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第二回 転校生が来た

 

 世の中はどんどん流れていく。

 太一郎が六歳の時に、戦争が起こった。その二年後には父親が死んだ。

 それから、臆病者で気弱だった少年は、愛国少年の優等生と持てはやされた。

 彼は満足していた。何も変わらずに大人になっていくのを強く望んだ。

 しかし、それがあまりにも非現実なのをどこかで分かりつつ――。

 世の中は少しずつ変わっていくのだ。


  一 東京から、わざわざ


 その日は、いつもと少し違っていた。

 丁寧な七三の頭をした担任の玉田先生が、いつもの通り生徒達の一人一人の一挙手一投足を見張るように、銀縁の眼鏡の奥からギョロ目を動かし(ついでに無意味なほど神経質そうな顔をしている)、早歩きで入室する。

 普段通りヨレヨレの一丁羅に、不釣り合いの下駄を履いて、まっすぐ教卓へ向かう。そこまでは、何一変わらない日常の光景だった。

 否、一つだけあった。この日の彼は、引き戸の扉を開けたままにしている。

「入って下さい」玉田教諭が、扉に向けて言った。「はい」と静かな声が返事をする。

 少し太めの少年が一人、四年二組の教室に入ってきた。

 静かだった教室に小さなどよめきが起きた。全員の目が見慣れない児童に釘付けになる。太一郎もやはり、同じくそうであった。

 その男子児童は自分達とは明らかに違う身なりの良さをしており、血色の良い顔は、この町では見かけないどころか、まるで次元の違う存在感を醸し出していた。

 転校生。太一郎は思い出したように、やっとその言葉に辿り着いた。

 玉田先生と似た眼鏡から覗く細目が、教室中を見渡す。

 一瞬目が合ったような気がして、太一郎は一瞬背中に悪寒を走らせた。後ろが空席なので、そのままのけ反るところだった。同時に、確かに目つきは怖い感じだが、小太りな体格はそれと相反していておかしく思えた。

 先生は、大東亜地図と校訓が模写された額が真上に掛かる黒板に彼の名を板書する。小太りの転校生は、『半田貴一』という名前だった。

「今日から、君達と一緒に勉強する、半田貴一君です。半田君は東京の出身だが、御家の事情から特別に入学が許可されました。早く仲良くなるように」

 相変わらず、癖のある訛りで説明した玉田先生は、よりによって太一郎の後ろの空席に座るよう貴一に指示した。

 通常、学区ごとに、そこに住む児童が通う学校は決められているので、転校による越境入学は“原則的に”許可されていない。当然ながら、生徒達はそれを知る由もない。

 事情を知る教師達だけは、その越境転校が特例で許された理由の背景に、貴一が一介の庶民ではない、やんごとない生まれであるのを心得ていた。その実家が経営する企業が、軍と共に国を動かす数少ない財閥の一社に名を列ねているのなら尚更である。

 一時間目の修身の授業後、案の定、貴一の席には人だかりができていた。前席に座る太一郎も、何気なく聞き耳を立てた。

 皆が尋ねている内容――東京はどんなトコ、空襲がどんなだった、とか――を予め知っているかのように、貴一の受け答えは簡潔で迅速ではっきりしていた。

「僕が通っていた学校は、前の空襲で無くなったんだ。それで、お父さんが頼んでここに引っ越してもらったんだよ」

 癖のない関東弁で話しながら、貴一は眼鏡のずれを直す。

 二ヶ月前に東京がB29の空襲を受けたのは、ラジオの放送を聞いて知っていたが、被害は最少だったはずなのだが、貴一の話す内容はおかしいほどに何から何まで間逆だった。

「向こうはもう大変だったよ。建物が全部ダメになって、食べ物もお金も何もなくなってさ、人も大勢死んだよ」

「ホンマか?」毅が驚いた様子で聞き返す。

「ホントさ」

 その時、貴一が失笑しているようだった。あくまで、太一郎の見間違いかもしれないが。

 その日の休み時間や昼食のほとんどが、貴一への質問攻めで終始した。そのためか、太一郎の周りには誰も寄ってこなかった。昨日までの休み時間は、名前とは名ばかりに太一郎が休む暇もなかった。相変わらず話を聞きたがる者や、勉強を教えてもらいたがる者、果てには宿題を写させてほしい奴までいた。

 今では、貴一少年が昨日までの彼の立場を引き継いでいた。

 ここ数日は、こんな状態が続くだろうと太一郎はなんとなく確信した。そして、できるならそうあってほしいとさえ思った。

 貴一は見た目通り、やはり抜群に優秀だった。例えば、算数の時間では算盤を誰よりも早く――太一郎は、手先はあまり気ようではなかったので算盤だけはあまり早くなかった――暗算を弾き出し、理科の実験でも彼の班がいち早く終了した。

 彼曰く、「向こうの方が進んでいた」という。

 それが見ようによっては嫌みに映るほど露骨ではある。しかし、毅や他の級達は意に介さず、すっかり貴一の周りに集まるようになっていた。初日でそうなのだから、次の日にはどうなるのか。想像するだけで太一郎の期待は膨らむばかりである。

 その期待が数日後には不快感へと変わろうとは、彼は想像もできなかった。


  二 いわゆる、贔屓


 その朝も、何かが違っていた。

 朝霧がかすかに漂う中、神長家の門前に出た太一郎は、いつもの風景に違和感があるのに気づいて思わず立ち止まった。

 違和感の理由が、あまりにも静かな事だった。

 警戒警報は流れていなかったので、おそらく空襲ではないだろう。それに今日は平日だから何か訓練行事はなかったはずだ。向かいの酒屋を見ると、いつも通り営業を始めて、店先では幼馴染で知恵遅れの春乃がいつものように適当に箒を掃いていた。

 防火用の水槽の近くには、いつも通り三年生までの下級生――彼の班では、四年生が最年長である――が既に列を成して待っていた。

 閑散としていた理由が分かった。明らかに班の人数が足りなかった。

道の真ん中に腰を曲げて敬礼をする老人がいる。痩身に似合わぬブカブカの軍服――それはどう見ても今の軍服よりも古く、遠くからでも糸がほつれ色褪せているのが分かるぐらいだ――を着ている齋藤という名前の在郷軍人が、遥か遠方にある皇居に向けて欠かさない毎朝の儀式をしていた。

 齋藤老人を一瞥し、「毅と恭平はまだかいな?」

「まだ来ておりません」舌足らずな敬語で下級生が答える。

「何やっとんのや、二人揃って……」

 二人の不在が、静かな朝の原因だったのだ。いつもなら、『神長様や!』だか『神様じゃ!』とか奇声を喚きながら、こちらを出迎えていたものだ。

 頭を掻いた太一郎は隣の荒岩家も訪ねてみた。おばさんはもう息子が学校に行ったのだと言った。やけに早い時間に学校に出かけたらしいが、それでは規律違反じゃないか。

 太一郎は、学校に着いたら毅達をどう咎めるか考えた。自分達の行為が、班にどれだけ悪影響を及ぼすのかを分かっているのだろうか。どうやら、連帯責任の大切さを毅達に改めて叩き込まなければならない。

 太一郎の中に忘れかけた義務感が湧いてくる。

 毅達が既に学校に行ったのならば仕方がない。もうそろそろ定刻の時間も迫ってきている。このまま立っているわけにもいかないだろう。馬鹿みたいに待ちぼうけの末に全員遅刻なんて、あまりにも間抜けすぎて笑いも出来ない。

「しゃあないから、出発するで」

 太一郎は数少ない児童を連れて登校を始めた。

 別の集団が高らかに軍艦マーチを斉唱しながら列をなしているので、負けるものかとこちらも別の歌で対抗するも、やはり数ではあちらの方が多く、蚊トンボの鳴き声みたいに尻すぼみになり、誰も歌わず無言になってしまう。

 その気まずさにいたたまれず、別の歌を考えようとするが、同じ結果になるのではとしり込みしてしまう。

 惨めな気持ちで沈み込んでしまいそうになった太一郎だが、この日はなぜか、いつもなら見過ごしていたものを視界に入って来る余裕があった。

 通り過ぎる電柱には、新しく貼り直された張り紙が目につく。昔ながらの『贅沢ハ敵ダ!』、『欲シガリマセン勝ツマデハ』に代わり、『一億玉砕!』やら『神州不滅』が増えてきた。中には古い物の上に重ねて貼ってあるのもある。

 太一郎としては、切羽詰まったようなこの文句があまり好きではなかった。ポスターの色もどことなく色彩を欠いている。

 他にも、未だに金属類の供出を謳うポスターがあった。父のいた頃に、大きな鍋やフォーク、食器や格子など集めた記憶がある。我が家では、確か特大のすき焼き鍋と自転車を提出したはずだった。

 近くに掛かる橋に至っては、欄干が根こそぎ抜き取られている有様だ。

 他にも景色を巡らせると、眠そうに自転車を漕いでいる憲兵。ゲートルの学生姿やモンペ姿が乗り込んだ電車が高架を通過していく。どこかで、「万歳!」と声を上げるのが聞こえたので、また誰かが出征していくのだろう。

 太一郎は自分がいずれ大きくなり、戦争で戦って死ぬ将来を深く考えたことは少なかった。そこに、恐怖や不安を抱く前に、すべてが漠然としていたのだ。

 時々読んでいる雑誌『少國民の友』にも、死んだらどうなるかはあまり書いていない。登場する兵隊――誰もが一様に凛々しい顔をしている――の死ぬ姿もあまり見た事がない。

 学校での授業では、死んだ兵士の魂は靖国神社へ行くのだという。そこが一体どのような場所であるかも知らないのだ。

 第五国民学校の校門をいつもように礼をして通り、下駄箱に着いた時、太一郎は同じ教室の数人かが連なって歩く後姿を捉え、そこへ走り寄った。毅や他の級友も一緒だった。

 太一郎は袖を捲って、後ろから拳骨をしようと意気揚々と近づいた時、彼らの先頭に立っている者に気づいた。

 何やら得意げに話している貴一は、今日も特別な日でもないのに綺麗な学生服を着ている。毅や恭平達は彼の後ろをヒヨコのようについて回る。

「おい、君達!」

 太一郎の返事に、貴一達は振り向いた。せっかくの話を中断されて、不機嫌そうな顔を一斉に向ける。

「集団登校を無視して、何してるんや。今朝はなんで家の前にいなかった?」

毅は嫌々そうに「太ちゃん、悪かったな……」

 まったく悪気があったのを詫びるようには見えない。

「一緒に誘ってあげなくてごめんな」

 毅の無神経な言い訳に、声を荒げそうになる。

「そんな事やない!」

「いいじゃないか。僕が悪いんだよ」

 貴一が二人の間に立つ。よく見たら、二重顎と少し前にはみ出ている腹が、太一郎には今のご時世には珍しく思えた。そして、なぜか今朝食べた、天井を反射して映す雑炊が脳裏に過ぎり、大した御身分だと内心毒づいた。

 空いた腹が音を鳴らすのを誤魔化すために咳払いする。

「半田君が?」

「僕がね、荒岩君らを誘ったんだ」

「君の家と、僕達の家は正反対やで。君は自分の班と登校しているんか?」

「悪いけど、僕は車で通ってるんだ。学校にも許可をもらってる。彼らに話すと、乗せてほしいって聞かなくてね」

 いつの間にか、気取った話し方になっている。

「太ちゃんも一緒に来るか?」貴一の隣から、首を伸ばすように毅が言う。

「僕は……」

 貴一が、彼の返答を塞ぐように言い放った。

「ごめん。家の車、四人乗りなんだ。僕と運転手の書生と、それと林田君と荒岩君で満員になる」一年生でも分かる理屈に指を折って説明し、貴一は言葉を続けた。

「だからね、君は乗せられない。席がないから仕方がないのさ」

 誰が乗るものか。友人みたいに口がもう少し軽ければそう答えていただろうし、事実そう言いたかったが、太一郎は自分にそんな度量などないのを知っている。太一郎はその場に佇んでいた。それを通り過ぎて、貴一達三人は教室へ入って行った。

 誰かが彼の肩にぶつかり、「危ないな」と注意されるまで、太一郎は茫然と立ち尽くしていた。朝から込み上げていた感情は、不安定なまま左右に振れている。一体どちらが自分にとって良いのか悪いのか分からない。

 そんなに金持ちが好きなのかよ。

 そして自分が嫉妬しているのにおかしく思えた。今の貴一に置かれた状態がかつての日常だった。誰もがありもしない武勇伝を聞きたがり、金魚の糞のようについて回る。それが煩わしくて嫌だったはずなのではないか。

 余計に考える必要なんてない。荷が軽くなっただけじゃないか。太一郎は自らに言い聞かせながら、いつもと違って一人で教室へ向かった。

 結局、毅達のいない登校日は、翌日もそのまた次の日も同じ事が続いた。


  三 放課後


 最初、数人ぐらいは残っていた。そして彼らも去って行き、とうとう、特高の話を聞きに来る友達は一人もいなくなった。

 もともと、いじめられっ子だった彼に人が集まっていたのは、父親の話があったからだ。その死後も続いていけたのは、ひとえに彼の作る話がうまいのと努力があったからに他ならない。しかし、級友達を魅了する貴一の優等生ぶりは、今までクラスの中心だった自分が徐々に日蔭者に追いやられていく危機感を募らせた。特に、あの朝の一件以来、お門違いと分かっていても太一郎の貴一に対する敵愾心は燻っていた。

 だが貴一の方が、頭がいいのは動かざる事実だった。彼にも読めなかった文を暗唱しただけでなく、他の皆も知らなかった意味をスラスラと説明してみせる。

「さすがに半田工業の子息だけあって、愛国少年の地位にふさわしい」

 あからさまな贔屓の引き倒しを言う担任の言葉を耳にして、それらがかつて自分に対して言われていた事を忘れたかった。さすが、特高に努められていた御父様がいただけの事はあります。皆、神長君に拍手を送っていた。

 太一郎が得意とする国語の試験があった時が一番(彼にとって)ひどかった。

 今までの結果のほとんどが【優】――一番点数の高く、その下になる【良】よりも低い点数を取った事は一度もないほどだ――だった彼は、その日に受けたテストは惜しくも【良】――になる事はないように細心の注意を払い、好成績の称号を得た。

 そうだ。内容も簡単な漢字の問題から、児童向けの軍国小説の読解だが、教科書の内容はほとんど把握していると言ってもいい。

 太一郎にとっての愛国少年とは、頭の良いだけではない、どれだけ御国のために忠誠を誓っているかが大切だと知っている。金持ちの転校生、それもここに越してきて日の浅い新参者が、自分を差し置いて、少国民の先陣を切るのは耐え難い事だった。

 試験の結果、二人は同じ点数を取った。だが、教室の皆や玉田教諭の賞賛が、半田貴一の方だけに注がれているのは、目を瞑っていても分かった。

 成績が並んでも、皆の注目は太一郎に向く事はなくなった。彼は何も言わず、拍手もせずに、前だけを向いていた。背中に目があれば、貴一を睨んでいたに違いない。

 登校時と同じく、下校にも変化があった。あの二人は、帰りはそのまま半田邸まで車で送ってもらい、夕方まで遊んだ後、わざわざ歩いて家まで帰っているらしい。

 もっとも、太一郎の学校では下校時の集団行動はなかったので、彼もあまり気にはしなかった。だから、一人出とぼとぼと帰るのには慣れていた。

 太一郎が家の前に来た時、知恵遅れの春乃が、いつものように暇な顔をしながら箒を掃いていた。

 待てよ、と太一郎は思わず立ち止まる。確か学校に行く時も掃除をしていたような……。まさか今まで外を掃いていたのだろうか?

 まさかな、と彼が門を開けた直後、背後から酒屋の親父の怒声がほとばしった。

「この馬鹿娘が! いつまで床を掃いとるんや!」

 悪さをした野良猫のように首根っこを掴まれながら店の奥へと引っ立てられる少女にやれやれと溜め息を吐いた。太一郎は笑う気にもなれなかった。相変わらず愚鈍な幼馴染には憐れみを通り越して、何故だか羨ましいとも感じた。

 もしマトモのままで、あれだけのほほんとしていればどれだけ気が楽だろうか。

夕刻に近かったが、家に帰った太一郎は自室に荷物を置くと、とんぼ返りで玄関を飛び出して、友人達のいる空き地に向かった。なぜかいつもはあまり気乗りしない遊びも、今日に限って無性にやる気を起こさせた。気が少し弱いだけで、彼も少国民の端くれだと自負している。嫌な失敗など早く忘れてしまえばいい。

 今なら、ずっと自分は強くなれる気がしたのだ。

 だが、太一郎の元気を残らずそぎ落とす光景が空き地にはあった。何かあったわけではない。そこには誰もいないのだ。

 いつもは東と西に別れて陣地を取り合う戦争ゴッコの真っ最中のはずだのだが、どう言うわけかそこは無人であった。

 太一郎は土管の中や橋の草むらを覗いたりしたが、武器やヘルメットは放置されたまま、毅達の姿はどこにも見当たらない。

 もしかしたら、どこかに隠れて遅刻してきた自分を驚かそうと企んでいるのかと思い、ホロの掛かった防空壕も覗いてみたが、当然だが誰もいなかった。

 やはり気配も何もないとすると、まだ誰も来ていないのか。

 もう、何がなんだが分からない。坊主頭を激しく掻きむしりながら、理不尽な苛立ちを持て余していた。どうかしている。自分だけではなく、毅や恭平まで今までの日常を忘れたように消えてしまうなんて。

 誰かが彼らを唆かしたのだろうか。もしそうなら、その正体は考えなくとも嫌でも分かってしまう。彼は愚鈍ではないのだから。土管に腰を下ろし、堂々巡りの思案に耽る彼は知っている限りの軍歌を繰り返し小声で呟きながら時間を潰した。

 その日、友人達が現れる事はなかった。

 まもなく日が暮れて、そろそろ門限を過ぎようとしていた。諦めて立ち上がった時、はるか前方に奇妙な光景が目に入った。

 自分の家の方角の、その後ろに立つ裏山――時々、気ばなしにそこへ一人で行ったりする――の頂上に生い茂る杉の木から、細長い筒のようなものが飛び出していた。

 それはまるで、大砲の先のように見えた。


  四 失態


 家に帰るまで、太一郎は誰とも話さなかった。

 体操の授業が終わった後、込み上げてくる不快に耐え忍びながら、残りの授業を受け続けた。そして放課後になると、周りを憚らず逃げるように便所の個室に駆け込むと、間髪を入れずに嘔吐した。

 そこに誰もいなかった事は彼にとって幸運であった。もしも誰かの目に触れて笑いの噂にでもなれば、それこそ神経が持たなかっただろう。

「ちきしょう……」

 込み上げる心が呪祖になり、言葉として吐き出される。

吐瀉物は普段の食生活が雑炊だけしかないから、ほとんど土気色の汁や、芋の葉っぱや雑多な残滓だけだった。

 それらがすべて、便器の穴へと消えていく。口から流れる唾液の筋が、糸のように細くなり、消えていく。同時に涙が頬を伝って床に薄い染みをつくる。

 頭を上げた太一郎は正面の壁に誰かの顔と重ね、その個所を力一杯に殴りつけた。

 そんな事をして、何か起こるわけでもなかった。やがて腹の虫が喰う風を訴えて鳴くと、拳に込めた力も空気の抜けたタイヤのように萎んでいった。

 こんな馬鹿な怒りをぶつけてもしょうがないじゃないか。今日は単なるポカをしただけだ。いくら少国民だって、一つぐらいの失敗や悩みはあるものだ。

 そうさ、明日になったら忘れる。きっと忘れられる。

 自分の失敗も、あんな奴も――。

「嘘をつくな」

 本音が半開きの口から吐き出た。それを誰かに聞かれたのではないかと思わず口を噤む。

「あの転校生が来たおかげで……やなかったんか?」

 それは嘘ではない。しかし安堵の反面、貴一に対する憎さもある。それはどうしてなのかも、太一郎は分かっている。

「あいつが僕より偉いからって、カリカリするんはおかしい。そうや、おかし過ぎる」

 小声が段々高くなっているのに気づかないまま、太一郎は十分ぐらい自問を続けた末、周りを窺うように便所から出た。

 教室に戻ると、誰も残っていなかった。授業中には気がつかなかったのだが、窓に張られた米印のテープのせいで、とても薄暗く感じる。まるで夜中のようだ。

 机に寂しく置かれた荷物を持ち、逃げるように学校から出る時も、珍しく人の姿はなかった。外はもう夕日が下がり始め、いつもより門限の時間が近づいているのを教えている。それぐらい、彼は長く便所にいたのだ。

 彼が便所で暗い鬱憤を吐き出したのには、その日の授業に原因があった。

はらわたの煮えくりかえるような贔屓の引き倒しが祟ったのかもしれない。もっとも苦手とする授業である【体操】で大きな失敗をしてしまった。

 その日の授業では、校庭に設置された、塹壕を模した凹凸から別の凹凸へと走って移動するのを繰り返す競技をしていた。よりにもよって、自分の番が来る寸前まで、上の空だった。ぼんやりしていたと言ってもいい。

「神長! 何しとる!」

 強面で、軍隊上がりで有名な鬼頭教諭の怒鳴り声で我に返り、慌ててかけて後れを少しでも埋め合わせをしようとしたが、途中で足が絡んでしまった。

 太一郎は頭から地面へ強かに打ってしまった。顎や膝の痛みに悶えながら立ち上がろうとする少年を、後ろに控える生徒達が盛大に笑う。けたたましい鳥が喚くように。

 どうして自分はこんな失敗をしてしまったのか。いつもならどんなに遅くとも、こんなポカはしないはずだったのに。

 彼らの中に混じっていた貴一と一瞬目が合った。無理な無表情で冷静を保っているように見えた彼は、太一郎の目を避けるかのように顔を伏せる。それが小刻みに揺れているので笑いを堪えているのが嫌でも分かった。

 同情してくれるのでも思ったのか。あいつはお前が普通の奴よりも愚鈍で間抜けだと思っているのさ。決して、自分と同じ愛国少年だとは思っていないぞ。

 心の隙間から沸き上がるどす黒い思惟を掻き消し、太一郎は膝を折って立ち上がると、何も言わず淡々と往復を終えた。走っている時、横腹に少し鈍痛がした。

 戻って来るなり、教諭に殴られると覚悟していた。普通なら、それが当たり前だと彼自身が知っている。

 しかし、出てきた言葉は予想もしていなかった。

「猿も木から落ちるというのだ、お前は」

 そして頭を叩く。しかし、その顔は鬼の頭という名前にふさわしくないほど破顔してニヤついていた。 その後、太一郎の班は道具の片づけを任された。連帯責任とは言え、他の者は彼に愚痴を放つ。

「太ちゃん。体育の時もしっかりせえよ」

 言われた本人は、馬耳東風のように聞き流していた。だが頭の奥にその言葉が、川に流れる藻のようにへばりついたままだった。

 体育の時もしっかりしてくれよ。または、半田君だってうまく出来ていたのに、太ちゃんも頑張れよ。勉強ばかり出来ても、これじゃあ――。

 お前が頑張ればどうだ。太一郎は誰もいなくなった校庭の片隅で、響くぐらいの舌打ちをし、地団太を踏んだ。

 その際、膝小僧が少し痛んだ。


  五 空襲と砲撃


 その晩、二つの光が空を照らした。

 太一郎は、まったくもって不快な気持ちのまま床についていた。十年しか生きていないとはいえ、抑えがたい苛立ちが込み上げたのは生れて初めてだった。

 すべては、あの東京からやって来た転校生――半田貴一のせいに他ならない。あいつがやって来てからまだ三日と経っていないというのに、こちらの調子がすっかり崩れてしまい、できる事までままならなくなりそうだった。

 確かに最初は、取り巻きが寄り付かなくなって、彼は安穏な気持ちでいられたのは間違いないだろう。無理に先頭に立ったり、今までのように嘘話をこしらえたりするなど、余計な気苦労もなくなり、周囲に気兼ねなく過ごせた。

 問題は、たった二日の間にすべてが反転してしまった彼の立場だった。教室の皆は、贔屓の引き倒しで貴一を無批判に絶賛し、担任の玉田先生も『素晴らしい』の一辺倒ばかり言う。今日にしても、今までの太一郎を差し置いて、貴一少年が四年二組の新しい級長に選任された。(彼の学校では、学級の級長は担任の一任で決まる)

 今までなら、太一郎だけが浴びていた賞賛を、東京から来た新参者が掻っ攫って行ったのだ、と彼自身思っているのだ。それ自体が悔しくて仕方がない。特に今日みたいな失態など、今まで彼はした事がなかったからこそ、余計に腹立たしい。

 嫌、違う。もう一人の自分がそれを否定しようとする。本当に怒っているのは、毅や級友達の方だ。今まで散々自分を持ち上げておいて、珍しい東京者が越してきた途端に、自分を差し置いて手の平を返したような態度を取る。   

 ああ言うのをなんて呼ぶんだったか……。

 嫌、そうでもない。太一郎は彼らに無視されているのが、一番腹立たしかった。結局、今までの自分は父の存在のおかげで、皆の先頭に立てていただけなのかもしれない。

 なんと言っても、貴一の父は大手財閥の子会社とはいえ、半田工業の現社長である。しかも、まだ生きているし、その家族も金持ちで――。

 嫉妬。そんなイヤらしい言葉が過ぎり、太一郎は思わず枕に頭を被せた。消えてしまいたいほど情けなく、知らぬ間に目から零れた涙が枕を濡らした。

 どうして自分は、いつからつまらぬ矮小な拘りを持つようになったのか。

 愛国少年。少国民の代表。決して率先して先頭に立ちたいと強く思ってはいない太一郎だが、家族にとって自分が誇りになるなら、どんな面倒でも黙って自分からこなしていた。大日本青少年団――二日前になぜか解散になった――にも参加し、司会進行を志願して慣れない演説をたどたどしく思われないよう頑張ったし、消防訓練も両手にバケツを担いで筋肉痛になるまで動き回り、大人に感心されるようにも心がけてきた。

 学校でも何度も表彰され、教師や近所の大人達からも褒められ、級友の羨望の言葉を聞いてきたか計り知れない。

 それなのに、どうして……余所者のくせに。

 ますます感情が高ぶる太一郎だったが、その先の思考を睡魔が阻む。子供の眠りは早い。数分も立たずに小柄な少年の意識は深い闇へと沈もうとしていた。

 まどろんでいた太一郎少年は突然、束の間の無意識の世界から叩き起こされた。けたたましいサイレンが鳴り響いたせいである。

 すっかり聞き慣れて久しいそれは、彼だけが聞いた幻聴ではなかった。神長家の家族を始め、周辺の世帯の誰もが同様に耳朶を打ったのだ。

 ううううぅぅぅぅぅんんんっ。まるで人の悲鳴に似たサイレンは、今年から時折聞くようになった空襲を示す警報であった。訓練で聞いた時とは異なり、言葉にはできない緊張感と言い知れぬ不安を醸し出す。心を掻き乱す耳障りな不調和音はまるで、人喰いの巨人が上げる雄叫びを想起させた。

 太一郎は、思わず耳を塞いだ。しかし、被さった指の隙間から高らかな咆哮が嫌でも聞こえてくる。彼は小さく呻いた。

「空襲ぅぅ! 空襲警報発令!」

 サイレンに掻き消されながらも、外で誰かが――確か、警防団と呼ばれる人達だ――喉の奥から絞り出すような声で叫んでいるのが微かに聞こえた。

 早く、逃げないと――。

 蒲団から抜け出て部屋を出た太一郎は、急いで廊下で出て母と姉を呼んで待ったが、全く反応がない。依然けたたましいサイレンは静まらず、外では誰かの悲鳴や怒号が響き渡る。近所の人達が避難を始めているのだ。

「お母ちゃん! お姉ちゃん! 」

 もう一度叫ぶが、やはり反応がない。

 太一郎は下の階に降りようとした時、自室の窓を仰ぎ見た。そこから強烈な光が漏れていたのだ。それはまるで昼の陽光と変わらない眩しさである。

 どうしてそうしたのかは定かではないが、彼は階段に向かう事なく、部屋の窓に近づいた。そこらと同じく米印に貼られたガラスの向こうに映るのは、遥か遠くに光の筋が地面から生えるように空へと伸びていた。

 太一郎には辛うじて見えた。山を越えて暗雲を照らすいくつもの投光器が米粒のように小さい何かを捉えていた。まるで、鳥の群れのようだ、と太一郎は思った。そしてそれらは鳥にしては大き過ぎる。

 深夜に鳥が集団で飛ぶのに、どうして投光器が照らす必要がある? なぜ、それだけでみんなが逃げていく? これじゃあ、まるで空襲が起きているみたい――。

 未だ、自分が寝ぼけているのに気づき、太一郎は頭を振る。

 山を越えて、こちらに飛来するのは確かに鳥ではなかった。あまりにも速く、あまりにも巨大で、その全貌が視界に焼きつき、太一郎は悲鳴を小さく上げた。

 彼が初めて目にしたであろう、敵国の戦闘機――B29に間違いなかった。その編隊がまっすぐと迷う事なく、町へ接近してくる。

 爆弾を、焼夷弾を落としに来たんだ。少年は慌てて窓から離れる。

 早くここから逃げないと。しかし、太一郎の体は縄で縛られたように硬直して動けなかった。自分でも信じられなかった。足がブルブル震えている。情けないという感慨はない。恥ずかしく思う余裕もない。 彼はただ、窓から映るB29を凝視していた。

 つい三月にも、六甲の近くで大きな空襲があった。太一郎は、母が友人からそれを聞いて知っていた。どこにかしくも建物が残っていないらしい。辺り一面が焦土と化し、大勢の人が死んだ、と。

 死ぬ。太一郎は真っ先にその言葉が脳裏を過ぎった。

 母も姉も、他の皆もそうだ。戦地ではない。大人になってからでもない。今、ここで自分はここで死ぬんだ。

 太一郎はその場で崩れ、丸くなった。目から涙がこぼれていた。

 まだ何もしていない。ただ愛国少年だと持てはやされていただけだ。それも、あの転校生の登場で終わったが、それでも悪くはなかった。これから死を迎えるのなら、尚更だ。それぐらいしか思いつかない。

 二人はどうしたのだろうか。もしかしたら、自分だけ逃げ遅れたのかもしれない。それなら、やっぱり愛国少年なんて似合わなかったのだろう。

 当の半田貴一は今頃、どうしているだろうか? 金持ちの坊ちゃんなら今頃無事に逃げおおせているに違いない。そして、ついでに毅と恭平もちゃっかり車に乗せてもらって一緒に避難していたりする。

 君の席はないんだよ。憎らしい貴一の言葉が蘇り、太一郎は苦笑した。そして、今そこにいるはずもない本人に向かって話しかけた。貴一君の方が愛国少年にお似合いだよ。そこらへんにいる餓鬼大将よりも、余計たちが悪い――。

 その時であった。頭の中が爆発したような気がした。

 突如、警報音を掻き消すほどの轟音が背後で響いたのだ。太一郎の体はなんとか動いたが、その音のせいで茫然自失に陥っていた。周りの喧騒が聞こえてこない。ツーと耳の奥でかすかに聞こえているだけだった。

 突然の出来事に、初めは近くに爆弾が落ちたのかと思った。しかし、何かが違うような気がする。鈍感になった耳が、また例の砲撃音を拾った。

「砲撃音?」

 空から落ちたものじゃない。それは地面から放たれたのだ。

 薄れかけた記憶を掘り返すために、彼は何を考えてか窓を開けて身軽な身のこなしで屋根に上った。荒が得難い衝動に従いながら裸足で瓦の上を四つん這いに登る太一郎の耳に、再び自分のいる後方から響いた。さっきよりもずっと鮮明だった。

 家の間後ろは、小さな山がある。時々そこで遊んでいたから知っている。

 振り返った彼の視界にその光りが映った。ちょうどその裏山の頂上――杉の木が生い茂るそこから、赤い光が放たれる瞬間を。

 そして、その赤光が照らし出した細長い鉄の筒が刹那だが見えたのだ。そこから、発射された轟音が一筋の光となって空を一直線上に駆けていくのを。

 太一郎は思わず、拳を振り上げた。普段抑え込んでいた感情が雄叫びになって、夜空へ響く。それを掻き消すように、砲撃音が今度は連続してほとばしった。

 山間部から抜ける夜風が、背中に強く流れて押し出してくる。

 B29の蜘蛛の子を散らすように旋回して一斉に後退した。その姿が徐々に小さくなり、やがて彼方へとその姿を消していった。

 裏山の頂上からは、硝煙が残り火のように漂っていた。

 思わず見とれていた太一郎を呼ぶ声が聞こえた。母の妙子と、姉の巴だった。どれぐらいの時間が経っていたのか、いつの間にか警報も鳴り止み、漆黒の空を照らす投光器の光も消えている。それぞれ家路に向かう人達が見える。

 空襲警報が解除された。少なくと、今夜は無事に済んだのだ。

 門前にいた二人の傍には、風呂敷に包まれた荷物がいくつも置かれていた。家裁道具を以って避難しようとしていたため、太一郎の声が届かなかったのだ。

 その時、彼の首を掴む者がいた。

 酒屋の娘にして、知恵遅れの春乃が「怖かったよう!」と叫びながら、首を締めてくる。今夜ほどでもないが、空襲警報が出る度にそんなに目に遭っていた。駆けつけてきた二人に引き離されてやっと解放された。

 月影酒屋の両親に引っ張られて家に消えていく彼女を見ながら、三人で家に戻って、手短に片付けを済ませた。特に爆撃もされていないので明日は普通に学校があるだろう。また、優等生の活躍を日蔭から見物しなければならないわけだ。

 彼はふらつく足取りで寝ぼけ眼をしたまま、部屋の布団へと直行した。しかし眠りにつくまで、耳の中で暴れる砲撃音はしばらく止まなかった。

 どうせ、自分がいなくとも誰も気にしないだろう。風を引いた具合が悪いと言い訳を言ってみてもいい。明日の放課後、裏山へ行ってみよう。

 先の劣情と打って変わり、太一郎の心は躍った。



                《第三回へ続く》

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