元貧乏聖女は贅沢を極めてしまう予定です
これは聖女に認定された一人の少女が、贅沢を極めるだけの話である。
この国は約百年に一度の頻度で聖女が現れる。
聖女の降臨はある日、唐突に神官に託宣があるものらしい。
また聖女に選ばれた者の手の甲には、砂金のようにキラキラ輝く星が現れるそうだ。
(ただのおとぎ話だと思っていたのに、まさか私が聖女だなんて!)
子供の頃から暮らしている小さくてボロい家で目を覚ましたら、自分の手に星が現れていた。それを見て大きく目を瞠る。
どうやら聖女は平等に選ばれるようだ。私みたいな貧乏な平民でも選ばれるなんて。
生まれてから18年間、ずっと貧困だった。
13歳までは博打に溺れた父の借金に追われた。父が流行病で亡くなってからは、それまでの無理が祟って母が体を壊してしまった。
それから3年間、必死に支えてきたが母も肺炎を拗らせて他界。なんとか借金を返しながら一人で暮らして、18歳になった日にお告げが下ったのだ。
ちょっと! 先月ようやく借金を完済したところなんだけど!?
(遅いのよ!)
今更なんなの!? と叫びたい気持ちはある。
けど叫んだところで時間は戻らない。それなら、これからは聖女とやらの力を思う存分使ってやるんだから!
半ばやけくそ気味に心を決めた。
(きっとこれは、かわいそうな私に与えられた神からのプレゼント!)
今まで、神なんてクソ野郎! と思いきり罵ってきたのだけど……。
きっとそんな私に挑戦状を叩きつけたかったのね。受けて立ってやるわ。
ようやく私にも運が向いてきたというものよ。
尚、聖女の役割は幸せでいること。
それだけである。
神が寵愛する娘が幸せに過ごす環境があると伝わることで、この国の安寧は約束されるらしい。
実際にこれまでにも聖女が現れている間は天候が良く、大きな災害や病の流行もなかったという。聖女すごい。
そして昔、聖女が許嫁である王子に捨てられた時には、国は大災害に見舞われたそうだ。
怖すぎる。
そんなわけで、私も裕福なコール公爵家に引き取られることになった。
晴れて平民から公爵令嬢に格上げである。
これが聖女の力……!
「よろしく、イルゼ。俺はトビアス・コール。君の家族になるよ」
そう言って、神託によって私を迎えにきたのは長めの金髪に緑目の麗しい男性だった。年齢は私より4歳上。
つまりお兄様になるってことね。
うっ、キラキラの顔面がまぶしい。思わず目を細めてしまった。
「俺では気に入らなかった?」
「いいえ! とんでもありません!」
眉尻を下げられたので、慌てて首を横に振った。
こんな美麗でかっこいい男性が兄になると聞いて、ときめかずにいられるだろうか。
いえ、ときめいちゃダメなのよ。兄なのよ。キラキラしないで欲しい。
必要なものだけを持っていけばいいと言われたけど、このボロ家から持ち出すものは大事にしていた遺品と1冊の本しかない。風呂敷一つで済んでしまった。
トビアスに差し出された手を取り、迎えにきた豪華な馬車に乗り込む。同じように後からトビアスも乗り込んできて、私の向かいに座った。
「敬語じゃなくていいよ。もっと気楽に接してくれていい。君は我が家の一員になるんだから」
「わかりました、そうしま……そうするわ」
いままで平民だったから、いきなりお嬢様になれと言われても戸惑いはある。
お嬢様ってどうしたらいいの? とりあえず、語尾に「わ」をつけておけばいい気がするのだわ。よし、これでいこう。いいわいいわ。
眉根を寄せている私を見て、トビアスは小さく笑った。
「緊張してる?」
「ええと、聖女って何をしたらいいのかな……かしら」
聖女は幸せであればいいと言うけど、何をしたらいいんだろう。幸せって何。
いきなり哲学は突きつけるのはやめてほしい。
「好きなことをすればいいよ」
「好きなこと……まさか働かなくていいとか!?」
日が明ける前に起きて仕事に行き、日が暮れてからも家で内職をする。
そんな暮らしとはおさらばしていいってこと?
そう考えただけで、もう幸福度は爆上げなのだけど。
目をギラギラ輝かせながら詰め寄れば、トビアスは緑の瞳で私をじっと見つめた。
なんだろう。やはり仕事はしろってことかしら。まあ、そうよね……働かざる者食うべからずって言うものね。
「そうだね。働きたくないなら働かなくてもいいよ」
「えっ。じゃあ何をしたらいいの!? 幸せになるって何!?」
「ああ……そこからなんだ。とりあえず、思いつく限りの贅沢をしてみたら?」
少し面白がって見える顔で提案されて、慄いてしまった。
本当に? そんなうまい話がある? 私は国に騙されていて、実は後から密かに臓器売買されてしまうのでは?
警戒して顔を青ざめさせた私を見ていたトビアスが小さく首を傾げた。
「もちろん、うちでも叶えられそうにない場合は代案を出させてもらうけどね」
「そうですよね! わかりま……わかったわ。贅沢しちゃうわ」
「うん」
拳を握りしめて宣言すると、トビアスは面白そうに目を細めた。あれは珍獣を見る目だ。確かに聖女って、珍しい生物だものね。
それはともかく、聖女は本当にただ好きなように暮らせばいいらしい。
つまり、贅沢三昧の日々が送れるということよ!
(人生で初めての贅沢……!)
感動を噛み締めて色々考えているうちに、コール公爵家にたどり着いた。
まずコール公爵夫妻に挨拶をして、「本当の親だと思って、お父様とお母様と呼んでくれていいのよ」と言っていただけた。やさしい。
その後は、もう今日は遅いから、と自室だと言われる部屋に案内された。そしていきなり風呂に連行された。
目を白黒している間に、侍女数人がかりで頭のてっぺんから足の爪先まで磨き上げられる。
出てきたら、柔らかい生地の着心地の良いワンピースを着せられた。
なにこの着心地のいい生地……もう死んでもいい……いや。まだ早すぎる。こんなものは贅沢の序盤!
私はこれまでを取り返すために、贅沢をすると決めたのだから!
「明日は朝8時から朝食のお時間となります。7時に起こしにまいりますので、よろしくお願いいたします」
私付きだと紹介された20代半ばくらいの侍女マリーナが深く頭を下げた。
(朝食! そうね、貴族ならちゃんと朝が食べられるのよね)
こくり、と無意識に喉が鳴った。
今の私は貴族のお嬢様。それならば、わがままを言っても許されるはずよ。
一礼するマリーナに目を向けて、緊張で震えそうになる唇を開いた。
「明日の朝食……いえ、明日からの朝食で、食べたいものがあるわ。聞いてくれる?」
「はい。もちろんでございます。なんなりとお申し付けください」
「それなら、朝はハムエッグを出してちょうだい!」
言っちゃった!
ハムと卵を合体させるだなんて、なんて背徳に満ちた料理!
ハムと卵、単品で一品ずつ食べても贅沢だと思うのに、それを一品にまとめるだなんて。正気じゃないわ!
「ハムエッグ、ですか」
マリーナが目を瞠って私を見つめる。
あまりにも贅沢を口にしたせいで驚かせたようね。でもまだまだよ。
「何か言いたいことがあって?」
「いいえ、それで……他には?」
困惑を見せつつマリーナが問いかけてくる。
よく訓練された侍女ね。もちろん、肝心なものがあるわ。
「焼きたてパンを出していただきたいわ!」
あああっ言っちゃった! 夢の焼きたてパン! 前日の残りでもなければ、カビをこそげ落とす必要もない!
焼きたてのふかふかのパンだなんて、贅沢の極み! これぞ貴族!
「焼きたてのパンを……?」
マリーナが顔を強張らせた。
貴族でも焼きたてパンは難しいのかしら? さすがにそんなわけないわよね?
それともポッと出の元平民には贅沢すぎるというの?
「難しいのかしら」
「いいえ! もちろんそんなことはございません!」
怯まずに言えば、マリーナが慌てて首を振る。
でもね、私の強欲ぶりに驚くのはまだ早いわ。
「もちろん、それだけではないわ」
無意識に握りしめた掌に、緊張で冷たい汗が滲む。
でも、言うわ。
今の私は幸せになってもいいのだから!
「週に一度は、ジャムをつけて食べるから!」
「週に、一度……?」
マリーナが顔を青ざめさせた。
貴族であってもありえない頻度だったみたいね。今からでも月に一度と言い直すべき?
いいえ、私は聖女! 強気に行くのよ。
「週に一度ではいけなかったかしら?」
「そんなわけがありません! 必ずご用意いたします」
「ええ、そうしてちょうだい」
出来るだけえらぶって頷いてみせる。公爵令嬢らしい威厳を保てているといいんだけど。
まあ週に一度もジャムを食べたがるだなんて、まさにお嬢様の極みよね。
「イルゼ様。他にご要望はありませんか?」
マリーナが深刻な顔で問いかけてくる。
きっと私の強欲ぶりに慄いているのね。まだあるのでは、と警戒されているに違いない。
ならば、もっと言っておこうかな。やはり、最初が肝心だと言うもの。
私ってこんなに欲深かったのね。これが権力を手に入れた者の末路なのね。…….ちょっと怖いかも。
「それなら……おやつもいただきたいわ」
「はい!」
「毎日、クッ…クラッカーを1枚! 食べるから!」
欲望のままにクッキーと言いかけたが、しかしやはりそれはいくら公爵家でも不可能なはず。
砂糖とバターを大量に使うと聞く、夢の甘いお菓子。
誕生日にはねだれるかもしれないけど、毎日は無理よ。それならば、もう少し堅実なものにすべきよね。
「クラッカーを1枚……添えるものは、いかがいたしましょう?」
(添えるもの? そりゃ、水はほしいでしょ。モサモサするもの)
しかし水を、と言うために開きかけた口を慌てて閉じた。
ここは公爵家よ。贅沢していいのよ!
「牛乳がいいわね」
飲んでみたかったのよ! 普段はヤギの乳だったから、牛乳というものを!
「牛乳ですね。かしこまりました」
かしこまられてしまった! いいんだ、牛乳!
鷹揚に頷いて、「お願いね」と念を押した。どうしよう。今夜は興奮して眠れないかも。
と思っていたけれど、驚くほど清潔な真っ白いシーツの敷かれたふかふかのベッドに横になると、30秒で夢の世界に旅立っていた。
*
翌朝、身支度はマリーナが手伝ってくれた。お嬢様は至れり尽せりだ。
昨夜、髪に香油まで塗られたので地味なはずの栗色の髪がツヤツヤして見える。痩せていてヘーゼルの目だけが大きい顔も、今朝は血色がいい。ふかふかのベッドって、よく眠れて素晴らしいのね。
そして待ちに待った朝食である。
テーブルにはコール公爵とベルタ夫人、それとトビアスが既に座っていた。
「イルゼ、よく眠れた?」
「はい、ぐっすり!」
「よかった」
さっそくトビアスが緊張をほぐすように話しかけてくれる。大きく頷けば、ほっと安堵を滲ませた。いい人ね。
しかし席に着くなり、ベルタ夫人が強張った顔で声を上げた。
「ねえ、イルゼ。朝食のジャムのことだけれど……本当に、週に一度でなければ駄目かしら?」
とても言いにくそうに言われてしまった。
やっぱり公爵家でも週に一度は難しいのね! トビアスも難しい場合は代案を出すと言っていた。やはり週一のジャムは強欲すぎたのよ。
眉根を寄せて、恐る恐る口を開く。
「どうしても、というわけではありませんけど」
「そう! それなら週に2……いえ、3回はどう?」
しかし驚くべき提案をされて息を呑んだ。
「3回も! いいんですか!?」
それってつまり、ほぼ一日置きでは!? 公爵家すごい!
目を輝かせたら、ベルタ夫人がほっと安堵の息を吐き出した。
「もちろんよ。遠慮しないで。じゃあこれからは、ジャム、チーズと交互に出すわね」
「お願いします!」
なんと、一日置きにジャム! すごい!
一も二もなく頷いて、さっそくテーブルに並べられたジャムと念願のハムエッグ、そして焼きたてのパンに至福を噛み締めたのだった。
視界の端でトビアスが肩を震わせているように見えたけど、きっと彼もハムエッグに感動しているのね。わかるわ。王侯貴族の朝食だもの。
って、ここは公爵家だった。
……あれ? そういえばジャムの間の日にチーズが挟まってなかった? 気のせいかな。まさか、そんなわけないよね。
しかしそんなわけだったと震えるのは、明日の朝の話である。公爵家はすごい。富豪だ。
ちなみにその日のおやつのクラッカーにも、チーズやフルーツが乗っていた。
しかも牛乳は、蜂蜜入りのホットミルク!
あまりの美味しさにちびりちびり飲んでいたら、おかわりまで用意されてしまった。
あまりに幸せすぎて怖くなって、2杯目ははちみつは辞退させていただいた。
マリーナはそんな私の脇でそっと涙を拭っていた。
きっと私が贅沢をしすぎなかったことに安心して泣いていたのだろう。
その次の日の夜、仕事から帰宅したトビアスに声をかけられた。
「ほら、イルゼ。お土産」
そう言って手渡されたのは、キラキラと輝く飴の入ったガラス瓶だった。
憧れの宝石のような菓子!
「えっ。いいの!? こんな……本当にいいのっ!?」
この屋敷に来てからは、ただ探索しているだけで何も役に立ってないのに!?
目を白黒させつつ、しかし視線はガラス瓶から離せない。
王都の高級菓子店のガラス窓越しに、こっそり眺めていただけの菓子。それが今、私の手にある。
「ありがとう、トビアス様! 一生大事にするわ!」
「いや、ちゃんと食べてね」
両手に掲げて宣言したら、苦笑されてしまった。
言いたいことはわかる。お菓子だものね。食べないと腐っていくのはわかるのよ。
でも。
「もったいなくて食べられない……!」
嬉しいし、食べてみたいけど、これは記念に飾っておきたい。血涙を流さんばかりの選択である。
ぐっと唇を噛み締めれば、不意にトビアスの手が伸びてきた。
ふわり。と優しく頭を撫でられる。
「なくなったらまた買ってきてあげるよ」
手の温かさと重み、優しい眼差しに一瞬ドキリとしてしまった。
い、いけないいけない、これは兄なのよ。
それより、今は飴の話である。
「また買うだなんて、そんな贅沢はいくらなんでも……!」
「まったく問題ないからね? イルゼも贅沢してみるって言ってたのに」
「そうだったわ……っでも」
キラキラ輝く飴を灯りに照らすと、胸がギュッと締め付けられるかのよう。いつもガラス窓越しに憧れを込めて見つめていたものが、今この手にある。
やっぱり食べられない。私と人生を共にして、一緒に朽ちていこう。
深く心に決めて反論すれば、トビアスはちょっと考え込む顔をした。
「それならイルゼ、週末は時間がある?」
「いつでも暇よ」
「よかった。買い物に行こう」
「まさか、また飴を買いにいくの!?」
「それでもいいけど、代わりに消えない飴を買ってあげるよ」
トビアスが不思議なことを言い出した。
消えない飴とは? 無限に湧いてくる飴なの? なにそれ怖い。
顔を顰めたら小さく笑われた。「約束」と言うと、トビアスは颯爽と立ち去っていった。
何を買う気だろう。貴族にしかわからない暗号だったりするんだろうか。食べても食べてもなくならない飴はちょっとどころでなく恐怖だ。
首を傾げながらも、週末を楽しみに待っている自分がいた。
*
待ちに待った週末。
呼びにきてくれたトビアスが、私の格好を見て首を傾げた。
マリーナを呼び、怪訝な表情をする。
「せっかく出かけるのに地味じゃない?」
今日の私は茶色のワンピースに茶色の皮の編み上げブーツ姿である。地味とは言うけどワンピースにはレースがたくさんあしらわれていて、とても上品だ。
一着の値段は考えないようにしている。汚したら一年タダ働きをさせられそうで怖いので、汚れのバレない暗い色が安心なのである。
「それが、イルゼ様がお出かけされるなら、絶対に地味な格好でなければならないのだと仰られて」
「せめてネックレスでも」
「だめ! みんな宝石が大きいんだもの! あんなの付けてたら強盗に遭うでしょ!?」
なんて命知らずなんだ。これだから貴族は。
って、今は私も貴族なのでした。しかし用意された宝石はどれも飴玉のように大きくて、目玉が飛び出るかと思った。
好きに使っていいと言われても、あんなものを下げていたら緊張で楽しめない。強盗に襲ってくださいと言っているようなものだ。いい鴨である。
「聖女を襲う強盗はいないと思うけどね」
「うっ。それでも肩が凝るからだめ!」
「それなら仕方がないか」
笑いながらも、トビアスは私の意思を尊重してくれた。手を差し出されて、反射的にその手を取る。
「じゃあ出かけよう」
思ったより大きくて節張った手を包まれて、心臓が勝手に駆け足を始めてしまう。
兄だとわかっていても、異性と手を繋ぐのは始めてだから仕方ない。そう、これは生理現象である。
そわそわしなが馬車に向かう間、トビアスが最近の話を聞いてきた。
「近頃はガーデニングを始めたんだって?」
「何もしないのは暇だったから」
屋敷の中ですることがなくて暇だったから、マリーナに庭の散策を勧められた。
そこで庭師と意気投合して、庭の一角に好きな花を植えていいと言われて始めたのである。
「何を植えたの。薔薇? アイリス?」
トビアスは優しい声で話しかけてくれる。この人はいつもそう。
「そら豆よ」
「そら豆かあ」
「なんで笑うの!? 可愛い花が咲くし、なにより食べられるし、おいしいのよ?」
肩を揺らして笑うトビアスを軽く睨みつける。どうせなら食べられる方がお得じゃない。
するとトビアスが笑いすぎて目尻に溜まった涙を指先で拭いながら私を見下ろす。
「出来たら食べさせてよ」
「もちろんそのつもりよ。絶対おいしいんだから」
そら豆を笑うだなんて、ぎゃふんと言わせてやるのだ。
そんな会話を交わしながら馬車に乗り込み、到着した先は宝石店であった。
自分で開けなくても店員が扉を開けてくれることに、緊張で震えが止まらない。開けられた以上、入らないわけがないよな? という圧をひしひしと感じる。
なんて恐ろしい店だ。きっとこの調子で高額商品を押し売りされるに違いない。
「トビアス様! こんな店に入ったら、絶対なにか買うまで帰してもらえないわ!」
「いや、買いに来てるんだからね?」
私の手を取って店に入ろうとするトビアスを留めて、相手に聞こえないように素早く耳打ちした。しかしトビアスは肩を竦めて、買うんだよ、と言い切る。
か、かかか買うの!? こんな高級店で!?
「ようこそいらっしゃいました。コール公爵令息、イルゼ聖女様」
店員が私の名前まで把握していて震えた。身元までバレているなら、買わずに帰ることはできないと言わんばかりだ。こわい。
「彼女にネックレスを。そうだな……イルゼ、好きな色はある?」
「はい!? え、私!? わた、わたしの好きな色……ピンク」
いきなり訊かれたことに混乱のあまり、素直に答えてしまった。しかもピンクだなんて、似合いそうにないものを。
だがトビアスは茶化すでもなく、すぐに店員に向き直った。
「わかった。ピンクでおすすめを幾つか見せて」
「今すぐご用意いたします」
今すぐご用意されてしまうの!?
あわあわしている間にテーブルセットに案内され、座ったら紅茶まで出されてしまった。
あっという間に店員が私たちの目の前にピンクの石のついたネックレスを数本並べる。
本格的にただでは帰れない空気だ。どうしよう。横を見たが、トビアスは飄々としている。どれにする? と目で問いかけられたが、大変なことに気づいてしまった。
「あの、トビアス様。私、よく考えたらお金を持ってないの」
よく考えなくても無いのだが、慌ててこそこそと耳打ちする。
これでは、ただ居座って紅茶だけ飲んで帰る厚かましい客になってしまうのでは。
「心配しなくていいよ。溶けない飴をあげると言っただろう?」
トビアスの袖を引いたら、いたずらっ子みたいな顔をしてそんなことを言われた。
溶けない飴って、宝石のことだったの!?
「でもイルゼは大きな石だと肩が凝るみたいだから、飴玉とはいかないようだけどね」
言いながらトビアスは並べられたネックレスを見て、そこから一番小粒の淡いピンクの石がついたものを選び取った。
小さくても、光の加減で一際キラキラと輝く。
トビアス私の胸元に軽くかざして、うん、と頷いた。
「イルゼにはこれぐらいの石が似合うかもしれないね。小さいけど一番輝いていて、イルゼって感じがする。どう?」
言われてみても、自分では宝石の良し悪しはまったくわからない。食べられるものでもないから、宝石のことなんて今まで考えたこともなかったし。
でも並べられた中では一番小さいのに、キラキラするのは正直に可愛いと思った。
「もちろん、イルゼがいいなと思う物でいいよ」
トビアスはそう言ってくれたけど、私らしい、と言われたらそれが一番よく見えた。
きっとこのサイズが分相応ってことだろう。なにより私もこれくらい小さい方が使いやすいし、肩も凝らない。
極淡いピンクだから、私でも許されそう。
「私も、それがいいです。可愛いし……小さいし」
ぼそりと呟くと、なぜかトビアスが小さく吹き出した。
「それなら、これを。このまま付けて帰るから」
「承知いたしました。お買い上げありがとうございます」
店員の手からトビアスへとネックレスが手渡された。こちらを見たトビアスが「ちょっとごめんね」と断りながら私の首の後ろに手を回す。
(ぎゃわー! 距離が! 近いのよ!)
兄なのだと思っていても、至近距離で半ば抱きしめられるみたいにネックレスを付けられて平気な顔はできない。
ふわりと近づいた時に香る、ほのかな香水にドキドキしてしまう。
ほんの数秒が、1時間近くに感じられてしまった。
「うん。やっぱりよく似合う」
「あ、ありがとう……トビアス様」
なんとかお礼は言ったけど、とびっきり甘い微笑みを向けられて、もうドキドキどころではない。心臓は今にも破裂しそう。バックンバックンと脈打っていて、きっと顔まで赤くなっている。
そんな私を見てトビアスが、ふっと堪えきれないとばかりに小さく笑った。
わわわ悪かったわね! 男慣れしてなくて!
こちとら借金返済と日々の生活が大変で、恋愛なんてしてる暇も余裕もお金もなかったのよっ。
「イルゼは本当にかわいいね」
「トビアス様はきっと女たらしよね」
「イルゼにだけだよ」
不意に真剣な目で言われたので、ドキリと心臓が跳ねた。
……やめてよ。変な勘違いしちゃうじゃない。
(トビアス様はお兄様になるのだから、そういう相手じゃないの!)
私は聖女として、幸せにならなければいけない。
きっとコール公爵家がそのうちいい感じの相手を紹介してくれて、私は嫁いでいくのだと思う。
トビアス様はその間、私の家族になってくれているだけ。もちろん兄でも嬉しいのだけど、いま胸に芽生え出した気持ちはきっとダメなものだから。
(トビアス様が女たらしだから、いけないのよ)
じとりと見れば、なぜかトビアスはちょっと困った顔で笑った。
しかしすぐに気持ちを切り替えたのか、店員に小切手を切って「そろそろ出ようか」と立ち上がる。
実は買ってもらったピンクダイヤのネックレスは、この中では一桁違ったのだと後で知るのだけど。このとき気づかなかったのは、ある意味幸せだったのだと思う。
知っていたら、きっと私は泡を吹いて倒れていたに違いないので。
店を出たら、「少し歩こう」と提案されたのでトビアスと街を歩くことにした。
「他に寄りたいところはある? 欲しいものがあればなんでも買ってあげるよ」
歩きながら言われた言葉に、顔を引き攣らせて慄いてしまう。
「いま買ってもらったばかりだけど?」
「イルゼは贅沢に慣れてないみたいだから。ほら、幸せになる訓練みたいなものだよ」
「なるほど、それなら!」
そうね! 確かに!
今も十分幸せすぎる気がするけど、怖い、という気持ちの方が強い。きっとこれではいけない。聖女というものは、もっと強欲でなければ。
なかなか難しいわね、聖女。
神に受けて立つと宣言した以上は、やはり期待を超える幸せを見せつけてやらなければならないのに。
(贅沢……贅沢ね。そうだ)
ふと思いついたことがあって、トビアスを見上げた。
「本屋に寄りたいわ」
「いいよ。イルゼ、もう文字が読めるようになったんだ? すごいね」
「ぐっ……それはまだだけど。とにかく! 贅沢をしに行くの!」
「わかった。お付き合いしましょう、お姫様」
「姫じゃなくて聖女よ?」
「俺にとっては聖女の前にお姫様だからね」
さらりと言われて、またもやドキドキさせられる。悔しい。やはり女たらしだ。
もしやこれも、幸せになるための恋愛の模擬練習的な訓練のつもりだろうか。それならわからなくもないけど。
ううむ、と悩みながら歩いている間に本屋に案内されていた。
「はい、お目当ての本屋だよ。何を探したい?」
「子どもが好きそうな話がいいわ」
「了解」
生憎と私は名前と、簡単な単語くらいしか読めない。書けるのは自分と家族の名前程度。
だから今は公爵家に頼んで文字を習っているところだ。
それをわかっているので、トビアスは本探しを手伝ってくれる。
店内はしんとしていて、ずらりと並んだ棚からはインク独特の匂いがする。
文字が読めない私には何が書いてあるのかさっぱりわからない。トビアスは背表紙だけで判断して、何冊か抜き出してくれた。
「こっちな女の子向けの、王子様とお姫様の童話。こっちは男の子が好きそうな騎士と冒険の物語」
「どっちにしよう……じゃなくて! 両方! 欲しいわ」
どちらにするか悩みかけて、ハッと我に返る。
そうよ。贅沢するって決めたのよ。両方買ってもいいのよ。どうよ、見なさい神! 私は自分が読めない本を2冊も買ってみせるのだわ!
力強く言えば、トビアスは満足気に頷いた。どうやら私は正しい選択をしたみたい。聖女業は絶好調よ。
これもトビアスに会計してもらい、ついでにトビアスも1冊購入したようだった。
会計した本をまとめているので、手を差し出したのだが断られた。
「一緒に持つよ」
「2冊くらい自分で持てるわ」
「使える相手は使えばいいのに、イルゼはそうしないね。聖女なのに」
「? 人に自分の荷物を持たせても、なんか悪いなって思っちゃわない? 楽かもしれないけど、幸せではないと思うのよ」
幸せって、そういうのじゃないでしょ? そりゃ、麦袋を2袋背中に背負えと言われたら、半分は手伝って欲しいけど。
眉を顰めて問えば、トビアスは嬉しそうに笑う。
「そうだね。だからきっとイルゼが聖女に選ばれたんだと思うよ」
眩しそうに目を細めて言われた。
苦労性が身についてると言いたいのかしら? たしかに少々庶民的な聖女かな、と薄々思ってはいるけれど。
しかし、今の私は一味違う。
「でもね、なんとこの本は、自分では読まないの!」
なんと今から、盛大な贅沢をしてしまうのだ!
「読まないのに買ったの?」
「そう。このまま新品を孤児院に寄付しにいくのよ!」
なんたる贅沢! なんたる富豪的行動!
おーほっほっほ! と高笑いしてやりたい気分。これぞ、まさにお嬢様的な贅沢。
さあ、孤児院へ行くわよ。早速、近くの孤児院に足を向けて歩き出す。
ふふふん、と得意気な顔をしていたら、トビアスが不思議そうに私を見ていた。
「寄付するの? 本を?」
「そうよ。孤児院の子達なんて文字を読めない子ばかりなのに、寄付するのよ。無駄遣いでしょう!」
「無駄遣いとは思わないけど。でも、なんでなのかは聞いてもいいかな」
隣に並んで歩くトビアスは真面目な顔をしている。普段が柔和なので、そういう顔をされるとちょっと緊張してしまう。
まあ別に、隠したいわけではないから教えるけれど。
「……昔ね、お父さんがお土産に本を買ってきたことがあったの。私は文字なんて読めないのに、周りに見栄を張って買ったのよ」
今でもよく覚えている。
博打に溺れて、母や私の食費にすら手をつけていた父が「今日は儲かったから」と、本を買ってきて私に渡した。
「全然読めないし。それならパンを買ってきてくれた方が良かったって、お母さんも怒ってたわ」
私も心底がっかりした。そんな高価な無駄遣いをするくらいなら、飴玉の方が百倍は嬉しかったのに。
「でもね、お母さんはどんなに大変な時でもその本を売らなかったの。お父さんがせっかく私に買ってきてくれたものだから、って」
今も母の気持ちはよくわからない。
だけど思えば私はほんの少しだけ、そのときの父の気持ちが嬉しかったのだ。
いざという時に本の角で暴漢を殴るくらいしか、活用法は思いつけなかったんだけど。
「だからかな。私もなんだか手放せなくて……たぶん、嬉しかったのよ。読めないんだけど、本をもらったことが」
いつか余裕ができたら、文字を習って読んでみたいと思う程度には。
ふとそれを思い出して、自分と似たように苦労してきた子ども達に、少し夢を与えてみたいと思っただけ。あの日の父の気持ちを、ちょっとなぞってみたいと考えただけ。
まあ、自己満足よ。
せっかく聖女になったのだから、好きにしてみようと思って。
語り終えると、トビアスは柔らかい眼差しで私を見つめていた。
「好きだったお父さんとの大事な思い出なんだね」
「いいえ、お父さんのことは今でも嫌いだし、クズだと思ってるけど?」
それはそれである。
はっきり否定すれば、トビアスは目を丸くした後、そうなんだ、と苦笑した。
「やっぱり俺は、イルゼが好きだな」
はっきりと、真摯な眼差しで告げられて心臓が飛び跳ねた。
ちょっと! 今日だけで何回目の不整脈なの!?
これは苦情を言わねばなるまい。家族だというならば、軽率に妹をときめかせる言葉を口にしてはならないと!
そうでないと。
経験の浅い私は、簡単によろめいてしまう。
「あのね、トビア……」
「あら、トビアス様? こんなところでお会いするなんて、奇遇ですわ」
呼びかけた声は、不意に入ってきた女性の声に遮られた。
反射的に振り返れば、綺麗な令嬢然とした女性がこちらに歩いてくる。
柔らかい金髪は華やかで、お人形みたいに可愛らしくて、凛と伸ばされた背は美しい。
付け焼き刃でお嬢様をしている私とは大違い。反射的に自分との違いを感じて、体が強張ってしまう。
「ごきげんよう、ノイコム伯爵令嬢。お買い物ですか?」
「ええ、そちらの書店に用があって」
二人はにこやかに会話を始める。私が入り込める空気じゃない。
それを見て、なんだか置き去りにされた気分。ちょっと自惚れて浮かれかけていた自分に冷や水を被せられたかのよう。
だって私だけが、あまりに場違い。
(そっか、そうだよね。トビアス様は新しくできた妹をちょっと構いたかっただけで……本来なら、こういう人が相手なんだよね)
だってすごくお似合いだもの。貴族同士、隙がなくて。きっと話もあって。
私なんかより、ずっと。
もしかしてトビアス様も、ほんのちょっとは私に気があったりするかもしれない……ような気がしていただなんて。
恥ずかしくて地面にのめり込みたい。
「あら、そちらが聖女のイルゼ様?」
さりげなくトビアスを盾にして隠れていたが、生憎と私を隠せるほどトビアスは巨人ではなかった。
いかにも気品ある由緒正しき令嬢の前に立つのは勇気がいる。
ギュッと手のひらを握りしめたら、トビアスがやんわりと私の腰を引き寄せた。あっという間に隣に並んでしまう。
えっ、腰! 腰に手が! まるで恋人同士みたいなんですけど!?
……それにちょっとだけ喜んでしまった自分が嫌になる。
(私は、トビアス様にとって妹にしかなれないのに)
「そう。この子がイルゼ。俺の未来の奥さん」
(は?)
だからトビアスからそう紹介されて、ぽかんと間抜け面で隣を見上げてしまった。
「奥さん……?」
愕然と口にすると、なぜかトビアスが私を見下ろして目を瞠った。
「え? なんでそこで驚くの。俺、最初に家族になるって言ったよね?」
「え、あ、ああ、はい。言われたけど……奥さん!? 妹じゃなくて!」
「年頃の男女が家族になるって言ったら、普通は結婚でしょ」
動揺した表情で言われて、こちらまで動揺が隠せない。
いや、えっ、まあ。そうかな!?
いやでも。あれ?
だって公爵夫妻が、最初に会った時に「本当の親だと思って、お父様とお母様と呼んでくれていいのよ」って。
よく考えたら、娘でも嫁でも、どっちにも受け取れる意味だわ!?
「どうりで、なんか噛み合わないなと思ってたんだ……」
トビアスが手で目を覆って天を仰いだ。
「す、すいません! まさか私が結婚するなんて思ってなくて!」
王室から受け取った手紙は、文字が読めなかったのだ。
だから神託を告げにきた神官に教えて欲しいと頼んでみたら、
『わかりやすく言えば、コール公爵家があなたを引き受けます。あなたはコール公爵家の一員になるんですよ』
と、説明を受けたのである。
誤解しても仕方なくない!?
慌てる私たちを目を丸くして見ていたノイコム伯爵令嬢は、すぐにおっとりと微笑む。
「あらあら。大変ですわね、トビアス様。ごきげんよう、イルゼ様。お噂はかねがね。トビアス様はあなたが可愛くて仕方がないと、トビアス様の友人のハロルド様から聞いておりますわ」
ノイコム伯爵令嬢は「私、ハロルド様の婚約者なんですの」と教えてくれる。
「イルゼ様は、素直で謙虚で可愛らしい方なんでしょう? ほほ、仲がよろしいようでなによりですわ。イルゼ様、どうぞ幸せになってくださいませ」
「えっ。はい、頑張ります……!?」
聖女として激励を受けたようなので、慌てて大きく頷いておく。
ノイコム伯爵令嬢は頷いてから優雅に一礼をすると、「それではトビアス様。ご武運を」と口にして立ち去っていった。
武運を願われるとは、いったい……?
場に残されたのは、項垂れているトビアスと呆然と佇む私だけ。
「なんか反応がおかしいな、とは思ってたんだよ」
「私こそすいませんっ。てっきりお兄さんになるのだと思ってて」
「妹を口説く趣味はないよ、俺は」
焦る私を見て、トビアスは渋い顔だ。
まったくですよね。勘違いしていて本当にすいませんでした!
ひとつ咳払いしてから、改めてトビアスがその場に片膝をついた。地面で膝が汚れることも厭わずに、まっすぐに私を見上げる。
「改めて。俺と結婚してほしい、イルゼ。幸せにしてみせるから」
そう言って、なぜか私に本を差し出してきた。
少しだけ読めるようになってきた文字と、表紙の絵から読み取ったタイトルは『たのしい園芸』である。
こんな感動的な場面なのに、思わずちょっと笑ってしまった。
こうやって、私に寄り添って幸せを作ろうとしてくれる人に出会えたことこそが、一番の幸運だと思う。
喧嘩をする時はあるかもしれないけど、私がトビアスと過ごす限り、きっとこの国の未来は安泰だわ。
「喜んで!」
だから差し出された手を取って、満面の笑みで飛びついたのだった。




