22
「何か」が、話し終える。
その瞬間私の脳内に、ののとの記憶が急流のように溢れ出す。
私はくずおれて、頭を抱えながら呼吸を繰り返した。
視線を上げて、彼女を見る。
この子は、歯車の少女なんかじゃない。
ののだ。
樫原ののだ。
可愛くて、素直で、優しくて、少し抜けているところがあって、笑顔が愛おしくて、
暴力という汚いものからは最も遠い場所で息をしている、
――私が恋していた、少女だ。
「どうして、こんな大事なことを忘れていたんだろう……」
表情を歪める私に、「何か」は憐れむような声音で言う。
『歯車の女神には、芸術品への適性がそこまでありませんでした。それなのに、貴女を救うことを祈ってしまった。貴女の命の再生を、貴女の苦痛の消失を願ってしまった。歯車の女神が得た力では、不完全な世界を構築することしかできなかったのです。その結果として、貴女が死を選んだ前日である四月十三日が何度も繰り返すこととなり、そして繰り返しも不完全だった。四月十三日が段々と歪んでいくのを、貴女も目にしたでしょう? 一度は美しい思考となった貴女が段々と歪んでいくのを、身をもって実感したでしょう……?』
私は額の辺りに手を添えながら、思い出す。
壊れていく世界も、
壊れていく人間も、
壊れていく私も、
――全てはののが私を愛していて、私の死へ、苦しみへ、絶望してくれたからだったのだ。
私はゆっくりと立ち上がり、変わり果てたののの姿を見つめる。
口から、言葉が零れた。
「……そっか。両思い、だったんだ」
……私はいつから、ののへと恋をしていたのだろうか。
最初はきっと、憧憬だった。私は暴力を憎んでいるはずなのに、自身の暴力性から逃れることがずっとできなかった。ののを虐めていた立川を牽制した方法だって、つまるところ暴力だ。父親に流れていた汚い暴力の血が、私の中には確かに存在している。血管を伝って、身体の隅から隅までずっと巡っている。循環を永遠に繰り返し続けている。
『正直に言うと、理由なんてないのかも。殴るっていう行動が、あのときも、……今までも、わたしの頭の中にちっとも浮かんでこなくて』
だから、ののを虐めから助けた日に、ののがそう言っていたのをずっと忘れることができずにいた。私がののの立場だったら、真っ先に暴力で抵抗しようと考えるのに。殴ることを、蹴ることを、肉体を傷付けることを、一番の選択肢として心の中に置くのに。私はののの尊さを、心底羨んだ。
成花への感情も、憧憬から始まったと思う。暴力を疎み、温かい両親ときょうだいに囲まれて生きている成花。けれどいつからか、私にとってののは「好きな人」で、成花は「大切な友達」だった。どこで、その差が生まれたのだろうか。
わからない。
わからないけれど、気付いた頃には恋をしていた。
気持ちを伝える気はさらさらなかった。こんな汚い人間が、ののみたいな美しい人間に恋をすることなんて許される訳がないと思っていた。せめて、女同士でよかったと思う。私とののの間に子どもが産まれることはない。私の汚い血とののの綺麗な血が半分ずつ混ざり合った人間は絶対に存在することはない。その事実を考えるといつも深く安堵して、何だか涙が出そうになって、その涙が本当に安堵から来るものかもわからなくて、希死念慮に優しく包み込まれていくようだった。
私は、「歯車の女神」となってしまったののへと触れようとする。右手が急に動かなくなって、見れば「何か」がゆっくりと顔だと思われる部分を横に振っていた。私は口角を歪めて、「何か」へと懇願する。
「触れたいの。触れさせて、お願い」
『いけません。芸術品に触れてはいけません』
「お願い、お願いだから……」
「何か」は目も鼻も口もないのに微笑んで、『……そもそも』と言う。
『貴女は自分が、歯車の女神に触れる資格を持っていると思いますか……?』
そう問われて、静かに目を見開いた。
ののの姿を見る。お腹をごっそりと持っていかれて、代わりに幾つもの金色の歯車を与えられた「歯車の女神」。最早人間ではなくなった、最愛の人の姿。
――ののが「歯車の女神」になってしまったのは、私のせいだった。
私があの四月十四日に、自殺したから。自分の暴力性と、自分の犯した罪に耐え切れなくなって、高校の屋上から飛び降りたから。
ののは一緒に逃げようって言ってくれたのに。
ののはずっと側にいるって言ってくれたのに。
ののは絶対に私の味方だと言ってくれたのに。
私はののが差し伸べてくれた手を取ることなく、ののが最も悲しむ選択を取ってしまった。ののの恋心を知らずとも、ののが私のことを大事に思ってくれていることなんて、充分すぎるくらいに知っていたのに。それなのに、私はののの救済を裏切ってしまった。
涙が溢れ出す。ののの姿が、歪んでいく。
「……そうだよね、全部放り出して死後の世界に行こうだなんて虫がよすぎるよね、全部私への罰だよね、……そもそも、私は、全部あの人のせいにしていたんだ、暴力性を全部あの人と血が繋がっているからだって思い込んでいたんだ、……よくなかったよね、私は自分の弱さと向き合えていなかったよね……」
幾つもの後悔が形を持って零れ落ちていく。泣きながら、自嘲する。こんなことを言っていても、もう人間だった頃の、温かくて尊いののが戻ってくることはないのに――
『――川相弥歌』
「何か」が、私の名前を呼ぶ。私は涙を流しながら、「何か」の方を向いた。
『貴女に一つ、提案があります』
「何か」は、連なる内臓を動かして私の頬に触れる。べちょり、という触感がした。涙が拭き取られて、代わりに赤色の血が付着した心地がした。
「何……?」
『貴女には、非常に大きな芸術品への適性があります』
私は、目を見張る。
震える声で、言葉を紡いだ。
「……それって、つまり、」
『ええ。貴女が望むのであれば、貴女の力で、樫原ののを人間として元いた世界に生き返らせることができるのです。それも不完全ではなく、完全に。貴女の適性ならば、それくらい容易いでしょう……』
「本当に……?」
『ええ、本当ですよ』
「何か」が微笑んだにおいがする。私は呆然と、「何か」に告げられた言葉を反芻する。
私が「芸術品」になれば、ののを救うことができる。
「……あ、あは、あはははははは、あはははははははははははははっ…………」
その事実を理解して、安心して、思わず笑い声が溢れた。
それから、「何か」へと伝える。
「それじゃあ、私を芸術品にして」
「何か」は、少しばかり驚いたようだった。
『随分と早い決断ですね……もっと悩まれるかと思っていました』
「だって」
私は、微笑む。
「――ようやく、暴力ではない手段で、ののを救うことができるから」
救済には暴力が必要だと思い込んでいた。暴力を振るう以外の解決策を導けなかった。対話も、相互理解も、愛情も、相手が綺麗な心の持ち主でなければがらくただ。そう強く思うと同時に、対話を、相互理解を、愛情を、心の底から信奉することのできる人間に深く憧れた。どうして私はそうあることができないのだろうかと、苦しんでいた。
美術館に展示されていた「芸術品」の少女たちを思い出す。「歯車の女神」という名を与えられたののの姿を見る。皆、肉体を破壊されていた。自分がこれからそうなるのだと思うと恐ろしくもあったけれど、同時に温かい気持ちにもなった。人間をやめてしまえば、人間であるから生じる苦しみはきっと消失する。
優しいのの。尊いのの。美しいのの。そんなののが私のために選んでくれた救済を、私は今、のののために選ぶことができる。
少しだけ、ほんの少しだけだけれど、
のののような存在に、近付ける気がした。
「何か」はくつくつと笑っている。幸福そうに数多の内臓を揺らしながら、さざ波のように笑っている。
川相弥歌、と「何か」は私の名前を呼んだ。
『私が貴女を、芸術品に――「天使」にして差し上げましょう』
その言葉に、私は深く頷いた。
霞んでいく意識の中で、最後まで、のののことを見つめていた。




