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第三回 それで、彼らは出会った

  

  一 知恵遅れの春乃


 太一郎(たいちろう)の家の背後には、小さな裏山がある。

 そこは街を囲うように連なる山々よりも少し大きく、どちらかと言えば、高台と呼ぶ方がふさわしい。しかし、六甲と比べれば米粒に等しいだろう。

 それでも、一人になれる場所でもある。

 放課後や夏休みの時間のほとんどを、毅達と空き地での戦争ゴッコや家の手伝いで潰していた太一郎は、時たま彼らに何か用事にできて遊べなくなったりすると、この小山に向かう事にしていた。平日でも、少しでも暇ができると雲隠れする。

 そして、最近では、すっかり彼らが貴一とつるむようになったため、この見晴らしの良い山の中腹に腰を降ろす時が以前より多くなった。

 そこからの眺めは、茂張の町を一望できるだけでなく、学校の後ろに控える隣町の商店街から、そのまた遠くの西宮、そして遥か遠くにそびえる山群の山の端や、天気によってはその後ろに控える尾根の描く稜線まではっきりと観られる。

 さらに、骨身を惜しまずに頂上まで登れば、逆方向から太平洋の近海と地平線までの絶景を拝めるのだが……。

 彼にとって、ここはいわば憩いの場である。辛い時や嫌な事があると、裏山へ来ては心を落ち着かせている。二年前、父が亡くなって間もない頃は特にそうだった。

 そうして下山すると、女々しい自分に恥ずかしく思って、明日へのやる気を鼓舞するために忘れるようにしていた。その繰り返しは恥ずかしくても、太一郎には必要でなくてはならない儀式のようなものであった。

 もっとも残念ながら、今のところはそうではなくなり、安息が必要な太一郎を大いに悩ませていた。それには二つの原因がある。

 一つは、最近知らない間に中腹寄りの地点に張り巡らされた、頑丈な鉄条網のせいだった。いつ誰が設置したのかは定かではない。それよりも、今まで自分だけの隠れ家だったのに、という思いが強かった。

 当初、【ココヨリ先、立チ入ルベカラズ】の看板を、太一郎は憎らしげに睨んだものだった。諦めるのも、また早かったのだが。

 そして、もう一つの不満が、太一郎少年の真横にいた。

 まさに黄昏時である絶好の時間帯、外に開放されて広がる草むらに腰を下ろし、夕空を眺める太一郎の真横を陣取るように座り、その少女は時々こちらの顔を観察しつつ、画用紙にクレヨンを目まぐるしく走らせていた。

 まるで罪人みたいじゃないか。指名手配の絵でも描いているつもりなのか。太一郎は疎ましく思いながら、何も言わずにじっとしているしかなかった。どこに行こうとついて来るのだから、こちらは逃げようがない。

 彼女は向かいの酒屋の娘、月影春乃である。いつものボサボサのおかっぱに、女子の常服となって久しいモンペ姿は、だらしなく左肩を露出させ、おまけに靴は踵を踏んでいる。この物資の少ないご時世でさえ、絵の具で口紅の代用で塗る女性もいるというのに。服に付いた名前と住所がなければ浮浪児に間違えられても文句は言えまい。

 それほど、春乃の身形は汚らしかった。これに知恵遅れと来ているのだから、親も匙を投げて折檻するのも頷ける。

 今の時期に、いてもいなくても同じような奴は、厄介以外の何者でもない。

「いつまで、こうしとるんじゃ?」

 太一郎の顔をチラチラ見て、画用紙に贅沢品のはずのクレヨンを走らせる動作を途方もなく何度も繰り返す春乃が、ぼんやりした顔をこちらに向けて口を開いた。

 大きな目はまるでこちらの考えを見透かしているような感じはするが、間の抜けた犬のようにトロンとした瞼は、やはりそんなはずはないと同時に否定できた。

 間近なので、余計“のらくら”に見えて仕方がない。

 夕日が沈むか、お前がいなくなるまでだ。そう放つ力も出ず、太一郎は溜め息を吐いた。山間部から流れる心地よい涼風が、彼らの頬を優しく打った。

「お前はホントに、苦労知らずやから羨ましいな」

「そんな事ないよ。今日もお父に殴られたんじゃ。力一杯で。おめえは気違いのガキやから、学校に行けんし、挺身隊にもなれん。御国の役にも立たん、ごく潰しじゃと言われた」

 春乃の両親は神長家の向かいで、江戸の末期から三代続く酒屋を営んでいる。しかし、戦争が始まって間もなく大事な後取りの長男、次男、三男と年の近い息子達が相次いで出征してしまい、今年になって三人の戦死の悲報が入った。

 後に残ったのは、長女の春乃は知恵遅れだけ。養子を取らない限り、お先真っ暗だ。

「うちが学校は行きとうない」

「馬鹿やからな」

 太一郎の言葉に、彼女は大仰に首を振る。「学校行ったら、皆に苛められるけん。そやから……」ヒキガエルみたいな大きな目で空を仰ぎ、少女は大声で宣言した。

「わしは……絵描きになりたいんじゃ!」

 驚いて後ろに転んだ彼は、「勝手になっとれ……」

 知恵遅れの絵描きなんぞ聞いた事がない。しかし、それでも太一郎には意外だった。一日中をデクノボウのように外を掃除して終わる春乃が、自分の将来を――出来るかどうかは別にしても――決めているとは知らなかったのだ。

 太一郎が向き直って落ち着こうとした直後、不意に「思い出した!」と叫ぶ春乃に驚いた拍子に、再び後ろに倒れてしまった。あいにく場所が悪く、ちょうど地面から抜き出た石に後頭部を強か打った。

「なんなん、藪から棒に……」

 今日は、やたらよく叫ぶなあ。頭を抱えながら、太一郎は聞く。まだ、痛みが残っているせいか、目の前に星がチラついている。

「うちは見たんじゃ!」見た物が抜けている。「何を?」

「ここの天辺に、でっかい、でっかい大砲があるんじゃ?」

「大砲? お前も見たんか?」

 太一郎は昨日の記憶を呼び覚ました。夢現に垣間見た、赤い閃光を発射した筒。あれはやはり幻ではなかったのだ。

「いつ見たん?」

「昨日の夜じゃ」

 空襲のあった翌朝、それとなく尋ねても毅や恭平も知らない様子だった。それを知っているのは春乃と自分だけ。

 そうだとすれば――。

 子供特有の好奇心が芽生え、太一郎は心を躍らせた。それとは別の優越感――一体誰に対して?――も湧いてくる。

「ハル、どこで見た? 案内せえ」

 ハル――月影春乃が知恵遅れと分かるまで、太一郎や他の男子は一緒に遊んでいた。その際、なぜか彼だけをしっかり覚えている節があった。

 彼女にものを頼むなんて、これが初めてかもしれないと、太一郎は思った。

「お安い御用じゃ」

 誇らしげに胸を叩いて立ち上がると、春乃は脱兎のごとく走り出した。太一郎が必死に走って追い抜こうとするが、少女の足はそれよりもずっと速い。足場の悪い山道を一気に抜け、斜面を難なく駆け上がっていく。

 まるで山猿のような走りに、見失わないよう必死で後を追いかける。

 山道は逸れていき、二人はどんどん獣道へ進んでいく。足場が急に悪くなる。急ごしらえで付けられた手すりや、木の板を貼った階段もない。そこは、落ち葉で敷き詰められて、足場が滑りやすい。さらに、今月から続く梅雨のせいもあってか、斜面には長い竹が雨後の筍よろしく天まで伸びて空を薄暗く覆っている。

 新緑の豊かな山というのは、頂上に向かうほど、草木が生い茂っていき天井が暗くなる。二人が走る勾配の激しい山道は、まだ夕日の眩しさが著しい黄昏時にもかかわらず、足元がおぼつかないほど薄い闇に覆われていた。

 それでも少年は、地に手を突いてゆっくり上を目指す。すでに、顔や背中に汗が流れ、足も棒のように硬くて言う事を聞かなくても同じだった。

 逆に、春乃は体を前に傾け、重心を利用してずっと先を進んでいる。太一郎は、山猿と呼んだが、新たに改めようと思った。

 あれは猿どころじゃない。天狗だ。

 息が切れかけた時、前方を突っ走る少女が止まっているのに気づかず、そのままぶつかってしまう。いつの間にか、例の鉄条網が聳える個所に到着していた。

 二人は重なるようにその場に倒れた。先に太一郎をはね退け、春乃は土で汚れた顔を上げて起き上がり、そして言った。

「あそこじゃ!」

 彼女の指さす方向には、鉄条網の下にある地面が抉られ、自分達なら何とか通り抜けられるぐらいの隙間が生じていた。

 狸か狐が掘ったのか、さては春乃が掘ったのだろうか。

「太ちゃん、何しとるんじゃ?」

 すでに向こう岸にいた彼女が呼びかけるのを聞き、胸の激しい鼓動と背中と顔にどっと流れる汗に戸惑いながらも、太一郎は身を屈めて小さなトンネルを匍匐する。

 まさか、電気は流れていないだろうな。少し前に読んだ本の中には、高電圧の流れる鉄条網があったのを思い出し、太一郎の体は硬直した。

「どうしたんじゃ、太ちゃん?」

「ハル、初めてここを通った時、大丈夫だったか?」

「何がじゃ?」能天気な顔が上から見下す。

「痺れたりは、せんかったか?」

「知らねえ」

 よく考えれば、電流が流れているなら、生きているわけがない。だからと言って、わざと触って自分で試すわけにもいかない。太一郎は脱兎の如く、隙間を通りぬけた。体育の時間の匍匐前進の訓練の時よりも素早かっただろう。

 二人は、鉄条網の向こうへと消えた。その先には、人の歩く道があった。


  二 砲台と青年兵士


 そして、ついに二人は見つけた。昨夜のあれは、やはり夢ではなかったのだ。

 両端が煉瓦造りの壁を背に、春乃に続いて太一郎は恐る恐る歩いた。

「ハル。まだ着かんのか?」

 一度足を止めて、太一郎は尋ねた。足が疲れたのもあるが、さすがの彼も不安になって来たのだ。同じ風景がいつもまでも続き、かれこれ一時間登り続けているような気がしたが、頂上が見えてくる様子の兆しが一向にない。

 太一郎の言葉に一瞬振り向いて、「もうすぐじゃ」とだけ言うと、何もないように奥へと進む。ホントに、山猿みたいな奴だ。

 悪態をついて、少女を睨む。だが、膝に掛かった疲れが消えるわけでもない。それに山の中なので、じっとしていると耳元を蚊の羽根音がかすれる。

 少年は、それがどうにも我慢できなかった。

「もし嘘だったら、ただじゃ済まんからな」

 春乃が急に立ち止まった。もう一度こちらを振り向いた。その顔は、口を大きく広げてまるで何か楽しげな感じだった。

「な、なんや?」

「もし嘘やったら、太ちゃん、どうするん?」

「そんなん、拳骨に決まってるやんか」

「本当やったら?」

 春乃の予期せぬ追及に、太一郎は言葉が詰らせた。なんで、いきなりそんな事を?

「本当やったら、ハルの言う事を聞いてやるよ」

 ニンマリと広がっていた口が閉じて、少女は前進を再開した。一体、何なんだよ、こいつは。毅達の前とは態度がまるで違う。

 もしかすると、バカにされているのでは。太一郎は何となくそう思いようになった。これでは、本当に頂上に大砲なんてものがあるのか眉唾物だ。

 塹壕のように狭い通路――いつの間に、こんなものが造られていたのだろうか――を抜けると、ポッカリと空いた空間に出た。周囲の樹木が内輪にしなり、テントの要領で空を絶妙に隠し、木漏れ日が無数の糸が光の筋となって足元へと降り注ぐ。

 空間の中心に砲台があった。春乃の話は本当だったのだ。

 眠っている猛獣に近づくように、彼らはゆっくりと歩み寄った。

 周りの木々や岩、草や花からは浮いて見えたその巨体は、あまりにも場違いな存在だった。少しでも自然に溶け込むよう、迷彩が施されているが如何ともし難い。

 5間(約10メートル弱)は優に超えるドーム型の物体。半球の屋根から一本の長い筒が突き出ている。その先が周りの杉の木を越えて、空に仰いでいる。

 『少年倶楽部』、『少國民の友』……。太一郎はいくつかの雑誌にあった図説や挿絵に記憶の糸を手繰らせたる。

「これは……加農カノン砲や」

「かのおほお? 何じゃ、それは?」

 春乃を無視し、彼はその砲台へ手を触れられるぐらいに近づく。

 父が亡くなる前、まだ幼かった太一郎は家族と共に近くの海岸にいくつの加農砲が配置され、その演習で試し撃ちを見物したのは覚えている。指揮官らしき兵士が『てっ!』と叫んだ瞬間、耳をつんざく轟音が響き渡った。

 その日はずっと翌日まで耳鳴りが治らなかったのは記憶に残っている。あの時と同じものとは限らない。それに、あの加農砲と比べると、全体的に小さいかもしれない。

 しかし、大砲の前に回り込んでその筒穴を覗くと、やはりとても大きい。敵の航空機を撃ち落とすのだから、当然だろう。

 二人は完全に言葉を失っていた。今までこれほどの兵器を近くで拝んだ経験はない。すべては本の中で終わっていた。

 それが今、眼前に鎮座し、手に触れる事ができるなんて。先刻まで喉が完全に干上がってカラカラになっていたのに、今でもその感覚が麻痺して渇きを感じない。

だがおかしい、と太一郎は首をひねった。そんな大砲がなぜ、自分の家の裏山の頂上に置いてあるのだろうか?

 太一郎は手を伸ばして、大砲の下部と付け根のあるドームの壁に触れたが、その刹那、冷たく硬質な感触に、思わず手を引っ込めた。電撃が走った錯覚に似ている。指先が一瞬熱くなったのか、自分でも分からない。背中に流れる汗が冷たい。

 もう一度、鉄の壁に触ろうとした刹那、扉――その取っ手は間近でなければ目立たないぐらい、壁と同化していた――がゆっくりと開いた。

「こらあ!」砲台の中から出てきた男が一括する。「何しとる!」

 若い男が躍り出てくるので、彼らは悲鳴を上げて一目散に走り出そうとした。

やはり、この時も春乃が太一郎よりも先に走っていると思いきや、そこらに密生している苔で足を滑らした。見事に頭から地面に激突した春乃は、何度かでんぐり返りしてから仰向けに倒れた。何が起きたのか理解してなさそうな呆けた顔が徐々に歪み、堪えぬまま盛大に泣き始めた。

 泣きじゃくる声を無視し、その場に立ち止まっていた太一郎は、姑息にもすぐさま逃げようとした。だが、数歩も進まないうちに、その襟元を男に掴まれてしまう。

「お前、逃げようとしたな? 泣いてる女子を見捨てて、自分だけ逃げようなんぞ、男のする事か!」

 青年はそう怒鳴ると、太一郎の頬を平手で殴った。

 家族以外の者に叩かれるのは、何も初めてではなかった。最初何が起こったのか分からず呆然とした。しかし、遅れてきた痛覚に涙腺が込み上げてくる。普段なら我慢できるはずなのに、この時の太一郎はどうしょうもなく耐える気が起きなかった。

 滅多に見せないが、少年はさめざめと泣き出した。

「コラ、男が泣くんやない! お前が悪いんやろが?」

 愛国少年といえ、太一郎は子供である。男もまた、17歳の若者であった。青年に、雪崩の如く号泣する子供二人を落ち着かせるのには無理があった。

 面倒くさそうに略帽を脱ぎ、彼は頭を掻く。「泣くなや……しゃあないな……じゃあ、これやるさかい」

 青年は、懐から赤い缶を取り出した。太一郎は、ずっと年上の青年がそれを携帯しているとは想像もしていなかった。

 今頃気づいたのだが、青年が着ているのは一般の国民服みたいだが、実は軍服だった。靴(編上靴というらしい)の上にはゲートルを巻き、襟に階級章を付けている。

 その軍人は、サクマ式ドロップスの蓋を開けて逆さにして軽く数回叩いた。転がり出た色とりどりの飴のうち適当に二つをつまみ上げると、泣きべその止まない二人の口にそれぞれ放り入れた。

「これで堪忍しいや」

 青年兵士は、先ほどと打って変わった優しい声で言う。

 大の字になって泣いていた春乃は声を沈めると、「ミカンや!」と素っ頓狂な奇声を上げる。太一郎も泣きやんだものの、彼女と同じように有頂天にはなれなかった。口の中に充満する刺激臭は、あまり好きではないハッカであった。

「さあ、早よ家帰り。ここは子供の来るトコちゃうで」

 青年に連れられ、嫌々ながら二人は下山を強いられた。中腹の鉄条網の入口に着く間、軍服青年は春乃の質問攻めにあった。負い目もある彼も邪険にはできない。

 それにしても現金な奴だと、太一郎は幼馴染の少女に呆れながらも、その無遠慮な振る舞いに感心した。

「お兄さん、これ、かのおほおか?」止せばいいのに春乃は質問を続ける。「これで何か撃つんか?」

 青年は手をブンブンと振る。「あかん、あかん。それはさすがに言われへんな」

「B29を撃ち落とすに決まってるやろ」つい調子に乗って、太一郎はそう言った。

「まあな……他の奴には内緒やぞ」

 三人が立入禁止の鉄条網の前まで来た時、すでに太陽が沈んだ後だった。遠くで寺の鐘が数回響く。おそらく、門限の時間は軽く過ぎているだろう。

「ええか、もう一回言うが、ここの事は絶対に秘密やからな。誰にも言うたらあかんで。約束できるか?」

「はい」二人揃って、そう答えるしかない。

「ええ子達や。少国民はそうやないと」

 軍服青年の顔は小さく微笑んだ。


  三 長男


 心ここにあらず。彼らは茫然自失のまま麓に下りた。

砲台の事は、誰に言わないとように口止めされた。言い触らしたら憲兵に捕まるで、と得意満面な顔で脅された。

 酒屋に帰っていく春乃を見送る際、太一郎からも彼女に釘を刺しておいた。

 しかし太一郎の苦難はそこで終わらなかった。玄関に入った彼を、母と、彼女の背後から小さな笑みを浮かべる姉が待ち伏せていた。対抗心著しい兄弟姉妹の間では、片割れの失態ほど甘い蜜になる。太一郎は、姉の顔を恨めしく見つめた。

 奥間に連れられて、命じられる前に正座をした彼は、母の妙子は門限が遅いと説教している間、頭の中は、砲台と新兵、壊れたブリキの人形みたいに泣き叫ぶ春乃、そして、口にまだ残るハッカの匂いで一杯だった。歯磨き粉に似た刺激臭で、殴られた口の中が余計にヒリヒリした。

 これだから、ハッカは嫌いなのだ。

「太ちゃんは長男なんやから、しっかりせんと……」

「はい……でも今日は」

「言い訳は、男らしくないよ」ニヤニヤ笑いながら、巴が顔を出す。男勝りの姉を睨む。

「巴さん」母に諌められるのを見て勝ち誇っていると、「太ちゃん。よそ見をするんじゃありません」と静かだが厳しい声のお叱りが飛ぶ。

「……はい」

 母の妙子に怒られたのは何年振りだろうか。太一郎は、何度も砲台の話を言い訳に出してしまいそうになる。

 たとえ親でも秘密は守らないといけない。それに、お説教を聞かされているこんな情けない自分を知られたくない。壁に耳あり、障子に目あり。今のご時世、隣組のよしみで、いつどこで内緒が露呈するか分からない。

「太ちゃんも、この家の大黒柱やから、そろそろしっかりせんとね。いつ空襲で家がなくなるか分からんから」

 再び戻ってきた姉はそう言って、太一郎の頭を撫でる。その手に噛みつこうとするが、難なく避けられる。

「巴さん、滅多な事言わんといて」

姉が謝りながらも言葉を続ける。「お父さんだって、太一郎の事を見守っとるから、何も心配する事はないよ」

 太一郎は自分の立場が、父の死を境に少しずつ変わりつつあるのは知らないわけではなかった。神長家で長男にして男は、もう自分一人だけなのだ。近い将来、大黒柱になれば、二人の母と姉を養っていかなければならない。そんな事実から避けていたのかもしれないと思い、彼は自分を恥じた。

 この家にはもう、男は自分しかいない。でも、その時には自分は兵隊となって、どこかの戦地にいるのだろうか。

 大日本帝国は、戦争をしている真っ最中だ。そして自分は、その国に生れついた。今も数えきれないほどの若うどが戦地に向かっている。そこに至る過程を手繰り寄せ、彼の心に暗雲が覆う。少国民として生まれた子なら嫌でも分かる己の未来像を、心が明確な答えを出そうとする。

 だが同じはずの心がなぜかそれを拒むのだ。そうだ、僕は護国の鬼となって敵を大勢殺し――最期には、散る。

「さあさあ、ご飯にしますよ」

 母の呼び声で、思惟を中断した。それが救いに思えた。

 夕食はいつもと同じ雑炊なのは慣れている。配給が滞りになり、玄米を最後に食べたのはいつの事だろうかと思いを巡らせば、余計に侘しくなるので止めた。

 茶碗に収まるそれは、空襲の際の火災を防ぐために天井板が取り外され、屋根裏が露出しているのが映っていた。

 これがホントの、天井雑炊だ。

「太ちゃん、今日、学校で転校生が来たって本当?」

 母が所属している婦人会でもその話で持ちきりだという。

「うん、東京から越して来たって言っとった」

「珍しいね、こんな時期に」

 本当に珍しいもの。どうしてやって来たんだろうな。向こうが大変だと言っていたのに。太一郎は苛立たしげに、沢庵を口に入れる。

 そうか、きっと逃げてきたに違いない。あの子ダヌキなら十分ありえる。あれは、絶対にB29が来たら、速攻に敵前逃亡しそうな風体だ。

 巴がふと思い出した事は、邪推に耽る太一朗を呼び戻した。

「そうや、お母さん。明後日やね、豆腐屋さんの雅夫さんが出征するんは」

「そうよ。早いもんやね。昔は太一郎ぐらいやったのに。あの子も戦地に行ってしまうなんて……」後の言葉が続かず、妙子は茶碗の上をじっと見つめていた。

 仕方がない、とは当然だが誰も言えない。太一郎でさえそうだった。先程止まっていた自問自答が蘇る気配を感じ、彼は箸を無償に走らせた。来年の事を言うと、鬼が笑う。その先を言うなら、怒ってやって来るかもしれない。

 次の朝も同じ日が続くのだ。そう思っていた太一郎だが、翌朝に催される出征式の日を境に、彼は少しずつ変わり始めるのを避けられなくなる。

 変容しつつある少年は米の少ない雑炊を食しながら、ボンヤリとラジオから流れる戦況報告に耳を傾けた。

 この日もまた、やたら“転進”が多かった。


  四 出征式


 早朝、豆腐屋の長男雅夫の出征式は、学校の通学路にある朝日商店街の広場にて執り行われた。

 彼の顔を知る太一郎や毅、恭平、春乃らも式の参加を義務付けられている。午前八時に集まった大人達や他の子供に混じり、予め配布されていた手旗を手に待っていた。

 彼らの家族や商店街の店主らは、祝辞の進行を務める在郷軍人の齋藤老人に、若い頃の日露戦争での活躍に耳を傾けている。その中には、しつこいほど頷く者もいれば、時間帯のせいか話が冗長なせいなのか、必死に欠伸を押し殺す者もいた。

 飯野豆腐店の店先に立て掛けられたには、『一撃必殺』、『七生報国』、『特攻神念』など、中には太一郎が読めない字もたくさん描かれている。そして大人達は皆、一様に白いタスキを肩に掛け、その顔はどれも無表情に近かった。

 前準備は長かったが、いざ定刻通り始まった出征式は、何事もなく淡々と厳かに進行した。始まってから一五分後には、式は佳境に入ってた。

 ただ、今日まで豆腐屋を雅夫と共に切り盛りしてきた彼の母親だけがうつむいたまま、終始無言だった。近年、腰が曲がり老境著しかったが、今はもう魂をどこかへ置いてきたように微動だにしない。雅夫に肩を抱かれて、その場に立っているのがやっとである。その間、自分の両手を握手するように強く握りしめ、これから戦地に向かう息子を一瞥もしない。

「それでは、本日、出征される事となりました飯野雅夫の前途を祝して――」老人は一度息を大きく吸い、「万歳!」

 そして、他の全員がそれに倣って万歳三唱する。

 日の丸が模られ、十字になったタスキを肩に掛けている雅夫は、その表情は硬くして家族や知り合いを見つめて石像のように直立しているだけであった。

 太一郎が知っている彼とは何かが違っていた。以前は、少し内気だが面倒見がよく優しい人だった。太一郎の中にあった、兄貴分の彼と目の前で出征を祝されているのとは別人のようだった。

 狭い店の前で、ギュウギュウになりながら集合写真を終えた。雅夫が全員に向かって深い礼をする。

「皆さん。本日はお忙しい時間を割いて頂き、本当にありがとうございました。僕は、今日より帝国軍人として選ばれた誇りを胸に旅立ちます。母を、飯野豆腐店をこれからもよろしくお願いします」

 拍手と共に、誰かの失笑が太一郎の耳元に入った。雅夫自身も微かにはにかんだが、すぐにその唇と一門字に閉じる。

 老いた母の息子に歩み寄る。既に二人の子を送り出した未亡人には生気を抜け、一本の杖に支えられたような、その足元もおぼつかない。

「雅夫……」

「お母ちゃん。体に気をつけてな」

「あんただけでも……生きて、帰り……」

 消え入りそうな母親の一言に、雅夫は戸惑う。

 小さなざわめきが起きた。耳聡い齋藤老人の白く濁りかけた双眸が、二人を冷たく睨みつける。さっきまでの賞賛が嘘のように、胡散臭い余所者を見つめているようだ。

「それを言ったらあかんよ。お母ちゃん、頼むから……」

 雅夫は、母親の痩せ細った肩に手を置いた。そして、まるで鉄仮面のように固く引き締まった顔を群衆に向ける。

「では、行って参ります」

 式が終わり、駅に向かう雅夫を全員が万歳をして見送った。

 母親を残し、無言で改札の奥へと消えていく背中に、太一郎は将来の自分を重ね合わせようとした。しかし、昨日と同じく浮かんでくるものは何もなかった。あまりにも知らない事が多過ぎて漠然としている。

 式の後、飯野豆腐屋の壁に青い札が一枚掛けられた。

 青い札には日の丸の下に『出征軍人』と書かれて、それがある家は、最低一人は兵隊を輩出した事を示しており、一種の名誉とされている。

 どちらも長男の兄が出征した、春乃の酒屋や毅の家にもある。しかし、たった一人の長男が太一郎である神長家にはまだなく、彼は――母の妙子や姉の巴はどう思っているのかは窺えないが――少し肩身の狭い思いを隠せなかった。

「ともあれ、これで豆腐屋のボンも、晴れて“はぐれもん”言われずに済みますな」

帰る一団の中で、団扇を仰ぎながら町内会長が言う。それを聞いた一人が頷き、「そうですな。若い男で内地におるもんは、恥ずかしゅうて、とても外歩かれませんわ」

 大人達の会話が前方に流れ去ってからも、太一郎の足は止まったままだった。通りの中で、唯一、出征の札が掛かっていない我が家の門前をなぜか思い出す。

 自分の元に赤紙が届く頃、戦争はどうなっているのだろうか。今年の三月には鬼畜米英は沖縄に上陸し、本土決戦もそう遠い未来ではないと新聞に載っていた。

 太一郎はもう一度、将来の軍服に身を包んだ青年と同化しようとした。普段から思い描いていた愛国少年の将来像に、自分の顔を貼り付けて幻視しようとした。

 結果は変わらなかった。そこにあるのは、隅渡るように真っ白な空白だった。その中心に、一人だけでいる光景に、太一郎は図らず背中を粟立たせた。そして、思わず太陽を見上げ、その眩しさに目を伏せた。

 太ちゃんは長男なんだから。母の言葉を思い出し、家の方角を向ける。その後ろに聳える小さな山のちょうど砲台があるであろう頂上付近に目を凝らす。

 抗いようのない決意が、そこに導いているようだった。


  五 太一郎の決意


 式典が終わってから正午頃、いても立っても居られなくない思いでいた太一郎は、裏山の砲台へ急いで向かった。昨日と同じ鉄条網と抉れた地面との隙間を這い、急な斜面を駆ける。記憶を手繰り寄せながら、無心に頂上へと急いだ。

 最近では梅雨が始まり天候が不安定なせいもあってか、樹木から降り注ぐ光はやけに弱々しい。そのせいか、昼間だというのにいように妙に暗く感じる。 

 砲台の前に出た時、あの青年が腰を下ろしていた岩場の背後に太一郎が現れた。ちょうど昼飯時だったらしく、うまそうに握り飯を頬張っている。その光景を羨ましそうに見つめる少年が目に入った途端、彼は喉が詰まったのか勢いよくむせた。

 太一郎は急いで駆け寄り、家から持って来た水筒の蓋を開けて渡した。死に物狂いで水を飲み干した青年は消え入るような声で、「おおきに……」と感謝した。

 しかし次の瞬間には太一郎の胸倉を掴んでいた。太い眉の顔が間直に迫り、少年は目を丸くした。頬がこけているが、鬼瓦のようにおっかない顔をしている。

「何で、また来たんや! もう来るなって言うたやろ!」

 そして思っていた通り、昨日のように頬を平手で張られた。あらかじめ覚悟して身構えていたため、前回みたいに脳裏に星屑が飛びはしても泣きはしなかった。

「早よ帰れ!」

「嫌です!」青年の怒鳴る声に、頑として拒む。

 その後、二人は少しの間、取っ組み合いをした。大人と子供では勝敗など明白だが、どちらもなかなか引き下がろうとはしなかった。太一郎は何度も掴み上げられて、突き飛ばされたが、それもしつこく食い下がり続けた。

 ついに根負けしたのか、青年兵士は地面に腰を下ろした。双方とも顔や服にコケや泥がついている。荒い呼吸だけが静寂な砲台に流れた。

「……何でまた来たんや?」

 少年の望みは決まっていたので、口から出た言葉に淀みはなかった。

「ここで雇って下さい」

「は?」青年は、素っ頓狂な声を出す。

「見張りでもなんでもいいです。僕を兵隊にして下さい」

「何、言うとんのや、お前?」

 太一郎は青年兵士に出征式で思った事、自分の家だけ兵隊が出ていない不安を具に語った。最初は、門前払いか、茶化されるのかと思っていた。だが、彼は意外にも口を挟まずに、太一郎の話を腕組みして静かに聞いていた。

 話を聞き終えてから、彼は静かに口を開いた。

「気持ちは分からんでもないけど、お前にはまだ早いな。あと数年待たんと」

「せめて、留守番でもいいからお願いです」

 青年は押し黙り、再び腕を組みながら何かを考え始めた。それが終わるのも早いので、少年は何も期待していなかったが、次の一言は思ってもみなかった。

「お前、名前なんていう?」と出し抜けだったので、何も考えていなかった太一郎は「え?」としか言えなかった。

「“え”が名前か?」と決め付けられそうなので、「違うよ」と慌てて訂正した。

「神長太一郎です!」

「ほお、太一郎って言うんか。ええ名に、ええ声をしとるな。因みに、俺の名は佐川春照や。これでも一等兵なんやで」

「それって偉いの?」

「偉いのですか、や。兵隊になりたいんやったら、口の利き方にも注意せんと、拳骨が飛んでくんで。まあなあ、下の中といった所やな」

 それが偉いのかどうかは太一郎には分からなかったが、襟首の赤い階級章には黄色い星が二つ付いている。以前見た兵隊は星が一つだけだったから、その人よりは少し上なのだろう。どちらにせよ、これから自分の上官になるのだ。

「お前に、ここの見張り番、そうやな……砲台守になってもらおか」

「砲台守?」

「海の灯台知っとるな。あの灯台守とかけたんや」

 砲台の見張りをする砲台守の役目。うん、それならいいだろうな。太一郎の返事は決まった。空を覆う雲が一気に晴れたように、光が注いだ。

「ところで、お前ら兄妹か? いつも一緒におるな」

「お前ら?」

 晴照が彼の後ろを指す。振り返った太一郎は、すぐ背後に立つ春乃の顔が視界に一杯に入る。悲鳴を漏らして腰を抜かした拍子に、地面の苔に足を滑らして転倒した。

「お前の妹は、忍者かいな」

 呆れつつも、青年兵士は笑いを小さく漏らした。

「妹じゃありません……」太一郎は力なく、そう言った。

 こんなのが、家族にいたらかわなん。とても神経が持たない。

 画用紙とクレヨンの箱を持った春乃はおかしく大笑いしていた。尻餅をついていた太一郎も、訳が分からず笑いだした。

 こうして、砲台と彼らは出会ったのである。


 世の中は流れていく。人の想いもまた変わる。

 そして未来も変わり、そのまま流れていく。



                《次回へつづく》

 第四回となる次回の投稿は、9月を飛んで、再来月の10月7日(金)の午後9時になります。


*9月2日(金)午後九時頃に、短編作品『タケルの悪夢』を投稿します。

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