魔王
いったいどこで用意してきたのか。
彩音は質の良さそうな黒のローブを羽織り、フードを目深に被る。
沈む夕日から、今日の最期の光が差し込んでくる窓のカーテンを閉め切る。
部屋の明かりは床に置かれた数本のロウソクだけになった。
揺らめく炎が、彼女のアイドル然とした幻想的な横顔を照らし出す。
きれいだと思ってしまう。
もちろんそれは悪魔召喚の儀式の準備をしているという事実さえなければだが。
「いい、逸平君。私が合図をしたら、そこにある祭壇に、あなたの最も強い『想い』がこもったものを捧げるのよ」
「想いが強くこもったものだって?」
彩音が指差した先には、手作りの祭壇があった。
俺は困惑しながら、いつも持ち歩いているスクールバッグの中身を漁る。
教科書やスマホ、安物の時計。そんなものに、強い想いなどあるはずもない。
「逸平君の魂の震えが伝わるほどの情熱を捧げたものが必要なの」
「魂の震えとか、そんなことを突然この場で言われてもなぁ」
もう何でもいい。さすがに失敗するだろうしな。
そう思いながら、バッグの奥底に入っている古びたノートを取り出した。
中学時代から誰にも見せずに書き続けてきた、自作のファンタジー小説の設定ノート。
表紙の下手くそなドラゴンの絵や擦り切れた背表紙が特徴だ。
そんなものは、親友の立花圭人にも見せた事はない。
これなら想いがこもっていると言えなくもないだろう。
後から考えれば、この『黒歴史ノート』がこれから起こる全ての発端だった。
もちろんこの時、そんなことは考えるべくもないことだ。
「こ、これでいいか彩音」
「それ! いいわ……逸平君の震えるような魂、しっかりと受け取ったわ」
彩音は満足げに頷くと、魔法陣の中心に向き直った。
「――我、光を失いし者に願う! 我が声を聞け、悪魔の王よ……」
形のいい唇から彩音の言葉が熱となって部屋の中に伝わっていく。
ロウソクから立ち上る火。
どこか異国風のお香の香りがやけに鼻につく。
まさに非日常といった空気が室内を支配していく。
「……さあ、今こそ捧げて!」
その声に立ち上がろうとして、星座のし過ぎで足が非難するように痙攣する。
よろよろと祭壇へ進み、黒歴史ノートを投げ出すように置く。
その時に感じた、ちょっとした違和感。
ノートがちょっと重たくなかったか? 表面が少し光ったように感じなかったか?
いや、気のせいだ。気のせいだよ。
これで終わりだ。何も起こらず、いつものようにお開きになるはずだ。
安堵の息を吐きかけた。
その瞬間だった。
いきなり生暖かいような強い風が部屋の中を吹き抜けた!
いや部屋の中という表現は確かじゃない。
祭壇に置かれたノートの上にだけ風が吹いたかのように。ペラペラペラッと勢いよくめくれ上がったのだ!
そのページの端が、祭壇に立てかけてあったロウソクの炎に触れた。
「俺のノートが!」
声を上げたときにはもう遅かった。
俺の手垢が擦りこまれたようなノートが一瞬にして日に塗れ、どんどん黒い灰に変化していく。
「しまった!」
しかし異変はそれだけではなかった。
灰になったはずのノートが、まるでそれ自体がエネルギー源であるかのように、真っ赤な禍々しい光を放ち出した。
赤い光は生きているかのような線となって部屋を走り抜けた。
そのまま光は床の魔法陣へ。
チョークで描かれただけの歪な魔法陣が、まるで心臓の鼓動を示すかのように脈動する。
空気が焼ける様な匂いが鼻を貫く。
さっきまであれほど残暑に見舞われていた室内の温度が急激に下がっていく。
強風でもないのに、窓がガタガタと激しく揺れる。
棚から本が雪崩のように落ち、床のロウソクが一斉に吹き消される。
完全な暗闇。ビリビリと震えるような空気の轟音。
俺と彩音は思わず床に伏せ、頭を抱える。
(何が起きているっていうんだ)
突然それが何事も無かったかのように突然途絶えた。
風も光もつんざくような音も、何もかも。
静寂の中、目が慣れると散らかった部室が浮かび上がってくる。
そう。
さっきまでと違う点が、一つだけあった。
魔法陣の中心。
そこに誰かが立っていた。
空気がガラスのように軋む音がする。
夏のはずなのに吐く息が白い。
月明りが、窓の隙間から差し込んでいる。その光に照らし出されたのは『大悪魔ルシフェル』とは似ても似つかない姿だった。
紅い瞳に特徴的な紫色の長い髪。
年齢は俺たちと同じくらい。
華奢でしなやかな体つき。現実離れした黒基調のコートのようなものを着込んでいる。
この世のものとは思えないほどの美しい少年。
非現実が形を為して、全てを呑み込む塊として立ち尽くしているかのようだった。
「ルシフェル様? うそ、成功しちゃったの? マジで!」
彩音が、震える声で呟いた。
それは歓喜というよりは、驚きの入り混じった声に聞こえた。
(お前、成功するって思ってなかっただろ、絶対)
立ち尽くした美しい少年は、何度かゆっくりと瞬きをすると、不思議そうに自分の両手を見つめ、それから俺たちへと視線を向けた。
紅い瞳には、何の感情も浮かんでいない。
そして静かに、その唇を開いた。
「ここは、どこだ?」
澄んだ、誰もが振り向くような涼やかな声。
彼は困惑したように周囲を見回す。
次に自分自身を指さすかのように、はっきりと呟いた。
「……ボクは、誰だ?」
記憶喪失。
あまりにも使い古され尽くした単語が、直球で頭に浮かんだ。
「召喚された悪魔が記憶喪失って……そんなベタな展開ある!?」
と小声でパニックになっている彩音は放置。
そんなことより、俺の思考は別の場所にあった。
俺は、目の前のアイツを知っていた。
いや、知りすぎていた。
紫の髪に紅い瞳、無感動な表情。その姿は俺の黒歴史ノートに書いた通りだ。
間違いない。
魔王――レイカ。
自分が書いている小説の最強のラスボス。
様々な力を模倣し、自らのものとする『絶対模倣』の力。異世界の理を捻じ曲げる『神の包丁』を振るう魔王。
俺の歪んだ厨二病が生み出した怪物。
そうだ、儀式の触媒。俺が捧げたあのノート。丁度今書いていたところが彼の登場シーンだった。
でもなぜだ。それだけの理由で召喚されてしまうなんてどうなっているんだ?
やけに簡単すぎないか……
俺の顔が絶望に引き歪んだのだった。




