第一章 1
「母さん、私、学校、行かない」
行きたくない、でも、行けない、でもない。それは確固たる意志だった。
母さんは、初めは軽く受け止めていたようだった。なにか、学校で嫌なことでもあったのだろう。 二日もすれば、考えも変わる。そう、思っていたらしかった。でも、私は本当に学校に行かなかったし、外にさえ出なかった。そして、夏休みに入った。
『――米子。米子です。お降りの際は――』
「莉央、あんた、落とさないように食べなさいよ」
「わかってるよ」
大きく揺れながら停車した列車に上体がぐらりと揺れる。昼食用に買ったおにぎりを頬張っていると、横から母さんに注意された。
岡山から出雲までを繋ぐ、特急やくもはよく揺れる。横並びの席が取れなかったので、母さんとは通路を挟んで座っている。夏休み初日だ。帰省する人や、旅行客が多いのだろう。再び列車が動き出す。もうすぐ、松江に着くのだ。残ったおにぎりを頬張ると動き出したやくもがまた大きく揺れた。
松江駅に着くと、見知った顔が大きく手を振っていた。小さく手を振り返して、改札を抜けると、華奢な身体に抱きとめられる。
「ばあちゃん」
「よくきたねえ、莉央ちゃん」
最後に会ったのは、コロナが広がる前だったから、ちょうど四年ぶりか。小柄で華奢なばあちゃんは一回り小さくなったように思える。いや、私が大きくなったのか。
にこにこと笑うばあちゃんの目じりのしわは少し濃くなった。
「莉央、ほら、スーツケース持って。あんたのでしょう」
母さんの声に振り向く。母さんが持っている、大きなスーツケースの中身はすべて、私のものだ。受け取ったスーツケースはずしりと重たくて、浮上した心が少し、重くなる。
私は夏休みの間、これからずっと、島根で過ごすのだ。
ばあちゃんの運転する車に乗って、下にファミリーレストランがあるマンションに着く。じいちゃんが亡くなってから、もともと田舎に住んでいたばあちゃんは、松江駅から車で五分とかからないこのマンションに引っ越した。田舎には私も行ったことがあるらしいが、ほとんど記憶がない。だから、ばあちゃんの家といえば、この、マンションだ。
家にはいると、ばあちゃんの匂いに満たされた。スーツケースはとりあえず玄関に置いて、リビングに入る。
「莉央ちゃんは、ミルクも、砂糖も入れるが?」
「うん、ありがとう、ばあちゃん」
着いてすぐ、ばあちゃんはいつもコーヒーを淹れてくれる。コーヒーは苦くて好きじゃないけど、ばあちゃんが淹れてくれるコーヒーは不思議と嫌いじゃない。
廊下の突き当りにリビングはあり、大きなテーブルが置かれている。ダイニングには何も置かれていなくて、食事をするのはこのリビングのテーブルだ。リビングの後ろにばあちゃんが寝室にしている和室がある。リビングにも、ダイニングにも、ばあちゃんの好きそうなトルコ絨毯が敷かれている。
ばあちゃんと、母さんが横並びに、私はその正面に座った。
私の前に、コーヒーカップと和菓子が置かれる。
「若草だ!」
歓声をあげると、ばあちゃんがにっこり笑った。若草色の長方形の和菓子は私が最も好きな和菓子である。もちもちとした食感の菓子に、名前の通り若草色の砂糖のようなものがまぶしてある。
うきうきとフォークを入れると、コーヒーに口をつけていた母さんが、ため息を漏らした。
「莉央、本当にここでなら、外に出られるのね?」
若草が、のどに詰まって、うまくのみこめなくなった。
「うん」
視線を下げて、固い声で返事をする。
「お母さん、私は今日大阪に戻らなきゃいけないけど、莉央をちゃんと見てやってよ」
母さんが、ばあちゃんに投げかける。見てやる、って、なんだろう。私は監視していないと不安な娘に母さんには見えているのだろうか。
「この子、いきなり学校行かなくなると思ったら、外にも出ないし。毎日、同級生の子がプリント届に来てくれるのに、一度も会わないし」
ぴく、と身体が反応した。
「あの、橘くんって子、よさそうな子なのに」
いつもはおいしく食べられる若草が何度ものどに詰まる。
すると、黙っていたばあちゃんが口を開いた。
「そげなこと、気にせんでいいがね。莉央ちゃんは莉央ちゃんの出たいときに外に出るだわ」
ばあちゃんに「ね」とほほ笑まれて、喉のつかえがとれる。ようやくのみこめた若草はほんのりした甘さで、やはり、おいしかった。
大阪に仕事を残した母さんはトンボ返りで島根をでてしまったので、ばあちゃんと二人並んでテレビを見る。テレビではお笑い番組がやっていた。芸人さんのエピソードトークにばあちゃんが時々、大口を開けて笑っている。
ぐにゃり。
芸人さんの顔がいびつに歪む。
また、だ。
目をこすると、芸人さんの顔が元に戻ってほっと息を吐く。
あの日から。私の視界はときどき教室以外でも歪むようになった。
あの日、から。
「莉央ちゃん、そろそろお風呂に入るだわ」
時刻は夕方になってそう言ってばあちゃんがキッチンに入った。
「ばあちゃんが、そのあとに入るけん、そしたら、ご飯にしよう」
私は夕飯の準備を手伝わなくていいのだろうか。迷っていると、「一緒に入りたいかね?」と笑われたので、首を振って笑い返した。
服を脱いで、風呂につかると、一日の疲れが溶け込んだ。
――あの、橘くんって子、よさそうな子なのに。
母さんの言葉を思い出して、お湯が重たくなる。
お湯をバシャバシャはじいて、首を振った。
関係ない、私には。
もう、関係ないのだ。
お風呂からあがると、夕食のいい匂いが鼻をくすぶった。
「莉央ちゃん、あがったかね」
「ばあちゃん、なにか手伝うことある?」
じゃあ、テーブルふいて、お皿並べといてくれるかね?」
ばあちゃんに言われた通り、テーブルをふきんでふいて、お皿を並べると、リビングの戸が開く音がした。
「ばあちゃん、もうあがったの?」
「ばあちゃんの風呂はカラスの行水だがね」
「カラスのギョウスイ?」
「そげそげ」
風呂上がりのばあちゃんがなぜか自慢げにそう言って、テーブルにいい匂いの正体を並べた。
「きたがきのコロッケ!」
さっきから、キッチンで揚がっていた黄金色に密かに胸をおどらせていたのだ。
「莉央ちゃんが来るけん、買っといたんだわ。好きだが?」
ばあちゃんに人のよさそうな笑みを向けられて大きくうなずく。
ばあちゃんと対面に座って、手を合わせる。それから、箸を伸ばしてコロッケをほおばる。サクッと子気味いい音をさせて口の中に入ったコロッケはホクホクでおもわず頬がほころぶ。ここから近所にある、精肉店「きたがき」のコロッケは私の大好物だ。
他にも、シジミの味噌汁、炊き込みご飯。ポテトサラダにマカロニが入ったものが食卓に並んでいた。じいちゃんがあみ出したらしい、この、ポテトサラダなんだか、マカロニサラダなんだかわからない料理はいつ来ても須賀家の夕食に並んでいる。
食欲がない気がしていたのに、どの料理もおいしくて箸がすすんだ。
お腹が満たされると、心が満たされる。
ずっと。今日、一日、ずっと。張り詰めていた。久しぶりの外出だった。同級生に会っても関係ない、と思いつつも、会わなければいいな、とどこかで祈っていた。
シジミの味噌汁を飲み干すと、やっと肩の力が抜けた気がした。
晩御飯を食べ終えると、ばあちゃんとキッチンで洗い物をして、それからテレビを見るばあちゃんの横で夏休みの宿題をした。
こんなこと、やったって、もう、学校に行くつもりはないのに。でも、どこかで私はまだ社会とつながっていたいのかもしれない。あの、狭くて歪んだ教室と。
思い出すと、心につめたい熱がともった。
それは、青く、静かに燃える業火だった。
私は、あの小さな社会を許さない。
宿題がひと段落したところで、歯磨きをして、ばあちゃんの隣りに布団を敷いた。
カチ。
ばあちゃんが部屋の明かりを消す。
和室には、クーラーがないので、ふすまは閉じずにリビングのクーラーをつけている。
クーラーの作動するブーンという機械音だけが静かな部屋を満たしている。
「……ばあちゃん」
「なんかね?」
私は薄いタオルケットを体にかけながら横で寝ているばあちゃんに話しかけた。
「私、いつまで、ここにいていい?」
学校に、行くのをやめた。外に出るのもやめた。都合よく、夏休みが近づいていたから、ひとまずばあちゃんちに行くことになった。親は二学期からの転校も視野に入れて話し始めた。夜中に、母さんと父さんが話し合っているのを息をひそめて聞いていた。
不安が、心に影を落としていた。
私はこれからどうなるのだろう。どうなっても、もう、学校には行きたくない。
ばあちゃんが、口を開いた。
「いつまでも、いていいにきまっちょーがね。莉央ちゃんはうちの子だが」
「いつまでも?」
「そげそげ」