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09

 ――デジタル時計に表示されていた「4 13 月」の文字が、ずっと頭から離れてくれない。


 地面には陽光が降り注いでいるというのに、私の気分は汚水のように濁っていた。右手の指を一つずつ折り曲げて、今日が五回目の四月十三日であるという事実を呑み込む。顔を上げる気にならなくて、俯いてきらきら輝く地面と目を合わせながら、高校までの道のりを歩き続ける。


「昨日」のことがあったから、今日も突飛な行動を取る気には全くならなかった。それに、「昨日」起こったことを瑞陽先輩と共有すれば、何か新たな打開策が見つかるかもしれない。だから私は、高校に行かなくてはならない……


(血が見たい)

(血なんて見たくない)

(血が見たい)

(血なんて見たくない)

(血が見たい)

(血なんて見たくない)

(血が見たい)


 濁った思考が溶けている髪の毛を時折毟りながら、私は高校の校門を潜る。そういえば、瑞陽先輩は三年何組なのだろうか? オカルト研究会だということは知っているが、まだ知らないことばかりだ……


「弥ー歌っ!」


 そんな言葉と共に左肩を叩かれる。成花の声だと、すぐにわかった。普段ならば成花が先に教室にいるはずなのにと思い、一瞬だけ変化への期待を抱く。でもよく考えたら、私が食欲が削がれていて朝ご飯を食べずに家を出てきたからだ。落胆しながら、どうにか笑顔をつくって左の方を見た。


 右肩から右腕にかけての肉体がごっそりなくなっている、

 成花だった。


 私は何も言うことができないまま、ただ目を見開いた。

 成花はにこにこと笑いながら、私へと喋り掛けてくる。


「弥歌、いつもより早いじゃん! どしたの? なんかいいことでもあったー?」


 私は今までの成花にはあったはずの、空白の肉を見た。空白の肉と実在の肉の切断面には、真っ赤な血も、筋肉の繊維も、真っ白な骨も、あった。血液は柔らかな速度で零れ落ちていた。


(血だ……!)

(どうでもいい)

(血だ……!)

(どうでもいい)

(血だ……!)

(どうでもいい)

(血だ……!)


「弥歌、どうかしたん? あ、まさかわたし、寝癖とか付いてる!?」


 成花はそう言いながら、左手でポニーテールに纏められた髪を丁寧に触る。

 私の口から、言葉が滑り落ちた。


「……私への罰だ、私が、私が……私が変化を希望にしようとしたから、」


 少しずつ視界が滲んでいく。そんな私の様子に、成花は驚いたように目を見張ると、心配そうな面持ちで顔を覗き込んでくる。


「ちょ、ちょっと、どしたの弥歌!? ……あ、わかった、いいことじゃなくて、嫌なことあったんでしょ、今朝! 親と喧嘩したとか? 話してみろってー、わたしに!」


 変わり果てた姿の友達が、いつもと何ら変わらない優しさで私へと語り掛けてくる。

 その事実が鋭利な刃物となって、私の心を切り刻んでいく。

 私は両手で溢れる涙を拭いながら、震えてしまう声で成花へと問う。


「…………怪我、しているよね、」

「え、け、怪我? もしかして、親にぶたれたの、弥歌!? 流石にそれは酷くね……!?」

「ちが……違う、成花、怪我しているよね、痛いよね、ねえ痛いって言ってよ、お願いだから……」


 私の言葉の意味が、成花は本気でわかっていないようだった。

 自身の身体の色々なところに視線を彷徨わせながら、成花は口を開く。


「え、嘘、わたし怪我してる……? やばー気付いてなかった、教えてくれてありがとー! ところでどこ怪我してるかだけ教えてもらってもいい?」

 拭ったはずの涙が、またぼろぼろと溢れてくる。

「……ほら、右肩と右腕、ないじゃん……前まではあったじゃん……」

「え……? いや、これ、いつものことじゃね……?」

「いつものことって何っ!」


 大声を上げた私に、成花はびくりと身体を震わせた。

 私は顔を両手で覆いながら、言う。


「成花言っていたじゃん、グロはNGだって……今の君の姿はグロに該当するよね、ね、ね、ね、そうだよね……?」


 指の隙間から、成花の困惑した表情が見えた。


「いや、確かにグロは苦手だけど……わたしのどこがグロいかは、ごめん、よくわかんないや……弥歌、もしかしたら疲れてるんじゃね?」

「私はおかしくなんてない!」


 両手を顔から離す。涙や鼻水が付着した手のひらが、陽光をきらきらと散らす。

 成花は私を見るとはっとした面持ちになり、スカートのポケットからハンカチを取り出すと、私の方へ差し出した。

 成花の優しさはどこまでも普通で、正常だった。

 地面には成花の血溜まりができていた。


(綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血。考えるな。綺麗な血…………)


 私の思考はどこまでも狂っていて、異常だった。

 私は表情を歪めながら、縋るように、そうであってほしいと祈るように呟く。



「この世界が、おかしくなっているんだよ…………」



 成花からハンカチを受け取ることはせずに、私は彼女に背を向けて走り出す。


 瑞陽先輩に会わなければならないと思った。

 彼女は、私のよすがだ。


 *


(瑞陽先輩は、何組に、いるの)


 昇降口でスニーカーを上履きに履き替えた私は、二年一組へと行くことはせず、一階の廊下をよろよろと彷徨っていた。


「一限マジだりいよなあ」

「めっちゃわかるわー」

「先生、もっとちゃんと授業してほしいよな」


 三人の男子生徒が前から歩いてくる。左脚がない男。腹が抉れている男。唇がぱっくりと裂けている男。私の視線に気付いたのか、左脚がない男と目が合った。ばっと視線を逸らして、平静を装いながらすれ違う。


「……おい、今の子めっちゃ美人だったんだけど!」

「え、まじ? 見てなかったー損したかも」

「おいおい、あんまりそういうこと大声で言うなよ」

「お前は相変わらず真面目だなあ」

「ほんとそれなー」

「「「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」」」


 男たちの笑い声が聞こえてくる。思わず耳を塞いだ。


(怖い……)

(男は、怖い……!)

(殺してやる……殺してやる……殺してやる……)

(殺したらだめ……殺したらだめ……殺したらだめ……)

(――たすけて、)

(みずひせんぱい、)


 三年一組の教室が見えてくる。小走りになる。後方のドアは開かれていて、急いで覗いた。

 教室の床は所々が赤くなっていた。談笑している先輩も、机に突っ伏して眠っている先輩も、授業の準備をしている先輩も……身体のどこかに欠損が見られない人間は一人もいなかった。私は苦しくなりながら、瑞陽先輩の姿を探す。けれど、それらしき人影はちっとも見当たらなかった。


 私は顔に滲んでいた汗を右手で拭って、覚束ない足取りで歩き出す。三年二組に辿り着くのはすぐだった。また、開かれている後方のドアから覗く。赤色を滲ませた先輩たち。瑞陽先輩は、いない。いてもたってもいられなくなって、どたどたと廊下を駆ける。


 三年三組にも瑞陽先輩はいなかった。

 もう、残りは三年四組だけになってしまった。


(どうしよう、いなかったらどうしよう、)

(瑞陽先輩が幻だったらどうしよう、ループで壊れた私の脳がつくり出した幻覚だったらどうしよう、)

(まだ学校に来ていないだけかもしれない、あの日のように保健室にいるのかもしれない、)

(…………たすけて、)


 手のひらに爪を食い込ませながら、三年四組の教室の中を見た。

 必死に探した。


 でも――長髪の美しい烏の濡れ羽色も、瞳の正常な海のように深遠な青色も、肌の透明感のある白色も、どこにも見つけることができない。汚い、綺麗な、赤色、いっぱい――私は強く唇を噛んで、教室のドアを蹴飛ばした。大きな音がして、教室にいる先輩たちの視線が一気に私の方へと集中する。私は少し痛む右足を見て、また自分が「いけないこと」をしたと知る。


「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」


 うわごとのように、口から謝罪の言葉が漏れ始める。穴のように真っ黒な数多の目が、私を監視するように見つめている。逃げることも、濁流のような言葉を止めることもできなくて、まるで磔になったかのような私の肩を、



 ――誰かが優しく叩いた。



 私は目を見張る。頭だけ振り向いたら、

 ……瑞陽先輩がそこにいた。


 安堵が一気に全身を伝っていく。私は思わず瑞陽先輩を抱きしめようとして、

 ……彼女の左胸が、なくなっていることに気が付いた。


「…………あ」


 セーラー服の白地に滲む、鮮烈な赤。

 瑞陽先輩はそっと首を傾げながら、私の頬へと手を添えた。


「……何か、怖いことでもあったの?」


 私は、え、と声を漏らした。


「…………どうして、わかるんですか、」

「君が、何かに怯えた顔をしてるから。その怯えの原因はもしかして、オカルティックなもの?」


 瑞陽先輩は「あの日」のように、柔らかく微笑んだ。


「自己紹介がまだだったね。私、茅野瑞陽。瑞陽先輩って呼んでくれたら嬉しいな」

「あ……私、は、……川相弥歌、」

「弥歌ちゃんっていうんだ。よろしくね」


 私はふわりと口角を上げた瑞陽先輩のセーラー服を、きゅっと掴んだ。

 少し驚いたように真っ青な目を見開いた瑞陽先輩に、私は掠れた声で懇願する。


「……たすけて、ください」


 私の言葉に、瑞陽先輩は綺麗に笑って、私の身体を慈しむように抱き寄せた。


「――勿論」

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