第一章 5
「えっと、これが、ミリペン。これで、絵を描いてる」
それから一週間。私は花の水を変えて、金魚に餌をやりながら、智明が漫画を描くのを横で見ていた。
「なんで、何本もあるの?」
「えっと、太さが違うんだ。ほら」
智明が紙に線を引く。なるほど、微妙な違いだが、線の迫力が違う。
ときどき質問すると、智明はたどたどしく、でも丁寧に教えてくれた。
「あと、トーンと定規。カッターと。ベタは墨汁使ってる」
「墨汁? 習字の?」
「そう。……僕お金がないから。本当は、液タブとか……今はデジタルで描くのが主流になってるんだけど、そんなの買えないし。それに、家ではマンガは描けないから」
「どうして?」
「えっと、家で絵を描いてると、怒られるんだ。そんな生産性のないことやめろって」
目を瞬かせる。そうだろうか。智明はマンガ家になるのに。
きゃはは、とはしゃぐ声がグラウンドから聞こえる。下級生が遊んでいるのだろう。
智明は目を伏せて、続けた。
「お父さんとお母さんは、僕に勉強して、ふつうの企業とかに就職してほしいんだって。絵を描くのは、遊びだから、そんなことしてる暇があるなら、勉強しろって……」
ふつうの企業。ふつうって、なんだろう。絵を描くのが、智明にとってのふつうじゃないのだろうか。
「ねえ、来週もここ来ていい?」
智明が顔を上げる。
「えっと、いい、けど、いきものがかりは今日までだよね?」
「うん。でも、智明のマンガの続き、早く読みたいし。いきものがかり、誰もやらないなら、私が専属になろうかな?」
そう言うと、智明は丸い目をぱちぱち動かして、それからほころぶように笑った。
「莉央ちゃんって変わってるね」
「そう?」
「うん。だれも、僕とふたりきりなんて、なりたがらないのに」
「最初に言ったでしょ? 他と私は関係ないの」
くだらない教室での人間関係より、智明と過ごす放課後のほうがずっと有意義で、楽しかった。
智明が私に笑顔を向ける。はじめは警戒していた彼だが、この一週間でずいぶん打ち解けてくれた。
「莉央ちゃんて、かっこいいね。マンガの主人公みたい」
「主人公? 私が?」
「うん」
私からしたら、マンガを描けるなんて、すごい能力を持っている智明の方がよっぽど主人公だと思う。
智明が原稿に視線を戻して描き始める。カリ……、カリ……。ミリペンの動く音がふたりきりの教室に溶ける。
「それじゃあ、完成して、最初に読むのは私だね」
二人きりの教室は息がしやすくて、視界が開けてみえる。
「そう、なるのかな」
智明が手を動かしたまま答える。
「それじゃあ、智明の読者一号は、私だ」
そう言うと、智明が顔をあげた。
また、目をぱちぱち動かす。短いまつげが細かく揺れる。
「そっか、……そう、なるんだ……」
智明は一拍おいてから破顔して笑った。
「それは、ちょっと、かなり、嬉しいな」
ほころぶように笑った彼に、こちらも笑みがこぼれる。
「智明のファン一号も、私だよ」
それは、なんだか、ほこらしいことのように思えた。
教室は、ちいさな社会だ。
でも、その社会に属さない人間がいる。
明日から、教室に通うのが、楽しみになっている自分に気づいて、頬をかいた。
*
スマホを持って固まっていると、横から声がかかった。
「撮れたかね?」
ばあちゃんがにこにこと毒気のない顔をむける。
「ああ、うん」
曖昧に笑うとばあちゃんは目じりのしわを濃くして「綺麗に咲いちょーが?」と小首をかしげた。その動作が愛らしくて笑みがこぼれる。
「莉央ちゃん、この先はとっておきよ」
「とっておき?」
「そげそげ」
ばあちゃんと、日傘を揺らして庭をすすむ。すると、バラのテラスに入った。
「わ、あ」
視界一杯に咲くバラの花。本当にアリスの世界みたいだ。
日傘を傾けて、花に近づく。
「きれいだね、ばあちゃん」
「だが~? 莉央ちゃんが喜ぶと思ったんだわ」
「あ、ここ、折れてる」
ピンク色のバラだった。ぽきりと真ん中から折れて、花弁を失ってしまっている。
「大丈夫。新芽が出とるが」
ばあちゃんが指をさす。確かに、新しい芽が顔を出していた。
「新芽が出てるけん、また咲くがね」
目を瞬かせて、芽を見る。太陽に向かって一身に伸びている。
夏の日差しを受けて咲く、草木の、なんとたくましいことか。
日傘を閉じて、晴天を受け止めてみる。
……なんだ、こわくない。
土から芽が出るように、なにか新しい風のようなものが、心に芽吹いた気がした。