-32km 悔いのない選択
――空の青々は揺蕩う。
地底湖の液面が映し出されてできた青色は、ゆらりゆらりと不規則に揺れている。
――空の星々は揺蕩わない。
大空洞の天井に生えた水晶は、地底湖からの光をチラチラと反射していて、うつろわない。
「………………」
かという俺も、ほんの数十分ほど前から同じくうつろわない肉塊へと成り下がっているのだった。
瞳はカメラのレンズみたいに、じっと動かず、まるで目の奥にこの景色を焼き付けているかのよう。見る人が見れば廃人のように思う事だろう。
それほどに、俺はこの空に魅了されていた。何度でも言える。この景色は美しい、と。
「……? なんの匂いだ?」
そんな静止を断ち切るかのように、鼻から情報が入ってきた。
暖かで、安心するような香り。食欲をそそる、そんな香りがすぐ近くから。
「……いツまでモそこにイると、かぜ、ヒいちゃう」
木製の器と繰り返し使ってきたであろうプラスチックの使い捨てスプーンを両手に持って、獣人族の少女は俺の隣に座り、器を――乱切りされたキノコがぷかぷかと浮かぶスープを差し出してきた。
「……これ、君が作ったのか?」
「ウん、とくいリょウり」
「…………何から何まで、すまないな」
自分なりに、かなり強めの拒絶を彼女に示したはずだ。だというのに、彼女は世話を焼くように俺のことを見守っている。
……何故だろう。なんでそこまでする理由が、彼女にはあるんだ……?
「…………ん」
「くちに、アう?」
「ああ……美味しいよ。ありがとうな」
味は正直に言うと、まあ普通だった。お湯にキノコと塩を加えただけなのだから、味にも限度がある。苦味とか変な味が混ざってない分、美味しいとも表現できる。
「……ホゥ」
スープを飲んで、一息つく。
……なんだろう、この、安心感? に近い感情は。ただの一杯のスープを飲むだけで、感情に変化なんて今まで経験したことが無い。
「……なあ、これって何か薬でも入れてるのか? 精神安定剤とか」
「? ナに、それ」
「そうか……なら、ならいいんだ。忘れてくれ」
……なんか無粋な発言だったように思えて、ちょっとだけ反省した。
しかし……ならこれは、何かの物質が強制的に感じさせてる感情ではなく、俺が自然と感じ取った安らぎ、という訳か。
「…………そう、だな。風邪、引いちまうもんな」
ようやく俺は夜空から視線を外した。
アレは、俺の手には届かない。俺みたいな人間が手にできるのは、こんな小さな器の温かみまでだ。いい加減、現実に戻ろうか――
「……これから、どうしようかな」
「……ケっこん! こンやク!」
「それは駄目です。……正直、俺にはもう居場所も宛ても無い。そんなどうせ間もなく死ぬ命だ」
「シんじャ……だメ……」
「駄目もなにも無い……人間社会ってのは線路、レールってゆーやつらしい。ああこれ、師匠の受け売りだ。んで、その上をちゃんと走ってるうちは良いんだ。でも俺みたいに、文字通り線路から転落しちまったやつは……転落した場所で動けず野垂れ死ぬしかない。ジャンクは、ジャンクヤード行きさ」
がくり、と頭を下に落とすように下げて考え込む。自分が言った言葉で気持ちが落ち込んでしまった。
「でも何か、せめて何かやりとげてから死にてぇよなぁ……」
ため息に混ざりながら吐出した欲望。どうせ死ぬことが定まった未来なら、何かを遺して消えていきたい。他愛無い、ささやかな何かを。
「……師匠。もう一度会いたいな」
ぽつり、と自然と言葉が出た。きっとこのキノコのスープが原因だ。温かさを思い出したから、心の気が緩んだのだろう。
無意識の言葉は心の真実だ。俺は師匠に、もう一度だけ、一瞬だけでもいいから会いたいと思っている。
「……いいや。もう、どうなったって……最後に師匠にお礼と感謝の言葉さえ伝えられたなら、心残りが無くなる……気がする」
その分、もしかすると師匠の心に良くない傷を残してしまうかもしれないけど、それも俺にとっては遺したい何かの一つなのです。そうです、俺は間違いなく悪い男なのです。だから、遺したくて仕方ないのです。
「今が何時か……時計、ブッ潰れちまったからな……でも、猶予はきっとあるはずだよな」
師匠が上層部に行ってしまうまで、猶予は三日。きっともう既に一日使ったと仮定して、二日以内に下層部の街に行って師匠に上手いこと会えば良い。
ぷらん、とぶら下げた潰れた懐中時計を興味深そうに見ている少女に無言で時計を差し上げながら、心に決意する。
(……行こう、もう一度、あの崖の上に。あの街に。最期の一仕事だ)
何もせず、このままゆっくりと肉塊に成り果てるよりもきっと有意義だ。
俺は一つの目標を掲げて重い腰を上げながら、獣人族の少女に向けてフランクに口を開いた。
「……なあ、ちょいと外せない用事があるんだ。ここから上に――人の住居に行ける道ってあるか?」
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