08
――私のお母さんは昔から料理が下手だった。
「何で夕飯すら碌につくれねえんだよ!」
父親の怒声が狭いリビングに響く。父親は食卓に並んだお皿を一気に床へと落とした。料理下手なお母さんが一生懸命用意した、少し味の濃い味噌汁が、歪な形の卵焼きが、焦げ目の付いた焼き魚が、固めの白米が、全て床にぶち撒けられる。
私は呆然と、その光景を見ていた。
「ごめ……ごめんなさい……」
私の隣に座っているお母さんは蒼白になって、父親へと謝った。私のように精密に配置された顔のパーツは、恐怖で少しずつ歪んでいた。
「てめえ、俺のことを馬鹿にしてんだろ!」
父親は怒鳴りながら、立ち上がってお母さんのことを蹴飛ばした。お母さんは大きな音を立てて床に転がった。それでも父親の怒りは収まらないようで、お母さんに馬乗りになって、何度も何度も殴り付けた。お母さんは苦しそうに呻いた。
私は、こう思った。
(私はこの男を、殺さなくてはならない)
昔と違って、今の私は身長が伸びたし、筋肉もある。
私は立ち上がった。そこでようやく、視界がいつもよりも随分と低いところにあることに気が付いた。自分の手を見ると、小さくて柔らかそうだった。
(……何だ。あの頃と、同じか)
真っ赤な殺意が、透き通った殺意になっていく心地がした。
「調子乗ってんじゃねえよ! おい、謝れよ、謝れ!」
「ごめ、んな、さい……うっ、ぐ、ごめ……んな、さい、ぐぇ、ごめ」
私はキッチンへと向かう。包丁を手に取る。刃に幼い私の顔がうっすらと反射している。リビングへと向かう。後ろに回り込む。刺す。赤色。刺す。赤色。刺す。赤色。刺す。赤色。刺す。赤色。刺す……
「――――弥歌?」
……私はゆっくりと、まぶたを持ち上げる。
そこには見慣れた自室の風景が広がっていた。上体を起こしながら真っ暗な窓の外を見ると、自分が帰宅してから現実逃避するようにベッドの中に潜り込んだことを思い出した。
お母さんはベッドの側に立って、心配そうな面持ちで私のことを見つめている。スーツ姿で仕事用の鞄を肩から下げているから、今帰ってきたのだとわかった。血も、臓器も見えていないから、安心した。
「よかった……今日、学校から携帯に電話があったのよ。連絡がないけれど、欠席かって」
そう言われ、私は高校に連絡の一つも入れずにさぼってしまったことに気付く。迂闊だった。お母さんを不安にさせてしまったことに、申し訳なさを覚える。
「……ごめん。体調、悪くて」
「そうだったのね。とにかく、弥歌がおうちにいてくれてよかった」
お母さんは安堵したように微笑む。少しずつ皺が増えてきたけれど、やはりお母さんは美しい顔立ちをしていた。昔の写真を見せてもらったことがあるが、私とそっくりだった。
(こんなに綺麗なら、もっと素敵な人と結婚できていたとしてもおかしくないのに)
(まあ、いいか。もういないし、父親)
(…………あれ、)
(父親、どうして、いないんだっけ)
すっと心が凍り付いたような気がした。心臓がばくばくと脈打ち始める。先程まで見ていた夢の映像が、真っ赤な鮮血がフラッシュバックする。脳が握り潰されたかのように思う。……違う、あれは夢だ。幼い頃の私は、お母さんが傷だらけになっているのを見つめていることしかできなかった。非力な、屑だった。
私は手の震えをどうにか抑えながら、縋るようにお母さんへと尋ねる。
「ごめん、あのさ……」
「……? どうかした?」
「…………父親って、何で、いないんだっけ?」
私の問いに、お母さんは不思議そうに何度か瞬きを繰り返した。
それから、困ったように微笑んだ。
「…………誰の、こと?」
一瞬、話題に出すことすら許されないのかと思った。でも、お母さんの眼差しは純粋だった。だから、お母さんは、「父親」が誰のことか、本当にわかっていない……?
「え……誰、って、ほら、私の父親だよ。あの、爬虫類みたいな顔した……」
お母さんはずっと、困ったように微笑んでいる。
「……ごめんなさい、弥歌。本当に、誰のことかわからなくて……」
「え……いやだってそれじゃおかしいじゃん、父親が最初からいなかったとしたら、私ってお母さんと誰の子なの? お母さんだけしかいなかったらさ、私は生まれてくることなんてできなくない?」
お母さんはずっと、困ったように微笑んでいる。
「それは、そうよね……でも、ごめんなさい。本当に、記憶にないの」
申し訳なさそうに、お母さんは私へと頭を下げた。
私は首を横に振って、自身の額の辺りに手を添える。
(……暴力を振るわれたのがトラウマで、ごっそり記憶が抜け落ちた?)
(そんなことが、あり得るのか?)
(最後にお母さんと父親の話をしたのはいつだ。もう随分と、前だったような……)
(わからない。わからない。わからない……)
(おかしい。おかしい。おかしい……)
デジタル時計には「4 13 月」と表示されている。
……全てが、幻であればいいのにと思った。
*
透明な地面の上で、私は目を開いた。
視線の先には、歯車の少女がいた。存在しない腹部の肉体の代わりに、金色の歯車たちがきゅるきゅると音を立てながら時計回りに回転し続けている。
……私は、違和感に気が付いた。
歯車の回転が、以前目にしたときよりも遅くなっている。
それだけではなかった。金色の歯車には、幾つもの小さなひびが入っていた。肉体から肉体にかけて零れ落ちる血液が隙間に入っているのか、奇妙な赤色のひびが生まれていた。
私は少しばかり視線を上げる。……息を呑んだ。歯車の少女の虚ろな瞳から、涙のように真っ赤な血が滴っていたからだ。
少女の唇が動き続けていることに、遅れて気付いた。規則的に形が変化していて、まるで何か同じ言葉をずっとささやいているような……でも、私と歯車の少女の間には多少の距離があって、何て言っているかはわからなかった。
私は引き寄せられるかのように、ゆっくりと歩き出す。
段々と、歯車の少女との距離が埋まっていく。
言葉が輪郭を持っていく。
「――い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
……痛い、と。
ずっと、そうやって、歯車の少女はささやいていた。
私はどうしてか泣き出しそうになる。そっと、歯車の少女の赤色の涙を、右手の人さし指で拭った。温かな液体だった。
「…………どうして、痛がっているの」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
「ねえ、君が四月十三日をずっと繰り返しているんでしょ?」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
「何が目的なの。もう、やめようよ。痛い思いしてまで、ループさせる必要なんてないじゃん!」
『芸術品に触れてはいけないと、以前もお伝えしたでしょう……?』
あの不快な高音で、ささやかれる。
最初の夢のときのように、身体がちっとも動かなくなる。
ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅと音を立てながら、大量の人間の内臓を繋ぎ合わせたみたいな「何か」は歯車の少女へと近付いた。グロテスクな身体で、そっと歯車の少女を包み込む。
『私の芸術品に触れることが許されるのは、私だけ……』
『歪むことは、綺麗』
『人間は綺麗』
『宝石よりも、絶景よりも、天国よりも、地獄よりも……人間が一番、綺麗』
口だけは動かせることに気が付いた。
私は口角を歪めながら、言う。
「綺麗なんかじゃない…………少なくとも、私は、汚い…………」
目も鼻も口もないのに、「何か」が微笑んだのがわかった。
『いいえ。……貴女が、一番、綺麗』




