第五章 5
九月一日。
午前中を過ぎると、家の前に立って、待った。
今日は午前授業のはずだ。プリントも、大量に配られただろう。
額に汗がにじんできたときに、お目当ての人物が見えた。
家の前に立っている私を見て、はっと表情を固くする。
「……久しぶり、智明」
智明は、眉をぐしゃと曲げて、泣きそうな表情をした後、がばっと頭を下げた。
「ごめん!」
黒いランドセルが、太陽を反射している。今日が雨じゃなくてよかったな、と思う。雨だったら待つのにも、大変だっただろう。
「なにが?」
冷たい声が出た。
「なんで、あんなことしたの?」
あなたは今までなにを謝りにここに通っていたの。
智明が緊張で赤くした顔で、たどたどしく話す。
「げ、原稿、取り上げられて。言う通りにしないと、燃やすって言われて……」
目を見開く。そんな。
「ぼ、ぼく、僕は、自分の命よりも、マンガが大事なんだ」
「……うん」
「……けど、莉央ちゃんと、デメ太とデメ子よりは、大事じゃ、なか、た」
途中からしゃくりあげた智明の小さな目から大粒の涙が流れ落ちる。
「……デメ太とデメ子はあんたがやったの?」
「う、ううん、僕が登校したときにはもう、死ん、でた」
智明のふくよかな頬を涙が何度も滑り落ちる。
「莉央ちゃん、本当に、ごめ、いた!」
デコピンした私に、智明が額に手をおさえて、目を丸くしてこちらを見る。
「……ばかだなあ。智明はマンガ家になるんだから、私より、デメ太とデメ子より、マンガが大事に決まってるじゃん」
智明が目をパチパチさせる。
「それで、原稿は? 出せたの?」
一番気になっていたことだった。締め切りは昨日だったはずだ。無事に原稿は出版社に届いたのだろうか。
「あ、それ、は……」
智明がランドセルを下ろして中からクリアファイルを取り出した。
「なにこれ?」
「あけて、みて」
クリアファイルを開いて、息をのんだ。
「こ、これ……」
一度びりびりに破かれて、補正したのだろう、いたる所にセロテープが貼ってあった。それだけじゃない。水につけられたか、捨てられたりしたのだろう。インクがにじんで、紙がぶよぶよになっている。これでは、文字が読めたものではない。
「なに、これ……」
「これじゃあ、さすがに出せないから、諦めた」
へへ……、と頬をかく、智明に涙がこみ上げる。
「わ、り、莉央ちゃん? 泣かないで?」
さっきまで自分が泣いていたというのに、そのときには登場しなかったハンカチを手渡される。
悔しかった。
これ、一枚に。一枚書くのに。智明がどれだけの時間と労力と情熱を費やしたと思って……。
「……莉央ちゃん、泣かないでよ」
「だって……こんな……」
「もういいんだ。新しいの描き始めてるし」
目を見開く。もう、新しい作品を。
「え、えっと、でも、学校で描いてたら、また狙われるんじゃ」
「うん、だから、空き地で描いてる」
目を瞬かせる。夏は過ぎ去ったとはいえ、まだ半袖でも暑いと感じるくらいだ。その中、外で。
情熱を注げることがある人の、なんと強く、たくましいことか。まるで、折れても新芽をつける、植物みたいだ。
「……うちで、描けば?」
「え」
「外よりは涼しいだろうし」
「そうじゃなくて、……莉央ちゃん、僕を許すの……?」
真剣な目をした智明に笑って答えた。
「まあ、智明のファン一号だしね」
智明が目を見開く。開いた瞳にまた涙がたまっていく。お互い泣いているのが、なんだかおかしくて笑った。
「とりあえず、あがっていきなよ」
「ええ、いいの?」
「うん、立ち話もなんだから」
「じゃ、じゃあ」
「若草あるからお茶入れるよ」
「若草ってあの、前に言ってた島根の和菓子?」
「そげそげ」
「なにそれ?」
「ふふふ! ないしょ」
教室はちいさな社会だ。
その社会に属さない人間がここに、ふたり。
ふたりの間を柔らかい風が通り抜ける。
宍道湖の、潮の香りがした気がした。




