第四章 4
ばあちゃんの身体は湯たんぽみたいに温かくて、背中をなでる手は陽だまりのように優しかった。
「帰ろうか、莉央ちゃん。一緒にお風呂に入ろう」
ばあちゃんの声が優しくて、嗚咽が漏れた。泣きながら、ばあちゃんの服を握りしめてうなずいた。
家に帰ると、母さんは奥の部屋にこもったらしく、見あたらなかった。
お風呂はすでにとってあって、ばあちゃんと一緒に濡れた服を洗濯機に入れた。
ばあちゃんが、私の背中を洗ってくれた。
固まっていた心が少しほどけていく。
交代して、次は私がばあちゃんの背中を洗った。華奢なばあちゃんの背中は小さくて、それでも、貫禄があるから不思議だった。
ふたりで、湯船につかる。
「あ~~~」
温かいお湯にこわばっていた身体がほどけていく。
「二人で入るなんて何年ぶりだろうね。ばあちゃん」
「四年だわね。莉央ちゃんが二年生の時に入ったが?」
「そういえばそうだね」
ばあちゃんに笑顔を向けると、ばあちゃんが優しくわたしの髪の毛をすいた。
「お風呂は心の洗濯だよ。嫌なことがあっても、心を洗い流してくれるだわ」
ばあちゃんが目じりにしわを寄せて笑う。
「毎日お風呂に入る。当たり前だけど、大事なことだわ」
身体が温まったら、不思議と心もほぐれた。
お風呂からあがると、お腹が減っていることに気が付いて、夕食はしっかり食べた。
母さんはこもった部屋から出てこなかった。
ザー。
翌日も、変わらず雨が降っていた。昨日よりは雨脚がましだった。
ばあちゃんとたっぷりの朝ごはんを食べて、ラジオ体操をして。しばらくたったころに母さんが起きてきた。
「おはよう」
目が合ってぎこちなく、目を伏せた母さんに「……おはよう」とぎこちなく返した。
母さんが身支度を整えたところで、傘を持って出発した。
「莉央ちゃん、かな子と一緒に後ろに乗るだわ」
いつも通り助手席に乗り込もうとすると、ばあちゃんがそう言って制止してきた。
「で、でも……」
「いいけん、ね?」
しぶしぶ、後ろのドアを開けて、母さんの隣りに乗り込む。
ばあちゃんがしゃべらないと、車内を沈黙が覆っていた。
私は窓についた水滴を眺めながらずっと、ほおづえをついていた。
車が急な坂道を駆けあがって途中で停車する。
「ついたが~」
ばあちゃんが車を止める。
じいちゃんのお墓には、お盆に何度か来たことがあった。晴れの日は、セミがけたたましく鳴いていて、ばあちゃんがセミを掴んで私に見せてくれた。
「千手院さんは、春のしだれ桜がきれいだけんね。莉央ちゃんも一回春に来るだわ」
「お墓なのに、桜が咲くの?」
「そげそげ」
ばあちゃんと並んで歩く。急な斜面を登った先にお墓はあった。
「じいちゃん、久しぶり~」
ばあちゃんが傘をさしてじいちゃんの墓石にそう語りかける。それから、手分けしてお墓の掃除を始めた。
「今日は雨がふっとるけん、掃除が楽だわ~」
とばあちゃんがコロコロ笑っていた。墓石をスポンジでこすって、目立つごみを拾う。それから打ち水をして、お花とお酒を供える。
「……お父さん、お酒好きだったもんね」
「だが~? 焼酎ばっか飲んじょったけんね~」
ばあちゃんと、母さんが楽しそうに話す。じいちゃんの話をするときの二人は決まって楽しそうだ。きっと、気持ちのいい人だったのだろう。
それからお線香をあげて、一人ずつ、じいちゃんに挨拶する。ばあちゃんと母さんは長いこと手を合わせていた。私も、記憶には残っていないじいちゃんに、無事に六年生をむかえたこと。元気でやっていること。夏休みいっぱいはばあちゃんちで過ごすことを報告した。
お供え物を回収して、「さ、帰るだわ」とばあちゃんが立ち上がった。
来たときと同じように後ろの席に母さんと並んで座る。
再び、沈黙が車内を覆うかと思われたとき、母さんが、口を開いた。
「莉央、ごめんね」
突然の謝罪に、驚いて母さんを見る。母さんは何かに耐えるように唇をかんだ。
「莉央が、金魚殺したり、そんなことする子じゃないってわかっているの。だから、今まで聞かなかったの」
母さんが続ける。
「なにか、辛いことがあったんでしょう? じゃないと、学校に行かないなんて、言わないよね」
母さんが目を伏せる。長いまつげが震えている。
「母さん、どうしてあげるのが正解なのかわからなくて……。でも、莉央を焦らせるのは違うって思った。ごめんなさい」
母さんが吐き出すように言葉を並べる。ずっと、考えてくれていたのだろうと、わかった。
ばあちゃんは口を挟まずに、私たちの会話を聞いている。
私は息を吸って、それから吐き出した。
「……母さん、私いま、毎日ラジオ体操やってるの」
母さんが顔をあげる。
「……明日一緒にやらない?」
一拍おいてから、
「ふふっ」
と母さんが吹きだした。
「莉央は島根に来てずいぶん健康になったのね」
「まあね」
「じゃあ、明日は私も早起きしないと」
吹きだす母さんに私も笑顔を向ける。久しぶりに、母さんの笑った顔を見た気がした。
翌日、寝ている母さんを起こして、三人でラジオ体操をやった。私が最初はまったく聞き取れなかった、きつい出雲弁を、母さんはすべて理解できるらしく、私に得意げに解説してくれた。
「だてに、島根で育っちょらんけんね」
母さんはそう言って舌をだして笑っていた。
それから、松江駅まで母さんを見おくりに行った。
改札の前で、母さんが私の手を握った。
「莉央」
呼ばれて顔をあげる。真剣な表情だった。
「莉央は、今の学校やめたい?」
答えられずにいると、母さんの手に力がこもる。
「莉央が傷つくなら、辞めちゃえばいいと思ってるの。勉強の仕方は今の時代、いくらでもあるし、引っ越しだって、無理な話じゃない。ゆっくりでいいから考えてみて」
「……わかった」
うなずくと、母さんがほっとしたように表情をゆるめた。
母さんが腕を広げて私を抱きしめる。温かい手だった。ばあちゃんと同じ。
「お母さん、またね」
それからばあちゃんともハグをして、母さんは改札の向こうに消えていった。
駅の外に出ると、降り続いた雨がようやくやんでいた。
「あ、虹」
空に大きな虹がかかっていた。