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07

 音矢海駅に戻って、線路と目を合わせながら必死に恐怖を忘れようとする。


『間もなく一番線に電車が参ります……危ないですから、黄色い線の内側まで下がってお待ちください……』


 電車の到着のアナウンスが流れ、この場所から離れることができることに安堵した。

 三十秒ほどして、電車が到着する。乗降ドアがぷしゅうと開き、私は時間にゆとりがあるにも関わらず駆け込んで乗車した。電車はそこそこ空いていた。誰も座っていない席に腰を下ろし、深く息を吐く。鳴り響く発車ベルが普段自分のよく聞くものとは違っていて、まるで異世界に迷い込んでしまったかのような怖さがあった。


 乗降ドアが閉まり、電車が発車する。音矢海駅のホームが流れていき、見えなくなる。私は床から足を上げて、座席に体育座りして、胴体と脚の隙間に顔を埋めた。暗闇が視界に広がり、ちょっとずつではあるけれど平静を取り戻せているような気がした。


「……ねえ、あなた」


(正常でいなくちゃ。正常でいなくちゃ。正常でいなくちゃ……)


「あなたってば! 黒髪の! 紺色のパーカーの!」


(…………私?)


 うるさい声がして、私はゆっくりと顔を上げる。



 頭の一部分が欠けている、太った女が立っていた。



 少しだけ露出している桃色の脳が視界に入って、私は思わず小さな悲鳴を上げた。

 女は私の反応が不愉快だったのか、眉根を寄せる。


「何よその態度? いきなり叫ぶなんて気持ち悪い! それとねえ、あなた、電車でそんな姿勢でいるなんて周りに迷惑が掛かると思わないの? あなたくらいの年齢ならそのくらいわかるでしょう? わからないなら幼稚園からやり直した方がいいんじゃない? 電車に乗るときのマナーくらいちゃんと守りなさいよ。ちょっと顔が整っているからって調子に乗ってるの? ねえ、そうなの?」


 早口で捲し立てられて、言葉の意味を理解するのに時間を要してしまう。

 段々と何を言われたのか理解できて――私の胸中を恐怖感の代わりに満たしていくのは、不快感と怒りだった。

 私は立ち上がって、女を睨む。女は案外背が低く、桃色の脳がよく見えた。赤色の血管が浮き出ていて気色が悪かった。


「何で、初対面のお前にそこまで言われなきゃいけないわけ」


 女は少し目を見張り、それから呆れたように嘲笑を口元に滲ませた。


「……あのねえ、初対面の人に注意したらいけないなんて法律ある? ないでしょう? 仲良しさんにしか注意ができない世界だったらあなたみたいなマナーの悪い人がどんどんのさばっていくと思わない? そんなこともわからないの? ねえねえ?」


 私は口角を歪めながら、女へと問う。


「きったねえ脳を見せるのは、マナー違反じゃないの?」


 私の問いに、女はぱちぱちと瞬きしてから、怪訝そうに言った。



「……いつものことでしょう?」



 眼差しの純粋さが憎かった。

 眼球を刃物でくり抜いてやりたかった。

 私は、叫んだ。


「いつものこと、って何だよ! こんなのがいつものことで堪るか! この世界はおかしくなっているんだよ! お前も、おかしいよ! おかしい、おかしい、おかしい!」


 女は驚いたように身体を震わせてから、私の両肩を掴む。


「ここは公共の場所なのよ! そんな大きな声を出したらだめでしょう!」


 気付けば私は女の腹を蹴飛ばしていた。

 私たちのやり取りを見ていた乗客が、ざわめいた。

 倒れ込んで苦しそうに咳き込む女へと、私は先程よりも大きな声を出して叫んだ。


「何で異常な人間に正常を語られねえといけねえんだよ!」


 私が口を閉じると、乗客のざわめきも引き潮のように消えていって、女の咳き込む音と走行する電車の音だけが響き渡っていた。私の頭は少しずつ、冴えていった。


(…………暴力を、ふるって、しまった)


 その事実が刃物となって、私の脳をずたずたと切り刻んでいく。自分の呼吸のリズムが崩壊していくのがわかった。視界がぼやけていく。私は頭を抱えながら、か細い声を出した。


「…………ごめん、なさい。ごめんなさ、い。ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」


 私は謝り続けながら、走り出した。別の車両からまた別の車両へと移って、気付けば先頭車両にいた。運転席の窓から、どこまでも伸びている線路が見える。

 窓を見ていたら、歯車の少女と目が合った。


「ひあっ!」


 驚いて思わず窓を殴った。

 握りこぶしに鈍い痛みが伝って、私はまた自分が暴力的な行動を取ったことを理解した。

 視界の滲みが酷くなっていく。


「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 口から漏れ出す言葉を止めることができない。

 きゅるきゅるきゅるきゅるきゅるきゅる、音がする、嘲笑されているかのように思う。

 涙も溢れてきて、私は先頭車両の端っこで体育座りしながら、小声でずっと誰かに、何かに、謝罪を繰り返していた。

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