第五章 1
八月は、四週目に入った。
あれから、普段通り、たっぷりの朝食も、ばあちゃんが作ってくれる昼ごはんも、晩ご飯も、残さず食べられるようになった。
「出かけ―だわ」
ばあちゃんがそう言って、一畑百貨店で車を止めた。
婦人服売り場で、一緒に服を見て、上にあるレストランで、かつライスを頼んだ。
運ばれてくるまで、ばあちゃんと談笑する。
「ここもね、来年の一月で閉まるんだわ。経営難らしいが」
目を瞬かせる。松江で、買い物と言えば、一畑百貨店だった。ばあちゃんと何度も来たことがある。
「そうなの? 閉店しちゃうの?」
「寂しいけどね」
急に、今踏みしめている場所が安定していないような、不安のような気持ちが心をくぐった。
そうか、なくなるんだ、ここ。
やがて、かつライスが運ばれてきて、カツを頬張る。
このかつライスも、もう、食べられなくなるのだ。そう思うと、お腹がきゅっと切なくなった。
「……なくなるって、寂しいね」
ばあちゃんに投げかけると、ばあちゃんが優しい顔でうなずいた。
「場所はなくなっても、思い出はなくならんけん。今日、来たことも。今まで莉央ちゃんと来たことも。覚えておいて、ときどき、思い出せば、この百貨店も、うかばれーわね」
思い出は、なくならない。
一畑百貨店はきっと、いろんな人の心に明かりを灯してるはずだ。
なくなっても、その明かりが消えるわけじゃない。
そう思い直すと、地面がしっかりと、基盤を持って安定した。
一畑百貨店がなくなっても、このかつライスの味は忘れないだろうと、なぜだかそう強く思った。
レストランをでると、店に張られた一枚の広告の前でばあちゃんが止まった。
『昭和のおもちゃ展』
六階で、催しをやっているみたいだった。
「せっかくだけん、行ってみーかね?」
ばあちゃんの言葉にうなずく。
「うん、行ってみたい」
六階はレストランと、催会場でできていた。季節に合わせて、いつも、いろんな催しを開催するのだ。何度か、ばあちゃんと来たことがあった。チケットを買って中に入る。
ガラスケースにさまざまな、おもちゃが並んでいた。レトロで風合いのあるそれは、ノスタルジックな昭和を連想させる。
ひとつ、ひとつ、おもちゃを見ていく。
雑誌の付録や、菓子の付録。有名なマンガのロボットなんかが並んでいた。
……智明のマンガにも、こんなおもちゃが出てきたっけ。
智明のマンガは、教室のいじめられっ子が主人公だった。一人だけ、庇ってくれる、委員長の女の子がいて、でも、ある日ひどい言葉をかけて喧嘩してしまう。主人公には、不思議な力があった。人の悪意が見えるのだ。ある日、いじめっ子の悪意が暴走して、おもちゃの形になる。そして、委員長を襲う。主人公は委員長を救うため文房具を武器にして戦う。
それから……、二人はどうなったっけ?
足を進めていくと、あるおもちゃに目が留まった。
鉄腕アトムの等身大フィギアだった。
*
「智明は、どうしてマンガを描こうと思ったの?」
二人きりの放課後、ずっと疑問だったことを、彼に投げかけた。
「えっと、僕は両親があんなだから、マンガとか買ってもらったことなくて。でも、じいちゃんちに鉄腕アトムのマンガが、全巻あったんだ」
「おじいちゃんが、マンガが好きだったの?」
「そう、いろんなアニメも、マンガも、全部、じいちゃんが見せてくれた」
智明がまるっこい手で、鼻をかく。
「『智明、マンガはいいぞ。現実では起こらないことも、マンガでは起こせる。そんな力があるんだ』って。その言葉が魔法みたいに聞こえた」
智明が、マンガを描いていた手を止めて、続ける。
「アトムがいろんな困難を解決しちゃうのが格好良くて、僕も真似して、僕が主人公の短いマンガを描いたんだ。そしたら、じいちゃんがすごい褒めてくれて。それが、嬉しかったのが、はじまり」
「へえ、いいおじいちゃんだね」
「うん。じいちゃんだけが、僕に逃げ場をくれた」
校庭から生徒たちのはしゃぐ声が聞こえる。智明は止めていた手をまた動かし始めた。
智明の手は、魔法の手だった。
なんの変哲もないA4の用紙に彼が線を引くと、その線は意志を持ったように躍動するのだ。線がつながって、絵ができると、A4の用紙の中に世界が産まれる。
彼は、彼だけの世界を持っている。
それが、少しだけ羨ましくて、友だちとして、誇らしかった。
体育の時間。智明と背中をくっつけて柔軟をする。もう、彼とふたりでペアを組むことは当たり前になって、先生は何も言わなかったし、クラスメイト達も騒ぎはしなかった。
「ねえ、どうして敵がおもちゃなの?」
ぐいっと、智明の背中を伸ばしながら問う。
「ええと、僕んちって、アニメは見せてくれなかったけど、映画はおっけーだったんだ。だから、あの、例の、人が見ていないところで、おもちゃが動いて冒険する映画を見て、なんかそれが、当時の僕には怖く見えたんだ」
「へえ、でも、あの映画、おもちゃたちは主人を愛してるし、怖くなくない?」
「そうかなあ」
交代して、智明が私の背中をぐいと伸ばす。
「見てないところでおもちゃが動いてるって、かなりホラーだと思うんだけど。僕、あの映画見てから、おもちゃで遊ぶの怖くなったもん」
「智明が怖がりなだけじゃない?」
「あはは、そうかも」
お互いに笑うと、背中を通じてクツクツと感触が伝わってくる。柔軟が終わって、智明と別れる。
今日は、体育館でバレーの授業だった。
コートに入っても、私にだけ、ボールが回ってこないのを察して、すぐに白ける。
あほらし。
コートをでて、壁に寄りかかった。
先生は男子の授業の方を見ていたので、簡単にサボることができた。
男子は、なぜか、片方のコートに智明だけが入っていて、ボールを追っていた。
なぜ、先生は見ているのに注意しないのだろう。舌打ちが漏れる。
周りの女子がびくついたように私を見た。自分たちへの怒りに見えたらしかった。
あほらし。
授業とか、教室とか、クラスメイトとか、全部全部、あほらしい。
智明見る。
彼は額に汗を浮かべて、周りが笑っているのにもかかわらず、一生懸命ボールを追っていた。その姿だけが、くだらない社会に負けない彼の生き方に見えて、眩しくて、目を細めた。
私は、ときどき、彼が、すごく、羨ましく思える。
そんなこと、智明には言えないけれど。
休み時間になって、ちょうど持ってきた小説を読み終えてしまったので、智明の席に行く。このごろ、彼とは堂々と会話するようになっていた。周りの生徒たちが遠巻きに私たちを観察していたけれど、私には気にならなかった。
「莉央ちゃん、なんの小説読んでたの?」
「えっと、江戸川乱歩の『Ⅾ坂の殺人事件』てやつ」
「江戸川乱歩って『少年探偵団』書いた人だよね? 面白い?」
「面白かったよ、貸そうか?」
「いいの?」
智明の顔が嬉しそうにほころぶ。このごろ、彼は周りに生徒がいても、怯えずに話してくれるようになった。遠巻きにクラスメイト達の視線を感じる。でも、私たちは気にしない。私たちの大事なものはそんなところにはないのだ。
……本当に?
疑問符が浮かんで、必死に打ち消す。
智明には、マンガがある。でも、私には。
私には、なにがあるのだろう。
もしかして、なにも。
そう思うと、急に怖くなって、視界が揺れる。
「……莉央ちゃん?」
「あ、え、なに?」
「いや、内容聞こうと思ったんだけど、……大丈夫? いた!」
デコピンすると、智明が涙目で額をおさえる。
「大丈夫だよ。ばーか」
全然、大丈夫だ。たぶん、きっと。