第四章 3
その日、登校すると、教室に入った瞬間、異様な空気が肌にまとわりついた。監視されているような、値踏みされているような、そんな舐めるような視線が全身を這う。
来たよ! 待ってました~。くすくす。
ぞわ、と肌が粟立った。
なに、気持ち悪い。
黒板には、なにも書かれていなかった。
智明の席まで行って挨拶する。
「おはよう、智明」
このごろ、クラスメイトは私と口をきいてくれなくなったので、話し相手は智明だけになった。
「智明?」
智明は、うつむいたまま、声を発しようとしない。
「智明? どうしたの?」
智明は何かに耐えるようにぎゅっと小さな目をつむって背中を丸めていた。
くすくす。だれか教えてあげなよぉ。え~やだあ。
教室が生ぬるくて不快な空気を出す。
智明の態度に釈然としない気持ちながらも自分の席に着く。
生ぬるくて不快な空気が自分を中心にとぐろを巻いている。
やがて、担任が入ってきて、教壇に立つ。
「朝の会を始める前に、今日はみんなに言わなければいけないことがあります」
担任が重々しく口を開いた。
「朝、飼っていた金魚が死んでいました。誰かに水槽の水を抜かれたようです」
はっとして、後ろを振り返る。
デメ子とデメ太の水槽がなかった。
「なにか、心当たりのある生徒は手をあげなさい」
信じられない思いで、手が震える。怒りかもしれないし、恐れかもしれなかった。
昨日まで、生きていて、私が餌をやっていたのに。
「いませんか?」
教室に重たい沈黙が落ちる。
「先生は、悲しいです。命を大切にしない生徒がこのクラスにいたことが」
先生が重々しく、そう言って手を組む。
なにが。智明のいじめにずっと目をつむってきたくせに。
なにが。めんどうな生徒はほったらかしにするくせに。
どの口が。
怒りと、悲しみと、憎悪で、心がぐちゃぐちゃになりそうだった。
教室は、あいかわらず、沈黙を守っていた。
そのとき。
智明が、手を、あげた。
「……僕……」
か細い声が教室に響く。
がたん。
智明が、立ち上がる。
「僕、葛西さんが水槽から水を抜いているのを見ました」
「は?」
声が漏れた。意味が、分からなかった。
ただ、教室に、鳴り響いたその声が銃声のように私に突き刺さった。
がたん! 智明の後ろの女子生徒が立ち上がった。
「わたしもみました!」
がたん!
今度は隣の席の男子が立ち上がる。
「ぼくもみました!」
「は、……」
なにが起こっているのかわからないまま、銃声に撃ち抜かれる。
がたん!
がたん!
がたん!
「ぼくも!」
「わたしも!」
「わたしもみました!」
鳴りやまない銃声に息ができなくなる。
がたん!
がたん!
がたん!
「わたしも!」
「ぼくも!」
「おれも!」
がたん!
がたん!
がたん!
なにが、なにが起こっているのか。
ぐにゃぐにゃ。
教室が歪んで波打つ。
がたん!
がたん!
がたん!
私以外、全員が立ち上がったところで、銃声はようやくやんだ。
「本当なのか? 葛西」
「は、……え、」
よく、わからなくて、返事ができなかった。歪む視界に吐き気がして、口元をおさえた。
先生は私の沈黙を肯定ととらえたらしく、「今から職員室にきなさい」と冷たい声を落とした。
担任に連れられるがまま、教室を後にする。
やったね。くすくす。葛西と橘菌は破局でーす! やだあ。
漏れ聞こえる声にはめられたのだ、と理解するころには職員室で先生の説教を聞いていた。キーーーーーン。ひどい耳鳴りがして、話はなにも入ってこなかった。
今朝、返事をしなかった智明を思いだす。
そうか、私は。
裏切、られたのか。
職員室をでると、智明が立っていた。追いかけてきたらしかった。
「莉央ちゃん、あの、」
「二度と、」
智明の顔をにらみつける。彼はひどく傷ついたような顔をしていて、なおさら腹が立った。
「二度と、私に話しかけないで」
そう言うと、智明はくしゃり、と顔をゆがめた。
無視して、隣を通りすぎた。
教室に帰ると、また、気持ち悪い空気がまとわりついて吐き気が戻ってきた。急いで、ランドセルに教科書を全部詰めて、早退した。
そして、家に帰って母さんに言った。
「母さん、私、学校、行かない」