「そんな仕事、誰でもできる」と言われましたが、誰でもできるわけではなかったようです
「そんな仕事、誰でもできますよ」
新しく営業部長になった高橋さんは、私の業務一覧を見ながらそう言った。
「電話対応、受注入力、納期確認、請求書作成。特別な資格が必要な仕事ではないでしょう?」
「まあ、そうですね」
私は十年間、この会社で営業事務をしている。三十三歳。役職なし。
営業が取ってきた注文を入力する。工場に納期を確認する。請求書を作る。問い合わせに答える。
文字にすれば、それだけだ。
「森さん個人を否定しているわけではありません。ただ、取引先ごとに対応を変えすぎなんですよ」
高橋さんは、私が作った顧客別の注意事項をめくった。
「締め日が違う。伝票が違う。配送条件が違う。連絡方法まで違う。こんなことをしていたら、いつまでたっても効率化できません」
高橋さんは、営業としては優秀な人だった。
新規開拓が得意で、何年も営業成績上位。難しい取引先にも物怖じせず、最後には注文を取って帰ってくる。その実績を評価されて、今年、営業部長になった。
「もっと標準化しましょう。基本的には取引先にも、こちらのルールに合わせてもらえばいい」
「そうですか」
「ええ。森さんの仕事もマニュアルにすれば、誰でも対応できます」
そして笑った。
「一つ一つは、誰でもできる仕事なんですから」
「分かりました」
私はうなずいた。
「では、辞めます」
笑顔が消えた。
「……はい?」
「退職します」
「いや、待ってください。森さんに辞めろと言っているわけではありません」
「分かっています」
怒ってはいなかった。むしろ、すっきりしていた。
十年間、何度か辞めようと思った。そのたびに、私がいなくなったら困る人がいる。そう思って残った。
でも、誰でもできるらしい。
だったら大丈夫だ。
「引き継ぎはきちんとします」
「森さん」
「よろしくお願いします」
頭を下げた。
十年勤めた会社を辞める決断は、思ったより簡単だった。
◇
引き継ぎ用のマニュアルを作った。
受注入力。請求処理。納期確認。顧客ごとの注意事項。
通常業務は、後任の人たちもすぐに覚えた。
高橋さんは満足そうだった。
「やっぱり、仕組みにすれば誰でもできるんですよ」
私は否定しなかった。基本的な仕事なら、本当にそうだから。
退職四日前、営業から注文書を渡された。
「森さん、これ明日納品で回答していい?」
在庫あり。画面上では問題ない。
でも、商品名を見て少し引っかかった。
「ちょっと待って」
工場へ電話した。やっぱりだった。
同じ商品の一部で傷が見つかり、検品が始まっていた。別の在庫を確保してもらう。
「大丈夫。明日出せます」
「ありがとう。しかし、よく気づいたね」
「昨日、別件で工場に電話したとき、傷が出たって聞いたから」
「それ覚えてたの?」
「なんとなく」
十年もやっていると、そんな「なんとなく」が増えていた。
退職の日、花束をもらった。
最後に高橋さんが来た。
「十年間、お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
「引き継ぎも十分です。あとは会社側で仕組みにします。森さんがいなくても回る組織にしないといけませんから」
自信のある顔だった。
「そうですね」
私は頭を下げた。
会社を出て、一度だけ振り返った。寂しいと思うかと思っていた。
でも、肩が驚くほど軽かった。
◇
森が辞めて一週間。
営業部は、何の問題もなく回っていた。
高橋は満足していた。やはり、自分の考えは正しかった。
最初のクレームは、ある取引先からだった。
急ぎの納期回答は、ちゃんとメールで送ってある。しかし担当者が外出していて、確認していなかった。
夕方になって電話が来た。
「今日中に回答が必要だと言ったでしょう!」
報告を聞いた高橋は尋ねた。
「メールは送ったんですよね?」
「はい」
「なら、先方にも問題があります」
以前の森なら、メールを送ったあと電話もしていたらしい。
高橋は言った。
「だから非効率だったんです」
似たようなことは、その後も続いた。
締め日の違い。配送条件の違い。伝票の違い。連絡方法の違い。
そのたび、高橋は同じことを言った。
「取引先ごとの例外対応が多すぎるんです」
以前はやってくれた。前の担当者は対応してくれた。そう言われても、「当社の運用が変わったと説明してください」で押し通した。
三か月後、クレーム件数は前年同期の数倍になった。注文を減らす取引先も出始めた。
営業から「このままじゃ、客が離れます」と言われても、高橋は考えを変えなかった。
「今までサービスしすぎていただけです」
「でも、売上が落ちています」
「それを取り戻すのが営業でしょう」
高橋には自信があった。
自分は、それで何年も数字を作ってきた。客との関係は営業が作る。営業事務は、それを支える仕事。細かな事務対応で取引が決まるわけではない。
そう思っていた。
◇
五か月目。
会社でも最大手の取引先から、大口注文が入った。
追加の商品を、別の倉庫から緊急配送することになった。担当者が高橋へ確認した。
「部長、緊急配送の送料は先方へ請求でいいでしょうか?」
高橋は契約書を確認した。
顧客都合による特別配送は、実費請求。
「請求してください」
「顧客別の注意事項には、一定額以上は送料無料とあります」
「契約書が優先です」
「分かりました」
高橋は迷わなかった。
三日後、最大手の取引先から電話が来た。請求は契約違反だという。
調べると、十年前に交わした覚書が残っていた。一定額以上の発注では、緊急配送を含めて送料はすべて自社負担。
高橋はすぐに請求を訂正した。
だが、その週。今度は同じ取引先への納品が、一日遅れることになった。工場設備の緊急停止だった。
高橋は自ら謝罪へ向かった。
ここで収める。その自信はあった。
客が怒っているなら、会って話せばいい。自分は何度も、それで取引をつないできた。
◇
「このたびは、弊社の不手際でご迷惑をおかけしました」
高橋は頭を下げた。
「配送費については訂正済みです。納期についても、今後は確認体制を――」
「高橋さん」
取引先の購買部長が遮った。
「そういう話をしているんじゃないんですよ」
高橋は顔を上げた。
「はい?」
「森さんが担当されていたころ、こんなことは一度もありませんでした」
また、その名前だった。
「担当者変更に伴う一時的な混乱は――」
「五か月ですよ。五か月ずっと一時的なんですか?」
高橋の口が止まった。
「配送費だけじゃありません。納期回答も遅くなった。こちらから確認することも増えた」
「今後は改善します」
「森さんは、改善なんて言いませんでしたよ」
「……?」
「問題が起きなかったからです」
高橋は黙った。
「森さんからは、よく電話が来ました。来月、注文が増えそうですか。工場が混みそうなので予定だけ教えてください。最近この商品が増えてますけど、追加ありませんか」
購買部長が苦笑した。
「正直、細かい人だと思ってました。でも、いなくなって分かりました」
高橋を見る。
「森さんは、問題が起きたときに助けてくれてたんじゃない。問題になる前に、なくしてくれてたんですね」
高橋の頭に、森の業務一覧が浮かんだ。
電話対応。受注入力。納期確認。請求書作成。
――そんな仕事、誰でもできますよ。
「今後の新規発注は、他社を優先します」
「お待ちください」
「決定です」
高橋が最も得意としてきた顧客対応は、何の役にも立たなかった。
◇
翌月、高橋は役員会議に呼ばれた。
社長が資料を見ながら尋ねた。
「昨年度の納期トラブルは?」
「……三件です」
「今年は?」
「二十七件です」
「最大手の取引先は?」
「新規発注停止です」
「他の主要取引先は?」
「発注額が、前年の半分以下になったところもあります」
社長は資料を閉じた。
「これが君の言う効率化か?」
「ですが、森さんの業務が属人化していたこと自体は事実です」
「だから君を部長にしたんだ」
高橋が顔を上げた。
「属人化しているなら、誰でも回せる仕組みに変える。それは間違っていない」
「でしたら――」
「誰が、仕事そのものを捨てろと言った?」
高橋の口が止まった。
「君がやったのは、森さんの仕事を仕組みにすることじゃない。必要ないと決めつけて、やめさせたことだ」
社長は資料を指で叩いた。
「その結果がこれだ」
「しかし、取引先ごとの個別対応には非効率な部分も――」
「その取引先が離れたんだろう?」
「……」
「君は営業に何と言った?」
高橋は答えなかった。
「『それを取り戻すのが営業でしょう』だったか」
高橋の顔がこわばった。
「取り戻せたのか?」
「……いいえ」
「では、何を改善した?」
答えられなかった。
納期トラブルは増えた。
取引先は離れた。
売上は落ちた。
削ったはずの仕事だけが、トラブルになって戻ってきた。
社長が言った。
「営業として優秀だったから、君を部長にした。新規開拓もできる。数字も作れる。難しい客とも交渉できる」
一拍置いた。
「どうやら、別の仕事だったらしい」
処分は、その場で告げられた。
営業部長を解任。
地方営業所へ異動。
役職なしの一営業担当。
「……承知しました」
それ以上、高橋には何も言えなかった。
◇
会議室を出ると、高橋は森が座っていた席を見た。
――そんな仕事、誰でもできますよ。
あのときは、本気でそう思っていた。
森が辞めても困らない。
むしろ、これで効率化できる。
そう思っていた。
半年後。
森はいない。
最大手の取引先を失った。
売上も落ちた。
そして、自分は部長ではなくなった。
「……何やってたんだ、俺」
今さら森の仕事の価値に気づいても、何一つ元には戻らない。
もう遅かった。
◇
転職して半年。
私は新しい会社で、営業管理の仕事をしている。
給料は前より月に四万円上がった。残業もほとんどない。
「森さん、今日もありがとうございました」
「こちらこそ。お疲れさまでした」
午後五時三十分。
パソコンを閉じて、会社を出る。
今日も、大きな問題は何も起きなかった。
それでいい。
ここでは、それもちゃんと私の仕事だと分かってもらえる。
私は駅へ向かいながら、少し笑った。
あの日、辞めると決めて。
本当によかった。




