第五章 3
起きてすぐ、ばあちゃんがいつも通り、老眼鏡をかけて、新聞を読んでいるのが目に入った。私は一杯の水を汲んできて、ばあちゃんの隣りに座る。
ふと、外をみると、柔らかい日差しが差しこんでいた。
近づいて、窓をあげる。
少し、ひんやりとした風が頬をなでる。
秋の気配は、着実にもうそこまで来ていた。
今日から、八月は、最後の週に入ったのだ。
「気持ちのいい風だね」
いつの間にか、ばあちゃんが隣に来ていて言う。
「今日は、散歩日和だわ」
ばあちゃんが猫のように大きく伸びをする。ポキポキ、と小さな身体から、背中の骨が鳴る音がする。
「城山でも散歩す―だわ」
「ジョウザン?」
「お城の周りにそう言う場所があるだわ」
島根県には松江城という有名なお城がある。
「へえ、いいねそれ」
ばあちゃんの意見に賛同しながら、しばらく心地いい風をうけていた。
駐車所に車を止めて、城山を散策する。歴史観みたいな建物や、公園があって、そこをのぼると、うっそうとした、草木が出迎えてくれた。私とばあちゃんは日傘を閉じて、木漏れ日を受け止める。樹齢何百年はいってそうな幹の太い木がにょろにょろと左右に生えていた。見あげなければいけない、大きな木は威厳たっぷりに私たちを見下ろして、さわさわ揺れる。まるで森林浴をしているみたいだ。
心の中のわるいものが出て行って、かわりにいっぱいの緑が入ってきた気がする。
空気を吸いこむと、緑の匂いがした。
「ばあちゃんは、昔この辺りで椎の実拾って食べてただよ」
「シイノミ?」
「そげそげ。どんぐりみたいなもんね」
「え、それ食べれるの?」
「炒って食べ―だわ」
ばあちゃんとの会話を大きな樹木たちが聞いている。
木陰をふく風は柔らかくて、ひんやりとしていた。
話しながら樹木の中をすすむ。
歩くと体が熱くなって、額に汗がにじむ。
「お稲荷さんまで、歩いて、それから、帰るだわ」
「おいなりさん?」
「稲荷神社だよ。狐をまつる神社はそう呼ぶだわ」
お稲荷さんは樹木のゾーンをしばらく歩いた先にあった。一礼して鳥居をくぐると、まだ鳥居が連なっていて、先があることが分かった。順路に沿って歩くと、石でできた鳥居と、すごく長い階段があった。ばあちゃんと日傘を揺らしながら階段をのぼる。
すると、やっと本殿が見えてきた。
お金を入れてお参りする。
私はなにも願うことが思いつかなかったので、お邪魔します。とだけ心の中で言って手を合わせた。本殿をぬけても、まだ道は続いていた。
「わ……」
左側に避けて進んだ先におびただしい数の狐の置物が置いてあった。ここに住む、神様なのだろうか。ひとつひとつ、狐を見ながら進む。なんだか、神秘的な光景だった。
狐の列が終わって右側から返ってくると、安心したように息を吐いた。
駐車場に戻って、車に乗り込む。
車が発進して、お城をぐるっと回る。
「わ、ばあちゃん、船が走ってる!」
「堀川遊覧だわね。莉央ちゃんも小さいときに乗ったが? 覚えちょらんかね?」
「覚えてない……」
「じゃあ、明日乗ってみーかね?」
「うん!」
大きくうなずいた。
家に帰ると、そうめんをゆでて二人で食べた。クーラーをいれずに、窓を開けて、風を通していた。そういえば、このごろセミの鳴き声を聞かなくなったな。鳴いていたセミたちは無事に子孫を残せたのだろうか。ばあちゃんがたくさんストックしている中からとった、ソーダ味の棒アイスをなめながら考える。ばあちゃんは前でカップアイスを食べていた。背中に、ときどきあたる風を感じながら、アイスが溶けるのも、遅くなったかもしれない、と思った。
お茶を飲んで、晩ご飯を終えて、テレビを見ているばあちゃんの横で宿題を開く。
ずっと続けてきた宿題が、今日、すべて終わった。
もう、これでなにも……。夏に置いてきたものなんて。
不意に、智明の傷ついた顔が浮かんで、打ち消した。
置いてきたものなんて、なにも、ない、はずだ。
「これが、マリーゴールド。トレニア。キンギョソウ。ペチュニア」
「これは?」
花弁をいっぱいに広げたひまわりみたいなこの花は。
「ルドベキア」
水やりをしながらばあちゃんとクツクツ笑う。
最初は分からなかった花の名前も、今では全部言えるようになった。
外に出ると、柔らかい日差しが肌を包んだ。このごろ、朝と夕方の日差しは柔らかくなった。ばあちゃんの運転する車に揺られて、乗船場に着く。
お城をモチーフにしたのであろう、瓦が積まれた屋根に堀川遊覧船のりばと書いてあった。チケットを二枚買ってばあちゃんとなかで待つ。次の遊覧船は十時に出発するらしかった。やがて、名前を呼ばれて、遊覧船に乗り込む。グラグラした船が怖くて、ばあちゃんに手を繋いでもらいながら乗った。ばあちゃんは大口を開けてがははと笑っていた。
船には屋根がついていて、低い橋を渡るときは屋根をさらに下げるらしかった。靴を脱いで船の先頭まで行く。下にはござが敷かれていて、まるで居間のようなリラックスした空間だった。
「じゃあ、一回下げてみますよ~」
と船頭さんが言って、本当に屋根が下がってくる。座っている体の上体をさらにかがめる。
かがむ練習が終わると、いよいよ船が出発した。
堀川遊覧船は松江城の水掘りをぐるっと一周する。
しばらくは、昨日見たであろう、樹木たちを外から見る体制になって木々の中を進む。うっそうと生い茂る木々が水掘りに影を落として、鏡のように移りこんでいる。
あえて、写真に収めずに目に焼きつけた。
息がしやすくて、揺れる船が心地いい。
木漏れ日がお堀の水にキラキラ反射する。
「きれー……」
感嘆の声を漏らした。まるで、自分が自然と一体となったような錯覚を覚えた。横で、ばあちゃんがにこにこ笑う。
船頭さんが、松江城周りの公園の木は三千二百本もあるのだと前から解説してくれる。
いよいよ屋根が下がる橋が近づいてきて、全員でかがんだ体制を取る。くすくす、と船内から笑いが漏れた。
「楽しいね、ばあちゃん」
「だが~?」
橋は思ったより長くて、その間私はなぜか笑いが止まらなかった。
クツクツ、と肩を揺らして、屋根があがると、「あはは」と大口を開けた。
「楽しかった~」
おじょうちゃん、まだまだ終わってないよ。と突っ込まれて、船内に笑いが起こる。
楽しい、なあ。
景色は町っぽく移り変わってきて、民家なんかも見え始めた。ここではマイクを使ってはいけない決まりらしく、船頭さんはマイクを外していた。
左右に広がる町が、お堀の水に移りこんでいる。
それから松江城の石垣が見えて、遠くに松江城が見えた。
この町の一番てっぺんにたたずむ松江城は小さな町を照らす太陽みたいだと思った。
大きく、息を吸いこむ。
いい町、だなあ。
本当に、いいのかもしれない。ずっと、ずっと、ここにいても。
でも。
智明の傷ついた顔が脳裏をよぎる。
私は、どうしたいのだろうか。私は。私は。
やがて、一時間の堀川めぐりが終わり、地上に戻る。
名残惜しい気がして、そっと水掘りの水面をなでた。