20
わたしたちはショッピングモールを出て、町中を歩いていた。
気付けばわたしの左手と弥歌ちゃんの右手はまた繋がれていた。どきどきにも、ちょっとずつ慣れてきた気がした。弥歌ちゃんがどこか楽しそうに、鼻歌を口ずさんでいる。
「ご機嫌だね、弥歌ちゃん」
「ああ、いいの買えたから」
弥歌ちゃんは笑顔でそう言って、左手に持っている紙袋を掲げて見せてくれた。そこに白色のキャスケットが入っていることを、わたしは知っている。わたしが紹介したお店で、弥歌ちゃんが気に入ったと言って買ってくれた瞬間を、宿った高揚を思い出す。
「弥歌ちゃんが嬉しそうで、わたしも嬉しい」
「そうなの? ののは相変わらず性格いいね」
「そんなことないよ……」
否定しながら、わたしの胸中をほんのりと安堵が満たしていった。わたしは弥歌ちゃんを苦しみから救ってあげることはできないかもしれないけれど、弥歌ちゃんの心がひび割れていく速度を遅らせていくことはきっとできる。そう信じている。信じることに縋っている。
「あ」
弥歌ちゃんがふいに立ち止まって、つられたようにわたしも足を止めた。
弥歌ちゃんの視線の先には、小さな公園があった。遊具は滑り台とブランコとシーソーしかなかったけれど、代わりに沢山の桜の木が植えられていて、満開の桜が印象的だった。木々の下には、ベンチが寂しげに二つ並んでいた。
「ちょっと座っていかない? のの、歩きっぱなしで疲れたかなって」
気遣ってくれたことに気付いて、顔が温かな熱を帯びる。
冷ますように、勢いよく二、三度頷いた。
「それじゃあ、決まり」
弥歌ちゃんはにっと笑って、わたしの手を引いてベンチへと向かった。
わたしと弥歌ちゃんは、ベンチに並んで腰掛ける。
見上げれば、桜の木の枝を覆い尽くすかのように、ふわふわそうな桜の花がいっぱいに咲いていた。風が吹くたびに、木がわさわさと揺れて、桜の花びらがひらひらと降ってくる。わたしは暫くの間、その情景に見惚れてしまう。
「のの、動かないで」
弥歌ちゃんの声がして、意識が現実に呼び戻される。言われた通りに動かないでいると、自分の髪に何かが触れたのがわかった。
「もう動いていいよ。これ、付いていた」
弥歌ちゃんの方を見ると、ピンク色の花びらを一つ、親指と人差し指でつまんでいた。状況を理解し、わたしは弥歌ちゃんへとお礼を言う。
「ありがとう、取ってくれたんだね」
「気にしないで。なんか、無防備で可愛かった」
花びらを手放しながら、口角を上げて言う弥歌ちゃんに、わたしはふえっと変な声を上げてしまう。
「その反応も可愛いじゃん」
「い、いやいや」
わたしは否定しながら、弥歌ちゃんから視線を離す。弥歌ちゃんはわたしに対して、可愛いという言葉をよく使う。仲のいい子になら誰にでも言うのかと思ったら、成花ちゃんには余り言わない。有頂天になってしまいかけるが、きっとからかわれているだけだと自分の感情を律する。
『ののは相変わらずうぶで可愛い』
ふと、今日待ち合わせのときに告げられた言葉を思い出す。
わたしはゆっくりと、弥歌ちゃんの方を見た。
「…………? どうかした、のの?」
(弥歌ちゃんは、誰かと付き合ったりしたことが、あるのかな)
(……キス、とか、したことあるのかな)
いっときは脳から散らした疑問が、再びねばねばとくっついて形を取り戻し始める。
「ののってば」
尋ねられているから、わたしも尋ねても許されるような気がした。
衝動に任せるようにして、口を開く。
「……弥歌ちゃんは、キスって、したことある?」
言いながら後悔が、水に落ちた絵の具みたいにじんわりと広がった。
弥歌ちゃんは何度か瞬きしてから、にっと笑って首を横に振る。
「ないよ。私が男嫌いなの、のの、知っているでしょ」
その答えに、深く安堵する。同時に恥ずかしさが込み上げてきて、つい俯いてしまった。
(……よかったけれど、やらかした)
(……いや、もしかしたらこれは、チャンスかもしれない)
(ちょっとだけ。ちょっとだけでいいから、弥歌ちゃんの恋愛観を、知りたい……)
気付けばまた、口が動いていた。
「……それじゃ、女の人とキスしたいって思ったこと、ある?」
弥歌ちゃんの顔を見ることはできそうになかった。何を聞いているんだ、と頭を抱える。綺麗な桜に包まれて、わたしの頭は少しおかしくなってしまったのかもしれない。
「最初のキスは、ののがいいかも」
……そんな弥歌ちゃんの声が降り注いで、わたしは思わず顔を上げる。弥歌ちゃんは笑っていた。とても普通に笑っていたから、真意が余計にわからなくなった。わたしは何も返答することができずに、ただ弥歌ちゃんを見つめていた。
弥歌ちゃんの、柔らかそうな唇が、動く。
「……冗談だよ」
じょうだん。冗談。五秒くらい掛けて、その言葉を受け止めることができた。わたしは安堵のような喪失感のような訳のわからない気持ちになりながら、取り敢えず微笑んだ。
「そっ、そうだよね。冗談だよね!」
「うん、冗談」
「あはは、だよね、びっくりしちゃった、あはははは」
「あはは、びっくりした? あはははは」
わたしたちは笑い合う。一際大きな風が吹いて、沢山の花びらが舞った。まるで、わたしたちの笑い声に共鳴しているかのようだった。
風が落ち着いてきた頃に、弥歌ちゃんがすっと目を細めた。
「……じゃあさ、冗談じゃないこと、言ってもいい?」
いつの間にか、弥歌ちゃんの顔から笑顔は消えていた。
星のない夜の空のような瞳に、吸い込まれてしまいそうになる。
わたしは、ゆっくりと頷いた。
「……二年生が始まるのが怖い。もう、区分としては私たちは二年生なのかもしれないけど、一学期が始まったら、その事実を強く突き付けられている気分になると思う」
ぴしり、と。
弥歌ちゃんの心のひび割れの音が、聞こえたような気がした。
「……何で、二年生になるのが、怖いの?」
わたしの問いに、弥歌ちゃんは唇を噛んでから小さな声で言う。
「……きっと、大人になってしまえばもう、変われないんだよ。もうすぐタイムリミットなの。それなのに私の中身は何一つ変わらないの。ずっと汚い。汚いままなんだ」
わからなかった。
弥歌ちゃんが、弥歌ちゃんの何を「汚い」と思っているのか。
お父さんがお母さんに暴力を振るう人だったということが、関係している? それとももっと、何か、別のこと……?
わたしは泣き出しそうになりながら、弥歌ちゃんと目を合わせる。
「汚くないよ。弥歌ちゃんは、すごく、……綺麗だよ」
「そんなことない。汚いんだよ。私は――」
弥歌ちゃんの黒くて綺麗な瞳から、硝子玉のような綺麗な涙が、零れた。
「――私は、ののや成花みたいな人間に、なりたかった」
弥歌ちゃんが嗚咽を漏らし始める。どうしたらいいかわからなくて、結局、そっと抱きしめた。抱擁の中で、弥歌ちゃんの身体は小刻みに震えていた。大好きな人が泣いていることに深い悲しみを覚えると同時に、初めて弥歌ちゃんを抱きしめたという事実に心を震わせている自分が確かに存在した。……わたしの方が、汚い。貰い泣きしたのか、わたしの目にも涙が溢れる。美しい桜へ攫ってほしいと願う。弥歌ちゃんの傷を、わたしの汚れた感情を。
*
四月八日。
弥歌ちゃんが怖がっていた高校二年生の一学期が、始まる。
わたしと弥歌ちゃんと成花ちゃんは、また同じクラスになった。一年四組から、二年一組へ。席の配置も、わたしの真後ろに弥歌ちゃんがいて、わたしの左隣に成花ちゃんがいるという、代わり映えのないものだった。運命かよと盛り上がる弥歌ちゃんと成花ちゃんを眺めながら、考える。――変化が薄くなったことで、弥歌ちゃんの苦しみも薄まればいい。
*
四月十三日。
一限は数学。成花ちゃんは小テストが全然わからなかったらしく、明らかにがっかりしていた。二限は英語。先生が関根さんを音読によく指名するのは、やはり発音がいいからだろうか。三限は体育。バスケのチームが弥歌ちゃんと成花ちゃんと違うので、ちょっと寂しい。四限は世界史。ちっちゃな蜂が入ってきて、クラスの中がざわざわとした。
昼休み。学食で、わたしはサンドイッチ、弥歌ちゃんはラーメン、成花ちゃんはうどんをそれぞれ食べる。一人だけ麺類ではないことを弥歌ちゃんにからかわれて、こっそりどきどきした。
五限は古典。源氏物語は結構どろどろしていると聞いたことがあるけれど、本当なのかなとぺらぺら教科書を捲ってみる。六限は情報。プログラミングがわからなくて隣に座る弥歌ちゃんに尋ねたけれど、弥歌ちゃんもよくわかっていないようで、笑い合ってしまった。
放課後。コンビニに寄って、わたしはあんまん、弥歌ちゃんはピザまん、成花ちゃんは肉まんをそれぞれ注文する。食べ比べをして、何だか幸せが三倍になったような気がした。
夜。明かりを消して布団に入って、ふと、思い出す。
『そんなことない。汚いんだよ。私は――』
『――私は、ののや成花みたいな人間に、なりたかった』
あの日、弥歌ちゃんはそう言って、泣いていた。
臆病だから、詳しく聞くことはできなかった。……でも、逃げ続けていてはいけない。タイミングを見て、話をしなければならないと自分に言い聞かせる。
段々と、意識が霞んでいく。
最後まで、弥歌ちゃんのことを考えている。




