act.2 浮上
1
カリブ海。
狂った様に日射しが降り注いでいる。
‥‥いや、ビスケーン湾から南進しているので正確には大西洋だと思うのだが、ルージュがカリブ海だと言うのでそういう事にしておく。
どうせその方がエレガントなんでしょうよ。
乗っているクルーザーは三十万ドルでルージュが買った。いつものように現金払いだ。
探せばレンタルだってありそうなもんだが。
当然必要な書類は、免許から納税証明書に至るまで全てが偽造だ。
公文書偽造と無免許運転の罪状追加だ。
ルージュがでかい買い物をするたび書類を偽造するので、最近は使った偽名が多過ぎて分からなくなってきた。
そのうち、街で呼ばれる名前全てに返事をせにゃならん日が来そうだ。
港を出て五時間が過ぎた。
現在洋上百km‥‥キューバとの中間辺りまで来た事になる。
キューバ共和国は軍事的要所でありながら、先の大戦では無傷だった。
理由は簡単、資源保有国ではないからだ。
これだけでも前大戦の性格が分かる。
クルーザーはそろそろキューバの排他的経済水域に差し掛かっていた。
あまりのんびりしてられる状況ではないのだが‥‥ルージュは甲板でエレガントな気分を満喫中だ。
ビキニにサングラスで、ビーチチェアーに横になっている。
無駄だ!
オマエ、日焼けなんてするわけないだろ!
黒くなりたきゃ靴墨でも塗ればいい!
「ルージュ、泳いできたらどうだ? その方がよっぽど楽しめるぞ」
ルージュはサングラス越しに阿呆か?という目をして言った。
「私の自重は百九十ニkgだが、沈んだら引き揚げてくれるんだろうな?」
‥‥無理です。
事の発端は二週間前にさかのぼる。
その日の未明、国際空港のレーダーが、識別信号も飛行計画も無い三機の機影をキャッチした。
三機はメイポートの海軍補給基地付近から現れ、一直線に南へ向った。
管制官はすぐさま第四艦隊に問い合わせたが、艦載機の発着は無いと否定された。
だが識別信号を出さない時点で話がおかしいのだ、問い合わせたところで認めるはずが無い。
キューバに近いという条件から、この国際空港にはバイスタティック•レーダーが設置されていた。レーダー波の送信機と受信機を離して、ステルス機でもキャッチできるシステムだ。
おそらく一般のレーダーだったら気付きさえしなかったのだろう。
機影はキューバに向かってなお直進を続けた。
あと数分で敵国領空に侵入する。
呼び掛けにも応答は無かった。
管制官はさぞや慌てた事だろう。
‥‥だがその直後、機影は洋上百kmで突然消失した。
急激に高度を下げた直後だったので、墜落したと誰もが思った。
夜明けと共に捜索は始まった。だが事故機どころか、オイルの浮遊一つ見つからなかった。
第四艦隊は当初、この事実を全面的に否定していた。
しかしタブロイド紙がスクープした事で態度を変え、訓練中の事故と発表した。
行方不明機の捜索は十日間続けられたが、何の手掛かりも無いまま打ち切られた。
‥‥そして依頼人が現れた。
2
キャロル•ジェファーソンがベルを鳴らした時、俺はティータイム用のブルーベリージャムを作っていた。
‥‥この言い方は語弊があるな。作ると言っても市販のジャムに砂糖を加えているだけだ。
ルージュは依存性の様に甘い物を要求する。
少ない食事量で糖質を確保するための本能なのだろうが、甘い物が苦手な俺は料理をしているだけで気分が悪くなる。
黙って角砂糖でも舐めててくれると助かるのだが‥‥。
俺は甘い匂の手鍋を持ったまま、インターフォンのモニターを覗いた。
キャロルは物憂げな表情で、不安そうに目だけをキョロキョロさせていた。彼女が依頼のために訪れたのは明らかだった。
「あの‥‥こちらにルージュさんはいらっしゃいますか?」
俺は門のロックを解除した。
‥‥ルージュはリビングで、退屈そうに通販番組をザッピングしているところだった。
こいつほど我が国のGDPに貢献しているヤツはいないな。消費欲求の塊だ。
「ルージュ、依頼人だ」
「‥‥そうか」
普段なら俺の言葉など聞き流すのに、こういう時だけは一度で立ち上がる。
全く現金なヤツだ!
‥‥ティータイムだったので、依頼の内容はガーデンルームのテラスで聞く事になった。
生クリームとジャムを添えたスコーンとティーセットを並べてから、俺もキャロルの対面に座った。
どうせルージュは喋らない。依頼の詳細を聞くのも執事の務めだ。
ちなみにキャロルの皿にはブルーベリージャムは添えなかった。あんな物は食い物ではない、あくまでも食える物だ。
キャロルの左手薬指には、真新しいプラチナの指輪が光っていた。
新婚間もないこの清楚な女性は、今まさに未亡人になろうとしていた。
‥‥キャロルの夫•アンソニーは、消失した海軍機編隊の指揮官だった。
捜索打ち切りを告げる時も、軍から十分な説明はなかったらしい。訓練内容も事故の原因も、曖昧なまま終わらされようとしていた。
真相は軍事機密というカーテンの向こう側だ。
「私も軍人の妻です、夫が戦死したというのなら受け入れます‥‥でも、謎の失踪のままでは‥‥」
キャロルは声を詰まらせた。
「依頼は、事故の真相究明‥‥ですか?」
キャロルは黙ってうなずいた。
「待って下さいジェファーソンさん 、一介の探偵が軍事機密の壁を超えられるとお思いですか?」
何をどう考えたって無理に決まってる!
「でも‥‥ある方が、ルージュさんならできると‥‥」
「ある方?」
「陸軍のデビット•カーン大佐です」
あ‥‥あのオッサン、口軽過ぎ! そりゃあ機密漏洩ぐらいするわな!
できるできない以前に、俺はとにかく軍には関わりたくなかった。前回であのザマだ、今回はどんな目に遭うか分かったもんじゃない!
が、
だが、
しかし、
俺の隣に座っている野次馬は、そんな事はお構いなしだ。何にでも鼻先を突っ込んで、いいだけ引っ掻き回して後は丸投げ。
どうせまた痛い目を見るのは俺なんでしょうよ!
白いドレスを着た好奇心は、ティーカップを持ったままキャロルの結婚指輪を見つめていた。
‥‥まずい!
「‥‥死が二人を別つまで‥‥か‥‥」
ルージュがキャロルの手を取って、わけの分からない事を呟いた。
‥‥いや、俺だって本当にわけが分からないとは思っちゃいない。だが、ここでそれを認めると、次の展開も認めざるを得なくなる。
「この依頼、お受けしましょう」
そら来た!
「ルージュ、幾らなんでも‥‥」
無理‥‥と言おうと思ったら、ルージュの手が俺の口をふさいだ。
「必ず事故の真相を暴き、貴女の手にアンソニーを取り戻してみせます」
だから無理だって言ってるだろう!(言えてないけど)
「‥‥ルージュさん、ありがとう」
キャロルは目を潤ませて言った‥‥この十日間張りつめていたものが、一気に氷解したようだった。
「クリス、意見があるなら言え」
ルージュが意地の悪い目で俺を見た。
こいつは本当に嫌なヤツだ!
‥‥俺は黙る事にした。
まあいい。
いいですよ。
奥方のこの涙のためなら、少しぐらい痛い目に遭ってやるさ。
‥‥少しだけだぞ!
俺は女の涙に命を張れるほどロマンチストじゃないんだ。
3
マスコミも指摘している事だが、訓練飛行中の事故というのは明らかに嘘だ。
訓練なら飛行計画は事前通告されるはずだし、何よりも識別信号を出さない事はあり得ない。
ステルス機がこれ無しで訓練を行えば、民間機と事故を起こす確率は天井知らずだ。
となればこれは作戦行動と考えるのが筋ではあるが‥‥戦時下でない現在、考えられるのは偵察ぐらいである。
偵察ならスパイ衛星で事足りる。
ここでもう一つの可能性が浮上する。
訓練でも作戦行動でもないなら‥‥実験である。
しかし航空機の実験は、通常は内陸部の砂漠地帯で行われるものだ。
あそこなら民間機は飛行禁止なので、それこそ飛びたい放題だ。
おそらく実験の主役は、空ではなく海上にいたのだろう。
‥‥ただ、これはあくまでも仮説である。
仮説を立証するにはそれなりの証拠か証言が必要なのだが、残念ながら証言集めは望めない。
俺たちはお尋ね者なのだ。
お尋ね者が聞き取り調査なんてできるか?
残るは証拠収集だが‥‥とりあえず俺は定番の手から始める事にした。
ハッキングである。
構造上、ルージュの脳は軍のGCCS(汎地球指揮統制システム)と直結している。戦略的指揮系統が存在しなければ、全ての軍事行動は無意味だからだ。
だから構造上は、ルージュは軍のデータを閲覧する事だって可能なのだ。
あくまでも構造上の話だ。
何故それができないか‥‥コイツは基本学習コードのインストール前に逃げ出している。
つまり、ハードはあってもソフトが空っぽなのだ。
肝心な時に役に立たない切り札だ。
というわけで、ハッキングは外部装置に頼る事になった。
ルージュと俺は、ダウンタウンのネットカフェに向った。
ハッキングするのに自宅のコンピュータを使う馬鹿はいない。防壁が作動すれば、個人情報を吸い上げられて即御用だからだ。
カフェの中は煩雑で、空気までが淀んでいた。
ルージュは店の雰囲気がお気に召さなかったらしい。一歩踏み入るなり、
「後は任せる」
と、踵を返してリムジンに戻って行った。
まあいい、車の番でもしててくれ。
この店を選んだのには理由がある。
ここは治安警察の分署と分署の間、所轄の境界線上にあるからだ。
つまり防壁が作動してIPアドレスから位置が割り出された時、手が回るまでに一番時間が掛かるという事。
どう頑張っても踏み込むまでに八分は掛かる。
俺はパーテーションで区切られたブースの一つに座った。
俺は先ず、古巣GEIの社内ネットワークに入り込んだ。
さすがに俺のアカウントは抹消されていたが、良くない事に俺は、同期のアカウントとパスワードを覚えていた。
技術職なんてそんなもんだ。
忙しい時にデータの提出を求められたとする。相手が上司ならファイルをまとめて送ったりもするが、同期だったら、
「悪いけど、勝手に入って見てくれる?」
てな具合だ。
さて、そこから軍関係の研究データの階層に入って、データリンクのゲートウエイサーバーから目的地に至る作戦なのだが‥‥海軍はさすがにヤバイので、沿岸警備隊にハッキングする事にした。
俺は用意していたストップウォッチを出して、侵入と同時にスイッチを入れた。
タイムリミットまであと八分!
狙いはASI‥‥船舶自動識別装置の位置データの記録だ。それで官民全ての航行の様子が分かる。
俺は海軍機失踪当時の様子を十分刻みでチェックした。
‥‥おっと、もう三分過ぎている!
面白い事に消失地点では、全ての船舶が迂回進路を取っていた。そう指示されていたのだ。
明らかにそこには何かがいた。
‥‥もう五分か! さっさとデータを持ち出そう。
俺はメモリーを取ろうとポケットに手を突っ込んだ。
その時、予期せず肩を掴まれた。
店の警備員のようだった。
「お客様、こちらへ」
「はぁ?」
「治安警察の指示で、身柄を拘束させて頂きます」
‥‥その手があったか!
俺は両手を挙げると見せ掛けて、ポケットからオレンジの口紅を取り出した。
ルージュへの救命要請ホットラインだ。
そしてこれは、催涙スプレーも兼ねている!
「ゴメン!」
俺は警備員にスプレーを吹き掛け、一目散に店から飛び出した。
‥‥が!
店の前にリムジンは無かった。
「‥‥冗談だろ?」
俺は本気で途方に暮れた。
だからといってゲームが終るわけじゃない。俺の背後には、警備員たちの足音が近づいていた。
‥‥まあ、走るしかないよな。
ああもう、どこまで勝手なヤツなんだ!
4
ルージュが屋敷に戻ったのは日没を過ぎてからだった。
ルージュは玄関でしばらくクラクションを鳴らしていたが、頭にきていたので迎えに出なかった。
リビングに入って来たルージュは、
「帰ってたのか」
と何事も無かったかのように言った。
‥‥帰れなくなってたらどうしてくれるつもりだったんだ?
「で、何かあったのか?」
‥‥今聞くなっ!
返事をしないでテレビを観ていたら、ルージュは黙ってリビングを出て行った。
さすがに怒っているのが分かったのだろう。
だったら素直に謝ればいいのにとも思ったが、ルージュが謝ってるところを想像したら‥‥逆に違和感を感じてやめた。
後を追うと、ルージュはキッチンにいた。
自分で紅茶を入れようとしているらしいが、どの茶葉を使えばいいのか分からなくなっていた。
俺はストレート、ミルク、バリエーションティーで茶葉を使い分けてるからな。
「やろうか?」
「ああ」
「ストレートでいいか?」
「任せる」
代わったのはいいが、後ろで他人が見てるとやりづらいものだ。お湯が沸くまでが変に長い。
「収穫はあったのか?」
間が持たなかったのか、ルージュが話を振ってきた。
俺は温めたティーポットにダージリンの茶葉を計りながら答えた。
「‥‥海軍機失踪当時、海上には軍艦がいた。恐らく空母だろう」
「で?」
「もしこれが新型空母の実験で、その空母が遭難したのだとしたら‥‥俺たちが思っている以上の大事故だ」
「‥‥」
何故かルージュはニヤリと笑い、入れた側からティーカップを取り上げた。
「失踪現場に行く。支度をしろ」
「‥‥見つけられると思うのか?」
「そのための装備を手に入れて来た」
それは段取りのいい事で。
‥‥まあ沿岸警備隊へのハッキングであのザマなら、海軍のデータを盗み出すのはまず不可能だろう。
残る手段はそれしか無い。
「出発は今夜か?」
ルージュは頷いて紅茶を飲んだ‥‥準備といってもルージュが不機嫌にならない程度の着替えを用意するだけだ、三十分もあれば事足りる。
「すぐ支度する」
俺はキッチンを出ようとした。
「‥‥ところでクリス」
‥‥? まだ何かあるのか?
「この紅茶、熱いな」
当たり前だよ!
仕方がないので、俺はティーカップに氷を一つ入れてやった。
5
ここから失踪現場まで行くには、大陸をほぼ横断する事になる。
一般的には空路を使うところなのだが、ルージュの体重の問題で国内線は使えない。
海路は時間が掛かり過ぎる。
都合、俺たちは陸路で移動する事になった。もちろんいつものリムジンだ。
ルージュがハンドルを握り、俺は助手席に座った。
だからといって後部座席が空なわけではない。俺たちの背後とトランクには、強化プラスチックの小型コンテナが積めるだけ詰め込んであった。
ルージュが手に入れて来た捜索のための装備だ。
こんなに積んで走るのかと思ったが、さすが六百hp、積載オーバーもなんのそのだ。
だが、この状態でカーチェイスをするとは思わなかったぞ!
ルージュはアベレージ二百km/hでハイウェイを突っ走り、三十二時間で八回、ハイウェイパトロールとバトルを演じた。
生きた心地がしなかった!
捕まらなかったのは非合法装備・その九、妨害電波発生装置があったからだ。
無線でヘリでも呼ばれたら万事休すだったが、こいつのおかげで単騎勝負に持込めた。
ルージュはリムジンを完璧に制御し、路面の状態を確実に把握した。
二百km/hでは、石ころ一つが命取りになる。対戦相手は、皆それで自滅した。
死人が出なかったのは奇跡だな。
目的地に着くと、俺はすぐにクルーザーの手配を始めた。
その間ルージュは高級リゾートホテルで、ルームサービスのケーキを堪能していたらしい。
俺が十年は寿命が縮んだフラフラの足で走り回ってる間にだ!
‥‥こうしてやっとたどり着いた失踪地点だったが、いざ来てみると予想もしない光景が広がっていた。
現場海域は十隻近いクルーザーと漁船で埋め尽くされていた。
マスコミがチャーターした捜索船団だ。
報道の大半は今回の失踪を軍の陰謀とブチ上げていた。視聴率稼ぎに特別番組でもやる気なのだろうか?
調子に乗って報道規制に引っ掛かるなよ。
船団に近づくと、うちのクルーザーの船底までがキンキン鳴り始めた。
一斉にアクティブソナーを使うからだ。
ルージュのコンテナにもソナーが入っているらしいが、ここで俺たちまで仲間に加わるのもなあ‥‥。
「どうするルージュ?」
するとルージュは船倉に降り、コンテナの一つを担いで戻って来た。
「海がいっぱいなら空から探すまでだ」
‥‥コンテナの中には鳥を模した小型ロボットと、アタッシュケース型のコントローラーが入っていた。
コントローラーにはモニターが装備されており、ロボットの現在位値とカメラからの画像が確認できた。
つまりこいつは小型の無人偵察機なのだ。
「どうしたんだ、こんな物?」
「カーン大佐から貰い受けた。TOKI・A-1というそうだ」
コイツ、いつ大佐に会ったんだ?
‥‥って、ネットカフェの時しかあり得んわな。
あの大量のコンテナの出処はカーン大佐か!
俺の疑問をよそに、ルージュはコントローラーのスイッチを入れた。
TOKI・A-1は本物の鳥のように数回翼をバタつかせ、雲一つ無い空へ飛び上がった。
羽を動かすのは単なる擬態で、推力は足の根元にある二基の小型ジェットエンジンだ。
ドーベルマンの時とは違って荒い造りだが、白いボディーも手伝って、遠目には海鳥に見える。
モニターを覗くと、TOKIは捜索船団の真上を飛んでいるところだった。
‥‥その向こうに、小さく軍艦らしき影が見えた。
「これは?」
「キューバの哨戒艇だろう。ここは排他的経済水域だからな」
場合によってはここでも拿捕されるのだが、静観しているところをみるとマスコミの連中が金を掴ませたに違いない。
「そうか」
そう言うとルージュは、コントローラーのジョイスティックを押し込んだ。
TOKIはそのまま進行方向へ加速した。
‥‥って、哨戒艇に向かって直進してるだろ!
「止めろ、ルー‥‥」
止める間もなく、カメラは哨戒艇を飛び越えた。
TOKIはそのまま一直線にキューバに向かった! コイツ、小型のくせに三百km/hも出るのかよ!
領空侵犯だ!
遂に国際条約にまで抵触しやがった!!!
俺は国際問題になる前に何とかTOKI・A-1を戻させようとしたが、ルージュは取り合おうとさえしなかった。
これ以上の厄介事はゴメンだ!
俺は力尽くでコントローラーを奪い取るしかないと思った。
‥‥が、思っただけで止めた。
理由
①怪我をしたくなかった。
②ビキニの女性と取っ組み合いになるのは避けたかった。
②はルージュを女と見るならの話だ。
ってか、何でルージュを女に造る必要があったんだ? 設計したヤツのスケベ根性としか思えん!
‥‥そこまで考えて、俺は初めてある事に気がついた。
もしルージュを女に造る必然があったとするなら‥‥生体部品の遺伝子提供者が女性だったという事か?
ルージュには初めから意識があった 。
それが遺伝子提供者の記憶の一部が生体部品に転写されたものだとしたら‥‥。
遺伝子が同じである以上、気質が同じ事はあり得る。しかしそれより高次のものが転写されるのだろうか?
だが、そう考えればルージュの行動の全てに説明がつく。
かなり無茶苦茶ではあるが、コイツは初めから女だった。
「‥‥クリス!」
ルージュの声で俺の思考は中断した。
見るとルージュは、モニターを指して俺を見ていた。
モニターの中にはクレーン船が映し出されていた。
正方形で半潜水型の船は四基の巨大クレーンを持ち、周囲には支援船一隻と護衛艦二隻もみられた。
次の瞬間、画面は砂嵐になった。
「撃墜されたな」
「大丈夫、TOKIはあと二台ある」
‥‥そいう問題じゃないと思うぞ。
「最後に映った船は?」
「サルベージ船みたいだったが‥‥」
突然ルージュは立ち上がって言った。
「アンソニー・ジェファーソンはそこにいる」
‥‥さすがに話が見えない。
コントローラーの記録では、サルベージ船の位置は八十km先、完全にキューバ領海内だ。
空母でも戦闘機でも、そこまで侵入すればとっくに国際問題になっている。下手すりゃその日のうちに開戦だ。
「確かに海上からも空からも不可能だ‥‥だが、もう一つルートが残ってるだろう?」
ルージュは確信を持って言った。
「彼らは海中を移動した‥‥潜水空母でな!」
‥‥俺にはルージュの言ってる意味がサッパリ理解できなかった。
6
ルージュがコンタクトを取ると、カーン大佐は陸軍の実験場へ来るよう指示したそうだ。
実験場は営外にあり、普段は誰も近づかないフェンスで区切られただけの荒野だ。
カーン大佐はそこで一人、TOKI・A-1を飛ばしていた。
ルージュが隣に立つと、大佐は懐かしそうに話したそうだ。
「アンソニーとは幼馴染だ。子供の頃はこうして一緒に飛行機を飛ばしたものさ」
ラジコンの操作はアンソニーの方が上手で、大佐はもっぱら改造担当だったそうだ。
その後アンソニーは海軍のパイロットとなり、大佐は陸軍の技術畑に進んだ。
ここ数年はカードの遣り取り程度で、直接会う機会は無かったらしい。
「それでも友達である事には変わりは無い‥‥そうだろう?」
大佐は本気でアンソニーを助けたかったのだ。
だからキャロルにルージュを紹介し、ルージュが来るのを待っていた。
「助けてくれる気があるなら渡したい物がある」
大佐はルージュに装備と策を授けた。
そして俺はクルーザーの甲板で、大佐の贈り物を組み立てている。
直径十mのバルーンとリベットの化け物だ。
リベットは全長ニmで、先端にはレーザー発信機搭載されていた。このレーザーで潜水艦外装のゴムとチタンの殻を焼き切り、リベットを打ち込むのだ。
リベットにはバルーンがつながれ、深度三十mで高圧ガスで膨らみ浮力を稼ぐ。
計算上はこれ一基で五百二十tの浮力が得られる。それが六基‥‥艦内の浸水が三千t未満なら潜水空母は浮上する。だがそれも艦内のバラストタンクが生きている事が前提だ。
潜水空母の話はカーン大佐の耳にも入っていたらしい。
核廃絶交渉が水面下で始まったのは三年前‥‥それを受けて軍は新型兵器の建造に取り組んだ。
通常兵器の潜水空母と、決戦兵器のGAだ。
ただ、この二つは機密レベル上格差があるらしい。GAがレベル3の最高機密、それに対して潜水空母はレベル2の極秘というところか。
セキュリティレベル2の大佐は、潜水空母を知る事ができた。そして事故の報道を見て、すぐにピンときたそうだ。
‥‥あの日潜水空母は洋上百kmで、アンソニー率いる艦載機編隊を収容した。
その後格納式の滑走路を閉じて潜行。海底からキューバ領海に侵入した。
単なる実験航行なので、すぐに転進する予定だった。
潜水艦は通常、海底追随航法で航行する。
これは慣性航法装置の算出した値と海図を照らし合わせ、現在位置を割り出すという方法である。目隠ししたまま右へ何歩、左に何歩の世界だ。
これだけでは当然誤差が出るので、時折アクティブソナーで海底の様子を確認する必要がある。
だがソナーを打つ=周囲に自らの存在を知らせる事なので、ほとんどは船外の音響変化から海底の状況を類推するに留める。
それが今回、慣性航法装置のエラーで海図上と実際の位置にズレが生じた。
更にキューバ領海内であるためアクティブソナーを打てず、周囲の状況を見誤った。
結果、海底の隆起に船底を接触させ浸水、浮上不可能となったのだ。
場所が場所だけに救援信号を打つ事もできない。
百十八人の乗員は協議の末、籤で二十人を選び、緊急ポッドで脱出させた‥‥ポッドは海軍基地に向かい、事故を知らせた。
‥‥だが軍上層部は事故を黙殺する事に決めた。
逆にキューバ側が事態を察し、敵国の最新兵器をサルベージしようとしている。しかし潜水空母は、サルベージが成功したら自爆するだろう。
アンソニーを含めた乗員九十八名は、今も海底で奇跡か死のいずれかを待っているのだ。
7
夜陰に紛れ、俺は三艘のゴムボートを海面に投げた。
先頭には俺とルージュが乗り、曳航する二艘にはバルーンを積み込んだ。
クルーザーは全ての証拠と共に海に沈めるしか無かった。
コンテナ一つでも足がつきかねない。俺たちとカーン大佐との接点を知られるわけにはいかない。
左舷に仕掛けた爆薬で、クルーザーは浸水し、傾き、沈んだ。
領海線まではモーターを使用した。
しかしそこからサルベージ船までは人力だ‥‥漕ぎ手は、暗黙の了解で俺になった。
約二時間、俺はひたすらオールを漕いだ。
しかしスウェットスーツてのは海に入ってないと暑いだけだな! このままでは脱水症状になりそうだ。
「星が綺麗だな」
俺の苦労を他所に、ルージュは相変わらずエレガントだった。
言いたい事は山ほどあった。
不平等な肉体労働の話ではなく、カーン大佐に全てを聞きながら黙っていた事についてだ。
‥‥でも星空を見上げるルージュはどこか嬉しそうだった。
だから俺は黙る事にした‥‥言いたい事が言えるヤツが羨ましい。
「ところでこのボート、ちっともエレガントじゃないな」
‥‥誰かコイツを殴ってくれ!
それでもなんとかサルベージ船が見えて来た。
俺たちは護衛艦から死角になるように船体に取りついた。
近くで見るとその船体は、建築中巨大ビルのようだった。
‥‥俺たちはそこで、初めて潜水空母の画像を見た。
水中カメラは水深八十mの海底に、黒い葉巻型の船影を捉えた。
「でかい! 排水量二万tはある!」
浸水状況とバラストタンクの状態にもよるが、最悪一万t前後の吊能力が必要かもしれない。
「リップでも不可能か?」
「‥‥多分」
いや、リップの推進力なら可能なのだ。
それこそ五百五十tの巨体を成層圏まで飛ばす力がある。
だが、引き揚げるとなると関節が持たない。海底でバラバラになるのがオチだ。
「ではカーンの作戦で行くしかないな」
そう言うとルージュは拳銃を俺に渡した。
どうするんだ、こんな物?
って、答えは一つしか無いよな。
‥‥目眩がしてきた。
でも、お前はそんな事お構いなしなんだよな?
いいよ、言えよ!
俺は深呼吸をしてルージュの言葉を待った。
予想通りルージュは宣言した。
「サルベージ船を制圧する」
‥‥無理です!!!
8
上甲板に上がると、俺とルージュは二手に別れた。
ルージュはブリッジ、俺は船室だ。
サルベージ船の乗組員はそれほど多くはない。作業の大半がコンピュータ制御のオートマチックだからだ。
船そのものは巨大だが、大抵は十人前後しか乗員を必要としない。しかもその大半はブリッジにいる。
先ず俺は、船体最下層の高圧室に向かった。
深海での作業は潜水症を起こしやすい。
そのためダイバーは、作業後も高圧室で過ごす。作業終了まで何週間もの間、ずっと海底と狭い高圧室を往復するのだ。
高圧室は二つあった。どうやら二交代制のようだ。
俺は人の気配のする部屋に、外からかんぬきを掛けた。これで半分制圧だ。
あとは海中へのハッチの前で待っていればいい。
そろそろルージュがブリッジを制圧した頃だ‥‥あまりひどい事になってなければいいが。
数分後、ブリッジの異常に気づいた潜水作業員が船に戻ってきた。
海から上がって来たのは三人‥‥俺は銃を構えて声を掛けた。
「Freeze! 撃ちたくないんだ、黙って高圧室に入ってくれ」
こちらも同じ要領で閉じ込めた。
これで船底は完全制圧だ。
上層に上がりながら船内の様子を見たが、他に作業員はいなかった。
‥‥その分ブリッジは悲惨だった。
八人が八人、何処かしら骨折して気を失っていた。
「数が多かったんだ。これでも必要最小限だぞ」
俺の嫌な顔に、ルージュは軽く逆ギレモードだ。
とにかく早く済ませて撤収しょう。そうすればこいつらも治療を受けられる。
クレーンの状態を確認すると、作業はまだ途中だったようだ。
前方二基のワイヤーは潜水空母に接続済みだったが、後方は一基のみ。
このまま引き揚げるとこちらが危ない。トリムの修正で多少バランスは取れるだろうが、それでも転覆は免れない。
「無理なのか?」
いつもは丸投げのルージュが珍しく心配そうだった。
無理だと言ったら止めるのか?
ってか、今まで散々無理って言ったよな?
「‥‥今更そんな事聞くなよ」
ここまで来て手ぶらでなんか帰れるか!‥‥そもそもクルーザーさえ無いんだ、帰る道が何処にある?
「心配するな。最後までつき合うよ」
‥‥ルージュの口元が微笑んだように見えた。
9
サルベージ船のトリムタンクは四方にある。俺はそのうち三方の海水を徐々に抜き、一方のタンクを満たした。
当然船は傾くが、それを潜水空母につながれたワイヤーを巻き取る事で修正する。
作戦の全容は以下の通り。
先ずリップが潜水空母にバルーンを取り付ける。
次にサルベージ船で深度三十mまで空母を引き揚げる。この時つながれていないワイヤーをリップに引かせてバランスを取る。
バルーンが展開したらワイヤーを切断し、潜水空母を領海内まで逃がす。
‥‥問題はやはり浸水状況だ。
クレーンの吊能力は二千tだった。つまり、浸水が六千t以下でなければ引き揚げる事はできない。
いや、そもそもバルーンが稼げる浮力は三千t程度だ。浸水がそれ以上だったら、ワイヤーを切ったとたんに再び沈降する。
そうなったら分解覚悟で、リップに空母を引き揚げさせるしかない。海面まで上がりさえすれば、乗員九十八名は助けられる。
あまり分のいい掛けではないな。
でもやる価値はある。
ルージュは既に甲板で待機している。口紅型通信機で連絡を取ると、
「準備はできたのか?」
イライラモードで返事をした。コイツは普通に話せないのか?
「ここからはスピード勝負だ。いいな?」
と念を押したら‥‥今度は返事は無かった。
クソッ!
代わりに、
『Wake up Lip! I'm here!』
‥‥西北西の空に光の帯が見えた。
閃光は遠くの海に消え、しばらくして海面に巨大な手が現れた。
リップだ。
ルージュは鋼鉄の手に飛び乗った。
『これよりバルーンを設置する』
リップはゆっくりと、潜水空母目指して潜行して行った。
空母に取り付くと、ルージュは接触通信で艦内に語りかけた。
『我々はクラスター軍の救援隊だ! これより作業に入る、全ての生存者は艦中央に退避せよ!』
‥‥十五秒待って、ルージュはリベットを打ち込み始めた。
レーザーで気化した海水とゴムが小さな泡を立て、バルーンは一基数秒で設置が完了した。
護衛艦に動きは無かった。まだ気付かれてはいないらしい。
サルベージ作業の音と混同しているのだろう。
リップは順調にバルーンを取り付けていった。
だが四つ目を打ち込んだところでルージュが叫んだ。
『何か来るぞ!』
俺は水中カメラの角度を変えて周囲を確認したが、それらしきものを目視できなかった。
しかし、確かに推進音は聞こえる!
しかもスクリュー音ではない。魚雷かと思ったが、それにしては大き過ぎる!
リップは作業を中断し、迎撃態勢に入った。
沈黙の後、ルージュが呟くように告げた。
『‥‥クリス‥‥GAだ‥‥』
そして、金属と金属のぶつかり合う音が海底に響いた。
水中カメラを引くと、二機のGAが切り結んでいるのが見えた。
GAがもう一機?!
赤いリップに対してもう一機は白、外観はリップとほぼ同じだが、両腕にクリムゾンリッパーを装備している。
いや、GAがもう一機あるのはそれ程不思議ではない。メンテ用の交換パーツを組み立てれば、すぐに造れる程度の話だ。
問題は制御回路だ。
いくらトーヤ女史でも、こんな短期間でもう一人ルージュを造れるとは思えない。
『こいつ‥‥強い!』
ルージュの声の後ろで、ピーンという音が聞こえた。
アクティブソナーだ!
護衛艦が移動を始めた。
「ルージュ、気付かれた!」
『それどころじゃないっ!』
護衛艦が対潜用短魚雷を海面に撃ち込んだ‥‥数拍おいて水柱が立った。
魚雷攻撃をかわしながら、二機のGAは大刀を振るい続けた。
白いGAの攻撃は早く、リップは目に見えて押されていた。
『‥‥チッ!』
白いGAはリップの懐に入ると、クリンチを仕掛けて接触通信を開いた。
『どう闘うか見せて貰うぞ!』
‥‥女の声のようだった。
白いGAはリップを投げ、一気に離脱した。
リップは後を追おうとしたが、それをキューバの魚雷が阻んだ。
「止めろルージュ! アンソニー救出の方が先だ!」
『‥‥分かった』
リップは深度を戻し、バルーン設置を再開した。
その様子を見守りながら、俺は白いGAの残した言葉を思い出していた。
‥‥リップを破壊したいのならできたはずだ。
‥‥戦闘をけしかけたとしか思えない。
‥‥何のために?
白いGAは潜水空母を救出ないしは破壊するためにやって来たのだろう。
だが、リップを見て作戦を変更した‥‥その落とし所が見えなかった。
キューバの攻撃は勢いを増し、リップは魚雷の推進器を破壊しながら作業を続けた。
『クリス、クレーンの準備をしろ!』
そして最後の一つが終わると、ルージュは接触通信で乗組員たちに語り掛けた。
『祖国に帰る最後のチャンスだ! 深度三十mで浮力が回復する。その後は自力で領海内まで脱出しろ!』
サルベージ船が一瞬傾いだ‥‥リップがワイヤーを取った合図だ。
「いいかルージュ、バーニアの出力を俺の指示通りに調整しろ!」
「了解!」
不満そうだったが、今度は返事が返って来た。
水中カメラを見ると、リップは深度三十mでワイヤーを胴体に巻きつけていた。
俺はウインチのレバーを操作しながら、クレーンに掛かる重量を読み上げた。
「推力、千!」
リップがバーニアに点火した。
高出力のバーニアを微調整するのは至難の技だろうが、ルージュにならできる。
千五百‥‥二千‥‥二千五百‥‥そして、二千七百tで潜水空母が揚がり始めた。
「ルージュ、出力固定!」
三つのウインチは徐々にワイヤーを巻き取り、潜水空母を海面へと運んだ。
‥‥だが予想外の事が起きた。
護衛艦がこちらに向かってガトリング砲を撃ち込んできたのだ!
ブリッジの窓は全て粉砕し、コンピュータも一部が吹き飛んだ。
「ルージュ、ウインチは生きてるか?!」
『動いてる! 何があった?!』
「攻撃を受けてる!」
こいつら、乗船して確認とかの手続きはナシか?! こっちにはお前らの仲間もいるんだぞ!
もう俺から確認はできない。ルージュの指示を待つだけだ。
その間もガトリング砲の掃射は続いた。
ほんの十数秒が長かった。
『ウインチを止めろ!』
俺は手探りでレバーを切った。
次の瞬間、サルベージ船が大きく揺れた。
リップがワイヤーを切断したのだ。
荷重を失ったサルベージ船は、トリムタンクの不均衡のせいで傾いた。
だからって今更調整はできないぞ、制御装置は蜂の巣だ!
まあ転覆する程でもなさそうだから、放っておいても差し支えなかろう。
お暇させて頂きます!!!
俺は二十mm砲の雨の中を、匍匐前進で出口に向かった。
‥‥突然掃射が止んだ。
顔を上げると、護衛艦は傾き、今まさに転覆するところだった。
船底側面に穴を開けられた時の沈み方だ。
そのすぐ横の海面に、切り裂くように水飛沫が上がっている。
リップだ!
二機の艦載ヘリが水飛沫に向かって攻撃を仕掛けた‥‥頼む、これ以上火に油を注がないでくれ!
『‥‥真珠のように無垢なる想い‥‥キャロル、お前の真珠は私が守る!』
海面から上半身を上げたリップは、背を丸め、顔の前で腕を交差させた。
『パール・スプラッシュ!』
リップの腕と背中から、計二十発の小型ミサイルが一斉に発射された。
ミサイルは吸い込まれるように、残った護衛艦と艦載ヘリを襲った。
護衛艦は全ての砲門を失い、二機のヘリはローターを撃ち抜かれて制御不能に陥った。
ルージュは数十発のミサイルを、同時に且つ精密に誘導できる‥‥だが、コントロールできるのは弾道までだ。
破壊されたヘリが何処に落ちるかまでは計算できない。
ヘリは回転しながら、サルベージ船のブリッジめがけて落ちてきた。
「‥‥嘘だろ?」
俺が窓から飛び降りるのと同時に、ヘリはブリッジを直撃し、爆発した。
「‥‥ぐっ!」
爆風と破片を背中に受け、俺はそのまま海に転落した。
完全に身体が動かなかった。
俺は抗う事もできず、ただ闇の中へ沈んでいった。
‥‥ヤッパリな。
でも、不思議と後悔は無かった。
やれるだけの事はやったと思った。
その時、水面に影が現れた。
影は人の形になり、俺に向かって泳いできた。
ルージュだった。
‥‥何やってんだ、お前まで沈んじまうぞ。
‥‥馬鹿だな、お前。
‥‥俺も馬鹿だ。
ルージュは俺の胸ぐらを掴むと、唇を重ね、俺の肺に空気を送り込んだ。
コイツの唇、こんなに柔らかかったんだ、と思った。
そして、何かが俺たちの身体を押し上げた。
「クリス! しっかりしろクリス!」
声に目を開けると、俺たちはリップの手の中にいた。
「クリス! 死ぬな! 頼む!」
ルージュは狼狽していた。
悪いが、その様子は少し可愛かった。
何か声を掛けてやりたかったが‥‥残念ながら声が出なかった。
口だけをパクパクしていたら、
「‥‥すまん、もういい」
ルージュの指が俺の口をふさいだ。
‥‥この時ルージュは、本気で俺の心配をしてくれてたんだと思う。だから、普段ではあり得ない致命的なミスをした。
キューバの艦載ヘリが、爆音と共にルージュの背後に現れた! 支援船にもヘリがあったのか?!
「!」
ルージュは俺を庇うように抱きしめた。
馬鹿! お前だけでも逃げろ!
‥‥だがヘリは、攻撃する間もなく撃墜された。
上空を見ると、友軍のジェット戦闘機が通過して行った。
それは潜水空母の艦載機だった。
10
その後、俺は潜水空母で傷の手当を受ける事ができた。
治療の間空母の乗員は、誰も何も喋ろうとはしなかった。
何かを聞けば、それを報告する義務が生まれる。
俺たちについて何も報告しないために、何も聞かなかった‥‥多分そんなところだろう。
ただ、俺たちを助けた戦闘機のパイロットがアンソニーという事だけは分かった。耐Gスーツを着たアンソニーが見舞ってくれたのだ。
俺たちは無言で握手を交わした‥‥それだけだった。
屋敷への帰路も、やはり陸路となった。
リップで帰るのは俺の身体的に無理だった。成層圏まで上がる前に死にそうだ。
俺たちはリムジンで、何日も掛けて大陸を横断した。今度は法定速度でだ。
二日目の晩、ホテルのテレビがアンソニーたちの帰還を伝えていた。
当然だが潜水空母の件は触れられていなかった。
モニターの中、涙ながらに抱き合うキャロルとアンソニーを見て、色々な事が報われた気がした‥‥だがこれから、軍の厳しい尋問が二人を待っているのだ。
ふとキャロルの口から俺たちの事が漏れはしないか不安になった。キャロルはあまりにも普通の女性だったからだ。
「大丈夫、彼女は何も喋らない」
俺の懸念を、ルージュは阿呆か?という目で一蹴した。
「何故分かる?」
「分かるさ‥‥女同士だからな」
ルージュは口元だけで微笑んだ。
屋敷へ帰ってから、俺は思いつく限りの方法でハッキングを試みた。だが、結局白いGAについては謎のままだった。
不安材料は残ったが、それでもいつもと変わらない日常が戻って来た。
‥‥日常。
いつの間にか、俺はルージュの執事生活を日常と感じるようになっていた。
いや、一つだけ変わった事がある‥‥ルージュが自分で紅茶を入れるようになったのだ。
最近では自分なりに茶葉を選んで試しているようだ。
‥‥だがなルージュ‥‥砂糖を十杯も入れたらどの茶葉でも同じだと思ぞ。