第四章 5
「莉央ちゃん今日も、食べられんかね?」
ばあちゃんが心配そうな声を出す。
「うん……。ごめんなさい」
ばあちゃんの作ってくれた晩ご飯が、半分も減っていなかった。
このごろ、食欲がなくて、朝ごはんも、昼ごはんも、残してしまうことが増えていた。
「なんも謝ることなんてないがね。食べれーぶんだけ食べーだわ」
ばあちゃんが、ほがらかに笑って、半分残った魚の煮つけを片づける。おいしいのに、箸が進まない。原因は分かっていた。
――莉央は、今の学校やめたい?
母さんの言った言葉がお腹の中でぐるぐる反復していた。
お盆が過ぎて、夏休みはあと少し。
……ばあちゃんちにいられるのも、あと少し。
いやでも、考えなくてはならなかった。
私が、これからどうしたいのか。
考えても答えが出なかった。
私はこれから、どうすればいいのだろう。
不安が、母さんの言葉と一緒にお腹の中をぐるぐる回っていた。
夕食を片付け終えて、いつものように宿題を開く。コツコツ進めてきた夏休みの宿題はもう、終わりのページにかかっていた。
翌日、いつも通り、六時に起きて、ばあちゃんとお花に水をやって、朝ごはんが出た。
「え、ばあちゃん、これだけ?」
いつもたっぷり出る須賀家の朝ごはんが、今日はトーストとヨーグルトだけだった。
「食べれたら、おかわりするだわ」
見ると、ばあちゃんの前にはいつも通り、マカロニポテトサラダも、シジミの味噌汁も、ハムと卵も並んでいた。
ばあちゃんの心遣いが嬉しくて、でも、これだけは残せない気がして、胃がキリキリ痛くなってくる。
――莉央は、今の学校やめたい?
母さんの言葉がお腹を回る。ヨーグルトを胃に入れると、一緒にぐるぐる回りだした気がして、トーストは食べきれなかった。
申し訳ない気持ちで、生ごみに捨てる。
「食べれーぶんだけ、食べーだわ。それでいいわね」
ばあちゃんはいつも通り、ほがらかに笑った。
洗濯と掃除が終わると、ばあちゃんが「出かけ―わ」と言わない限り、午前中は二人でテレビを見て過ごすことになる。私はネットフリックスを開いて、ばあちゃんの横で評価の高い邦画を見た。原作が好きな作家さんの小説だったので気になっていた映画だった。おそろいのスニーカーを履いていた恋人二人が就活に入り、パンプスとローファーが玄関に並ぶようなったシーンが生々しくて、きれいだった。そう、メモを取ったところで、ばあちゃんが立ち上がった。
「莉央ちゃん、今日は外で食べーだわ」
時計を見ると、正午を差していた。
外は、鮮やかな快晴だった。車に乗り込むと、ばあちゃんがクーラーをつけた。涼しい風が頬をなでる。最初の頃より、車に乗り込んだ瞬間の蒸し暑さがなくなっていた。秋が、近づいているのだ。
いつも通り、宍道湖をぐるっとまわって、こじゃれた喫茶店で、車が止まった。
『喫茶北欧』は何度かばあちゃんとお茶をしたとこがある喫茶店だった。
「ばあちゃん、ここ……?」
ばあちゃんが、なぜ急にお昼ご飯を外で食べようと言ったのかも、北欧に来たのかもわからない。ばあちゃんはいつも気まぐれだ。
毒気のない顔でばあちゃんがにこにこ笑う。
「今日はここで食べ―だよ」
中に入ると西洋風の落ち着いた店内が出迎えてくれた。私とばあちゃんは、手前の席に座ってメニューを広げた。
「シーフードドリアを二つください」
ばあちゃんが水を運んできてくれた店員さんに注文する。
いつも、食べるものは私に決めさせてくれるばあちゃんがさっさと頼んでしまったのが、意外だった。
急いで、メニューの中のシーフードドリアの文字を追う。下から二番目。写真も添えられていない地味なメニューだった。
やがて、席にサラダと、ホワイトソースのシーフードドリアが運ばれてくる。ソースの香りにお腹がぐるっと動いた。結構なボリュームだ。
食べきれる、だろうか。
「食べられんかったら、残すだわ」
心の不安を見透かしたように前に座ったばあちゃんがそう言った。
「食べきれなかったら、残す……」
不思議だった。学校では、嫌いな食べ物でも、残さず食べましょうと言われるのに、ばあちゃんはいつも残してもいいと言ってくれる。
その言葉に勇気づけらられて、おそるおそる、スプーンでドリアをすくった。
口に入れると、魚介のうまみと上に乗ったチーズがとろける。
「お、おいしい……!」
目を丸くしたわたしにばあちゃんがにこにこ笑った。
ゴロゴロ入った具材がどれも、美味しくて、スプーンが進んだ。アツアツの具材がホワイトソースと一緒に舌の上でとろける。
いつの間にか、お腹のぐるぐるは止まっていて、私はドリアを完食していた。
食べきれた……!
久々に食事を完食しきれたことが嬉しくて口角があがる。
「ばあちゃん! おいしかった!」
「だが~? ばあちゃんも、食欲がずっとなかったとき、ここに来てドリア食べたら、食べれたんだわ」
にこにこと笑うばあちゃんに不意を突かれる。じゃあ、ばあちゃんは、私のために。
「おいしいって不思議だが? どんなに落ち込んでても、悩んじょっても、おいしいものはおいしいけんね」
「……うん」
本当にそうだ。母さんに言われた言葉がなくなったわけでも、夏休みが延長されたわけでもないのに、おいしいドリアは、お腹を満たしてくれた。
お腹が満たれされると、久しぶりに元気が出てきた。
「ばあちゃん、今日のお茶の時間のお菓子はなに?」
急に、まだまだ食べれそうな気がしてきて、ばあちゃんに訊く。ばあちゃんは「ふふふ」と笑って、「お茶の時間までのお楽しみだわ」と答えた。
午後四時になると、いつものようにコーヒーを淹れてくれると思ったばあちゃんが立ち上がった。
「莉央ちゃん、出かけ―よ」
驚きつつも、今日は外でお茶するのだ、とわかって、気分が浮上する。ばあちゃんは車に冷房をいれずに、窓を開けて発進させた。
午後の生ぬるい風を車が切って走る。宍道湖の潮の香りがして、肺いっぱいに吸いこむ。
心地よくて目を細める。
私は、あと何度、ばあちゃんの助手席に座れるのだろう。
着いた先はこじんまりした和風の店構えだった。すぐに、なんのお店か分かった。
「和菓子だ!」
『彩雲堂』と書かれたプレートが、店の真ん中にかかっている。
店の中に入って、歓声をあげた。
「若草だ!」
店のクリアケースの中にはさまざまな箱に入った若草が並んでいた。
「そげそげ」
ばあちゃんがたくらみが成功した子供のように楽しそうに笑う。
「莉央ちゃん、好きなお菓子選ぶだわ」
店の中には飲食できる喫茶スペースがあり、生菓子と、抹茶のセットがたのしめるようだった。
私は、うきうきしながらメニューを見る。
『発萩』『夏茜』『秋近し』『桔梗』
どれも、おいしそうだった。
「ばあちゃんの半分あげーけん、そんなに悩まんだわ」
真剣にメニューをにらんでいると、ばあちゃんが楽しそうにがははと笑った。
私は結局『夏茜』を選んで、飲食スぺ―スにばあちゃんと横並びで座った。目の前は窓になっていて、窓の外でししおどしが涼し気に水を運んでいる。
やがて、運ばれてきた抹茶と和菓子のセットに歓声をあげた。
「ばあちゃん! 小さい若草がついてるよ!」
「そげだが~。ばあちゃんのも、あげーよ」
お盆の上には、生菓子と、抹茶の他に、一口サイズの若草と砂糖菓子がついていた。ばあちゃんの若草も、小皿に分けられて、お盆の上がもっと豪華になる。
「すごいすごい! 私、こんな本格的なお菓子食べるのはじめて!」
「そげかね。ゆっくり食べるだわ」
「うん!」
手ふきをどけると、お盆の上に『和菓子は五感の芸術』という走り書きがあった。
まず視覚。お菓子のデザインを通して、季節の変化を楽しむ。
私は目の前の生菓子に視線を落とした。私が、選んだ『夏茜』は緑色のコロンとしたデザインにモミジのような赤い飾りが乗っているお菓子だった。夏の緑が、だんだん、秋の紅葉に着替えていく、そんなイメージを持った。
次に触覚。口に入れる前に伝わる、柔らかさや、優しい手ごたえ。
夏茜にそっと、楊枝をいれる。むにゅっとした感触で、お菓子の中が顔を出す。
味覚。素材そのものの味を引き出してくれる。
楊枝をさして、菓子を口に運ぶと、柔らかい甘さが広がった。
嗅覚。お米や小豆などの素材の香り。
夏茜は、季節の移り変わりを感じさせる、涼やかな香りがした。
聴覚。菓銘のもととなった和歌や俳句の言葉の響き。
言葉の響き。夏茜は温かくも、どこか寂しさを感じさせるような、心にすっと、風を通す、そんな響きを持っている気がした。
楊枝を置いて、抹茶を飲む。
苦みとまろやかなお茶の香りが広がる。
――莉央は、今の学校やめたい?
お腹にとどまっている言葉がすっと、身体を通った。
その言葉は、夏茜みたいに、寂しさをはらんでいた。
和菓子堪能して、車に乗り込むと、ばあちゃんは、宍道湖の周りを走らせた。そして、途中にある駐車場に止めた。
てっきり、家に帰るものだと思っていた私は驚いて、ばあちゃんを見る。
「ばあちゃん、おりるの?」
「ちょっと、散歩するだわ」
ばあちゃんが含みを持った笑顔でにこにこ笑う。
宍道湖沿いの道は潮の香りに満ちていた。今まで、車から見ていた宍道湖が視界いっぱいに広がっていた。
「きれーい!」
思わず、走って、道を下った。
息をいっぱいに吸いこむ。
いい匂い。
宍道湖沿いの道をばあちゃんと並んで歩く。宍道湖のほとりにはなぜか、お地蔵様が立っていて、途中には大きな不思議な形をしたオブジェがあった。どちらも写真を撮っている人がいる。
道の端の方まで歩くと、銅でできた、何匹ものウサギが宍道湖に向かって走っていた。
そこで、ばあちゃんが足を止める。
私は引き返すのかと思って、ばあちゃんを見たが、違うようだった。
「ばあちゃん?」
ばあちゃんは、おもむろに腰に手を当てた。
「じいちゃんの、ばかーーーーーー!」
急にばあちゃんが出した大声に耳がキンとなる。
「ば、ばあちゃ? 人が見てるよ?」
夕方の宍道湖には写真を撮りに来ている人がちらほらといた。そのほとんどが、大声の発生源であるばあちゃんに注目している。
ばあちゃんは、かまわず続ける。
「なんで、ばあちゃんより先に死んじょーかねーーーーーー! 寂しかったがねーーーーーー!」
この小さな体のどこから、そんなに声が出ていのだろう、と不思議になるくらいの大声でばあちゃんが叫んだ。
ばあちゃんの叫びを、宍道湖が受け止める。
叫び終わったばあちゃんがにこにこ笑う。
「ばあちゃんだって、長く生きちょーけん、嫌な日も、落ち込む日もあったわね。そしたら、ここで叫んで解消しちょったんだわ」
目を瞬かせる。ばあちゃんにも、辛い日があったのだ。
「大きなものを見ると、叫びくなるが? 莉央ちゃんも、お腹の中に貯めずに、吐き出してみーだわね」
はっとして、ばあちゃんを見た。ばあちゃんは、分かっていたのだ。母さんの言葉がずっとお腹を回っていること。私が、悩んでいること。
私は、おずおずと、腰に手を当てると、息をいっぱいに吸いこむ。
「か、母さんの、ばかーーーーーーー!」
叫ぶと、お腹にたまっていたもやもやが解き放たれた気がした。
「智明のばかーーーーーーー!」
あの日から、はじめて、智明の名前を口に出した。口に出してみると、それは意外にも重たくも、辛くもなくて、心がすっきりした。
宍道湖は私たちの叫びをただゆらゆらと波打って、寛大に受け止めてくれた。
そのまま、堤防にばあちゃんと並んで腰かけた。
日が落ちるにつれて、宍道湖がオレンジに染まっていく。
「きれー……」
水面が、キラキラ反射して、ゆらゆらと動いている。
「だが~? ばあちゃんは宍道湖が一番きれいだと思うだわ」
「うん、そうだね」
犬の散歩をしている人が道を通って、会釈する。なんて贅沢な散歩コースだろう。
夕日が、どんどん水面に近づいていく。
「莉央ちゃん」
「なに? ばあちゃん」
「莉央ちゃんは、なーんにも、考えらずに、ずっと、島根におってもいいよ」
はっとして、ばあちゃんを見る。
ばあちゃんの瞳に宍道湖が移りこんで赤く染まっている。
……そうか。いいのか。ここにいても。
母さんの言葉の代わりに、ばあちゃんの言葉がすとんとお腹に落ちてきて、息を吐く。
いいんだ。ここにいて。
私には、ちゃんと、帰ってもいい場所があるんだ。
そう思うと、ぐるぐる回っていたお腹がしゃんと、芯を持って止まった。
宍道湖に夕日がとけていく。
夕日と宍道湖はひとつになって、キラキラ揺れた。
私の帰る場所は、とてもきれいだと、そう、思った。