第五章 4
いつも宿題をしていた夜の時間、やることがなくなったので、ばあちゃんと一緒にテレビを見た。心を使いたくないときに点いているお笑い番組は面白かった。
歯磨きをして、ばあちゃんの隣りに、布団を敷いて、横になる。
「……ばあちゃん」
部屋を暗くして、ばあちゃんに話しかけた。
「なんかね?」
「私、自分が、帰りたいのか、このままここにいたいのか、分からない」
「なるようになるわね」
「なるように?」
「そげそげ」
いつかも、こんな会話したな、たしか、そうだ。来て一日目だ。そげそげ。ばあちゃんのその言葉にはなぜか安心する効果があって、私はいつの間にか眠りについていた。
翌日はなんとなく、どんよりした天気だった。今日は家にいるのかと思ったら、ばあちゃんが「出かけ―よ」と言って立ち上がった。
着いた先は神社だった。
八重垣神社、と書かれた鳥居を一礼してくぐる。
瞬間、凛とした緊張感が背筋を伸ばした。
桶で、手を清めて、先に進むと立派なしめ縄の本殿があった。
こちらに圧を感じさせるほどの堂々としたたたずまいだった。大きな木がたくさん生えている。稲荷神社でも思ったが、この辺りの神社は木々が神々しい。
本殿にお金を入れて挨拶すると、ばあちゃんが巫女さんから何か用紙を買ってくれた。
「なあに? それ」
「占い紙だよ。これにね十円玉を乗せて、鏡の池にうかべるんだわ」
「そしたらどうなるの?」
「十五分以内に沈んたら、すぐに縁がある。遠くで沈んだら、遠くに縁が。近くに沈んだら、近くに縁があーだよ」
「へえ……」
渡された用紙をしげしげと見ていると、ばあちゃんががははと笑った。
「自分でわからんことは神様に相談するだわ」
自分で、分からないこと。そうか。ばあちゃんはそのために。
鏡の池までの道のりはうっそうと生い茂った樹林だった。
今日は空気がよどんでいた気がしたのにここの空気はきれいで、すう、と深呼吸する。
さわさわ。
木々が揺れて、何か話している。揺れると同時になんだかわからないこの実が落ちてくる。まるで、これから審判する人を見定めているようだった。
鏡の池について中を覗きこむ。
「わあ……」
大量の占い紙が沈んでいた。池は緑とも、青ともつかないような、神秘的な色をしている。
そっと、池に紙と十円玉を浮かべる。
神様、私は戻った方がいいですか? 島根にずっといていいですか?
じわ、と水が侵食してきて占い紙に文字が浮かび上がる。
「ばあちゃ、なんかこれ、文字が……」
は……。
浮かび上がった文字に息をつめた。
『自分の気持ちに正直に』
すとん。
十円玉が池のそこに落ちるとともに、心に答えが落ちてきた。
ばあちゃんを見る。
「ばあちゃん、私、大阪に帰る」
まだ、私は智明に理由を訊いていない。彼と、話していない。
「そうかね」
ばあちゃんは毒気のないお顔でにこにこと笑った。
お昼は北欧によってパスタを食べた。それからマンションに戻って、いつも通り、ばあちゃんの横でテレビを見て過ごした。
お茶の時間には『ほうきぼう』が出た。『ほうきぼう』は小豆を砂糖で固めたような、なかにお餅が入ったお菓子だ。ほんのり香る小豆の甘さにしたつづみをうつ。島根の和菓子はどれもおいしい。
やがて、日が落ちて、夜ごはんを食べて横になってもなかなか寝つけなかった。
帰るんだ、この土地から。
横になってようやく、自分が寂しさを感じていることに気が付いた。
「ばあちゃん」
呼びかけてみると、返事はなかった。すー、すー、という寝息が聞こえる。
私は横を向いて寝ているばあちゃんの服の裾を掴んで目をつぶった。ばあちゃんの規則的な寝息を聞いているうちにだんだん瞼が落ちてきて、気づいたら朝だった。
今日が、松江で過ごす、最後の日だ。朝起きて、花に水をやって、たっぷりの朝ごはんを食べて、洗濯をしたら、ばあちゃんと並んでテレビを見る。なんの変哲もない一日だった。
お昼は私がおにぎりを握った。ばあちゃんへの、ささやかな恩返しのつもりだった。
「だいぶ味があーわ」
いびつな形をしたおにぎりに、ばあちゃんがそう言うので、
「ちょっと失礼じゃない?」
と、わざとすねたふりをした。それからふたりで顔を見合わせて笑った。
ばあちゃんが嬉しそうなので、私も嬉しかった。
お茶の時間には若草が出た。
「若草だ!」
歓声をあげるとばあちゃんがにこにこ笑った。
「最後だけんね。お土産にも買ってあるけん、あっちの友だちとも食べーだわ」
「ありがとう、ばあちゃん!」
ばあちゃんの心遣いが嬉しくて、口に残った若草はほんのり甘かった。
ゆっくりと、でも着実に時間は過ぎた。ばあちゃんと並んでテレビを見て、それから、午後六時になったら、車を出して、いつかみたいに宍道湖を見に行った。
今日は叫ばずに、ただ、夕日が宍道湖に溶けていく様を見ていた。
息をいっぱいに吸いこむ。今日も、潮の香りがした。
宍道湖まで走るウサギのオブジェは、二番目のウサギが幸福を呼ぶとされているらしいので。私はウサギをなでながら、ばあちゃんが健康で長生きすること願った。
それから家に帰って夕食を食べた。今日は『きたがき』で買ったステーキをばあちゃんが焼いてくれた。一緒に買いに行った私は値段の桁の多さにひるんでいたけれど、大きな霜降りのロースステーキは一口、口に入れただけで、舌の上でとろけた。
「ばあちゃん! すごくおいしいこれ!」
「そうかね」
ばあちゃんがにこにこ笑う。
「最後だけんね」
最後。
その言葉に忘れていた寂しさ押し寄せた。
「……ばあちゃん」
「なんかね?」
「また、来てもいい?」
ばあちゃんが、がははと笑った。
「いいにきまっちょーがね。変なこと聞く子だね」
「うん。……うん」
ステーキでお腹を満たして、ばあちゃんと並んでテレビを見た。
「この芸人さん! 最近注目しちょるんだわ」
ばあちゃんが寝る前に話していたお気に入りの芸人の顔と名前が、最終日にしてやっと一致した。いつもでもそうして一緒にテレビを見ていたかったけれど、時間は過ぎて、寝る時間になった。
ばあちゃんのベッドの隣りに布団を敷く。
今日も、お母さんの小さい頃の話から始まって、地元の老人会での出来事、飽きてきたじいちゃんとの惚気話、さっきテレビで見たはまっているお笑い芸人の話になるころに、記憶が曖昧になって、いつの間にか瞼が落ちていた。
朝、起きて、水を汲むと、新聞を読んでいるばあちゃんの隣りに腰かける。
「ばあちゃん、おはよう」
「おはよう、莉央ちゃん。よく寝むれたかね?」
「うん、ばあちゃんの話がつまらなくて」
「言うようになったね。ばあちゃんはまだ本気を出してないだけだわ」
口を尖らせたばあちゃんにクツクツ笑って抱きつく。今日が、別れの日だった。
いつもどおり、花に水をやって、席に着く。
トーストにサラダ。スクランブルエッグに昨日の残りのマカロニポテトサラダ。シジミの味噌汁。ハムにベーコン。バナナときなこをかけたヨーグルト。
今日も須賀家の朝食はたっぷりだ。これも、もう今日で食べられなくなるかと思うと、いつもは美味しい、マカロニサラダなんだか、ポテトサラダなんだかわからない、サラダが、今日はしょっぱく感じた。
朝食を終えてラジオ体操をする。
毎日聞いていると、それなりに聞き取れるようになるものである。
両手をよこつにつーあげー、ぬなーとーすっか、ふらす。ゆびさきまでちがながれーよにね
両手を横に釣り上げて、しっかりふらすんだな。指先まで血が流れるように。
でーてで、からだをおさえーよーにまげ、よこばーをすっかーなばすよ
左手で身体をおさえるように曲げ、横腹をしっかり伸ばすんだな。
完璧にラジオ体操を終えると、朝の支度を整えて、大きなスーツケースを玄関まで運んだ。
「莉央ちゃん、行こうか」
ばあちゃんがほほ笑んだ。
来た時と、同じように、スーツケースをさげて、ばあちゃんの車に乗り込む。
松江の町があっという間に窓の外を流れていく。
駅について、改札まで、歩くとばあちゃんに向き直った。
それから、スーツケースから手を放して両手で抱きついた。
「ばあちゃん、ありがとう」
ばあちゃんの、匂いがする。陽だまりみたいな優しくて温かい匂い。
「ばあちゃんが、だいすき。また絶対に会いに来る」
抱きしめる手に力をこめる。あと、何回。何回、私は大人になるまでにばあちゃんに会いに来れるだろう。
不意に、ばあちゃんが私の頬を両手でつかんで、額をくっつけた。
「上向いて、笑いなさい。莉央ちゃんは笑った顔が一番かわいいけんね」
クツクツと、笑い声がおでこを伝って振動する。
ばあちゃんの、温もりが離れた。
改札を抜ける。
「ばあちゃんまたねー!」
大きく手を振ってからホームまで歩いた。涙がこぼれた。
やくもに乗り込むと、楽しかった島根の景色がどんどん横に流れていった。
ばいばい。またね。
目を閉じると大粒の涙がこぼれた。私は列車が止まるまでずっと泣いていた。