-4km “偶然”に願いを懸けて
「――いいかい、リスティア。これからはマスクを手放さずに過ごすんだよ」
――遠い、昔。
私の父が塵肺で亡くなるよりも昔、物心の付いた頃の私は下層部の施設に身を預けることになった。
「大丈夫だよ、お父さん。ちゃんと気を付けるから」
「でも……正直不安だ。これからは絶対に人気のない場所には行かないこと。特に路地裏なんかには近づかないこと。いいね?」
「お父さん、それ四回目だよ」
私の父は土属性の魔脈使いで、既に肺の病で亡くなっている母は風属性の魔脈使いだった。絶対、という訳ではないが子の魔法属性は親から遺伝することが多い。風属性、あるいは土属性の血統なら上層部、中層部での生活がほとんど確約されているものだ。
しかし、まだ幼く無判定者であった私は、下層部で一時的に暮らすことを強いられた。でもまあ、世界運営直属の女性専用施設に住めるというのは、下層部からすれば貴族の暮らしに匹敵するようなものだが。
「それぐらいお父さんは心配なんだよ……僕が魔脈使いじゃなくて魔法使いだったら、中層部に身を預けられたかもしれないのに……」
「それは六回目だよ。お父さんは何も悪くないって、リスティア知ってるから」
「……そうかい、ありがとう。リスティア」
感謝の言葉と共に、私はちょっと力強く抱きしめられる。
父のよくやってくれた愛情表現だ。ちょっと痛いけど、私は嫌いではなかった。
「よし、それじゃあ早く手続きに行こう。役所まで行くけど、背中に乗るかい?」
「それはやだー。お父さん足取りガタガタしてるもんー! お股が痛くなるー!」
「そっかぁ……そう言われるのは少し寂しいな」
子供との別れを前に少しでも触れ合いたかったのであろう父の提案を、私はワガママで拒否しながら、手を繋いで役所まで歩き出した。
……その道中、当時の私は見たことが無い存在が目に留まって、父の手を引っ張って尋ねた。
「ねえ、お父さん。あの子、何してるの?」
「あの子……? ああ、あの子供か」
近づいてはいけないと言われた路地裏への道。ゴミ箱の中に腕を突っ込んで、必死に何かを探している少年を私は指さして、父の顔を見上げた。
その時の父の目は細く、眉にはシワが集まっていた。
当時の私は気が付かなかったが、あれはきっと悲しいけど手が出せない。仕方あるまいという同情のような悲しいものを見る目だったのだと思う。
「お父さん、あの子知ってるの?」
「いいや、知らないよ。リスティア……この下層部は綺麗な場所じゃないんだ。ああやって、足掻くように生きてる人もいる」
あの時の少年は、酷くボロボロで、近づけば酷い臭いもしたことだろう。
まあ、父の手で繋がれているから私はあの少年の近くには行けなかったことだろうけど。
「あの子、大丈夫なの?」
「さあね、どうなるかは分からないな。明日に死んでもおかしくはない」
「……でも、まだ生きてるよ。一生懸命、頑張ってる……なんで誰も助けてあげないの……?」
少年はゴミ箱の中から袋に穴の開いた市民食糧を取り出して、袋に大きく噛みつき、犬歯を突き立てて無理矢理に開封していた。
彼はまだ、生きることを諦めていないと、そう感じた。ならば、救われるべきだと私は密かに思っていた。今まで何度もやったように、大丈夫かと問いかけて、困っているなら手助けしたいと、そう思っていた。
「……リスティア、この世界には、救えない存在がたくさんいるんだよ。今までみたいに手助けをして解決するようなことじゃない、難しい事情がね」
「あの子は、助けられないの……?」
「ああ、そうだね……ここまで生き延びたのも、きっとたまたま――“偶然”だろう。悲しいけれど、彼はそういう運命なんだ」
「…………」
「……行こう、リスティア。ここはあまり良い場所じゃない」
「うん……わかった、お父さん」
今でも覚えている。その少年こそが、当時まで多くの人を助けて恩を売って来た子供時代の私にとって、唯一助けることができなかった人だった。
■
――静かな空気が流れている。ただし、一歩でも道を誤ればその静寂も無惨に引き裂かれることを理解する。
師匠は無言で、俺の動きを待っていた。相変わらず拳銃を片手に、正確に狙いを俺に定めたままで。
(まずは……どう動こうか)
俺はまだ、彼女の内心を図れずにいる。
どうして、彼女は殺害という脅しを使ってまで、俺のことを助けようとしているのか。そこを理解しなければ、あらゆる説得も中身を持たないと思えた。
……もっとも、またさっきの俺が別のナニカに成るようなあの力を使えば、彼女の銃弾なんて痛くも痒くも無いだろう。
(……でも、それは――)
ああ、わかっている。それは駄目だ。その行為は彼女の覚悟に対する逃げであり、敵対行為でもある――そう思えた。だから、俺は危険を承知で、生身のまま彼女と対峙する。
たとえそれで命を落としたとしても、それは俺の責任だ。
「……そこまで手段を選ばない姿、初めて見ましたよ、師匠」
「……多分、きっとそうかしらね」
「だからこそ、俺にはわかりませんよ、師匠! 今こうやって助けても、救えるのは俺一人だけです。でも貴女が上層部で空気の浄化に努めれば、この世界の全人類が救われる! 天秤に乗せて測らなくたって、どっちが貴女にとって大切かわかるでしょう!?」
「――――」
――カチン、と。撃鉄が落ちる音。
銃口は無言を貫いた。残る猶予は最長で四発。最短だと今のでお終いだ。
(いつもの、普段の合理的な師匠の考えとは、違うのか……?)
タラ、と冷や汗を一滴流しながら分析を開始する。
彼女は常に合理的で、かつ人情にも厚い人だ。そして根っこからのお人よし。それを踏まえると、多くの人を救える上層部での生活を選ぶのが彼女の合理的な選択だと思えたのだが……
(何か……特別な理由が、俺に?)
いやいやまさか、と脊髄反射で否定しそうになるが、今回はその発想を尊重してみる。
俺に固執するほどの理由がそこにあるのかは分からない。でも、試してみる価値は十分にあった。
「師匠! 俺にはわかりません! どうして貴女がそこまでして俺に固執しているんですか!? こんなの、貴女らしくない!」
「…………それは」
「なんです!? 理由があるのなら言ってみてくださいよ! じゃないと話が成り立たない!」
強気に、責め立てるように圧をかける。
俺の生殺与奪は完全に彼女が握っている。だが、それにビビッて奥手になっては説得もクソも無い。正直に言うと内心ビビッてはいるが、表面上は強気に振舞って彼女から情報を絞り出してやる……!
「…………私たちが、初めて会った時の事、覚えてる?」
呟くような声量だが、確かに聞こえた。
師匠との出会い――ああ、当然。覚えているとも。忘れるものか。
「”樹齢400年の樹”! 覚えてますよ、ちゃんと……貴女に拾われた、あの時のことを」
下層部には目立つシンボルとして、樹齢が400年あるという樹がある。木とは言っても既に限界ギリギリで、萎れた葉しか開かず、栄養剤と空調装置で無理矢理延命されているほとんど枯れ木のような存在だが。
まだ俺が“残飯漁りのグレン”だなんて呼ばれていた時代。公共のシンボル付近に集まったゴミの中から食えるものを探していたあの時、俺は彼女に初めて出会った。
――久しぶりね、元気にしてた?
――……知らねーよ。誰だよアンタ。
初対面なのにまるで旧友のように呼び掛ける彼女に向けて、当時荒んでいた俺は食料の真空パックに噛みつき、犬歯を突き立ててこじ開けながら答えた。
――私はリスティア。ここでスカベンジャーをやっているの。
俺の粗雑な態度にも関わらず、彼女は礼儀を忘れずに接してくれた。
スカベンジャーは誰でもなれる底辺職とは呼ばれているが、最低限の条件を満たさないとなれるものではなかった。基本は失業者の受け皿で、直接スカベンジャーに就くのなら世界運営直属の教育機関で数科目を何回分受講するとか。あとは知り合いのスカベンジャーからの紹介とか。
……まあ、結論から言うと当時の俺はその条件を満たしてはいなかった。
――へえ、ゴミ漁りの。ならここに目ぼしいモンは無いぜ。食えるもんは今俺が食ってる。
――目ぼしいもの……うん。ならまだあるわ。ちょうど探してたの。
軽い足取りで、彼女は無警戒にも俺の近くに歩いてきて。
警戒心剥き出しの俺は咄嗟に身構えて――その顔面の鼻先に、差し出された一枚の紙の先端がサワ、と触れた。
――ねえ、貴方。私の元で一緒にやってみない? スカベンジャーを。
彼女はそう言って既スカベンジャーが新規スカベンジャーをスカウトするための招集書を――俺に新たな未来への招待状を差し出したのだった。
「――貴女のおかげで、俺は“残飯漁りのグレン”じゃなくなった。仕事に就けた! 仕事の合間に教育機関の勉強だって頑張れた! あの“偶然”の出会いを、俺はまだ忘れていない……忘れられる訳がない……ッ!」
「……そう。だったら、どうして貴方は頑なに一人で立ち向かおうとしているの……!?」
「俺にだって……いや、俺にしかできないことがきっとある! それに、本当の本当に貴女が大切だから! ……だから、尚のこと譲れない……ッ!」
「――――ッ」
――撃鉄が手を叩く。幸運がまだ残っていると乾いた音で知らせてくれる。
残るは三発。下限を考えるのはもうヤメにした。この“偶然”を信頼し背中を預け、真剣に説得しなくては彼女は決して揺らがない。そう予感がする。
「ッ、貴女の方こそ! 何が貴女を駆り立てるんですか!? 俺から見れば貴女は今、気が動転しているようにしか見えない! 俺を大切だと、救いたいのだと言いながら、銃を向けて殺そうとしている! その矛盾は一体なんです……ッ!?」
「…………それ、は」
ずっと、固く歯を食いしばっていた彼女の表情に、初めて変化が出た。
冷静な指摘が効いたのか、彼女は自身が行おうとしている行為を自覚したらしい。
「だって、私は、やっと、貴方のことが、す、救えて……ぇ、でも、あれ」
静かに、音を立てずに、一線の涙が彼女の顔をなぞった。
彼女は……静かだが、非常に驚いているみたいだった。何故自分が泣いてしまったのか、まるで分からない様子で頬に残った涙に触れていた。
「……無茶だって、わかってる。でも、私は手の届くところに居る人を助けてあげたい。したくてしょうがない! そういう性を持ってこの世界に生まれたの! 助けられなきゃ、気がどうかしそうなのよ……ッ」
「だったら、俺のことは諦めたらどうですか! 救えなかった、仕方のない出来事だったって!」
「ッ、そんな……だって貴方は、初めて助けられなかった……でも、ようやく助けられた。なのに、こんな理不尽に襲われている……もう、ッ、もうッ……私にもわかんないのよッ! こうでもしないと、貴方は止まらないってことしか、わからないからァッ!」
……今、初めて、師匠が幼く弱い女の子のように俺は感じた。
常にこれから先のことを考えて立ち回り、立派な人として振舞っていた少女の鎧が剥がれ落ちた中、そこに居たのは涙を流し、襲い掛かって来る事象に対して駄々をこねるように振り払おうとしている、か弱い少女だった。
……そう、か。ごめんなさい、師匠。どうやら俺は、貴女に無理ばかりさせていたみたい――いや、させていたんですね。
「ッ、動かないでよ……ッ! 撃つわよ!」
……構わない。彼女の元へゆっくりと歩く。
――撃鉄が落ちた。残るは二発。構わない。これからの行為にはまだ間に合う。
「俺は……師匠、貴女をずっと勘違いしていた。常に合理的で計画的な完璧の人なんだって。でも貴女は本当に、自分自身の完璧が欠けてでも誰かを助けようとする、本当に優しい人なんですね。そして、だからこそずっと貴女を苦しめていた……馬鹿でごめんなさい、師匠。でも今やっと貴女という人がわかった、そんな気がするんです」
「グレ……ン……? ――ッ、止まって!」
悪いがそれはできない。止まったら貴女の近くへ行くことができないのだから。
――金属音。残り一発。十分。彼女との間合いはもう、二、三歩で届くほどの距離まで近づいた。
「無謀よ……貴方を突き動かしているものが“偶然”ですって……!? 私には……とてもじゃないけど、気が狂っているようにしか見えないわ!」
「……それでも、俺は信じますよ。それを今、貴女に証明しているんです」
「口が良く回る――ッ!」
距離はもう無いに等しい。銃口は俺の額に当てられている。
そんな中、彼女の涙と動揺にまみれた言葉と共に、カンッ、と最後の撃鉄が落とされた。
……何も起こらない。この無音の静寂が、俺が死を回避したことを祝福している。
「は……あはは、何よ……本当にアンタ、偶然ってやつに助けられてるじゃない……」
「…………」
諦めたようなそんな笑いを浮かべる師匠を見ながら、俺は静かに手を伸ばして、彼女の手に覆いかぶさるように、拳銃を包み込むように握り込んだ。
……今、気が付いた。彼女の手はまるで金属のようにとても冷たく、そして未だに震えていた。
「だって……だってぇ……! “偶然”が何よ! 本当に貴方を生かしてくれるだなんて確証が、そんなものがあるの!? 貴方には!」
「……はい、そうです。師匠」
「ッ――――!」
彼女の手が強張り、拳銃を強く握る。六発目。確約された死を俺に向ける。
……でも、トリガーにかかった彼女の指はほとんど動かなかった。最後の一発を撃つには、あまりに非力すぎる。
彼女は俺の手のひらに力なく銃の重さを預けて、涙をポロポロと溢していた。
「ヒッ、ぐ……うぅ……ズズッ、ううっ……なんで、なの、よ……」
彼女の表情は涙や鼻水でぐしゃぐしゃに濡れていて、もう鋭い殺意などはどこにも残っていなかった。
俺はか弱い彼女の体を抱えて、ゆっくりと二人揃って膝を付く。彼女は力なく両膝を、俺は片膝を付いて彼女に寄り添った。
「ッ、……教えて、よ。アンタは、ッ、本当にそんなもので、“偶然”なんかで、幸せに生きていけるのッ……?」
鼻に涙が詰まった声で、彼女は俺に問う。
俺は……彼女の目元に溜まっている涙を人差し指の甲で払いながら、優しい口調で口を開く。
「……師匠はまるで“偶然”のことを頼りないものみたいに言ってますが、それはあまりにも小馬鹿にしてると思います。思いがけない幸運を、運が良かったと思わせるようなそんな“良い出来事”を、人は謙遜して“偶然”と呼んでいる――そう、俺は思っているんです」
まるでたいしたことではない出来事に対して使われる言葉だが、思いがけない出会いとか、そういう予期せぬラッキーに付ける名だ。少なくともそれは不運に対して付ける名称ではない、はずだ。
「教えてやりますよ、師匠――いや、今は俺が師匠で、リスティアって呼ぶべきか」
教える立場なのだから、そういうことだろう。
俺はちょっとだけ冗談めいた笑みを浮かべて、彼女に向けて得意げに微笑んでみせた。
「俺は生きる。この世界でどんな困難に突き当たろうとも、必ず、道を切り拓いてみせる……もはやこれは“偶然”なんて名じゃ収まらない。これは、俺が立ち向かった試練への対価――未来へ進むための“原動力”だ――ッ!」
彼女が握っていた拳銃の撃鉄を、包み込んでいた手の人差し指で無理矢理起こす。
トリガーにかかっていた彼女の人差し指を解くように避けさせて、俺は、俺の意思でそのトリガーに親指をかけた。
最後の一発目――死が確定した、その最後の薬室に、撃鉄を――
「ッ――!? 駄目ッ!? グレンッ――」
彼女の制止よりも早く、俺はトリガーを引き、撃鉄を叩き落した。