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四月十四日。
*
「そんじゃまたねー!」
放課後。そう言って教室を駆け足で去っていく成花ちゃんへ、わたしと弥歌ちゃんは手を振る。今日は成花ちゃんの弟さんのお誕生日で、早く家に帰らなければならないそうだ。
弥歌ちゃんを見ると、寂しそうな眼差しをしていた。……きっと弥歌ちゃんには、幸福な家族に対する憧憬がある。成花ちゃんには弟さんと妹さんがいて、お父さんとお母さんも仲良しで、家族五人で定期的に旅行に行っているという。可もなく不可もない家族仲、という言葉がふさわしいわたしの家庭とは大違いだ。成花ちゃんが家族の話をするとき、弥歌ちゃんは笑っているけれど、その笑顔には確かな儚さが溶け合っていることに、わたしは気が付いていた。成花ちゃんは、弥歌ちゃんのお父さんのことを知らない。推測だけれど、弥歌ちゃんは話したくないんだと思う。成花ちゃんの幸せを、邪魔したくないんだと思う。
弥歌ちゃんはリュックサックを背負うと、わたしと目を合わせる。いつものように、にっと笑った。
「帰ろうよ。駅まで送ってあげる」
「え、いいの?」
「いいよ。家帰っても誰もいなくて暇だし」
弥歌ちゃんの目は、やっぱり寂しげな色を浮かべていた。
「……そうしたら、お言葉に甘えて」
わたしの言葉に、弥歌ちゃんは柔らかく笑った。
*
駅までの交差点で、わたしと弥歌ちゃんは信号が青になるのを待っている。
弥歌ちゃんの右手は、しきりにセーラー服の臙脂色のリボンを触っていた。きゅっと、胸が痛くなる。……一年生であることを示す橙色のリボンを付けることは、もうない。わたしたちは臙脂色で、来年には水色で、それから先はずっと透明で――
思わず、左手を差し出した。
弥歌ちゃんが不思議そうに、わたしの方を見る。
「……手、繋がない?」
これは恋心から生まれた欲望ではないと、自分に何度も言い聞かせた。
弥歌ちゃんは何度か瞬きをして、それから口角を上げる。
「……ありがと、のの」
弥歌ちゃんはリボンに触れるのをやめて、わたしと手を繋いだ。弥歌ちゃんの手は、微かに震えている気がした。その怯えが消えればいいと、心の底から願う。
弥歌ちゃんの眼差しが、少しだけ、柔らかくなった気がした。
青信号の音が響いたから、渡ろうとした。
「弥歌」
――男の人の、声がした。
わたしと弥歌ちゃんは歩き出さずに、一緒に顔だけ左を向く。
痩せ細った人だった。右目と左目が離れていて、口角を上げながら弥歌ちゃんのことを見つめている。
その笑い方は、どこか弥歌ちゃんと似ている気がした。
ぅあ、と弥歌ちゃんの口から声が漏れる。
がさがさとした低い音だった。
男の人の口が動く。
「ずっと、ずっと探していたんだよ……ようやく、見つけた。なあ、お前は村野弥歌だろう? この町に住んでいるのか? それともこの町の学校に通っているのか? どうなんだ? なあ、教えてくれよ……俺はずっと、お前と、梨歌に、会いたかったんだよ……」
男の人はにっと笑いながら、弥歌ちゃんの肩に手を置いた。
むらのやか……? 弥歌ちゃんの苗字は、川相のはずなのに。
(そうだ……弥歌ちゃんのご両親は、離婚、しているって)
その事実に気付き、わたしはこの人が誰かを悟る。
それと同時に、今この状況がすごく恐ろしいものであることに、ようやく思い至る。
「弥歌ちゃんっ……」
逃げよう、と言葉を続けようとした。
続けられなかった。
「――久しぶり、お父さん。私も、ずっと会いたかった」
わたしは呆然と、弥歌ちゃんが発した言葉を聞いていた。
手は繋がれたままだけれど、後ろ姿になってしまっていて、弥歌ちゃんの表情は見えない。代わりに、弥歌ちゃんの……お父さんが、嬉しそうに笑ったのを見た。
「そうか、そうか、お前もか。まあ、そうだよな……父親がいないなんて、寂しいよな……」
「うん、寂しかった。抱きしめてもいい、お父さん?」
「ああ、勿論だよ……」
弥歌ちゃんのお父さんが、腕を広げる。
弥歌ちゃんの手がわたしから離れて、
――弥歌ちゃんは思い切り、お父さんを突き飛ばした。
弥歌ちゃんのお父さんは車道に転がっていた
いつの間にか、赤信号になっていた
トラックのブレーキ音が響いた
間に合わない
あ
顔が
ちょうど顔が
タイヤに
ぐしゃりって
潰れた音が
音が
音が
音が
音が
音が
音が
音が
音が
真っ赤な、血が、どろどろと、車道に広がっていく。手足が、ぴくぴくと、動いている。後ろから、悲鳴が聞こえた。わたしは金縛りにあったみたいに数秒の間動けなくて、ようやく、……弥歌ちゃんの方を見た。
弥歌ちゃんは笑っていた。
ぼろぼろ、泣きながら、笑っていた。
「あは……あははははっ、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!」
救急車! 警察! という単語が、どこからか聞こえてくる。
弥歌ちゃんは涙を拭うと、走り出した。
わたしは「待って……!」と叫んで、弥歌ちゃんの背中を追い掛けた。
*
息を切らしながら、わたしは走り続ける。
気付けばわたしたちは、高校に戻ってきた。弥歌ちゃんはスニーカーのまま廊下を走っている。わたしもローファーを脱ぐ暇なく、弥歌ちゃんの背中を見失わないように必死に駆ける。そもそも走るのに向いていない靴だから、足の皮膚のあちこちが悲鳴を上げていた。すれ違った後輩の女の子たちが、鬼ごっこ? やばー楽しそーと呑気に喋っているのが耳に届く。
「まっ……て、やか……ちゃんっ……!」
弥歌ちゃんは振り向かずに、階段を昇っていく。わたしはぜえぜえと呼吸しながら、何とか後に続く。
足がもつれて転んでしまう。階段に膝を打ち付けて、余りの痛みに顔を歪めた。視界から弥歌ちゃんの姿が消える。いけない、と自分を叱責して、よろよろと立ち上がってもう一度走り出す。弥歌ちゃんの足音を必死に追い掛ける。
――屋上のドアが、開いていた。
(どうして、屋上に……)
そう思ったところで、最悪の結論に思い至り、わたしは小さな悲鳴を上げた。
「だめえっ!」
大声を上げながら、屋上へと踏み入れる。
フェンスの向こうの屋上の縁に立って、弥歌ちゃんがこちらを見つめていた。
長い黒髪が、風に揺られている。
弥歌ちゃんの白いスニーカーには、あのとき飛び散った赤色の血が付いていた。
「弥歌、ちゃ――」
「のの、動かないで。動いたら、怒るよ」
弥歌ちゃんは微笑みながら言う。わたしは、それに従うことしかできなかった。だって、この状況で「怒る」という言葉が示しているのは、きっと……
わたしは口角を歪めながら、祈るように言葉を紡ぐ。
「弥歌ちゃん、お願い、こっちに戻ってきて……やだよ、弥歌ちゃん、お願いだから」
「戻ってどうするの? 私さ、もう人殺しなんだよ?」
昏い眼差しをしながら、弥歌ちゃんはわたしへと尋ねる。
数秒逡巡してから、わたしは無理やり笑顔になって、告げた。
「そうしたら、わたしと一緒に、逃げようよ! どこか遠いところに逃げよう! 大丈夫、わたしが、ずっと側にいるから! わたしは、絶対に弥歌ちゃんの味方でいるから!」
弥歌ちゃんは、目を見開いた。
それから、ゆっくりと首を横に振る。
「……ううん、逃げない。そんなことしたら、ののも同罪になっちゃうよ?」
「同罪でいいよ! いいから! だからっ……!」
「ありがとう。その言葉だけで、私は充分、嬉しい」
ねえ、のの、と弥歌ちゃんは儚げな声音で言う。
「……私さ、ずっと、自分の血を憎んでいたの。この血には、あの男の血が半分混ざっているんだ。それを証明するみたいに、私は暴力的な人間なの。暴力を振るうことが、常に選択肢としてあるの。汚いよね。醜いよね。気持ち悪いよね。……でも、今、気付いた。この真っ赤な血を全部身体から出しちゃえばさ、」
弥歌ちゃんは、両手を広げて微笑んだ。
「――――私も、綺麗な人間になれるかな?」
……わたしは顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、屋上の縁の側に座り込んでいた。遠くの地面には、真っ赤になった弥歌ちゃんが、いた。わたしは譫言のように、弥歌ちゃんの名前を呼んでいる。呼び続けている。弥歌ちゃん、弥歌ちゃん、弥歌ちゃん、弥歌ちゃん、弥歌ちゃん、弥歌ちゃん、弥歌ちゃん、弥歌ちゃん、弥歌ちゃん――
『――可哀想に』
黒板を引っ掻いたときのような、高い、恐ろしい声が、後ろから聞こえた。
『貴女は最愛の人を失ってしまったのですね。心が歪むような苦しみかと思います』
振り向こうとしても、身体がぴくりとも動かない。
『そんな貴女に、いい提案があります。――私の芸術品に、なりませんか?』
芸術品……?
『私は生きている人間を歪ませ、芸術品とすることで、力を与えることが可能です』
力……
『さあ、貴女はどのような力を望みますか?』
わたしは暫し黙って、それから「神様」に縋るように、震える声で言った。
「弥歌ちゃんを、生き返らせてください。弥歌ちゃんの苦しみを、消してください……」
言い終えた頃には、意識がどこかへと消えていった。




