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05

 夕陽に染まった住宅街の中を、私は歩いていた。


(今までとは思いっきり異なる選択、か……)


 旧一年四組の教室で、瑞陽先輩に告げられた言葉を思い出す。

 何をすれば、「思いっきり異なる選択」となるのだろうか。授業を不真面目に受けてみる? 放課後に成花と遠くの町に出掛けてみる? 瑞陽先輩と朝のうちから接触してみる?

 そこまで考えて私はふと、自分の考えが「登校」というところから抜け出せていないことに気が付く。


「…………高校、さぼってみる?」


 そう、ひとりごちた。

 勿論学校を風邪で欠席したことはあるが、小学校から高校に至るまでずる休みをしたことは一度もない。そもそも学校という場所が割と好きだし、お母さんや先生にいい顔をしていたいという打算的な優等生気質なところがあるのだ。


 だから若干の抵抗はあったけれど、そんなことを言っている場合でもないような気がした。四月十三日が永遠に続いていくよりは、多少周りから負の感情を抱かれたとしても、時間が正しく動き出す方がずっといい。


(さぼって、何しよう)

(そもそも、さぼるだけでいいの?)

(もっとさ、人殺すとかさ、した方がいいんじゃないかな?)

(何を言っているの? そんなことをしていい訳がないよね? そのまま時間が動き出したらどうするの? ねえどうするの? ねえねえどうするの?)


 自分の思考を殺すように、知らない家の塀を蹴飛ばした。靴下とスニーカーを履いているのに、それでも足に痛みが走った。痛みと同時に、私は今自分がしたことの重さを理解し、へなへなと屈み込む。


「最低だな、私…………」


 地面と目を合わせていると気が滅入りそうだったので顔を上げると、柔らかく輝く夕陽と目が合った。眩しさに思わず目を細める。夕陽を取り囲むように揺蕩う雲は、照らされている赤色と影になっている灰色の対比が随分と綺麗だった。


 ループしているのに、美しいものが美しいことは変わらない。

 今、いきなり土砂降りの雨が降ってくれたらいいのにと思う。そうすれば、変化という希望を見出すことができたのに。

 きゅっと、唇を噛んだとき。


「あの……大丈夫ですか?」


 後ろから声を掛けられて、私は驚いて顔だけ振り向いた。

 そこには、眼鏡を掛けている老齢の男が立っていた。心配そうな面持ちで、私のことを見つめている。う、と思った。やっぱり男は苦手だ。きっとこの人は、私が体調不良なのではないかと推察して声を掛けてくれたのだろうけれど、それでも苦手意識は上手く薄れてくれない。

 私は急いで立ち上がって、頭を下げる。


「すみません、大丈夫です。ありがとうございます」

「そうですか……? それなら、よかったです」


 私は顔を上げて、すぐに立ち去ろうとした。

 でも、顔の距離が近くなったためか、あることに気が付いて思わず静止してしまう。



 眼鏡の向こうに見える彼の左目が、充血しているのだ。

 それも、少しではなく、普段は白いはずの結膜の全てが鮮やかな赤色になっている。



 ちょっとした充血なら、よくあることだ。私にだってある。

 でも――ここまで充血した目を見たのは、初めてかもしれなかった。

 男が、不思議そうに口を開く。


「…………? どうかなさいましたか?」

「……あ、その、すみません。目、赤くなっていたから」


 私がおずおずと言うと、男は「ああ」と微笑んだ。



「いつものことですよ」



 いつものこと、と。

 何気ない日常を語るかのように、男の声音は純粋だった。


「そ、そうなんですね」


 私は取り敢えず曖昧な微笑みを返して、男へともう一度小さく頭を下げてから、だっと駆け出した。

 きゅるきゅるきゅる、という小さな音が聞こえた気がした。ばっと辺りを見渡すと、カーブミラーが目に留まる。血濡れの歯車が見えた気がして、私は小さな悲鳴を漏らしてから遠くへ、遠くへと走った。


 *


 もう夜になったというのに、夕方からずっと、きゅるきゅるきゅるきゅるきゅるきゅるという微かな音が鳴り止まない。

 自室の布団の中に全身を隠しながら、きっと幻聴だと自分に言い聞かせる。

 私は必死に目を閉じて、歯車の幻聴の終わりと終わらない四月十三日の終わりを待ち望んでいる。


 *


 ――気付けば私は、桜吹雪の中で立ち尽くしていた。


 私の視線の先には、桜並木の下のベンチに腰掛けている二人の少女がいた。


 一人は、私だった。

 長い黒髪と、ぱっちりとした黒い瞳。

 白色のブラウスと、デニムパンツと、リボンの飾りが付いた靴。

 その服装は、私がこの春によく着ている、お気に入りのコーディネートだった。


 もう一人は――歯車の少女、だった。

 けれど、歯車がなかった。お腹があった。まるで普通の人間のようだった。

 小花柄のロングワンピースに、黄色のカーディガンを羽織っている。


 歯車の少女は、そばかすだらけの顔をほんのりと赤く染めながら、「私」へと尋ねた。


『……弥歌ちゃんは、キスって、したことある?』


「私」は、ぱちぱちと瞬きする。それから口角を上げて、首を横に振った。


『ないよ。私が男嫌いなの、のの、知っているでしょ』


 私は、目を見張る。

「私」が歯車の少女のことを、「のの」と呼んだからだ。

 歯車の少女は、恥ずかしそうに俯きながら、「私」へと別の質問を投げ掛ける。


『……それじゃ、女の人とキスしたいって思ったこと、ある?』


 その質問に、「私」は驚いたように目を見開いて。

 それから、にやりと笑う。


『最初のキスは、ののがいいかも』


「私」の言葉に、歯車の少女は呆然とした表情で、ただ呼吸を繰り返していた。

「私」は歯車の少女のそんな反応に、『……冗談だよ』と笑顔のまま告げる。


『そっ、そうだよね。冗談だよね!』


 微笑んだ歯車の少女は、胸を撫で下ろしているようにも、どこかがっかりしているようにも見えた。


(…………何だ、この風景は)

(やっぱり私は、歯車の少女と会ったことがあるのだろうか?)

(……それなのに、ちっとも、思い出せない)

(このやり取りのことも、思い出せない……)


 私はずきずきと痛み出した頭を抱えてうずくまる。「私」と歯車の少女の楽しそうな笑い声が耳に届く。桜並木もまるで笑うかのようにゆらゆらと揺れている。桜吹雪の勢いが段々と激しさを増す。全部、全部の視界が桜のピンク色に染まっていく。その色彩に隠されるかのように、「私」と歯車の少女の姿はどこかへと消えてしまっていた。

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