act.4 栄光
第四章・栄光
そのバーはシトラスグローブの外れにあった。
疎らな客の間を埋めるように、マイルスのミュートペットが響いてる。
「ここのマスターは元刑事でな。秘密を守れる唯一の場所だ」
開襟シャツにジーンズ‥‥カウンターに座った私服の署長は、とても警察関係者には見えなかった。
「長居はしたくない。用件を」
苛立った俺の言葉に、署長は苦笑してグラスを煽った。
‥‥長い沈黙の後、彼は低い声で呟いた。
「シーラ・スペンサーを殺して欲しい」
1
シドの一件以来、珍しく俺は忙しかった。
処刑場で俺たちは、TOKI・A-1を飛ばしていた。トーヤ女史と接触出来なかった時の保険だ。もし群衆の中にトーヤ女史を見つけられれば、次の手掛かりが得られるはずだ。
その画像解析に、俺はもう三日も掛けている。
TOKIのカメラは良く出来ていて、高解像度な上に、録画した画像を千倍まで拡大出来た。更に拡大画像にコンピュータ処理も掛けられる‥‥カーン大佐の設計だけにさすがのスペックだ。
で、俺は撮影された約千人の群衆を、一人一人首実検しているわけだが‥‥こんな作業、俺一人で追いつくはずがない。
その上、定期的に邪魔をしに来るヤツがいる。
言わずと知れたルージュ皇帝だ。
初日、俺はリビングで作業をしていた。
が、皇帝陛下は事あるごとに、
「クリス、紅茶が飲みたい」
「クリス、砂糖が切れた」
「クリス、ミルクのメーカーを替えたのか?」
‥‥これでは作業にならない。
二日目。
顔さえ見えなきゃ用事も言いつけられないだろうと、俺は寝室で作業をする事にした‥‥しかし陛下は何かにつけハンドベルを鳴らし、画像チェックの進行を妨げた。
要するに相手をして欲しいのだ。
だが、こちらもそんな精神的余裕は無い。俺は率直に状況を説明し、協力を仰いだ。
「‥‥だからルージュ、紅茶ぐらい自分で入れてくれ。この間まで、喜んで入れていたじゃないか」
これに対するルージュの返事は一言、
「飽きた」
‥‥何じゃそりゃあー?!
カチンと来た俺は、さも忙しいですと言わんばかりにレンチンのシフォンケーキを出してやった‥‥が、敵も徹底交戦とばかりにケーキには手を付けなかった。
クソッ!
そして三日目。
俺は諦めてキッチンで作業する事にした。
結局ルージュは、何があっても自分を最優先にして欲しいだけなのだ。
子供と同じ。
だから変に抵抗してもヒスを起こすだけ。ややこしくなる前にこちらが折れるに限る。
紅茶ぐらい入れてやるさ。
だがルージュも、昨日の攻防で譲歩する気になったらしい。黙ってキッチンに現れると、殊勝にも自分で紅茶を入れ始めた。
やれば出来るじゃん!
‥‥と思ったら、ルージュはティーカップを持ったまま、作業をしている俺の後ろに立ちやがった。
首筋に視線を感じて気が気じゃない。
居残りで反省文を書いている側に先生が立っているような気分だ。
居たたまれず、俺はルージュに話し掛けた。
「こ‥‥この人、トーヤ女史に似てないか?」
「私に聞いてどうする? 私はトーヤの顔を知らない」
‥‥そりゃそうだ。
「お前と瓜二つで綺麗な人だよ」
「それは私を褒めているのか? トーヤを褒めているのか?」
何でそこで突っ掛かるんだ?
ってか、手伝う気が無いならあっちへ行ってくれ!
「‥‥そろそろショッピング番組の時間じゃないか? 一人で見るのが嫌なら、リビングで作業しようか?」
「‥‥」
図星を突かれてプライドが傷ついたのか、ルージュは一人でリビングに戻って行った。
しかしこれで作業が出来る!
‥‥と思った矢先、ルージュがリビングで、狂った様にハンドベルを鳴らした。
「ああ、もうっ!」
さすがにブチ切れた俺はリビングに怒鳴り込んだ。
「何なんだよっ!」
ルージュはテレビの前で腕組みして立っていた。
「見ろ」
どうやらニュース番組らしく、画面は石油コンビナートの事故現場だった。
「‥‥こりゃあ大事故だな」
「そんな事はどうでもいい」
‥‥どうでもいいのか?
『爆発から十時間、現在もサンタバーバラは火の海です!‥‥それではもう一度、事件直後各マスメディアに送られて来た犯行声明です』
そう言うとキャスターは、短い声明文を読み上げた。
『これは報復である。次はダグラム・エアクラフト社を破壊する‥‥ルージュ』
‥‥はあっ?
『治安警察当局によると、ルージュという名前に該当する組織は無く、現在調査中です』
調査中も何も、これは明らかに罠だろう!
しかも事件の首謀者は絶対赤毛だ!
こんな大掛かりな猿芝居を真面目にやるのはアイツしかいない!
「性懲りも無くまたか」
ルージュも気づいているらしい。
俺は横目でルージュを見た‥‥ニヤついてるぞ、コイツ!
喧嘩売られて喜ぶなよ!何考えてるんだかなー。
‥‥と、不意にソファーの上の携帯がメールの着信を告げた‥‥『ルージュ探偵事務所』の唯一の連絡手段だ。
こんな時にかい?!
「クリス、依頼だ」
ルージュが携帯を手渡した。
「‥‥自分の携帯なんだから自分で見ろって」
ぼやきながらメールを開いたが‥‥次の瞬間、俺の背筋は完全に凍りついた。
それは、白いGAが石油コンビナートを破壊している画像だった。
‥‥潜水空母の一件で遭遇したアイツだ!
そして画像ファイルには一言だけ書き添えられていた。
『avoid(関わるな)』
2
子供はストーブが熱い事を知らない。
だから『触っちゃダメ』などと言えば、かえって触って火傷をしかねない。
子供は『するな』と言えばしたがるものだ。
だから『関わるな』と言われれば首を突っ込む。
そして俺たちは今、爆発現場から五kmの倉庫街にいる。
ルージュはリムジンの後部座席で、鼻歌交じりにTOKIのコントローラーを操作している。
子供をストーブに触らせないようにするには、ストーブに軽く触れさせればいい。熱いと分かれば、子供は二度としなくなる。
だがルージュは、何度触ってもストーブが熱いと分からないらしい。
むしろ楽しいと思っているフシがある。その証拠に、既にヤル気満々のボンテージスーツだ。
ああ、勘弁して欲しい‥‥。
例のメールの出どころは完全に不明。高速無線アクセス網の中、自動転送を繰り返しているため辿る事は出来なかった‥‥だが送り主の想像はつく。
トーヤ女史だ。
分からないのは、何故女史は接触して来ないのか?
恐らくトーヤ女史は、俺たちについてかなりの事を掴んでいるのだろう。なのに距離を取るのは何故か?
‥‥ハンドルに顎を乗せてそんな事を考えていたら、突然ルージュの鼻歌が止まった。
「どうした?」
「TOKIが現場に入った」
「何が見える?」
「‥‥死体の山だ」
「えっ?」
振り返った俺に、ルージュはコントローラーの画面を向けた。
コンビナートの一角に遺体は集められていた。
焼死体は膝を立て、手を突き出しているためにボディーバッグには収容出来ない。二十を超える遺体は、そのままの姿で整然と並べられていた。
確かにニュースでは、死者二十三名、重軽傷者四十五名と言っていた。だがこちらは罠だと思っているから、はなから嘘だと決めつけていた。
一瞬、本当に事故だったのかと疑った。
‥‥その時、画面の隅に軍服が映った。腕章とヘルメットにMPと書かれている。
編成上、MPが事故処理に当たる事はあり得ない。
「こいつら‥‥無関係な人間を巻き添えにしたのか?」
胃と心臓が鷲掴みにされたように痛んだ。
「‥‥吐き気がする」
「吐くなら外で吐け。私は今、それどころじゃない」
ルージュは一見して切れていた。
俺がこのザマなんだから、当然と言えば当然だ。
‥‥と、MPたちは四輪駆動に乗車し、エンジンを掛けた。しかしそのままの待機‥‥何かの指示を待っているようだった。
「様子が変だ。引き上げよう」
「ああ」
ルージュはTOKIを呼び戻そうと、コントローラーを操作した。
‥‥突然携帯が、メールの着信を告げた。
「クリス、メールだ」
「トーヤ女史か?!」
「‥‥待て、私が見る」
ルージュはコントローラーを俺に押し付け、携帯を奪い取った。
何だそれ?
おかげで危うくTOKIが墜落するところだったじゃないか!
が、メールを開いたルージュは意外な指示をした。
「クリス、TOKIを海に捨てろ」
「えっ?」
ルージュは携帯を俺の鼻先へ突きつけた。
メールには『スパイ衛星が現場を監視している。偵察機を回収すれば追跡される』とあった。
俺は慌ててTOKIを海に向けた。そのままMAXスピードで一分ほど飛ばし、一気に高度を下げた‥‥確認は出来ないが、TOKIは海面で粉砕しただろう。
しかしまだ安心は出来ない。
俺はリムジンのエンジンを掛け、倉庫街を後にした。
メインストリートに出たところで、けたたましいクラクションが近づいて来るのが聞こえた。
MPの四輪駆動が五台‥‥先頭の車両には赤毛の姿が見えた。
だがこちらは全面スモークガラスだ。すれ違ったところで気づかれはしない。
‥‥が、それも後部座席の迷惑大臣が何もしなければの話だ。
もちろん、やってくれたさ!
俺は努めて悠然とアクセルを操作していた。少しでもおかしな挙動を取れば赤毛は勘付く。
しかし隊列が目と鼻の先に近づいた時、後部座席の窓が開いた。
「!」
俺は慌ててパワーウインドをロックしようとしたが、時既に遅し!
バックミラーの中では、ルージュが左腕のガトリング砲を開いていた!
「馬鹿、止めろ!」
振り返った弾みでハンドルが左に切れた。
リムジンは対向車線に乗り込み、よりによって赤毛の四駆にヒットした!
フロントグラス越しに、赤毛と目が合っちまった!
「貴様はっ!」
ごめん、でもわざとじゃないんだ!
だが、おかげでルージュの態勢が崩れた。
ガトリング砲は赤毛ではなく、四駆のタイヤをあの世に送った。
「この隙に!」
俺はギアをLOWに入れ、アクセルをベタ踏みした。
そのままタコメーターがレッドゾーンに入ったところでミッションを戻し、少しだけアクセルを緩める。
ギアは一気にトップにつながり、リムジンは狂ったように加速した。
「車を止めろ!」
「止めたらどうする気だよ?!」
ルージュが吠えたが、んなもん聞いてられるかっ!
スタートダッシュで随分差をつけたつもりだったが、それでも三台の四駆が追走して来た。
と、後ろを見ていたルージュが、半笑いで言った。
「クリス、対戦車ミサイルだぞ」
「はあっ?!」
こんな所でミサイルかいっ! あいつら正気か?
ルージュが助手席に飛び込んで来た。
「タイミングを合わせろ」
「ああ」
ルージュは後ろを見たまま口紅を取り出した。
ルージュの視力はTOKI以上だ。おそらく砲撃手の手元を見ているのだろう。
「‥‥今だ!」
ルージュがダッシュボードの十二番目の穴に口紅を押し込んだ。
リムジンのトランクルームが開き、煙幕とフレアを放出‥‥同時に俺は急ハンドルを切った。
ミサイルは赤外線誘導だったらしく、フレアを追って空中で爆発した。
破片が辺りに降りそそいだ。
「クリス、いいのか?」
「何が?!」
「このままではまた巻き添えが出るぞ」
‥‥確かにその通りだ。
だからと言ってルージュの首輪を外せば、巻き添えの代わりに犠牲者が出る。
「ライフルだけでどうにかしてれ」
「了解!」
そう言うとルージュは助手席の背もたれを蹴倒し(壊す必要あるのか?)、後席のシートの下から一m程のアタッシュケースを取り出した。
バレット社の対物ライフル、昔で言うところの対戦車ライフルだ。
ルージュは手早くライフルを組み立てると、サンルーフから上半身を乗り出した。
「‥‥足場が悪いな」
「俺に足をのせるな!」
ルージュはライフルのボルトを引くと、追跡のジープに狙いを定めた。
相手もルージュに気付き、アサルトライフルを乱射して来た。俺はリムジンを蛇行させて回避運動をとったが、
「止めろ、狙撃の邪魔だ!」
と怒鳴られた。
「絶対人には当てるなよ!」
「うるさい!」
次の瞬間、先頭のジープが急激に失速した‥‥エンジンを撃ち抜かれたのだ。
そして後続がカマを掘り、二台は団子になって走行不能となった。
だが三台目は辛くも難を逃れた。
今度は向こうが回避運動をとっている。
「クリス、スリップ剤を撒いてやれ!」
俺は十一番目の非合法装備のスイッチを入れた‥‥一ガロンのスリップ剤が道路に撒き散らされた。
スリップ剤と言えば聞こえはいいが、ぶっちゃけ液体洗剤だ。
だが効果は覿面。タイヤを取られた四輪駆動は、ガードレールに突き刺さって横転した。
「ルージュ、そろそろ終わりにしろ!」
「赤毛がまだだ」
「ルージュ!!!」
「‥‥」
ルージュは不詳不詳、対物ライフルを構えた。
二発の十二.七mm弾が四駆の燃料タンクを撃ち抜いた。
ディーゼル車のため爆発はしないものの、周囲に軽油が広がった。
そこへルージュが最後の一発を撃ち込む‥‥炎が道路を寸断した。
そして俺たちは、一目散にサンタバーバラから逃げ出した。
3
軽い偵察のはずが、とんだ大立ち回りだ! ルージュが絡むと、蹴った小石が崖崩れになりかねない。
しかもこの力技の襲撃は何だ?!今時、マフィアだってもっとエレガントにやるだろうさ!
「車をぶつけたのはお前だぞ」
「それは事故だ! 勝手に共犯にするな!」
湾岸線を走りながら、俺はルージュに懇願した。
「頼むルージュ、今から一時間だけでいい‥‥とにかく静かにしててくれ」
「保証出来ない」
ルージュは、ガトリング砲に弾を補充しながら語気を荒げた。
「お前はあれだけの死体を見ても平気なのか?」
「平気なわけ無いだろう!」
売り言葉に買い言葉‥‥俺は初めて本気でルージュを怒鳴った。
「あ‥‥その‥‥大きな声を出して済まない」
「いや、いい‥‥そんな事よりクリス」
「何だ?」
「前方百mで検問だ」
「へっ?」
言われた直後、リムジンは検問待ちの渋滞に巻き込まれた。
脇道は無い。
更に後方に車が並び、完全に退路を絶たれた。
‥‥一瞬の判断の遅れで万事休すだ。
「一応確認だが、私は静かにしていた方がいいのか?」
「‥‥そうして下さい」
そう言いながら、俺は頭をフル回転させていた。
退路が無いと思うから見つからないんだ、ある事を前提に考えよう!
退路はある。
退路はある!
退路はある‥‥わけねえ!!!
言い聞かせてみても無いものは無い。
そうこうしているうちに、治安警察の一人がリムジンに気づいた。
‥‥いきなり全員でうろたえてるぞ。
アサルトライフルとショットガンを持ち出して来てるし!
職務質問無しで射殺する気か?
と、装甲車から一際貫禄のある警官が現れた。
その警官は全員を制すると、たった一人でこちらに歩いて来た。
さり気なく両手の平をこちらに見せている。
彼はリムジンの屋根に手をつくと、窓ガラスを叩いて言った。
「十八分署のケインズ署長だ。済まんが免許証を見せてくれ」
俺はパワーウインドを少しだけ開け、免許証を手渡した。
署長は免許を受け取りながら、目ざとく後部座席を覗いた。
「‥‥ほほー、お美しいですな」
「‥‥」
ルージュは沈黙でお世辞に応じた。
「署長自ら検問ですか?」
「下手をすれば、ここにいる全員が殉職だ‥‥当然だろう、Mr.フリップ?」
フリップは免許証に書かれた偽名だ。
「サンタバーバラでは派手にやったそうだが‥‥スペンサー少尉を仕損じたのは痛いな」
「何の話です?」
「‥‥まあいい」
署長は免許を差し出した‥‥受け取ると、裏にメモが忍ばせてある事が分かった。
「‥‥?」
「フリーウェイの高架下を走れば、衛星写真には写らない‥‥後はスコールを待て」
署長は検問まで随行すると、俺たちを素通りさせるように指示した。
‥‥どういうつもりだ?
「サンタバーバラでは、二十三人が犠牲になったそうだな?」
「ええ」
「俺は無駄に死体を並べる気はない」
署長に促されて見ると、リムジンの後ろには検問待ちの長蛇の列が出来ていた。
「もっとも、お前らが一人でも殺していたら話は別だったがな」
そう言うと署長は、踵を返して装甲車に戻って行った。
俺はリムジンを発車させた。
とりあえず俺は市街地にハンドルを切った。署長の言った方法なら、確かにスパイ衛星の目を眩ませられる。
署長のメモが気になったが、それは屋敷に帰ってからにしよう‥‥ルージュに見られたら、また話がややこしくなるに違いない。
俺だって、人死になんて見たくはないんだ。
4
スコールは午後二時過ぎに降り始めた。
昨日と同じ時刻だ。熱帯雨林気候に感謝! まさか地球温暖化に救われるとは思わなかったぞ。
屋敷に帰ると、すぐに俺は板金作業に入った。
リムジンの傷は、鼻先から運転席のドアまで伸びていた‥‥かなりめんどい。
俺は傷ついた外装を剥がし、ウィンカーとバンパーを予備の新品と交換した。
後は叩いて削って塗り直すだけ。
ルージュは一時間もしたら飽きたらしく、気が付いたらガレージから姿を消していた。
気楽なもんだ。
板金作業は五時間ほどで終わった。
夕食の用意に戻ると、ルージュはリビングのソファーで眠っていた。
‥‥眠っているルージュは、掛け値なしに美しかった。
俺は数分ルージュの寝顔を眺めていたが、そうもしていられない。
簡単にフルーツサンドを作ってテーブルに置くと、俺は塗装が終わったばかりのリムジンを出した。
ケインズ署長との交渉に応じるためだ。
ケインズのメモには〝シェリー〟というバーの住所だけが書かれていた。
日時と時間は問わないという事か?
もちろん罠の可能性はある。
セオリーで言うなら、数日店の様子を見て安全を確認するべきだ。
しかし、犯行声明に書かれた次の爆破はいつ起こるか分からない。ここでケインズとの交渉に応じなければ、それこそ無駄に死体が並ぶだけだ。
俺はケインズを信じるしか無かった。
ナビに従ってリムジンを走らせると、〝シェリー〟は一三四号線沿いにポツンと建っていた。
俺は店の正面にリムジンを停めた。
三十八口径も、運転席のサイドポケットに置いて出た。どうせ俺一人では何も出来ない。
もしこれが罠なら、一人で来た時点で俺の負けだ。
店に入ると、仏頂面のマスターが俺を睨みつけた‥‥サービス業以外からの転職と人目でわかる人種だ。
俺がカウンターに座ると、マスターは口の中で、
「何にする?」
とつぶやいた‥‥まあ、俺に言ってるのだろう。
が、正直俺は酒の事は分からない。
俺は一番見慣れた瓶を指さした。
「それをロックで」
「‥‥ゴードンズだが、いいのか?」
何か変なのだろうか?
マスターはアイスピックで氷を丸く削り、グラスに浮かべてカウンターに置いた。
「ところで、待ち合わせをしているんだが‥‥」
「ケインズならじきに来るさ‥‥見慣れない客は、どいつもこいつも奴の連れだ」
なるほど、そういう店なのか。
寸刻ジンを舐める振りをしていると、ケインズはさも仕事帰りに立ち寄ったかのように現れた。
しかしこのオッサン、私服になると柄が悪いな。
俺を見つけたケインズは、笑って隣の席に座った。
「私にも同じものを」
「ゴードンズだがいいのか?」
「‥‥いや、クラウン・ジュエルをジン&ビターズで頼む」
‥‥やっぱり何か変らしい。
「Mr.フリップは英国系だったのか?」
「父がマンチェスター出身だったが‥‥何故?」
「その酒は、この国ではあまりポピュラーではないからな」
「そうなのか?‥‥ああ、だからか!」
「?」
「‥‥いや、何でもない」
俺は笑ってはぐらかした。初対面の相手にする話ではない。
‥‥多分これは、父が好きな酒だったのだ。
父は俺が生まれてすぐ、極東戦線で戦死した。だから俺は、父の思い出を知らない。
俺が覚えているのは、母が時折この酒を飲んで、一人で泣いていた姿だけだ。
そんな母も今は亡い。
‥‥と、感傷に浸っている俺に、マスターが横から話し掛けた。
「アンタ、酒はやらないクチかい?」
どうやら俺のグラスが一向に減らない事に気付いたらしい。
「‥‥ああ、本当は飲めないんだ」
「だったら紅茶でも入れてやろうか?」
‥‥これには少なからずカチンと来た。
「結構!」
マスターは含み笑いを浮かべてカウンターの奥に消えた。
「すまない、彼は在職中から口が悪い事で有名だったんだ」
ケインズは本当に申し訳なさそうな顔をした。
「長居はしたくない。用件を」
「‥‥そうだな」
だがケインズは、なかなか話を切り出そうとはしなかった。
俺は黙って彼のの言葉を待った。
店内の音楽が一曲終わる頃、突然ケインズはグラスを煽り、絞り出すように意中を告げた。
「シーラ・スペンサーを殺して欲しい」
‥‥俺は自分の耳を疑った。
「その代わり、治安警察は今後一切君たちに干渉しない。捜査も全て打ち切る」
予想外を通り越した話に、俺は暫し言葉を失った‥‥やっと出て来た言葉は、
「本気で言ってるのか?」
「‥‥」
ケインズは、思いつめた目で俺を見た。
「‥‥何故だ?」
「彼女は狂ってる、人の死を何とも思っちゃいない‥‥君たちもサンタバーバラで見たはずだ」
確かにあれはまともな人間のする事ではない。
しかし、だから殺してくれでは話が飛躍し過ぎだ。
「だったら出るところへ出ればいい。証拠を集めて告発しろ」
「そんな話はとっくにしたさ‥‥取り合って貰えなかったがな」
「あの女と面識があるのか?」
「ああ‥‥彼女はかつての上官の娘だ」
「じゃあ説得しろよ」
「‥‥無理だな」
ケインズは空いたグラスを見つめて言った。
「シーラは父親の亡霊にとり憑かれている」
‥‥そして彼は、先の大戦について語り始めた。
当時のマレー半島は複雑な状況にあった。
旧宗主国である英国と深い関係にながら、宗教的にはイスラム国。民族的には、約三十%を華僑が占めていた。
ちょっと突けば、いくらでも騒ぎが起きる状況だ。
シンガポールで起きた暴動をきっかけに、混乱は半島全域に広がった。
我が国の旧政府は、在留国民の保護を理由に派兵を決めた‥‥実際は、権益確保のための軍事介入である。
シーラの父、ダリル・スペンサーは、この戦いで第八十二空挺師団の中隊長を務めていた。
ケインズは、スペンサー中隊の下士官だったそうだ。
そしてクアラルンプール侵攻作戦の最中、スペンサー中隊に特命が下った。
東マレーシア・サバ州への上陸である。
同じマレーシアでも、サバ州はボルネオ島北部である。戦略的には全く意味の無い作戦だった。
作戦の目的は、サバ州の石油採掘施設の防衛にあった‥‥当時の総司令官がこの油田開発に多額の投資をしていたのだ。
この程度の話なら、ぶっちゃけよくある。第二次大戦中に米国がフィリピンを奪還したのは、マッカーサーがフィリピン企業に私財を投資していたからだ。
問題は戦力だった。
サバ州にはスペンサー中隊の五倍弱の戦力が残っていた。
だが、ボルネオ島を領有する他国を刺激しないためにはそれ以上の戦力は出せないと言うのだ。
これでは兵を無駄死にさせるだけである。
だからスペンサー大尉は命令を拒否した。
結果、ダリル・スペンサーは軍法会議に掛けられ、死刑を宣告された。罪状は危険な任務の忌諱による命令不服従だった。
名門スペンサー家としては不名誉極まりない判決だ。
弁護側は作戦の不当性を訴えたが、聞き入れられなかった。
軍法会議は一般の裁判とは違い、陪審員も判事も軍人である。
何よりもスペンサー大尉は総司令官を怒らせた‥‥それは、軍の最大派閥を敵に回したという事だった。
軍という閉鎖的な組織の中でしか下り得ない、政治的な死刑判決だった。
「大尉は私たちの代わりに死んだ様なものだ」
ケインズはグラスを握りしめた。
「シーラは言ったよ『父の汚名は彼らの血で濯ぐ』と」
「はあっ?」
「彼女は軍を掌握して、大尉を不名誉な死に追いやった者たちを粛清するつもりだ」
話が大き過ぎて全く見えない!‥‥俺は素直に聞いた。
「どうやって?」
と、ケインズは俺の目を見据えて聞き返した。
「〝メビウス〟‥‥聞いた事はあるか?」
その噂には憶えがあった。
現政権と軍を影から操るユニオンが存在するという‥‥その組織だか派閥の名が〝メビウス〟だった気がする。
だが、そんな子供染みた話を信じる気はない。
「馬鹿馬鹿しい。そんなものあるもんか」
「シーラの口から直接聞いた。彼女は今〝メビウス〟の指示で動いている」
下らない!と言いかけて思い出した‥‥サンタバーバラを襲った白いGAの写真だ。
あれが本当なら〝メビウス〟が存在してもおかしくない。
‥‥俺たちは軍ではなく〝メビウス〟に追われているのか?
「シーラは〝メビウス〟の中枢に入り込むつもりだ‥‥そのためには手段を選ばないだろう」
選べよっ!
ってか、そんな事に巻き込まれて死んだ二十三人があまりにも哀れだ。
「私はシーラを止めなければならない‥‥大尉もそれを望んでいるはずだ」
「じゃあアンタは、大尉に代わって娘を殺すって言うのか?」
そんな理屈が通ってたまるか! いや、たとえ通っても、人殺しの片棒を担ぐなんてゴメンだ!
「悪いがそんな話には乗れない‥‥確かにシーラはイカレてる。でも、アンタも似たようなものもんだ」
俺はカウンターに十ドル置いて席を立った。
5
帰りのリムジンの中、俺はマジでうんざりしていた。
俺も戦争で父を失ったが‥‥感じ方があまりにも違い過ぎる。
戦死と処刑の差か?それとも名門の家系ってのは、シナプスのつながり方が違うのか?
人の死に名誉も不名誉も無いし、死人は何も望まない。
何もかも妄想に過ぎない。
一人で泣いていた母の背中の方がよっぽどリアルだ。
ケインズもシーラも、俺には全く分からない‥‥いや、分かりたくなかった。
しかし、どうにかして収拾はつけなければならない。これ以上人が死ぬのはご勘弁だ!
問題はその方法だが‥‥。
ケインズの言う通り、ルージュなら簡単にシーラを暗殺出来るだろう。長距離狙撃なら、それこそ弾丸一発で片がつく。
だがそれは、俺にとってNG中のNGだった。
多分俺は、ルージュが人を殺すところを見たくないんだと思う。
「俺にどうしろって言うんだよ‥‥」
滅入った気分を紛らわせようと、俺はカーラジオのスイッチを入れた。
が、適当に選局ボタンをいじっていたら‥‥突然ステレオがハウリングを起こした。
ラジオがハウリング?
俺はすぐにピンと来た。
盗聴器だ!
俺は車を停め、運転席の中を手探りで探した。
何時、誰が仕掛けたんだ?
ダッシュボードの下に顔を突っ込んでいると、すぐ横で停車音が聞こえた。
「?」
顔を上げると、犯人がこちらを覗き込んでいた。
「バレたようだな」
‥‥ルージュが変わった形のミニバイクに跨って笑っていた。
こいつ、どういうつもりだ?
「お前のカフスボタン、右が盗聴器で左が発信機だ」
これかいっ!
通販で買ったとか言ってプレゼントされた物だが‥‥少しでも嬉しいと思った俺が馬鹿だった!
ってか、通販でこんな物売るな!
「そのバイクも通販か?」
「これはリップの非常装備だ。折りたためて便利だぞ」
そう言うとルージュは、折りたたんだミニバイクを後部座席に押し込んだ。
で、本人は助手席に座るなり、バックミラーを自分に向けて乱れた髪のお手入れだ。
俺は呆れ返ってその様子を見ていた‥‥と、
「そう言えばクリス、別の周波数でもお前たちの会話が飛んでたぞ」
「‥‥どういう事だ?」
「可能性は二つだろう? 署長が盗聴させたのか、署長が盗聴されたのかだ」
‥‥やはり罠だったのか?
だが、もし逆ならケインズが危ない。
彼はシーラに直談判したと言っていた。監視されていrた可能性は多分にある。
「クソっ!」
俺はエンジンを掛けると、リムジンを振り回しまくって〝シェリー〟に戻った。
が、ケインズは既に店を出た後だった。
マスターが試したが、携帯もつながらない。
「ケインズの家は五km南だ」
「車種は?!」
「青いヴィンテージのチャレンジャーだ」
俺たちは南へ走った。
‥‥ケインズの車はすぐに見つかった。
ヴィンテージマシンは車道を外れ、ラジエーターから白煙を吹いていた。
左側面には銃撃の跡があった。
「ケインズ!」
しかし車内に彼の姿は無く、少量の血痕と空になった四十五口径が残されていただけだった。
「どうやら拉致られたようだな」
「人質かよ!」
赤毛は意地でも俺たちを闘技場へ引きずり出す気だ。助けたかったらダグラム・エアプレーン社まで来いって事だろう。
あの女、どこまでイカレてるんだ?!
俺にはケインズの理屈は理解出来ない‥‥だが、これだけは間違っていないと思う。
誰かがシーラを止めなければならない。
「ルージュ」
「何だ?」
「ケインズを助けたい」
「分かった‥‥ただし条件がある」
ルージュは俺を睨みつけてつけて言った。
「今度は何があっても止めるな」
そして俺たちは、妄想狂が待つ戦場へと向かった。
6
俺たちは州間高速道路を五号線から四◯五号線に乗り継ぎ、ロングビーチに向かった。
ダグラム・エアプレーンの西海岸唯一の工場がロングビーチにあったからだ。
シーラとケインズは、恐らくそこにいる。
リムジンの助手席で、ルージュは無表情に外の景色を見ていた。
沈黙の中、車内の空気だけが張り詰めていた。
ルージュは本気だ。本気過ぎて、戦いの前の儀式さえ忘れている。
‥‥湾岸の工業地帯の外れに目的の場所はあった。
ダグラム・エアプレーンの主力は軍用機だ。創業以来、数々の名機を設計・生産して来た。
二十世紀末には他社に吸収合併されたが、先の大戦で軍用機部門が膨らみ、独占禁止法を警戒して再度分割された。
工場のメインゲートに警備員の姿は無く、門も開放されたままだった。
いかにも過ぎて呆れ返った。
「ルージュ、どうする?」
「何しに来たんだ?‥‥突っ込め」
俺はアクセルをベタ踏みした。
が、ゲートでは何のリアクションも無かった。
リムジンはそのまま工場の中央部まで進んだ。
滑走路を備えた巨大工場は、敷地ばかりが広いため逆に閑散としたイメージだった。
俺は一番大きい建物の前でリムジンを止めた。
「シーラ! 私は気が短い、さっさと出て来い!」
降車したルージュが叫んだ。
‥‥建物の屋上で影が動いた。
「気が短いのはこちらも同じ! さっさとリップを呼べ!」
シーラだ!
シーラは何かを引きずりながら、屋上の端まで来た‥‥手錠を掛けられたケインズだった。
ケインズは銃を突きつけていた。
「まさかお前らが掛かって来るとは思わなかったぞ! こいつを返して欲しくば、リップを渡して貰おう!」
シーラの声を切っ掛けに、建物のゲートが開いた。
鉄の扉が時間を掛けて開き切ると、中からは巨大な蜘蛛を思わせる機動兵器が姿を現した。
‥‥共産圏の多脚砲台だ!
何故こんな物が?!
多脚砲台は、都市や森林地帯での戦闘用に開発された自走砲だ。
通常は蜘蛛の様に足を折りたたんで移動するが、足を伸ばせば全高十mとなる。
ビルや樹木を越えて敵を砲撃できる移動砲台だ。
しかも目の前のコイツはかなり巨大で、最大全高は二十mにもなりそうだ。
だが、この多脚砲台がルージュの神経を逆なでした。
「‥‥こんな物で私に勝てるつもりか?」
ブチ切れたルージュが、口紅を天に掲げた。
「馬鹿にするにも程があるぞ!」
突風と共に大地が大きく揺れた。
成層圏から五百tもの物体が落ちてくるのだ、それだけでもたまったもんじゃない。
滑走路は大きくひび割れ、多脚砲台も姿勢制御に精一杯だった。
鋼鉄の貴婦人は片膝をつき、エレガントに頭を垂れていた。
「クリス、行くぞ!」
ルージュがリムジンの屋根に飛び乗った。
「振り落とされるなよ!」
俺たちは多脚砲台に向かって突っ込んだ。
‥‥その時ケインズが動いた。
ケインズはシーラの腕を掴むと、覆い被さるように屋上から飛び降りた。
「何やってんだっ!」
二人は多客砲台の屋根に落ちた。
だがケインズはなおもシーラに掴み掛かっていった。
「貴様ーっ!」
シーラの銃がケインズの胸を撃ち抜いた。
「!」
しかしケインズは倒れなかった。
それどころか、なおもシーラに歩み寄った。
ケインズは何発もの九mm弾を受けながら、それでもシーラを捉えようと、手錠で繋がれた腕を伸ばした。
「気持ち悪いんだよ!」
最後の一発がケインズの眉間を撃ち抜いた、。
ケインズは力無く倒れ、人形の様に多脚砲台から滑り落ちた。
「クリス、止めろ!」
俺はサイドブレーキを引き、リムジンを急停止させた‥‥その反動を利用してルージュが飛び上がる。
ルージュは空中でケインズの死体を受け止めた。
「今だっ!」
シーラの指示で多脚砲台が動いた。
「しまった!」
砲台は無人のリップに向かって突進した。
「クリス!」
俺はリムジンの非合法装備のスイッチを入れた。
小型ミサイルが砲台の脚の一つを破壊したが、その程度で停止させる事は出来ない。
多脚砲台がリップに取り付いた。
同時にシーラがワイヤーガンを打ち込む‥‥鉤爪は胸部装甲の隙間に掛かり、シーラは一気にコクピットに駆け上がった!
「確かに頂いたぞ!」
シーラはメモリーの様な物を手に、リップの中に滑り込んだ。
‥‥あれはハードキーか?
リップは暗号コードでルージュを認識する。無論そいつはルージュの補助脳の中にあって、乱数表に従って定期的に書き換えられている。
これをクリアしない限り、リップを操縦する事は出来ない。
だが逆を言えば、これさえコピーすれば、リップは簡単に指揮権を渡す。
『制御回路認識‥‥You have control』
リップのマシンボイスが辺りに響き渡った。
やられた!
俺はリムジンの中で呆然としていた。
‥‥と、後席のドアの開く音がした。
振り返るとルージュがミニバイクを引き摺り出しているところだった。
「後は私がやる‥‥お前は少し離れていろ」
「どうする気だ?!」
「取られた物を取り返す‥‥当然だろう?」
ルージュはセルを回すと、ミニバイクでリップに向かった。
「止めろ、戻れ!」
言ったところで聞く相手ではない。
ルージュは多脚砲台の脚をかいくぐり、リップの足元に躍り出た。
そしてリップを見上げ、親指で喉を掻き切るジェスチャーをして見せた。
ち‥‥挑発してどうする!!!
『踏み潰してやる!』
シーラの怒声と共にリップが動き出した。
ルージュはミニバイクを曲乗りのごとく自在に操った。
小刻みに方向を変え、足元をわざと掠め、巨大なリップを翻弄した。
‥‥そういう事か!
俺はリムジンのキーを回した。
この作戦で一番の障害は多脚砲台だ。
無反動砲は撃てないだろうが、こいつが機銃を撃てばルージュが危ない。
俺は砲台の注意を引くために、無意味なヒット&アウエイを仕掛けた。
その間にもルージュとリップの鬼ごっこは続いていた。
人間だって虫一匹潰すのに苦労する‥‥相手がルージュでは踏み潰せる訳がない。
そして勝負は思った以上に早くついた。
シーラが姿勢制御に失敗したのだ。
バランスを崩したリップは多脚砲台の上に倒れ込んだ。
地鳴りと共に土煙が上がった。
視界が戻ると、俺たちはリップに接近した。
装甲の薄い多脚砲台は完全に潰れていた。それがクッションになったのか、派手な転倒の割にリップの被害は小さかった。
だが中はそうはいかない。
コクピットのハッチを火薬で飛ばし、俺たちはリップに乗り込んだ。
‥‥シーラは座席の上で虫の息になっていた。
一見して内臓破裂を起こしていた。
五十m上から転落したようなものだ。どうショックを吸収しようと、中の人間は衝撃で死ぬ。
リップは人間の扱える代物ではない‥‥だから莫大な予算を掛けてルージュが生み出されたのだ。
「‥‥」
シーラの口が微かに動いていた。
「何が言いたい?」
俺はシーラの口元に耳を寄せた。
「‥‥栄光を‥‥スペンサー家の栄光を‥‥お父さま‥‥へ‥‥」
それがシーラの最後の言葉だった。
7
数日後、俺は再び〝シェリー〟にいた。
今回の事件、俺はどうしても納得がいかなかった。
俺は何かを見落として、だから何かを止められなかった気がした。
開店前の店内で、マスターはこちらを振り向きもせずグラスを磨いていた。
俺はマスターの目の前に座り、カウンターに四十五口径を置いた。
「‥‥ケインズの物か?」
マスターがやっと視線を上げた。
「聞きたい事がある」
「聞いてどうする? ケインズは死んだ‥‥今更どうにもならないだろう?」
マスターは取り付く島を与えなぁった。
それでも俺は食い下がった。
「ケインズはシーラと心中しようとしたように見えた‥‥あの二人の間に何があったんだ?」
マスターの手が止まった。
「心中か‥‥あの馬鹿の考えそうなこった」
「真相が知りたい‥‥教えてくれ」
「お前もケインズと同類だな‥‥頭の固い馬鹿だ」
そう言うとマスターは、磨いたばかりのグラスを俺の前に置いた。
「このままでは彼が浮かばれない」
「‥‥ケインズも同じ事を言ってたよ‥‥そしてシーラに喋っちまった、父親の死の真相ってヤツをな」
「えっ?」
「シーラは何も知らなかったんだ。スペンサー大尉の事件には箝口令がしかれていたからな」
‥‥シーラは、父親は名誉の戦死を遂げたと聞かされていた。
スペンサー大尉の死は、軍内部の派閥争いの結果だった。
だが政治的判断で、裁判記録は非公開となった。
名門スペンサー家とその派閥に対する配慮だった。
真相を知るのは将官の一部と、スペンサー中隊の兵だけだった。
終戦後ケインズは軍に不信を抱き、予備役を願い出た。
予備役の軍人は、大抵治安警察に入る。
ケインズはそこで第二の人生を歩み始めた。
しかしケインズは、一時たりともスペンサー大尉の事件を忘れた事は無かった。
「ヤツは酒を飲むたび、あの事件の事を話して聞かせたよ」
マスターは、ケインズが唯一腹を割って話せる相手だった。
‥‥そして五年前。
ケインズはかつての戦友から、シーラの士官学校入学を聞かされた。
シーラは自ら入隊を志願したのだ‥‥父が果たせなかった元帥への夢を叶えるために、スペンサー家に再び栄光を取り戻すために。
それを聞いたケインズは、マスターが止めるのも聞かずシーラに面会した。
「だがな、そんな話を聞かされる方の身にもなってみろ‥‥信じていたものを失い、やり場にない怒りを抱え込むだけだ」
マスターは、バーボンの瓶を取って続けた。
「結果はお前さんも知っての通りだ‥‥ケインズは下らん信条を貫いた挙句に殺人鬼を作っちまったのさ」
‥‥だからケインズは、俺たちにシーラ暗殺を依頼したのだ。
そして恐らく、最初から自決する事も決めていたのだろう。
「馬鹿な事を‥‥」
「昔からさ‥‥真相を知りたいなんて、頭の固い馬鹿の寝言なんだよ」
「元刑事の台詞とは思えないな」
「だから警察を辞めたのさ」
マスターは笑いながら、俺のグラスに酒を注いだ。
「飲めないのに悪いが付き合え‥‥ケインズが好きだったワイルドターキーの十二年物だ」
「一杯だけなら」
「二杯目からは有料だ!」
俺たちはグラスを掲げた。
「ケインズに」
「馬鹿な友人に」
‥‥初めて飲むバーボンは、やり切れない味がした。