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第十回(前編) 白い朝

 この回は内容の都合により、一部残酷な描写が含まれています。

 

  一 闇の映画


 暗い場所が、こんなに心地のいいとは知らなかった。

 蒲団に深く潜り、冬眠をする動物のように身を丸くし、太一郎はただ一点を見つめていた。そこに何かあるわけでもなく、毛布の壁に過ぎない。

 暗闇に慣れた彼の眼には、古いトーキー映画が映っている。無法松でも、鞍馬天狗でも、漫画で動く桃太郎でもない。上映されていたのは、少し前の自分を取り巻く一幕だった。

 ぎこちない動きで肩を振って、国民学校に向かう太一郎少年。その後ろを、一同に案山子の顔をした朋輩後輩達がつき従っている。

《太ちゃん、今度は何人、アカ捕まえた?》

 黒い背景に、毅の台詞らしき白いテロップが浮かぶ。

《三人や》自分がウンザリした表情で答えた。

 こんな顔をしていたのか……。彼は、まったく自覚をしていなかったのだ。すっかり慣れてしまったせいだろうか。今となっては、どうでもいい事だ。

 悪童の群れが一人の少女を取り囲み、はやし立てて笑う。

《知恵遅れの春乃、オマエの頭は空っぽか?》

《これいくつか分かるか?》三本指を立てる案山子の、への字をした口が歪んで、黄ばんだ歯を覗かせる。他の連中も同じように笑う。

 ただ、主人公の太一郎だけが全員の後ろで茫然と立っていた。不都合な光景を前に、万事何もないように振る舞おうとするのか、決まりの悪い苦笑いを浮かべる。目が明後日の方向に泳ぐばかりであった。

 本物の太一郎は、スクリーンの自分を始めは見下していたが、今の状態の考えると全く否定はできなかった。

 あの時、止めに入ったら、やはり今みたいに迫害されていただろう。毎日、春乃と一緒に馬鹿にされて、袋叩きに遭っていたに違いない。

 太一郎は首を振る。てんで馬鹿げている。愛国少年というのは、弱い奴を苛めて褒められて良いはずがない。言い訳を吐く自らも、結局のところ毅達と変わらない。

 昔日の映画は淡々と進む。家族三人の平穏な夕餉。このひと時だけが、一番心が休まる時間だった。貴一の転入と入れ替わりに、徐々に阻害される太一郎。放課後、便所に籠り、卑屈に悪態をつく太一郎。

 そして、闇夜を照らすB29の群れ。それらを蹴散らした赤い砲撃。少年少女が辿りついた裏山の奥に眠る砲台と、青年兵士。豆腐屋の長男の出征式(……雅兄ちゃん、今頃どうしているんだろう?)。砲台の前で交わされた約束。

 変わらない砲台守と学校の日々。不思議にも、太一郎はあの間がどうしても鮮明に思い出せなかった。まるで、遠い昔の出来事のようだった。清照が何を言っていたのかも、春乃が画用紙に何を描いていたのかも。

 やがて、父の部屋での発覚に場面が移った。

《こいつはアカだ!》

 こちらに指を向け、小太りの案山子が耳まで裂けた口を広げて叫ぶ。

 母は、父の総爾は外国の音楽や本に興味があって、赤盤や共産主義の本を集めていたに過ぎないと言った。楽しむためであって、思想や主義とは別物だと。

「じゃあ、なんで隠しとったん? まるで見つかったらまずいみたいに」

 太一郎は思わず声を漏らした。隠していた理由は、身を持って知っている。

 それからは、目を覆いたいばかりのシーンが続く。再び目を開けると、奥間を荒らす自分の姿だった。床に落ちた父の遺影を踏みつけ、母にぶたれた。

 心まで強制される義務は、人を駄目にしてしまう。心を保てる物が人には必要だと、その時に母を通して、父の言葉を聞いた。

 映画はいつの間にか終わっていた。大きく、“完”と映っていたが、それすらも消えて、再び静けさが戻っていた。

 微かに、外から鳥のさえずりが聞こえる。米印の窓から朝日が眩しく差す。結局、一睡もできないまま、太一郎は六月五日の早朝を迎えた。

 これからは、こんな安らげる闇はどこにもないのだろうと思った。

 太一郎は蒲団からノロノロと抜け出し、米印のテープが貼られた窓の隙間から晴れ渡る空を見上げた。梅雨時に珍しく、雲一つ見当たらない。どこかでラッパのファンファーレが鳴り響く。いつもよりも早い朝がこんな顔を見せるとは、今まで知らなかった。

 部屋の隅には、着替えの服や日用品を入れた雑嚢が置かれている。まるで学校の遠足にでも行く時に似ているが、疎開の事を思い出す度に心が泥沼の底に沈んでいくような感じがする。

 学校毎に疎開が行われるならば、当然毅や貴一もついて来る事になる。嫌、貴一はまだ怪我が治っていない。もう治っているはずなのに、ズル休みでもしているのかなかなか学校に現れない。それはそれもこちらも好都合なのであるが、彼が取り巻きの毅達に新しい報復を指示しているなら話は変わって来る。

 そんな事はどうでもいいじゃないか。一度出来上がった現実が改善すると信じていた自分が、どんな目にあったのかを十分に学んだ。結局、神長家を取り巻く醜聞は消える事もないだろうし、母の言う誤解も事実として受け継がれる。自分や母達を窮地に追いやる原因の張本人はとうの昔に死んだ。非国民の父親をいくら恨んだとしても、やはり現実は変わらないし、問題が解決するわけでもない。

 細い体のあちこちにはまだ数日前の私刑の痕が薄く残っており、その箇所に力を入れると鈍痛がする。介抱した母は、当然自分がどうしてこんな傷をこしらえたのかを知らないわけがないだろう。

 それなのに、彼女は未だに死んだ父を擁護しているのが、太一郎にはまったく理解できなかった。優しい心を持て。誤解はいつか解かれる。そんな甘い言葉を言うだけでなく、父を許せとも懇願する母を承服できない自分がいる。どうして死んだ者ばかりを庇うのか。そうした所で何が変わるというのか。

 周りが持ち上げてきた事もあるが、太一郎は自分が少国民と呼ばれて賞賛されるのが当たり前と信じて疑ってこなかった。そうだ、自分自身も満更ではなかったのだ、それがたった一つの傷ですべてが崩れ去ってしまった。何もかも失ってしまったのだ。家族との平穏も、何の波風も立ってこなかった学校の生活も、そして永久の職と思えた砲台守の地位さえも奪われた。

 それは永遠に続くと思っていた。自分がいつか大人になって兵隊になるまで、変わらない毎日を過ごしていたかった。そうしていたかったのに――。

 太一郎はいつもと変わらない外の風景を見ながら、知らず知らずの内に泣いていた。それがいつまでも続くとは信じていないし、自分はそれほど愚鈍ではない。終わるという覚悟もあるはずだった。兵隊になって御国のために死ぬ事になんら疑問も抱いていない。しかし、その終わり方はあまりにも理不尽過ぎたのだ。

 少年の願いとは裏腹に、朝の時間は淡々と過ぎた。


  二 最後の朝食


 太一郎が階段を降りて来た時、姉の巴と鉢合わせした。今日は確か、工場は休みだったはずなので、家で母の手伝いをする予定のはずである。男勝りを思わせる短髪をかき上げ、女性になりつつある顔を向ける。充血した眼がゆっくりと一瞥すると、「朝ご飯」というだけで茶の間へと消えた。

 昨日の事を根に持っているに違いない。太一郎は、姉が生前の父を親しんでいたのを知っていたし、それを妬ましく思っていた。

 茶の間に入ると、二人はすでにちゃぶ台を囲って座っていた。どちらも、太一郎から視線をそらそうとする。

 起きた時間もいつもと違うならば、朝食の光景もやはり今までとは少し違う。母も姉も何も言わない。何かを秘めた顔は感情を表に出す事なく、食事を口に運び終わらして、茶碗を洗い場まで持っていく。とうの太一郎も何も言葉は出てこない。言葉が何も思いつかないし、二人にどう話せばいいのかを考えあぐねていた。

 最初に静かな均衡を終わらしたのは、妙子だった。

「今日から、太ちゃんがいなくなるんやね……」

 今まで石像みたいに黙っていたくせに、なんて白々しいのだろうか。太一郎は、茶碗を一度置いた。気のせいかもしれないが、いつもは圧倒的に少なかったはずの銀シャリが今日は少し多く、小さいはずの芋も少し大きい。

「僕は平気や。もう子供やない。大抵なら一人でできる」

 言うには恥ずかし過ぎる空威張りなのは分かっている。無理をしていると感づかれたくはなかったが、本音は顔色に出てしまうのが常である自分の事だから、ばれているに違いない。

「家が寂しゅうなったら、手紙を書いてね」横から姉の巴が静かに言う。

 少年は姉の方を向いて、ハッとした。今にも泣きそうな顔をしていたのだ。いち早く顔を反らし、「うん」とだけ答えて、太一郎は居間から出ようとした。

 背後から、母が呼びかけた。

「お父さんの事やけど……」

「もうええよ。お父さんを悪く言うて、ごめんなさい」

 許すわけがない。もしも、本人が目の前にいたら、太一郎は大声で面罵してやるつもりだった。自分や家族を不幸にしてまで、アカの物品で慰めていた父を今まで尊敬していた自分は馬鹿以上の何者でもない。

 歯磨きをした後、自分の部屋に戻り、最後の身支度をしていると、母が部屋に入って来た。それでも構わずに、太一郎は荷物を整理していた風に装った。

 何かを言うわけでもなく、出て行くわけでもない。太一郎がイライラして痺れを切らした時だった。

「もし、太ちゃんがお父さんを嫌いになったんは、お母さんのせいなんよ」

 少年の手が止まった。最初、母の言葉の意味がよく分からなかったのだ。

「私はね、巴や太ちゃんの事が好きやけど、あなた達がお父ちゃんを嫌いになっちゃうのは耐えられないの」

「お母ちゃんのせいじゃないよ。お父ちゃんが悪いんやから」

 妙子は首を振って、「あれを隠してたのは、お母さんなの。お父さんやないの」

 太一郎は慌てて振り返り、母を見つめる。

「なんで?」

「お父さんはね、仕事場で倒れたあの日の朝に、部屋のレコードや原稿を燃やすように言うたの。もし何かの拍子で見つかったら、大事やからって」

 少しずつ、言葉を整理するように妙子は続ける。

「私が、家の庭で燃やそうとした時、連絡が入ったの。お父さんが血を吐いて倒れたって。それから、看病やお葬式やらで、すっかり忘れてたの」

 窓がカタカタ揺れた。今日は少し風が強い。なのに、彼らの部屋の中は恐ろしいほどに静けさを保っている。

「思い出したのが、四十九日を過ぎてから。でも、結局は燃やせんかった。日を変えても、どうしてもできへんかった」

「なんでなん?」

「お父さんの形見やからよ。あの人の残したものを捨てたら、本当に忘れてしまう気がして」

 太一郎は何も言わなかった。

「全部、お母さんの勝手のせい。だから、太ちゃんはお父ちゃんを許してあげて欲しいの。今すぐとは言わない。だけど、ゆっくりと少しずつでいいから、認めてあげて欲しい」

「認める?」

 妙子は頷き、「あの人はね、太ちゃんが思うほど、強い人ではなかったかもしれんけど、本当に優しかったんよ。そんな人を、家族の私達だけでも味方してあげたいの」

 死んでからも責められるなんて、かわいそうやと思わへん? 朝食を終えてからも、母の言葉がずっと頭の中を反芻した。

 もちろん、許すつもりはない。だが、いつまでも恨み続ける自分はいつかおかしくなってしまう。そう思った太一郎は、父を認める事にしたのだ。和解するという意味ではなく、そんな趣味を持っていた、売国奴ではなかったという認識である。その父のせいで、自分達の暮らしが変容した事実を曲げるわけにはいかなかったが、口では何も言わず黙っておく事にしたのだ。

「お母ちゃん、お姉ちゃん」

 巴が顔を上げて弟を見た時、それがいつもと何かが根本から違うのに気づいたが、具体的には何が違うのか分からなかった。しかし、普段見慣れていたはずの太一郎の顔に差した陰影が増し、どこか人形のように作り物めいていた。

「僕らは、非国民じゃない。だから疎開なんかして、逃げたくない」

「太一郎、あなたはまだ戦うにも子供なの。今はあなたは死んではいけないの」

「分からないよ。そんなの」

「お父さんもいなくなって、太ちゃんもいなくなったら、私達はどうしようもなくなるの」顔を下げて、床の畳を見据える少年の頭を撫でながら、母は言った。「太ちゃんには死んでほしくないの。親なら誰もそう思うわ」

 妙子の言葉が外に漏れて、聞き耳を立てているかもしれない近所の誰かが憲兵に告げ口でもしないかと、彼は内心冷や冷やした。どうしてみんなは勝手な事しか口に出せないのだろうか。

「でも、それはいけないんじゃないの?」

「お母さんやお姉ちゃんはね、太ちゃんが兵隊さんになって、どこかの戦地で死んでしまうよりも、今のように元気に生きていてほしい。お父さんもそう思おとるよ」

 それは非国民だという人もいるけど、それが当たり前の考えだと思うの。声に力が入っているわけでもないのに、母の言葉は鋭い針が耳に入るように突き刺さった。

 太一郎は逃げるように、二階の部屋へと上がった。頭を針で刺すような、チクチクする鈍痛がしたからである。


  三 餞別


 玄関を抜けた太一郎は、一度足を止めて溜め息をついた。

 もはや、癖になのかもしれない。もういい加減、忘れてしまいたいほど気恥ずかしくなる自分がいる。もう、演じる意味なんかないのだから。そう思いながら、太一郎は雲一つない空を、そこに一点と頂く太陽を見つめて目を瞑った。

 そう、もう嘘は必要ない。愛国少年でいなくてもいいんだ。太一郎は、大きく息を吸うと前を見据え、門を過ぎて通りへ出た。

 向かいの酒屋から、春乃が勢い良く駆けだしてきた。難なく横に避けると、そのまま神長家の塀に突進して転倒した。まさに、猪突猛進というやつだ。

 少女は機械仕掛けに似た動きで立ち上がり、少年とは目と鼻の先に立ち止まると、何も言わずに一枚の丸めた画用紙を手渡した。

「昨日まで描いていたんじゃ」

 春乃の大きな両目は赤く充血し、その下にはクマができている。

「見てもええか?」

 少女は満面の笑みを浮かべて、大きく頷いた。期待していたみたいだ。

 そこには、あの砲台を背景に自分や春乃、それに清照が写っていた。相変わらずクレヨンで描かれた荒い絵だったが、人の顔の特徴を的確にとらえていた。背景となっている砲台や木々も詳細に描き込まれている。

 今まで見てきた中で、一番綺麗な絵かもしれない。太一郎は食い入るように絵を眺める。もうどこにもないであろう、輝かしい一時が一枚の紙に封印されている。

 こんないいものを、自分が持っていてもいいのか、彼は迷った。

「僕はいらん。もったいない。ハルが持っとけ」

「太ちゃんに持っていてほしいんじゃ!」

 突き出すように渡された紙はクチャクチャになっていた。太一郎の胸に当たり、グニャリと折れた。慌てるように、少年はそれを直した。

「ありがとう」

「太ちゃん、いつ帰って来るんじゃ?」

「分からんよ、そんなん」

「病気に気ぃつけてな。それに怪我もしたらいけんよ」

 どちらもしないで済む保証はない。特に、貴一達がついてくるのなら、無理な約束だろう。もちろん、太一郎の方も相手を無傷のままにしておくつもりはない。

 もしも向かってくるのなら、噛みついてでも怪我を負わして……。

 馬鹿。彼は自分を咎めたのは、貴一を突き飛ばした時を思い出したためである。

「太ちゃん。絶対にけがしたらいかん。絶対に病気になったらいけん」

 壊れた人形のように春乃が何度も言葉を繰り返すので、「分かった、分かった」と適当に手を振って学校に向かおうとしたが、腕を止められて動かなかった。

 少女は太一郎の袖を掴んで放そうとしない。

「は、放せよ」

「死んだらあかん」どうしてそんな事を言うのだろうか。疎開に行くのだから逃げるようなものだ。

「分かった。分かったから……放せや。僕は死なへんって……」

 春乃の細い手をゆっくり振りほどき、太一郎は後ろを見やる事なく走り出した。

 しかし、急に足を止めて振り返り、太一郎は腹に力を入れると大声で言った。

「お前は馬鹿じゃない! 今は遅れとるだけで、すぐに皆を追い越すで!」

 目を見開いた少女の顔が小さく映る。太一郎は前を向き直り、全速で駆けた。春乃の後ろに立つ、母と姉が米粒になるまで見えたが、少年は振り向かず、手を振ったり何か大声で別れを告げようとはしなかった。

 見慣れた狭い通りを抜け、行き交う隣人や学童の集団を突っ切り、彼はただ闇雲に走り続けた。誰かが太一郎の姿を捉えて何かを言っている。口々に本人に聞こえる程度に囁き合っているのも脇目に入ったが、今の太一郎はそこから早く逃げたいと思った。

 一方で、立ち止まって引き返したい自分がいるのを感じた。衝動に任せる事もできただろう。だが、少年は振り向くのも忍んだ。

 ふと閑散とした商店街を見渡すと、店先から不信の視線がチラホラと突き刺さる。少なくとも今は、態の良い紛わしだった。自分は非国民ではない、と太一郎は敢えて遅い足取りで進んだ。あくまで、平静でいようとしたのだ。装いではなく、自分が正しいと心底から思うから、そうするのである。

 どうして自分は逃げなくてはいけないのか。太一郎は一旦足を止めて、過ぎ去った通りにまばらに残る大人達と目が合った。

 少年が幼い目で睨んだ途端に、蜘蛛の子を散らすように、または止まっていた時間が突然動きだしたかのように端々へと動き始めた。

 自分や家族は置かれている状況は、思っているよりも深刻ではない。今まであれほど恐れていた、得体の知れない不可視のものが、とても何かが滑稽に思えて仕方がなかった。結局、自分が今まで守り抜いてきたものは、川面の泡沫みたいに浮かんでは消える脆いものだった。後生大事にするまでもないのだ。

 もっと大事なものが他にある。家族や、幼馴染、父親の遺志、そして……。遥か後方に小さく聳える、小さな裏山の頂上から微かに見える大砲の筒先。

 太一郎は首を振った。愛国少年じゃなくなったように、砲台守でさえない。清照が邪険になったのも悪気からではない。

 皆、嘘が下手なのだ。それでも誰かのためにやらないといけないのだ。太一郎の頭の中の濃霧が晴れ、朝からの鈍痛が一気に引いた。

 踵を返し、残り僅かな学校への道のりを急ごうとした矢先――これまで嫌というほど聞き慣れてきた警報のサイレンが、張茂町の通りに鳴り響いた。

 途端に、心臓が跳ね上がり、条件反射で背筋が震えた。砲台を目撃した夜と同じ状況だった。だが、それだけではない。

 けたたましく響く警報とは別に、何かが違っていた。

 

  四 針のしぐれ


 昭和二十年六月五日の火曜日。

 早朝から快晴だった青空を、B29の群れが隙間なく覆い尽くす。時間は午前七時半頃に差しかかり、警報が発令された六時過ぎから一時間半が経過していた。

 太い胴体と、両端にプロペラをいくつも備えた銀翼を広げ、神戸の空を飛翔する敵機の群れを、一体どれだけの者が目に焼き付けただろうか。あまりにも圧倒的な数量と威容は、遥か下界にいながらも捉えるのは容易だった。

 案の定、避難を中断してまで仰ぎ見る者は少なくなかった。最初の一人に続いて、道を歩く人々は次々と倣う。誰もが、数十分前から鳴り響く空襲警報を聞き、町内の役員の指示に従い、各々に決められた避難場所へ移動するところであった。

 誰かが頭を上げながら、「へええっ」と小さな声を上げた。

 B29とその五梯団の大編隊が町の上空に差し掛かると、その太い胴体が次々と縦に割れていった。観音開きになった下部から、何やら小さな物体が露出される。規則的に積まれた細長い筒だった。遠い地上からは、微細な微粒子に過ぎないが、一機分だけでも数えるにはどだい不可能であった。

 積み上げられた筒を支えている留め金が急に外れ、そして――焼夷弾の束が散らばるように宙空へ放たれた。

 地上に立つ者からすれば、大鳥が天空を駆けつつ、自ら産んだ無数の卵を眼下へと生み落としているという、荒唐無稽な絵を想起させただろう。

 鉄の卵はある程度の落下を続けると、突如、空中分解した。卵殻から割って出た雛が親鳥と似るように、分散した筒から現れたのも、同じく長細い筒であり、より小さくなっている。まるで雨霰のような途方もない数となって地上を目指した。

 無数の筒は、落下に従ってその形がはっきりとしていく。鉛筆に似た六角の形を成し、さらに、その筒の先からリボンが伸びており――その姿形が赤く、炎に包まれていると、人々が認識した直後、視界を覆い尽くす鋼鉄の雨が神戸の町に降り注いだ。

 それは、人の意思で放たれた、無機質な殺戮の雨である。

 最初の焼夷弾が地面に落下した時、大半はドスッという音と共に地面に突き刺さったが、幾人かの市民が直撃を受けて即死した。

 一本だけならば、何千メートル下を歩く人に当たるよりも地面に倒れるのが、普通ならば妥当である。この日、約三〇〇〇トン分の焼夷弾が、東神戸から阪神間にかけて放たれた。B29には、一機につき、三八四〇発の親弾が搭載されている。射出された親弾は三〇〇〇メートルを過ぎると、空中分解を始める。一本の親弾から四八発分の焼夷弾がばら撒くように広範囲に露散する。そして、地上三〇〇メートルを切ると、さらに分解して、落下と共に着火する。

 一斉に地上に降り注げば、むしろ縫い間ないほどだろう。三月に行われた東京の大空襲の二倍に相当する規模であるなら、尚更である。

 空を見上げていた、ある中年の男性は手で顔を覆って防御する間もなく、降りかかる中のうちの一本が彼の顔の中心に直撃した。

 自由落下を続けていた六角形の鉄筒は、男性の鼻と上唇さらには表面の頭蓋を難なく粉砕してめり込み、後頭部を貫通してやっと止まった。筒の先には血肉の混じった脳漿の筋が粘着してこびりつく。やがて、ゼリー状に充填されたナパームで着火した炎が彼の顔から、瞬く間に体全体を赤く包んだ。

 焼夷弾は約三〇キロ、物によれば二〇〇キロを超える。そんなものが、上空数千メートルから落ちれば、人力では考えられない破壊を容易にもたらした。

 これらの死は、数秒の立たず、程同時期に他の数十人にもたらした。誰かは、覆った腕ごと破壊され、ある者は脳天から突き刺さり、またある人は強かに打撲して頭蓋や内臓を破壊された。ほとんどがその生に暗転を降りた事さえ、自覚を得られる機会は皆無であったのは言うまでもない。

 しかし、ほとんどの焼夷弾は家屋に直撃した。カンッ、カンッ、という金属音と共に赤い棒が瓦屋根や木造の壁に着弾した直後、住宅から火の手が上がる。まさに一気呵成の勢いで広がり、家の中に残っていた者は逃げる暇もなかった。

 木造の家屋は火事になれば、全焼するのに時間はかからない。煙が屋内に隈なく広がるのもあっという間であった。

 煙を多く吸って苦しみ悶える、ある家人は台所の隅に置かれた防災用の水桶を全身に被った。到底、火の手から防げるわけではないのだが、本人に余裕などない。わらをもすがる思いで、咄嗟に取った行動に過ぎない。

 その者は、台所から玄関へ向かう前に全身を炎に包まれたまま、気が狂ったように悶えた。足がもつれ、横に転がりながら燃える壁に激突する。親油性の低い水は、疎水性の高いナパームの火に対して全くの無力である。ましてや、人間の衣服や肉など、巨大な松明に等しく、瞬時に灰に変えかねないほどの勢いであった。

 いつか、日々の鬱憤を晴らすために神長家の玄関に投石した、とび職の佐々木元助は全身を猛火に包まれながら、廊下を転げ回った。もっとも、玄関に来たところで開ける事は不可能であっただろう。一酸化中毒ですでに息絶えた彼の家族が殺到し、足の踏み場もなく倒れていた。

 やはり、そこも火の海である。町全体で、朝靄が赤く染まった。



                 《後編へつづく》

 

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