第三章 4
ザー。
雨が教室を揺らす。いつも通り、ふたりきりの教室で作業をしていた。
あと、少し。あと、少し。
智明が真剣な顔で、最後の直線を描ききる。
「で、できたあ!」
三ヶ月、いやもっと前からかもしれない、そんな長時間にわたって描いたマンガが、今完成したのだ。
「や、やったああ!」
智明とハイタッチをかわす。背の低い智明と手を合わせるには少しかがまなければならなかったが、そんなこと気にならないくらい、気分が高揚していた。
「すごい! すごいよ智明!」
智明が、描いているのを一番近くで見ていた私だけが、このマンガが、完成するということがどれだけすごいことか、わかっていた。
「まだ、八月まで時間はあるから、修正点は探すけど、ひとまず、」
智明の目が私の目と合う。
「ありがとう、莉央ちゃん」
「うん! ……うん!」
もし、このマンガの掲載が決まったら、いや、決まらなくても。智明のマンガをはじめて読んだのは、私なのだ。それは、すごく誇らしいことのように感じられた。
*
「莉央ちゃん?」
急に固まったように足を止めた私にばあちゃんが不思議そうな声を出した。
再び、視界が金魚すくいの文字をとらえる。
「ば、ばあちゃん、早くいこ」
さっきまで、浮きたっていた気持ちが嘘のように沈下していた。
ばあちゃんの服の裾をぎゅっと握ると、ばあちゃんが手を差し出してきた。
「ば、ばあちゃん?」
「手ぇ、繋ぐだわ」
「え、でも私もう子供じゃないし……、外だし」
「子供じゃなくなったら繋いじゃいけんなんて、誰が決めたかね。人の目なんかばあちゃん恥ずかしくないわ」
がはは、と笑ったばあちゃんの手をおずおずと取る。
温かくて、少しかさついた手だった。
心ににじんだ不安が、やんわり払拭されていく。
再び、歩き出して、金魚すくいの文字を見ても、もう、不思議と怖くなかった。
ただ、歪んだ視界が戻らなくて、目をぎゅっと閉じた。
ぐにゃぐにゃした夜の町は案外悪くなかった。左右に並んだ屋台の明かりが視界の隅でチカチカ光る。
「莉央ちゃん、わたがし食べるが?」
ばあちゃんに言われて気分が浮上した。私の顔ほどもある綿菓子は四年前は食べきれなくて残してしまったが、今なら食べきれるはずだった。
「うん! 食べる!」
ばあちゃんと、甘いにおいのする店に近づいて、とびきり大きな砂糖のかたまりを買う。
一口かじると、幸せが広がった。
甘いものって不思議だ。どんな時でも、心を満たしてくれる。
「そろそろ、花火のとこまで行くだわ」
ばあちゃんに手を引かれて、宍道湖が正面に見えるスポットまでむかう。すでに人ごみができていて、ブルーシートなんかを敷いて、座っている人もいた。
夜空を見上げる。
少しだけ、不安だった。
歪んだ視界では、花火がちゃんと見えないのではないか。
やがて、ひゅ~、と音を立てて、花火が上がった。
バン!
ぐにゃり。
はじけた花火が歪んで、視界一杯に広がる。
あ、きれい……。
万華鏡の中をのぞいたような心地だった。
バン! バン!
次々に花火があがって、万華鏡が回転する。
歪んだ方が、きれいなものってあるんだ。
まるで、智明のマンガみたいだ。
「ぎょがんぱーす……」
いつの間にか、ばあちゃんの手が離れていたことには気がつかなかった。
万華鏡は回転を続けてクライマックスに入った。
バン! バン! バン! バン!
次々に花火が打ちあがる。
万華鏡の欠片がはじけて、宍道湖に落ちていく。
ひゅ~、バン!
最後に大輪を咲かせた花火はいつの間にか歪んでいない、普通の花火に戻っていた。
「きれいだったねえ、さ、帰ろうか」
ばあちゃんにほほ笑まれてうなずく。結局、今年も、私は綿菓子を食べきれなかった。
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