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第十回(後編) 黒い炎

 この回は内容の都合により、一部残酷な描写が含まれています。

 

  五 砲台山へ


「なんぞ、あれ?」太一郎は思わず声を漏らした。

 少年はその時、生まれ育った町に殺戮の雨が降り注ぐのを見た。少し遅れて、強烈な破壊音が辺りにこだました。

 少なくとも、金属の筒が空から落ちてくるまでは網膜に焼きついていた。続いて、尾ひれのように伸びたリボンから一筋の火が垂れる遠景を最後に、少年の意識は一旦途絶した。薄れる意識の奥で、カンッカンッと鉄パイプが軒並み倒れる不協和音が途切れずに響くのが聞こえた。


 ――肌が焼きつく熱を感じ、太一郎は目を開けた。

 馴染みの大通りが赤く染まっていた。血かと思ったがどうやら違う。生き物のように左右に揺れているのだ。馬みたいだと、少年は思った。実際、それらは炎であり、自分の周りが激しく燃えているのに気づくと、小さく叫んで立ち上がった。

 いつもの夢ではなく、ましてや幻でもない。肌にまとわりつく熱気は、紛れもない現実に感覚だった。体中が溶けてしまいそうだ。地獄の業火がぴったり合う。周りの民家は大方炎に包まれ、パチパチと火の粉が弾ける。

 太一郎は慌てて立ち上がり、逃げ道を探そうとした。比較的火の回りが遅い店が咄嗟に視界に入ると、太一郎は転げるようにしてそこへ向かって走り込んだ。

 今まで経験した事がない熱さは無数の針となり、肌やとりわけ目に突き刺さる。半目にしてもいつかの夜間の空襲に味わった、冷たい感覚が甦るのを感じた。言いようもない恐怖が、彼の身の内を焦がす。

 店内は空のザルが置かれ、地べたにモヤシのように痩せ細ったキュウリやニンジンが散乱している。おぼろげな記憶で、自分のいる位置が【西埼八百屋】だと分かった。確か、中年の夫婦が切り盛りしていたのは覚えているが、家の近くにもう一軒あったので、面識はほとんどなかった。

 背後の炎を逃れるために、太一郎は奥の部屋へと目指す。店の奥は茶の間だが、ちゃぶ台は乱暴に部屋の端にひっくり返り、代わりに中年の男が倒れていた。この店の主人だろう。うつ伏せになっている顔は分からないが、本人であろうとなかろうと、もう生きているようには思えなかった。

 倒れている背中を、突起物が何本も刺さっていた。すべて六角形の筒だった。咄嗟に爆弾だと思い、太一郎は後ろに下がった。気がつけば、部屋の畳には、いくつも同じ筒が突き刺さり、さながら針地獄の絵図を呈している。

 初めて見た死体は、鉛筆や杭で串刺しにされた虫を連想した。込み上げる嫌悪感は抑え難く、少年は事態を忘れてその場で嘔吐した。

 屈んだ体をすり抜けて、煙が室内に入って来る。もはや長居は出来ない。太一郎は台所に出て、勝手口を見つけた。外がどうなっているかは分からないが、ここにずっといても死ぬだけだ。

 狭い庭に出ると、むっとする熱気と、白い煙が漂っていたが、火の手はまだ広がってはいない。太一郎は何軒かの庭を通り抜けながら、およその勘を働かす。周りからは誰かの怒号や悲鳴、建物の崩れる音が混ざり合い耳に入って来る。

 ふと、地面に影が差す。後ろに巨人でもいるのかと思うぐらい、周りが暗い。

 衝動にかられ、つい、太一郎は見上げた。

 イナゴの大群を連想させる、無数の敵機が空を埋めて過ぎていく。太一郎は目をこすったが、それらは変わる事なく、無数の敵機が上空を通過していく。そして、さっきと同じく、数えきれない焼夷弾の置き土産を落としていった。

 空から降りしきる赤い筋に視界一杯に広がり、耳を塞ぐ暇もなくつんざくような金属音が脳内をかき乱す。少年は思わず悲鳴を上げた。

 学校で教えられた通りに目をつぶろうとしたが、数えきれないほどの鉄の棒が家や地面に殺到した直後だった。

 彼が呆然とする間、民家や商店からが炎に包まれた。

 空襲に遭っているのだ。やっと自覚した太一郎は、急いで母と姉がいるはずの家へと向かって駆け出した。周りに立ち込める煙に加え、鼻腔を今まで嗅いだ事のないような刺激臭は見えない針となり、目や肌に突き刺さる。

 辿り着いた我が家は、幸運なのか、まだ火に包まれていなかった。

 ――ハルは大丈夫だろうか?

 太一郎は最初、向かいの月影酒屋の方を確かめようとしたが、火の手が酷く、店先から近付けそうもなかった。隣の毅の家の屋根にも火が移りつつある。

 仕方なく、自分の家に向かう事にした。

「お母さん! お姉ちゃん!」

 土足のまま玄閑に入り、太一郎は大声で呼びかけるが、どこにも返事はなく空しく響く。奥間にも、茶の間にも二人の姿はない。

 もしかしたら、避難したのかもしれないと思い、太一郎が二階の部屋に上がろうとした時、外でまた風を切る音がした。

 思わず耳を塞ぎ、その場でうずくまった。遠くで何度も聞いた金属音が幾度も繰り返さる。この家だけは無事であってほしかった。

 目を開けると、信じられない光景が広がっていた。家の中が瞬く間に、火の海と化していた。一階の部屋はすべてそうだろう。茶の間に置かれたちゃぶ台や家具、玉音ラジオが燃えている。

 続いて向かった父の部屋も同じ状態であった。奥間も同様で、仏壇ごと父の写真が灰になるのを、太一郎は唇をかみしめながら見つめた。父に対する想いもまた、自分の中から消えていくようだった。

 一階を後にして階段を上がり、自分の部屋の入った太一郎は、窓を開けて、瓦屋根の上に出た。所々で、焼夷弾が貫通した跡があり、危うく足がはまりかけた。瓦の上を四つん這いで進み、太一郎は街の惨状を目の当たりにした。

 いくつかで、黒煙が上がり、地上のすべてが赤い炎で覆われている。小さな人々の群れが、逃げ場を失い、右往左往する。

「畜生、鬼畜米英めが……」太一郎は怒りで声を漏らした。

 続いて遥か空を飛んでいるB29を睨みつける。その後ろに聳える小さな山――その頂上の木々からはみ出た砲身から、突然、赤い閃光が放たれた。

 鼓膜が破けるほどの轟音が大気を揺るがす。喉が鳴り、呼吸が乱れる。

 どこかで経験した感覚だった。体の中にある熱が上がっていく高揚感は、不快でもなく、心地よい物でもない。武者震いだと、太一郎は思った。

 ――あの時の夜と同じだ……。

 自分が何をすべきは知っている。逃げるわけにはいかない。消えかけていた記憶が、抑えがたい衝動を掻き立てる。血が騒ぐと言うべき高揚が、小さな心臓を激しく叩く。

 彼は屋根伝いに下りて、火のない場所に落ちるように着地した。骨を折るような失態はしなかったが、右肩とわき腹が打った。それでも構わず、太一郎はまっすぐと後ろの山へと走った。頂上に構える砲台へ向かうためである。焼けた地面で靴の底が剥がれ、足の裏に激痛と共に肉の焼ける匂い――先程、鼻に付いたそれに似ている――に耐えながら、彼は裏庭を越えて、塀をよじ登り、斜面を駆けて、何度も転びながらも中腹に並ぶ鉄条網の前まで来る。

 彼は、奇跡のような光景を目にした。自分の町を破壊している焼夷弾のうちの一本が地面に抉れ、鉄条網の一部を破壊していたのだ。火も出ておらず爆発した後もないので、不発であるのは見ても分かった。

 自分が跨いでいる時に限って、爆発するのでは。そんな懸念もあったが、衝動もまたそれを上回っていた。難なく飛び越えた少年は、丘を登り続けた。五月の下旬から、母に告げられるまで通いつめた場所だ。もう既に体が、砲台への道のりを覚えている。今の太一郎なら目隠しをしても辿りつけたかもしれない。

 砲台の前には、清照とその上官がいた。彼が目の前に現れ、清照は目を丸くして、少年には聞き取れないほどの罵声を浴びせた。

「何で、来たんじゃ、ドアホ!」それだけは辛うじて聞き取れた。

 胸倉を掴む青年を見上げ、太一郎は言った。周りの喧騒にもかかわらず、その声は静かだが明瞭に清照の耳に入った。

「僕は、砲台守や。せやから逃げへん。一緒に戦う!」

 灰の空気を残らず絞り出すように、太一郎は青年に向かって叫んだ。


  六 空襲


 日常の訓練など無意味であった。すべては余裕のなさであった。誰も、逃げる行為を咎めない。むしろ、日頃の訓練通りに竹槍を取り出す者など一人もいなかった。

 ほとんどの者が逃げた。だが、逃げる先などない。逃げられる道自体がない。

 住民達は、「全員退避! 全員退避!」と叫ぶ警防団員に目もくれずに逃げ惑った。民家の窓が吹き飛び、そこからうねる様な炎が伸びる。パチパチと鳴り、柱や天井が崩れる音が響き、あちこちで民家が崩れ落ちる。中にいた者はもちろん、避難で通りかかった一団に向かい、燃えた残骸が道路側に崩れ落ち、幾人が下敷きになった。

 重量が内臓を押し潰し、骨が折れ、それが臓腑に突き刺さる。真っ先に頭部を潰された者よりも不運と思う者も、まもなく、上半身を瓦礫からはみ出して苦悶の喘ぎを上げる彼らを同情するようになった。

 家族は、下敷きになった者を助けようとするが、その力は如何ともし難く、女子供の力ではどうしようもない。近くにいる者に救助を頼むも、申し出る余裕のある者は皆無であるのは言うまでもない。

「わたしはええから、この子を助けて、早う逃げぇ!」

「痛いよぉ、苦しいぃよお……母ちゃん、兄ちゃん、助けてねえなぁぁぁぁ!」

 挟まれた母子の声を聞いてもなお、二人を助け出す事がまかりならぬ焦燥感。呼び止めても、誰も立ち止まる事をしない。過ぎ去る避難民の足を見つめながら、大黒柱らしき、中年の男は、とうとう、妻の救出を諦め、次男の方を優先するしかなかった。学齢期にも満たない幼児である。子か妻かを選ぶなど残酷の極みであるが、一抹の躊躇を抱きながらも、妻を見捨てる男の辛さは推し量るべきである。

 周りは火の手が広がっている。前にも後ろにも火が迫り、右と左からも炎と黒煙が迫る。あの動きは、自然のものなのだろうか。一心に息子の上に倒れる柱を退かしながら、男は思った。その形が馬に似る事から火を赤馬と呼ぶと、どこかで耳に挟んだ気がするが、目の前を囲う灼熱の火焔は、生き物の動きそのものだった。パチパチと弾けるヒズメを鳴らし、耳をつんざく嘶きを上げて走り去る後に残るのは、踏みつぶされた家と、黒い灰に塗れた屍の連なりである。

 皆、あいつらに踏みつぶされて、ああなったのだ。

 男はやっとの事で幼子を救い出した。機転を利かせた長男がどこからか柱の切れ端を持って来て、その意図に気づいた父親がテコの原理を利用して、僅かな隙間を作ったのである。大人ならば難しい空間で助からなかっただろう。三歳になったばかりの二男を地面に無事にすくい上げた男は、込み上げる歓声を忍んで、我が子を地面に下ろした。

 幼子は変更感覚を失った酔っぱらいのように横転した。片足がないせいである。膝小僧から下部の中心から覗く、白い突起物。その周りにいくつか垂れる、赤い絹糸のような細いもの。骨や筋、血肉である。柱が倒れた時、幼子の右足をもろくも粉砕したのだ。火への恐怖が皮肉にも、足の激痛を麻痺させていたのであり、助け出され自由の身となった今、死にも至る激痛の奔流が少年に断末魔を上げさせたが、それさえも、周りの騒音と人の悲鳴に掻き消され、蚊の鳴き声にも等しくなる。

 我が子の変わり果てた脚を見るや、男は動転しそうになるが、妻を助けなくてはいけないと、泣きわめく子を長男に任せ、急いで妻を引っ張り出そうとした。

 だが、妻の姿はどこにも見当たらなかった。先程まで、確かに子供から少し離れた隣に倒れていたはずなのに――。

 そうではなかった。妻の上にあった柱も消えていた。屋根の重みで、とうとう柱と妻もろとも押し潰したのだ。

 二人を同時に助ける暇などなかった。しかし、子供の方を助けてよかったのか。妻はもう戻らない。子供ならば、後からいくらでも。嫌、いっそのこと自分だけが柱の下敷きになっていれば。

 燃え盛る崩れた家の前で、唖然とする男の袖を長男が引っ張った。その後ろで、次男が未だに泣くのを止めていない。足があった個所からは、今も血が流れている。安全な所に急がなくては、この子までも死なせてしまうではないか。

 先刻まで考えていた悪夢を忘れ、男は泣き叫ぶ次男を負ぶさり、火の手の少ない僅かな道を選びながら走った。後ろの長男は無事だろうか、落ちてきた柱、憎き米帝の飛行機が空から落とす爆弾に直撃していないか心配でたまらなかったが、彼に振り向く暇などなかった。ただ前を進むよりほかはない。


 飛び散る火の粉が、防空頭巾から露出する顔を焦がし、煙が目を燻す。イタイ、イタイと目を押さえる子を引っ張りながら、走る母もいる。顔が焼けるように熱い。猛暑に照りつける陽光どころではない、肌を焼きごてで無理やり押し付けられるほど。ジリジリと肉の焼ける臭いが辺り一面にする。これはすべて、人が焼ける臭いだ。それだけ多くの人が死んでいるのだ。

 乳飲み子を背負い逃げ惑う女性は、先刻までの、子供の耳元に唾が飛ぶほど泣き喚きがしなくなっている事に気づいた。それに背中がやけに暑い。汗が流れる生ぬるい暑さではなく、焼けるような暑さ。

 突然、横にいた知り合いが自分の名を叫ぶのが聞こえる。思わず振り向き、彼女は悲鳴を上げた。防空頭巾を被らせた我が子は、すでにその丸い頭を赤く染めていた。どの人間は太松のように激しく燃えている。生きる太松となった赤ん坊を背中に背負う母もまた、同じ運命をたどった。

 母は死に至る苦しみの中でも、転げ回る事なく歯を食いしばる気持ちで、手を広げながら壁に抱きついた。冷たい感触を微かに期待する間もなく、その意識は深淵へと誘われた。母子の死骸は壁にもたれるようにして伏した。

 生まれたばかりの我が子を、地面に押しつけたくはなかったのである。


 豆腐屋の軒先でうずくまった老婆の死骸があった。他の屍に漏れる事なく、全身を炎に包まれた彼女は、足を折り両腕を伸ばすようにして絶命した。手の先にあった壁にはあの出征兵士の札が誇らしげに掛けてあった場所だった。

 雅男はどうしているだろうか。老いた母には、残された末っ子は命に代えても守り抜きたかった。しかし、出征を命令されてはどうしようもない。

 あの子は今頃どうしているだろうか。ご飯はちゃんと食べているのか。病気に罹っていないか。怖い軍人さんに叩かれていたりはしないか。

 どこかの島で、自分のように死んではいないか。もはや、生きて帰るまでは期待しまい。とうの昔に他界した夫はもちろん、他の兄弟がそうであった。

 せめて、あの世で一緒に会えることだけを夢に、残された余生を生きていた老婆の死骸は、ゆっくりと身を前のめりに崩した。ただ、まっすぐに伸ばされた右手の指は、残されていた僅かな意思がそうさせたのか、ただ一点に向いていた。

 その先にあるはずの出征札もまた、青い塗料を焼け焦げて炭化し、見る影もなかった。


  七 走る少女


 突然、何の前触れもなく空が暗くなった。

 太一郎が通りを駆けて行ってから、いつものように箒で掃いていた春乃は、天空を覆うB29の大編隊に度肝を抜かれた。周りは警報音が鳴り響き、近所の大人が次々と飛び出して避難を始めていく。夜と朝の違いを除けば、数週間前にあった空襲と同じだった。あの時は、敵機で空が見えなくなる事なんかなかった。

 少女は何かがいつもと違う様子に胸騒ぎを覚えた。


 箒を抱えながら空を仰いだ時、小さな卵のようなものがたくさん降り注ぐのが見えた。

 筒のような丸い棒が地面に次々と殺到すると、一面があっという間に炎に包まれた。間もなく、方々から人の悲鳴が聞こえてくる。泣き叫ぶというより、それらはまるで牛や馬の獣が上げる咆哮に似ていると、春乃は思った。聞いた事はなかったが、今、自分の耳朶を打つ断末魔が、人間の上げるものとは到底考えられなかった。

 不意に背後から誰かに突き飛ばされた。強かに顔から地面に叩きつけられる。

「はよう、急げ! 死んだらおしまいや!」

 父親の声だった。母の素っ頓狂な叫び声も頭上を流れていく。

 自分の娘を見捨てて、家裁道具や貯金通帳などを入れた風呂敷を背負い、春乃の両親は死にもの狂いで群衆に交じっていった。二人にとって、知恵遅れとして生まれ学校にも通えず、近所から陰口を嗤われてきた娘は厄介者に過ぎなかった。

 しばらく昏倒していた少女を、向かいの家から出てきた妙子と巴が見つけ助け起こした。

「ハルちゃん、大丈夫?」

 肩を支える巴は、ハンカチの鼻血の出ていた鼻を拭いてくれた。

「お姉ちゃん、おおきに……」

 なんとか言葉を絞り出した春乃は大きく咳込んだ。既に民家から黒煙が漂い、視界が悪化しつつある。

「さあ、ハルちゃん。一緒に防空後へ逃げよう」

 なんの脈絡のなく、「おばさん、太ちゃんは大丈夫?」と言葉が出た。丹精を込めた画用紙を受け取って、疎開へと出ていくはずの幼馴染の無事を気がかりだった。

「大丈夫、あの子なら今頃学校におるから、先生の指示に従って避難――」と、鼓膜が潰れそうな轟音が妙子の先の言葉をかき消した。

 それは神長家の背後にある裏山から響いた。頂上の木々から覗く砲台の先が目に入り、それが発射された事を知った。

 あの一件以来、自分と太一郎はあそこへの出入りを禁じられた。

 髭を蓄えた偉い軍人さんが向かいの家と自分の酒屋にやって来た。髭の軍人が事の次第を説明して帰った直後、今まで戦々恐々に固まっていた両親は鬼の形相に変わると、自分を散々追いかけ回した。以来、ずっと店の手伝いか、当てもなく街をぶらぶらして一日を終えるようになった。

 単なる勘違いかもしれない。春乃は、あそこに太一郎がいるような気がした。

 こみ上げる衝動に身を任せ、少女は黒煙の中を歩い出す。ジリジリと焼けつける熱気に喉が痛くなる。だが、二本の足だけが止まるのを知らずにゆっくりと進む。方角さえも定かでなく、母娘の呼び止める声が遠ざかっていく。

 ふと、春乃は足を止め、煙を手で振りつつ空を見上げた。

 微かに遥か頭上に垣間見える小山の頂上。空に向かって伸びる筒先。砲台の傍で両耳を塞ぎながら天を睨みつける少年の光景を、少女は思い浮かべようとする。

 その骨ばった細い肩を、見知らぬ男が叩いて揺さぶった。

「ここで何しとる、早逃げや!」

 相手が防空班の役員とは知らず、春乃は小さく叫んで逃げようとした。

 その時、すぐ近くで爆発が起きた。か細い体が小枝のように舞い上げられ、数メートル飛ばされた挙句、地面に全身を強かに打った。

 苦痛に悶えながら起き上ると、自分がさっきまでいた場所が深く抉られていた。大穴の縁に、先ほどの男が倒れていた。役員を示すタスキをかけた体がうつ伏せになっている。近くには拡声するための筒が無残にもひしゃげていた。

 春乃はおもむろに近づき、恐る恐る小さく声をかけた。

「大丈夫か……おっちゃん、怪我したんか?」

 土埃の被る肩に触れて、顔を確認しようとした時――母親に似た素っ頓狂な声を上げて、少女はその場で腰を抜かした。

 役員の首がなくなっていた。千切れた断面から、肉と骨が覗き、血潮が止めどなく溢れ出てくる。死んだ事を自覚していなのか、手足の先が小刻みに揺れていた。

 へたり込む少女を尻目に、人の群れが、荷車を引く牛馬が通り過ぎていく。当たりは黒煙が漂うばかり。一寸先は闇そのままの光景である。春乃は男性の死体に目もくれずに避難する人々に向けて叫んだ。誰かが振り向くのを期待するように。

「首なしじゃっ! 首なしじゃっ! 首なしじゃっ!」

 振り向く者は、誰一人いなかった。


  八 空襲


 家財道具を一切合財持って逃げる暇はない一方で、手ぶらで逃げるには不都合な家もあった。だが、人間の手で持てる量は限られる。中にはリヤカーを引いて、家宝や箪笥などを運び出す家庭もあった。

 ある家では――。

 必死で走る避難者に目もくれず、恰幅の良い主人は、先祖代々から受け継がれてきた家宝の壺が入った木箱を丹念に運んでいた。早く逃げたい衝動を抑え、書生も言いつけ通りに手伝ったが、家宝に加え、生来我欲の猛々しい主人が貯めに貯めた蒐集品は並みの数ではなく、「旦那様、そろそろ逃げませんと!」と書生が何度も警告した。が、何かに取りつかれたように、本人に止める兆しは一向にない。

 海に面する神戸は当然ながら港が多い。当然ながら、貿易、造船、鉄鋼の要となる交易地でもあり、時節の経済の影響をいち早く受ける産業都市である。実家の財力もさる事ながら、三十年前の大戦景気でさらに儲けた一財産で、その主人は悠々自適な老後を予定していた。

 家宝と、趣味で集めた骨董の数々。贋作も混じっているなど、ハナから想定していなかった。金に糸目をつけず、多少の出費を度外視してでも、彼は宝物に囲まれていたいと思っていた。財力は、あくまで手段に過ぎない。

 あまりにも順風満帆に過ぎた。国が戦争を始めようと、大政翼賛会が声高に国威発揚を訴えようと、食器や鉄の供出を強いられようと、他人にとっては毒にも薬にもならない骨董品ならば、取り上げられる事もない。いざとなれば、知己の高官に金を出せば黙認された。いつの世にも金が物を言うのだ。たとえ銃後であろうと、その鉄則は変わらない。骨董があれば、この世がどうなろうと知った事ではない。自分にとって、異国のエキゾチックな絵が描かれ、すべては女の脚線にも似た輪郭と手触りをした、壺さえ手にあればどうでもよかった。

「ひえぇ!」と間の抜けた声を残して、書生の姿が消えた。

「コラッ! 待たんかい!」

 呆れて声も出ない様子で作業を再開した男は、目の前が黒くなるのを感じた。

 空を仰ぐと、雲を隠すほどの敵機の群れが通過していくのが見えた。まっすぐに風を切る音が徐々に頭の中に入り、えも言われぬ耳障りな響きがかき乱す。

 男の屋敷一帯の通りに爆弾が殺到したのだ。雲が隠れ、夜中のように暗い空にポツポツと点々が視界一杯に広がっていく。口をあんぐりと開けたまま、あまりの光景に男の体が硬直して逃げられなかった。

 同じ爆弾にも違いないが、焼夷弾ではなかった。それらは、より標的の生き物を殺傷する事を前提とした破砕弾である。焼夷弾のように落下を続け、一定の高度で炸裂すると、二十発分の鉄片が飛散する仕組みになっている。

 男の見た爆弾も同じものであった。花火のように露散したかと思うと、その欠片の群れが殺到し、倉の中に逃げ込む暇もなく、彼の全身に直撃した。顔面に向かって、何か突飛のある物体が迫ったかと思うと、視界が暗転した。

 両目を破片弾が突き刺さり、血飛沫を立たせ、同じものが顔全体に降り注いだ。鼻の天辺から鼻腔の中を横断し、厚ぼったい唇を裂いて、口の中の歯をへし折る。鉄の雨は、手足や胴体にも刺さった。

 体中の神経を引き裂かれるような激痛に転げ回る。足の先から顔にかけて走る熱は、気が狂わんばかりであった。

 とうとう、脳天に刺さった破片が大脳を損傷し、バランスを崩した男はリヤカーの上に倒れ込んだ。衝撃で箱に収められた家宝の壺が割れ、死体の周りに散らばった。

 この男と違い、急所を免れた者は悲惨である。破砕弾を降り注いだ後、衣服や顔の表皮を引き裂かれ、ハリネズミのように鉄片に覆われる。全身から血を流し、低い呻きを漏らしながら、その場に止まり銅像のように動かない。動けば痛みが強まる手を動かせば腕を引き裂かれるような苦しみ、顔や口も微動だにできない。だが、僅かに動いただけでも突き刺さる破片がたちまち鋭い痛みを走らせる。その場にひれ伏す人々、後からやってきてその惨状に目の当たりにして立ち尽くす者もいる。

 焼夷弾のもたらした業火も迫っている。大通りならともかく、狭い道であるならば、修羅場と化すのは言うまでもない。左右の家屋も燃え、後ろからも黒煙が迫る。むせ返る中で、異形と化した誰ともつかない人の群れを掻き分けなければいけない。

 大通りでは、商人らしき家族が荷馬車を出そうとした時に、破砕弾の砲火を浴びた。家族は即死であったが、人間よりも大きな動物は死ねなかった。激痛にいななき、あらん限りに眼球を飛び出させ、馬は荷車を牽引したまま、縦横無尽に走り回る。人の群れをなぎ倒し、道端に倒れる幼子の顔面を蹴って、小さな体を踏みつぶす。骨が砕ける音、ザクロのように弾ける子供の死体をよそに、止めようとする者は少なかった。ほとんどの者は前を歩く人々を押しのけていく。ドミノ倒しになる人の体。いつの間にか、炎に包まれて、赤い馬と化したそれは道の真ん中に倒れ込んだ。ひときわ大きな鳴き声を発すると、その首を地面に伏した。

 もちろん、馬や犠牲になった人を憐れむ者など少なかった。


 B29が飛来してから阿鼻叫喚の極致にある中で、齋藤老人はいつもの日課をしていた。呆れる者はいない。普段から耄碌もうろくしていると噂されている老人だ。気が狂ってしまったのだと考えているのだ。

 老人にとって、こんな状態は屁でもなかった。大日本帝国の夜明け――明治時代の日露戦争、先の大戦を従軍した彼にとって、日本はあくまでも勝利すると信じて疑わなかった。神風が吹き、憎き鬼畜米英を蹴散らす。それらを為すのが、他の誰でもない、畏れ多い天皇陛下であると厳に確信していた。日々の儀式を怠らなかった理由である。

 こんな攻撃など、攻撃の内にも入らない。蚊ほども痛くない。

 齋藤老人の家族もまた、五人の孫は残らず戦地へと出征し、こともあろうに一年足らずで骨壺となって戻ってきた。どれも砂利と石が混じっていたが、本当の性根のない貧弱な孫達だと、何日にも渡り、遠い皇居に向かって自らを恥じて詫びたものだ。

 孫と同じ年には、二度の戦火を歴戦し、胸を埋めるほどの勲章を授与された夢を抱いた自分と比べて、なんという不甲斐なさであろうか。

 かつて、大日本帝国は、世界最強と恐れられたバルチック艦隊を大海に撃沈し、大国ロシアから勝利を収め、先の世界大戦では青島を手中に収めて圧勝した。当時、目立つ前線にいたわけではない。辺境の戦地で燻っていた彼でさえ、過去の戦歴を自らもぎ取ったかのように、周りに対して絶賛した。

 老人は刀を腰に下げていた。かつては光沢を放っていた刃先は、すっかり赤褐色に錆び、溶けたロウソクよろしく微妙に曲がっている。子供が遊ぶのに使う竹光よりも、役に立たない代物なのは明確だった。

 だが、老人には歯牙にもかけない事態だった。今日まで積み重ねてきた歴戦の証なのだと考えていた。息子夫婦は、耄碌しただの、ボケただの陰口を叩いていたが、過去の自分を見た事のない若輩の戯言に過ぎない。

 この襲撃も大事ではない。そのうち、強風が吹き荒れ、憎きB29どもは海の彼方へ飛ばされるはずである。

 大日本帝国が腐敗するのは、自分のような功労者を蔑にする者どものせいだ。この前に、神長家がアカに染まっていた事が発覚し、老人は戦々恐々とした。腐敗を導くのは、歪んだ思想であり、甘受する愚か者どもだ。

 老人は山を越えて飛来するB29を睨みつけた。まるで、その操縦士を眼力で呪い殺そうとするほどの凄みであったが、当の本人に分かるはずもない。

 背後の小さな山から轟音が響いた。赤い閃光が伸び、砲撃の軌跡が空をなぞる。

 あれこそ、神国の武器だ。あれで、憎き鬼畜米英の先鋭を蹴散らせ! 

 高射砲の一発をかすめつつ、一機のB29が去り際に機銃掃射した。風と切る音を伸ばし、齋藤老人の上半身は一瞬で消失した。生前の意気込みとは裏腹に、残された両足はあっけなく倒れ、折れた刀は地面に落ちた。

 歴戦の勇士の遺骸は、町を覆う炎により、かすかな痕跡さえ残らなかった。



                《次回へつづく》

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