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第六回 父の部屋

  一 見つけた物


 父の部屋を見せるという約束を交わしてから数日後の金曜日、貴一が毅と恭平を連れて神長家へとやって来た。

 もちろん、徒歩ではない。いま巷で噂に名高い、木炭で走る自動車――四角い車体に、背中には重々しいタンクを背負っている――を初老の執事に運転させて、狭い通りのど真ん中を堂々と乗り上げて参上してきたのだ。

 太一郎が彼らの訪問に気づいたのは、門前に停車した車がけたたましいクラクションを鳴らしたためである。自動車のラッパの音が、こんなに神経を苛立たせるものとは知らなかった。何時ぞやの貴一が出した声に似ている気がした。

 太一郎には、耳触りで不快にしか感じてならなかった。

 外の通りでは、酒屋月影から顔を出した主人は唖然とし、箒を持ったまま春乃も父親に倣って口をポカンと開けている。

 他の家からも、主婦や小さな子供がまばらに顔を出す。普段見慣れないものが眼前に現れた時の反応ほど、一寸違わない物はない。

 ――そうか。要は、自慢か。

 彼らの豪勢な立ち振る舞いは、何も自然体ばかりじゃない。

「そんなん鳴らさんでも分かるって!」

 後部座席に窓の前まで走ってそう言うと、やっと貴一達がぞろぞろと出てきた。優等生はともかく、なぜ毅達も同乗しているのかは詮索しなかった。するつもりもなかった。

「約束通り、部屋を見に来たよ」

 暇だから、ついでに来たと言わんばかりである。

 お前は、童話に出てくる異国の王様のつもりか? 自分の足でろくに歩かないから、今みたいに太るんだ。太一郎は内心毒づいた。

 正直、今頃になって、友人達――正確には半田貴一を亡父の部屋に入れるのに気が引けてきた。他の者ならともかく、こいつだけは足を踏み入れてほしくないと思った。だからと言って、今さら無下にはできない。

 第一、承諾したのは自分ではないか? 見栄を張った上に、約束を土壇場で反故にするのは、さすがに太一郎にはできなかった。

 それに、彼自身も部屋の中をじっくり調べた事がない。もしかしたら、父の功績を称える代物が出てくれば、貴一達を見返せるだろう。

 ちょうど、母達が出かけているのは幸いだった。

「すまないね。いろいろ寄る所があったんだ」

「ええよ、別に。早いとこ入りや」

 そして、早いとこ出て行かせよう。太一郎はそう思った。

 貴一に追随する幼馴染達は、まるでそこに太一郎がいないのかのように、平然と彼を通り過ぎて家の中に入っていく。

 どうやら、自分達も金持ちの仲間になったつもりなのか。金持ちなら他人の家の中に、勝手に、しかも我が物顔で入られると思っているのか。

 太一郎は、黒い表面が剥がれかけた自分の靴を脱いで、貴一の黒い光沢を放つ靴を踏み台にしながら、上がりかまちに足を着いた。

 前を歩く毅の首根っこを掴んで外に放り出してやりたい衝動を抑え、太一郎は無言のまま三人の後に続く。

 冷静になれ、太一郎。別に自分だけが除け者にされていたのを僻んでいるわけじゃない。そうじゃない。最初に話しかけられて約束を交わしたあの日から、あまり関わりたくなかったのだ。

 そうやって、自分を説得させるために、あの場所を思い浮かべる。そして開け放たれた玄関から見える、向かいの酒屋で突っ立っている少女に一瞥し、数日前の出来事を思い出した。

 砲台を乗っ取ろうとした餓鬼大将に、一矢報いた、あの瞬間に感じた胸の高鳴り。今にしたら、よくあんな勇気(蛮勇かもしれないが)があったものだ。太一郎は、今の自分に、心底で燻る緊張を容易く打ち消せると信じて疑わなかった。 

 悪名高い餓鬼大将に、果敢にも立ち向かった自分は、以前は決して強くもなければ勇敢でもなかった。ただ、亡き父の背中に頼って愛国少年の地位に収まっていただけの案山子だった。

 それも、あの日で終わった。自分にしかない、本当の勇気を持っていた。束の間続いた父の威厳の失墜も今日にて終わるのだ。

 少国民の中の優等生たる愛国少年、昔日の神長太一郎は復活する。高まりを増す興奮に、少年の中の確信は鉄壁の要塞のごとく強まっていった。

 知恵遅れと皆から蔑まれている春乃は、不安げな顔でこちらを見つめている。彼女に向かって、ゆっくりと頷くと家の奥へ悠然と進んだ。

「君のお父さんの部屋はここかい?」

 貴一の声で、彼の思惟は中断された。いつの間にか、奥間まで来ていたのだ。そこに入る前にある右の襖を開けると、そこが父の部屋である。

 おもむろに土気色の障子を引くと、そこは昨日と同じ小さな机に二つの書棚だけが置かれた、至って質素な部屋だった。数日おきに妙子が掃除をしているので、あまり埃や汚れは目立たなく整然としている。

 太一郎はこの部屋に入ると、いつも、えも言われぬ感傷に襲われる。当時のまま小綺麗にしているせいだろう。逆に、長年使わない物置部屋みたいに埃で汚れ、蜘蛛の巣で一杯に覆われていた方がよかったかもしれない。

 非現実な期待を抱いた所で、現実は変わらないのだ。

 それでも、亡父の部屋を訪れる度に味わう妙な新鮮さを、太一郎はひしひしと感じずにはいられなかった。

 太一郎はまず目の前の机――そこには父がいつも座っていた座布団がポツンと置かれている――の引き出しをゆっくりと引いて中身を検めた。拍子抜けはしたが安心した。中身は空っぽだった。母がとうの昔に片付けたのだろうか。

 書棚もまた同じだった。中に収まっているのは、古い文芸雑誌や円本の小説、哲学書の類ぐらいで、特に珍しいものはない。書棚の上にも天井ぎりぎりで厚そうな本(図鑑、歴史)が重なっている。

 太一郎達はしばらく部屋の中を観察して廻った。と言っても、そんなに広い部屋ではないし、置いてある物も限られている。押し入れは空だった。紐で括られた古い朝日新聞の束が部屋の隅に置かれていたが、真珠湾の奇襲があった一二月八日の日付から、父の倒れた日の朝刊までの内容だけで特色はなかった。

 さらに、机の横に、これまた古めかしい蓄音器――上に乗せる笠はない――が置かれているが、肝心のレコードはどこにもない。これも母が捨ててしまったのかもしれない。

 結局、父の仕事に関する品々は一向に見つからなかった。

「もういいだや、皆」

 太一郎の言葉を聞いて、二人が溜め息を吐いて部屋から出る。

「もう少し待ってくれよ」と止める貴一は書棚を眺めながら、「あの上の本はなんだろう?」と指を向ける。

「どうせ、同じ歴史書か何かやないか」

 太一郎は棚に足を掛ける。父が生きていたら、大目玉をくらっていたかもしれない。上に寝そべる重そうな本を一冊取り出そうと力を入れた。

 本を持った太一郎は拍子抜けした。

 大きな図鑑は、思っていたよりも軽かった。どうやら、中身の本が書言っていないみたいだ。埃の被っていないカバーを少し傾けると、中に何かが入っているのか、カタカタと転がる音がする。

 棚から降りて、太一郎がカバーを逆さにすると、数枚のレコード円盤が転がり出てきた。その円盤には、日本語ではない言葉が書かれている。

「何これ?」

「知らん」

「僕、これ知ってるよ。赤盤だよ、コレ」

 赤盤とは、ロシアという外国で売られていたレコードである。今から10年前の発禁処分になった代物である。その理由は、ロシアが共産主義国であったからだ。つまり、彼らの目の前にある赤盤とは、鬼畜米英と並ぶ仮想敵国、共産党の国ロシアから輸出された敵性音楽なのだ、と貴一は淀みなく説明して、毅らは阿呆のように口をポカンと開けて聞き入り、そして太一郎は――。

「き、きっと、お父ちゃんが昔押収したレコードを置いて――」

「それはおかしいんじゃないかな?」

「半田君、それはなんでや?」

 いつの間にか、毅は部屋の中に戻っていた。

「だって、そうじゃないか。特高の検閲で押収した赤盤やアカ原稿はどこか倉庫に入れられるか、焼かれて捨てられてるはずだよ。どうして、一職員の神長君のお父さんの部屋にあるのさ?」

「そんなん、知るわけあらへん……」

 今日もまた、雨が降る兆しが見えず、初夏の日差しが米印の窓から降り注ぐ。じりじりと気温が上がり、太一郎の額にもうっすらと汗が流れ始める。

 にもかかわらず、体が少しずつ冷たくなりつつあるのを太一郎は感じた。自分の心臓が外に抉りだされた様を、なぜか想像した。

「しかも、誰にも見つからないように隠してるなんて、余計おかしいよ」

 まるで貴一は江戸川乱歩の少年探偵団に出てくる小林少年にでもなったかのような振る舞いだが、挿絵に出てくるそれとネチネチした物言いをする顔とは、まったく似て非なるものだった。

 どちらと言えば、人間の子供に化けた天の邪鬼だ。仲良くなった男の子を騙してどこかへ連れて行き、少年の顔の皮をはぎ取り、本人にすり替わる。

 妄想の嵐が、太一郎の脳裏を掻き乱す。顔を取られた少年はどうなる?

「つまり、その、どう言う事なんや?」

 恭平が恐る恐る聞く。貴一は太一郎の方を一瞥し、眼鏡のずれを直すと、言葉を選ぶように言いきった。

「神長君のお父さんが、蒐集を、していたんじゃないかな? 仕事で流れて来た物を、こっそりとさ、持って帰って……」

 誰もが黙り込み、部屋の中を重苦しい空気が覆う。沈黙は永遠に停止したままではなく、いつかは終わるが来る。その形が最悪であっても同様である。

 太一郎が心中に浮かべた、“ある言葉”を形作る前に、誰かが声高に代弁した事で静寂は終焉した。

少し後になってから、その時に強いつむじ風が父の部屋の窓を叩いたのを、太一郎は不思議にも覚えていた。

「こいつの親父は、アカやったんだ!」カタカタと窓の揺れる音を打ち消すように、彼を指差して、誰かが言った。「こいつもアカや!」更に、別の誰かが言った。

 二人が逃げるように家から出て行った後でさえ、太一郎のそのまま立ち尽くしていた。書物の詰まった棚を、針に糸を通しているかのように凝視していた。

「事実は小説よりも奇なり」

 芝居がかったように肩を竦め、貴一はそう呟いた。太一郎が彼の方を向くと、逃げるように無表情に変わり、真横を通り過ぎて行った。

 自分以外いなくなった亡父の部屋の片隅で、少年は力なく足を崩した。

 ただ、虚ろ目は、畳に散乱する赤盤に向いていた。


  二 密告


 夕方、母の妙子が仕事から帰って来るまで、太一郎は父の部屋で立ち尽くしていた。肩を叩かれるまで、ずっとそうしていたという自覚もなかった。

 まず太一郎は、貴一達が去ってからそのままの畳を見渡した。他の本のカバーからも見つかった赤盤が何枚も包み紙からはみ出し、畳を覆うように散らばっている。

 曲目や作者はカタカナとは違う、異国の角ばった文字で記されている。また、原稿の束――題名は難しい漢字ばかりで書き殴られて判読できないが、文中には『労働者』や『権利』、『ストライキ』などの言葉が目立つ――も端を留め金で固定されたまま、レコード盤に混じって保存されていた。

 それらに共通しているのは、ただ一つだけある。いずれも、一番上に赤字で『不許可』と大きく判が押されている。

 すなわち、公衆の目に触れるのを許されない事の証左である。悔しいが貴一の言う通り、こんな場所にあるはずのない、あってはいけないはず。本来ならば、焚書にされていなければならない。

 どうして、父がこんなものを自室の棚に隠していたのか、太一郎にはまったく理解の範疇を逸脱していた。

 父は、特高の検閲課に勤めていながら、その特権を利用して押収していた敵性音楽の円盤や、発禁処分された作家の初稿をくすねていたのだ。

 確かに、父が検閲課という地味な役職についている事を恥ずかしいと思った時期も、彼にはあった。しかし、死んだ父親を悪く言うわけにはいかなかった。それに、所属が違っても、立派に国に尽くしていたのには変わりはない。だからこそ、今日はアカを何人捕まえたなどと毅達に嘘をついてきたのも事実である。

 しかし、真面目な父の背中を思い出すうちに、年月と比例して罪悪感を抱くようになり、太一郎は彼を内心では誇りに思うようにまでなっていた。

 嫌、違う。そうではない。太一郎には、現在横たわる重要な問題に思い至った。父の隠された“遺産”が白日の下に曝され、その結果、自分たち家族にどういう影響を与えるのかである。

 それは決して、幸先の良い道ではないだろう事は火を見るより明らかだった。そして、厄介な“遺産”はもう外へ出てしまった。遅かれ早かれ、皆が知るところとなるだろう。

 少年が呆然としていると、母が帰って来た。

「ただいま。太ちゃん、帰ってるん?」と告げても返事がないのを怪訝に思った妙子は、夫の部屋に立つ太一郎を見つけた。

 しかし、「太ちゃん……」と近づいた時、その足元に散乱する盤と原稿用紙の束が目に入り、心臓を抜き取られたかのように体が硬直してあまりの驚愕で声を上げかけた。

「太ちゃん」ハッとした彼女は、息子の肩に手を乗せる。

 太一郎はゆっくり振り返える。妙子には、その顔が腐った死人のように黒く染まっているように見えた。夕日から逆光しているせいである。しかし、その目には強い問い掛けを宿していた。彼女は、逃げるように畳に目を移した。

「お母さん、これは何なの?」

「太一郎、落ち着いて」

 妙子は床に落ちたレコードを拾いながら、落ち着いた声で息子に問うた。「お父さんの部屋で見つけたん?」

 太一郎は何も言わない。母になんて説明をするべきか考えあぐねていた。その微かな反応を彼は見逃さなかった。

 お母さんは、まさかこの事を知っていたの?

 玄関の方から「御免!」と訪問を告げる男の声が響いた。決して音程は高くもないのに、明瞭で且つ無機質な声に、太一郎は静電気が流れたようにビクッと体を震わせた。まるで、細い首根っこを剛力な握力で掴まれ引っ張られた感じがした。

 二人が玄関に行くと、三人の男達が待っていた。学生服と見間違うような黒服を着て、腰には警棒とサーベルを下げている二人組の警官と、その間には中年の小男が挟まれるような形で立っていた。

 小男は母子を見るなり、帽子を取って頭を掻きながら「夕方時にすんませんな。神長さんですな?」

「はい」妙子を静かに答え、「何か?」

「実はですな、先ほど、こちらで変な通報を受けましてな。お宅さんの家が、“都合の悪いもん”を隠しとるというんですわ」

 十中八九、通報者は貴一だろう。

「ホンマですか?」

「主人の書斎にあります」妙子は部屋の位置を教えると、玄関に下りて両手を差し出した。「事情は署でお話しします」

「話が早くて、助かりますわ」

 若い方の警官が手錠を取り出そうとした。それを小男が片手で制した。「そんなんはな、往生際の悪いもんに填めんかい」

 呆然と立っているしかない太一郎に、妙子は振り返って諭した。いつもの優しい顔に戻っていたので、彼は少し安堵した。

「太ちゃん、お母さんはちょっとだけ出かてますから、今日はお姉ちゃんと夕食を済ませるんよ」

「お母さん、逮捕されちゃうの?」

 彼女は首を横に振り微笑んだ。「お話を聞くだけ。大丈夫。お姉ちゃんの言う事をちゃんと聞いや」

「ボン、お母さんの言う通り話を聞くだけやから、安心しいや」

 小男が顔を伸ばすが、反射的に太一郎は後ろに下がった。「太一郎」と咎めるも、さすがに彼の警戒心は強い。小男は小さく笑った。

 良い子だからね。そう告げて、妙子は小男の憲兵に連れられて行った。

 その後少一時間ほど、残った警官の二人が父の部屋だけでなく座敷や奥間、果ては太一郎達の部屋まで家捜しをし、見つかった赤盤や原稿について、少年に向かってあれこれとしつこく詰問してきた。

 遠慮のない、押し潰してくるような不躾な尋問に、太一郎は自分でも恐ろしいぐらいに冷静に答えた。教室で演じたまま、ハキハキとゆっくりと。

 父の裏切りを知り、母の黙認も知り、その母も連れ去れられたというのに。

 浮かんでは消えていく濁流が、太一郎を呑み込んでいた。願うなら、そのまま埋もれて沈んでしまいたかった。藻屑となって消えてしまいたいと、彼は強く思った。だが、いくら考えた所で、どこかへ消えたりはしなかった。

 お父さんはどうしてこんな隠し事をしていたの? どうして今になって? お母さんが連れて行かれないといけないのになったの? なぜ、僕は何もせずに突っ立っている? これから、どうなるの?

 ふと、裏山の砲台の筒先を観たいがために、窓に寄ったが、結局はできなかった。

 日暮れ時で赤く染まっていた空は、いつの間にか夕闇が落ちて、黒い山だけしか視界に捉えるしかできない。灯し頃であるはずなのに民家からは照明が全く漏れず、家の中は完全な闇に包まれていた。

 以前は、夜間の刻を報せる入相の鐘が数回鳴っていたが、今は遠い昔、近年の貴金属類の供出は、寺院の鐘にまで対象にしていたため、外からは何も聞こえてこなかった。ただ、他の家から響くラジオ放送の曲がかすかに耳へ流れてくる。

 そろそろ、ラジオをつける時間だ。太一郎は、いつもの癖で立ち上がりかけた。膝が笑うように痺れ、そのまま部屋の真ん中でうつぶせに倒れたきり、動かなかった。

 今日の戦況はどうか、曲目はどれか、また“転進”だろうかと、ぼんやりと考えていた。いくら繰り返しても、大きく脳裏にこだまするのは、やはり誰かの一言だった。

 こいつの親父はアカや! こいつも、きっとそうや!

 

  三 巴の心配


 六時を過ぎた頃、神長巴が家の通りが見える地点まで歩いていると、門前から黒服の男が二人出てくるのを目撃した。なぜか、咄嗟に電柱の陰に隠れた。

 お客にしては、どこか陰険な雰囲気に一瞬泥棒かと思ったからだろう。昼間ならともかく、今は墨を塗ったような闇夜である。おまけに、彼女のいる場所には電灯がないため、その二人組が警官だとは知る由がなかった。

 彼らをやり過ごした後、玄関の戸が開け放された我が家へと急いだ。本当に泥棒だったら、一大事だ。我が家には金目の物はないが、大人の男もいないので心細いことこの上ない。空威張りの弟では頼りにはできない。

 開けっぱなしの玄関に立ち、妙子や太一郎を呼んでも誰も出てこない。まさかとは思うが、巴の頭の中では、部屋中を荒らされ、奥間の太い柱に括りつけられた(おまけに猿ぐつわをされた)母と弟という光景が出来上がっていた。

 ますます彼らの顔ぐらいは見ておくべきだったと後悔し始めた矢先、奥間から漏れる光を見るなり、彼女は血相を変えて部屋に入った。

 灯火管制の決まりで、電気の明りが外部に漏らしてはいけない事になっている。奥間の窓には、確かカーテンはなかったはずだ。

 友人から聞いたが、灯火管制を怠った者は懲役一年になるとかならないとか。巴はさっきの用心を忘れ、慌てて奥間の襖を引いた。

 奥間には、太一郎が一人だけ立っていた。柱に緊縛されてはいなかった。ただ、彼女の予想通り、部屋の中は滅茶苦茶に荒らされていた。

 ――まさか、ホントに泥棒が……?

「どうしたん、太ちゃん?」床に散らばった品々を探り足で避けながら、呆然としている弟に恐る恐る近づくなり、「一体どうしたの? お母さんどこ?」

 ――まさか、誘拐されたとか?

 とりあえず、照明をナツメ球だけ点けると、弟と顔の高さを合わせて落ち着いた口調で話しかけようとしたが、一向に反応はなかった。スイッチの切れた機械と同じように一向に微動だにしない。

 泥棒どころではない、何か一大事が起きたんだと、巴は顔色を変えた。

「太ちゃんは何があったん? 話して」

 再度、彼の肩を掴んで問い質した。死んだ魚のような目に生気が幾ばくか戻った。それと同時に瞳から涙があふれた。

「お母さん、連れて行かれちゃった」

「誰に?」

「特高の人達に……」 

 それだけで姉は承知したらしい。弟の目線の高さに屈み優しい声で――もしくは優しそうに装う感じで――問いかけた。

「太ちゃん。何があったか、話してちょうだい」

 太一郎は最初、すべてを話そうとして躊躇った。級友らを見返すためとは言え、そもそも自分のせいで、父が隠していた押収品が露見してしまい、母親が特高に連行されたとは、どうしても言えない。少年には、事実を知られてしまうのが怖かった。

 けれど、話の要領を得ない彼女は諦めず聞いてきた。

 いつもと同じ姉の言葉であって、いつもにはない感情が見え隠れしているようだった。これが、何か悪さをして咎められる日常なら、彼は煙に巻いてふざけ合っているうちに有耶無耶になっていただろう。

 弟を動揺させまいと神経を使う姉の言葉が、彼を追いつめていた。重い雰囲気を背負う今の姉があまりにも不相応だったからだ。

 その原因が意気地のない自分だと分かっていた。以前から迷惑をかけないように頑張って来た結果が仇になってしまった。

「僕が……お父さんの部屋を皆に見せたからや。僕が余計な事せんかったら……」

 姉は首を振る。「太ちゃんは悪くない。いつかは分かってもらえるよ」

「でも……」

 彼が涙と鼻水を流す顔を上げると、巴はクスリと笑い、ハンカチを取り出した。

「心配しなくても、お母さんは帰って来るよ。だって、お父さんは働いてた職場なんだよ。きっと無事だよ」

 本当にそうだろうか。姉に鼻水を拭かれながら、情けない思いを押しのける不安が、膨らんで破裂する寸前だった。果たして自分達は何もなかった、何も知りませんでしたと証言しても通るのだろうか? 以前のままで済むのだろうか?

 彼が想像するのは、自分や姉も同じように怖い顔をした大人に尋問されている光景だった。今まで自分が味方だと思っていたものがこんなに怖いとは思いもしない。

「お姉ちゃん?」

「なに?」

「お姉ちゃんは、お父さんが――」と太一郎は思わず言い淀んでしまった。それに対して、「どうしたの?」と巴は言ったが、「ううん、なんもない。ごめんなさい」

 もしかして、お姉ちゃんもお父さんがこんなものを隠していたのを知っていたの? それだけは聞いてはいけない気がした。

 二人だけで静かな夕食を済ませ、床に就いた姉の隣で、太一郎はずっと起きて、母親の帰りを待っていた。全然眠れないから、寝ずの番をしているしかない。巴も同じだった。普段は勝気に満ちている両目はしばらく閉じるのを許さなかった。

 日付が変わっても母は帰ってこなかった。


  四 沈黙の通学


 翌朝、門前に立つ太一郎は、昨晩の夢を思い出していた。

 壊れた家具やガラクタの山、その中を背中に羽でも生えているのかのように、身を軽く、瓦礫の大地と雲一つない青い宙を、疾走と滑空を交互に繰り返していた。

 連行された母、父の遺品の問題――あの憎らしい貴一も――など綺麗さっぱり忘れ、解放されたかのような天真爛漫の笑みを溢している。両手は、零戦の日の丸が描かれた両翼のように大きく広げていた。

 その時、太一郎は誰かの真横を通り過ぎた。顔は見えなかったが、薄い白髪の後頭部と手に握る杖で、相手が老人だと分かった。見慣れない変な服を着ている。マタギのそれに似ているが、どうやら少し違うようだ。

 老人は、自分が来た道――打って変わって、黒い幕が下りたような先へと歩いている。行っちゃ、駄目だ。何となくそう思い、老人を呼び止めようとしたが、思うように言葉は出てこない。そうするうちに、老人は暗い道へと消えて行った。

『結局、逃げられなかったな』誰かの声がした。あの老人かもしれない。

 仕方なく振り返った太一郎は、いつの間にか、いつもの砲台の広場に来ていた。春乃や清照、豊道もいない。彼一人が、そこにいた。

 太一郎は、ポツンと設置された大きな砲台に近づいた。相変わらず、鉛色の半球から突き出て伸びる筒が、夕焼けに染まった空を仰いでいる。

 足元に画用紙が一枚落ちていた。何かが描かれている。砲台と自分の絵だった。ハルの忘れ物だろうかと思い、それを拾った矢先――。

 太一郎は夢から醒めた。頭を軽く小突かれたせいだった。

 母の代わりに割烹着を着た巴が「寝ぼすけ」と見下す。青年と見紛う短髪と、勝気そうな二重に、母の妙子に似た小さな血色の良い唇。

 いつもの姉だった。でも母はいないから、いつもの朝とは言えなかった。

「お母ちゃん、帰ってこなかったんか?」

 太一郎は姉が寝ていた隣に敷いておいた空の布団を見つめた。同時に、昨日の事が夢ではなかった事実の方を再び思い知った。

「大丈夫やて。さっ、朝飯出来てるから、早よ食べ」

 巴はそれだけ言うと、太一郎は急いで支度を始めた。

 ――そして今、太一郎は、下級生を統率していつものように自ら先導して登校しようとしていたが、集合場所に着くなり変容を目の当たりにした。

 貴一が来て以来、毅や恭平が彼と共に登校するようになり、残された後輩達を引率するのが太一郎の役目だった。

 その彼らの姿さえ、消防の水槽が置かれた集合場所には一人もいない。

 小さな通り故、隣組の結束は固い。噂が広がるのは滅法早いだろう。こと醜聞ならば尚更だ。悪い噂なのか? いつも彼らに話していた通りなら、そうだろう。

「大丈夫、太ちゃん?」

 片づけを終えて遅れて家から出てきた姉が心配そうに呼びかける。

「平気。じゃあ、行ってきます」

 これ以上、余計な気を掛けたくと振り返らずに学校へ向かった。大方、皆も当に行ってしまったのだろう。

 そう、気のせいだ。太一郎は自らに言い聞かせて、いつも以上に人通りの少ない通学路を歩いた。

本当に、すべては気のせいなのだろうか?

 太一郎少年が通りかかると、『品切レ』の看板を掲げる八百屋の主人は、隣の古書店の店主との世間話を中断し、彼が通り過ぎるまで目を伏せていた。

 豆腐屋――出征軍人の札が誇らしげに掛けて日も浅い――のおばさんが自分を視界に入れると、緩慢な動きで逃げるように店の奥へ引っ込んだ。

 水を撒く主婦の前を通るたびに突き刺さるような目線を浴びる。聞こえそうで聞こえない囁きが交わされているのも、太一郎は勘違いと信じたかった。

 在郷軍人会の齋藤老人――この辺の子供たちからは雷親父で通い、日露戦争の戦歴を持つ――が、彼に向かって何やらをブツブツぼやいているのも、決して自分に対してではなく、日本の今の戦況を指しているのだと、家と学校の通学路の境目である竹筋のポストを通り過ぎながら、太一郎は強く思った。

 一人で学校の校門に着き、奉安殿に礼拝しようと挙げていた両手を下ろして、彼は愕然とした。家を出てから、ずっと自分が両耳を塞いでいた事に初めて気づいたのだ。


  五 黒い教室


 神長太一郎は、自分の教室の前に立っていた。曇りガラスで中は見えない。

 昨日にかけて朝に起きた一連の出来事が、すべて夢でも幻でもないと知っていた。この先に待つのは、今までの日常ではないと分かっているからこそ、その足は硬直してその一歩を阻んでいた。

 このまま突っ立っているのは、あまりにも馬鹿げている。遅かれ早かれ、集会の時間で皆が出てくれば、目と鼻の先で鉢合わせる事になる。

 あまりにもばつが悪い。何も起きていないかもしれないじゃないか。

 もうどこにも後進できるところなんてない。後ろに下がるには進み過ぎた。ここは外地ではないのだ。決して、“転進”なんて術などない。どこへも逃げられない。

 意を決すると、彼は扉を引いた。顔を伏せ、無言で教室に足を踏み入れる。

 級友達の話し声がピタリと止んだ。先生が入って来た時と明らかに違う。突然訪れた沈黙に混じって、誰かの囁き声、クスクス笑いが耳朶を打った。

 何も起きないはずなどない。もしも彼らの立場で、他の誰かの親がアカと分かれば、自分も同じようにしたはずだ。

 もしかすると、自らが先導を切っていたかもしれない。

 太一郎は重い足を無理やり動かす。前方、側面、背後に、容赦ない視線を浴びながら、近いようで遠い自分の席に向かう。まるで、全身を裁縫の針で刺されたように鋭く痛む。丸裸で歩いているみたいだった。

 そうだ、これは思いすごしに過ぎない、かもしれないのだ。すべては単なる勘違いで――と、太一郎の足が止まった。

 いつも座る位置には、すでに誰かが腰を下ろしていたのだ。一番座ってほしくない相手だった。狭苦しく、少しせり出た腹が窮屈そうだが、その顔は満面の笑顔が太一郎を睥睨する。一番事情を知る人物。噂が広がるなら、毅よりもずっと早いはず。当然、咳を間違えているわけではないだろう。

 ガマ蛙めが。貴一がそう見えるのは、普段から感じる空腹とは違っていた。

「そこはボクの席や。退いてくれへんか?」

 相手は何も言わない。反吐が出そうな笑顔を向けてくるだけである。その時漏らしてしまった――以前なら絶対に堪えていたはずだ――舌打ちがはっきりと自分でも聞こえるぐらいだった。

 勝ち誇っていた貴一の顔が歪む。太一郎は先刻感じた後悔を修正した。それさえ拝めたのなら、御の字だ。

「非国民や」

 背後で誰かが言った。嫌、自分はそいつを知っている。

 親が米屋をしている慶永貫太だ。でっぷり太った体格――貴一が相撲の小結なら、彼のそれは横綱に匹敵する――をした貫太の野高い声は、特徴的だから間違えようがない。

「太ちゃんは、スパイの倅や」

 これは、三組の西田先生の子供である西田耕介の声だ。親に似て牛乳瓶の底みたいな眼鏡をして、いかにも優等生のように装っているが、成績はあまり良くない。

「神長の裏切り者」

 荒岩毅が言った。こいつはいつもそうだ。媚を売るのが早ければ、やはり掌を返すのも人一倍早い。獣とも鳥とも呼べない、コウモリだ。

「アカは縛り首だな」

 背後で、貴一がはっきりとそう言った。だが、太一郎は振り返ろうとはしなかった。

 どんな事を言われようが、これ以上、半田貴一とだけは顔を合わせるなど、太一郎には到底耐えられなかった。

「アカは死刑だ!」全員が合唱した。

 第一声の直後に鐘が鳴り響いたのは、太一郎には束の間の救いであった。集会の予鈴に従い、皆がぞろぞろと席を立つ。誰もが、彼の脇を通る際、「お前とは絶交や」、「逆賊め」、「アカの子はアカ」など、思い思いの罵詈雑言を放った。

 太一郎は耳を塞いだ。それでも、人の声は微かに聞こえてくる。だから、彼自身もただ一語のみを繰り返した。

「違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う――」

 その間、なぜか太一郎は平家物語の一節を思い出した。祇園精舎の鐘の声。盛者必衰の響きあり……。

ふと目を開けると、教室の中は太一郎しかいなかった。予鈴はまだ止んでいないので、たった数十秒の間である。

「太ちゃん……」誰かの声がした。

 黒板側の戸に、教室が隣である一宮隆が立っていた。彼とは少し家が離れていたが、時々一緒に遊んでいる。太一郎よりも小柄で、丸っこい顔に、気の弱い性格が似ているのでやけに気が合った。

 当然、太一郎の件を隆がまったく知らないはずがない。

「早く行かんと、怒られるよ」

 隆は消え入るように言った。それを聞いて、力なく歩き始めた太一郎の耳には、いつまでも鐘に混じる罵声が反響しているような気がしてならなかった。

『非国民のアカ!』

 こんな事が、今日から毎日続く。嫌、昨日から……か。

 少年の足取りは、教室に入る時よりも一層重かった。


 世の中は流れてゆく。

 誰にも止める術はない。遅れや滞りを知らず、加速も一切なく、ただ淡々と過ぎてゆく、不可逆の大河。

 誰にも止める術はない。止める必要など微塵もない。ただ、次の始まりの前に控える終わりに向かうだけである。

 終わりは、もう始まっている。



                《次回へつづく》

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