は攻撃を明日に持ち越すことも考えたが、敵艦隊の進行は予想以上に早く、明日にはダナンが敵艦載機の攻撃圏内に入ってしまう可能性がある。今日中に敵艦隊を止めなければならない。
今から航空攻撃を仕掛けたとしても、1回が限度だろう。一度の攻撃で投入可能な航空機は頑張ったとして180機ほどだ。
その180機の攻撃で、敵の艦隊にどれだけの損害を与えることができるのか。
その点が小沢は不安だった。
航空機による大型艦艇への攻撃はあまり前例がないのだ。どの程度の損害が与えられるのか、見当が付かない。
彼自身は例え戦艦を航空機で攻撃したとしても、大破以上の損害を与えることができるのは自明だと看破していた。
艦隊の操縦員達は効率的な訓練を繰り返し、平均搭乗時間は800時間を超えている。練度には何らの不安はない。
攻撃力に対しても同様だった。
彗星艦爆は無理をすれば800キロ爆弾を搭載しての急降下爆撃が可能であったし、天山艦攻も搭載量は1トンを超え、新型魚雷の使用が可能となっていた。
天山艦攻など、時速490キロを超える高速を持ち、防弾装備も完備している。画期的な性能と言っていい。
製造元の中島飛行機的には自社製エンジンの不調故に、昭和発動機製の「ハ-61」エンジンを使用するよう、強制に近い要求をされたことが不満のようであったが、海軍としてはどうでもいいことであった。
天山艦攻向けの新型魚雷である、九一式航空魚雷改四の弾頭重量は400キログラムにもなる。その上炸薬が、トルペックスというTNTの5割増もの威力がある物に更新されていた。
つまり航空機はTNT火薬600キロ分の威力のある魚雷を、敵艦に叩きつける事ができる、ということだ。600キロの弾頭の魚雷など、駆逐艦用の物でもなかなか存在しない。
トルペックスの出現は連合国側魚雷に大きな変化をもたらしていた。日本海軍駆逐艦など、魚雷の直径が61センチから53センチに回帰したほどだ。射程と速度は酸素や過酸化水素を酸化源とすることで十分なものが確保出来ていたし、威力は炸薬の改良で大きく向上したからだ。
製造工程が潜水艦用魚雷と一部共用できたから、価格もかなり下がっている。魚雷はひどく高価な兵器だったから、大蔵省や国防省は随分と喜んでいた。
小沢が悩んでいる問題は、一言で言えば「中途半端にならないか?」だった。
航空隊の攻撃が、敵が撤退を決意するが、短期間の修理等により作戦行動は可能な程度のダメージにとどまった場合が問題なのだ。
シンガポールの艦艇修繕能力はアジアでも有数である。上回っている、と断言できるのは日本本土でも大神や呉、佐世保、横須賀など少数の大型工廠だけだ。
そのシンガポールの修繕能力を頼りに、敵艦隊が後退すること。
小沢はそれを危惧していた。
そうなった場合は翌朝以降に、6隻の空母に高いリスクを負わせる必要があったからだ。
だから彼は、航空攻撃を敵艦隊にもっと接近してから実施するつもりだった。
彼の指揮する6隻の空母航空隊に所属する搭乗員達は、薄暮の着艦であってもこなせる技量があったから、攻撃自体には問題はない。
彼は航空攻撃開始後に、空母とその護衛艦艇を除いた艦隊主力を全速で敵に接近させることで、敵艦隊の残存戦力に艦隊戦を強要するつもりだった。
だが、その目論見は半ば崩れていた。
小沢は思案する。
空母は戦艦なぞより、よほど価値の高い攻撃目標だ。戦艦よりも攻撃範囲が広く、融通性の高い空母は通商破壊から基地や港湾などの固定目標への攻撃など、取れる選択肢の幅が広いのだ。また何より、脚が早い。
ま、目論見なぞ所詮は、全てが上手く行くこと前提の夢想みたいなものか。
小沢は決断した。
「航空攻撃の第一目標は敵空母とする」
「ま、空母さえなんとか出来れば、こっちの勝ちみたいなもんですからな」
澤田が大きく頷きながら言った。
そうなのだ。空母さえ沈めてしまえば、実際のところなんとかなるのだ。
小沢は敵の空母に、撃沈や大破などの大きめの被害を与える事が出来れば、後はなんとでもなる、と割り切ることにしていた。
敵が夜間艦隊戦に出てくるなら、正面から戦えばいい。
もしも『キングジョージ五世』級と『レナウン』級を同時に相手取る事になったとしても、『長門』型は世界有数の優秀戦艦だ。一方的にやられるということは考えにくい。相応の被害を与えるはずだった。
『剣』型と『ダンケルク』の戦いも、同数でぶつかって一方的な負けは考えにくい。
万が一、一方的にやられても翌朝に再度行われる航空攻撃が、敵をとってくれるだろうし、日本本土から後詰の戦艦が入るはずだ。
敵が夜間艦隊戦を嫌って後退するなら、翌朝以降に航空攻撃を仕掛ければ良い。相手の戦艦は空母ほど足は早くないし、空母さえ沈めておけば空母艦載機の傘もない。
敵陸上機の活動圏内まで逃げられたとしても、空母が踏み込めばいい。
もちろん、リスクは高い。だが、空母には戦闘機があるし護衛艦もある。本土には空母『赤城』と『天城』が半ば練習空母のような任務で残っていたし、新造空母が数隻訓練中だから、空母自体が多少傷んでも変えは効く。航空隊が消耗しても、本土には交代用の航空隊が機体とともに、すでに控えていた。
英仏の戦艦と空母に数ヶ月程度の期間、ドック入りするほどの被害を与える事が出来れば、その期間で仏印の攻略は完了するのだ。
巡洋艦以下は、この際計算に入れなくてもいい。
巡洋艦クラスによる通商破壊なら、海上護衛総隊の艦艇で十分に対応可能であるからだ。
もちろん、相応の被害は出るだろうし、海上護衛総隊の苦労も増える。だが、それは誤差の範囲に収まるはずだった。
仏印攻略までの時間を稼げれば、『長門』型2隻と『剣』型2隻が沈んでも構わない。
今の日本の生産力は戦艦2隻と巡洋戦艦2隻、空母数隻と、そしてその護衛艦艇程度の損害なら、2年もあれば再建する事ができる。
そもそも日米の持っている戦艦は、現時点で30隻近くもあるのだ。いざとなれば同盟国を頼ってもいい。
最悪、モスボール保存されている金剛型や山城型、伊勢型らの旧式戦艦を現役復帰させる手もあった。艦隊戦に使うには不安があるが、対地砲撃などの支援任務になら、まだまだ使えるだろう。
戦艦なぞ、少しぐらい沈んだとしても大した問題ではない。
そう考える事ができるほど、日本海軍の余裕は拡大していた。
「航空。作戦とその意図を操縦員達に通達しろ。20分後に出せる全力で航空攻撃を仕掛ける。攻撃隊発艦後は戦闘機を上げろ。砲術。対空射撃の準備をさせろ。敵は必ず航空攻撃を仕掛けてくるぞ」
小沢はぐるりと周囲を見回してから言った。
「さあ、始まるぞ」
それは日本海海戦以来、久方ぶりに日本海軍が経験する、大規模海戦の始まりを告げる声だった。