第三章 2
みな美について、車を降りる。
お店に入ると、ばあちゃんが「予約していた須賀です」と言った。私は驚いてばあちゃんを見る。いつの間に、予約したのだろう。
席に通されて、メニューを広げる。
「莉央ちゃん、なんでも、好きなもの頼むだよ」
にこにこと笑ったばあちゃんにメニューの真ん中を指さした。
「じゃあ、鯛めし!」
みな美の鯛めしは有名だ。店員さんが来て、ばあちゃんも同じように鯛めしを頼んだ。
「楽しみだね、ばあちゃん」
「そげかね。莉央ちゃんが楽しみなら連れてきたかいがあったわ」
ばあちゃんが目じりにしわを寄せて笑う。
やがて、鯛めしが運ばれてきて、歓声をあげる。
タイのほぐし身、炒った卵の黄身と白身。わさび、のり、ネギなどの薬味が、円状に並べられている。付け合わせの西京焼きとモズクも美味しそうだ。
私はおひつからご飯をすくって、タイと卵を乗せて、だしをかけた。
ふわっと、品のいい香りが鼻腔をくすぶる。
「いただきます」
箸を手にして、口に運ぶ。
ほろほろと、口の中で、タイがほどけて、だしの香りが広がる。
「おいしい~」
頬に手を当てる。ばあちゃんがにこにこ笑っている。
「たまにね、贅沢して美味しいもの食べるのは大事なことだよ。食べた栄養は心の栄養になるけんね」
心の栄養。島根に来てからずっと、美味しいものをお腹いっぱい食べている気がする。引きこもっていたころはほとんど、食事もとらなかった。
心の栄養。本当にそうだ。ちょっとずつ、お腹の中にエネルギーがたまっているのがわかる。
「ばあちゃん、ありがとう」
「なにがかね?」
「ふふふ、なんでも」
ばあちゃんに笑みを向けながら再び鯛めしを口に運んだ。
お腹がみたされると、いよいよ、宍道湖に向かって歩き出した。
日が暮れて、夜風が頬にあたる。
ちょっと歩くと、ちらほら露店が見えてきて、すぐに人ごみに入った。
左右に広がる屋台を見ながら宍道湖の周りを歩く。
お祭りの匂いがする。
華やいだ光と、夜の闇を吸った、独特な香り。
「莉央ちゃん、なにか買いたいものあったら、言うだよ」
「いいの? ばあちゃん」
「いいにきまっちょーが。今日は贅沢ディだけんね」
にこにこ笑ったばあちゃんと、はぐれないようにぴったりくっつく。
花火があがるまではまだ少し時間があった。
一つ一つ、屋台を見ながら歩く。
「あ! ばあちゃん、私いちごあめ食べたい!」
キラキラ光る宝石のような赤い果実がくしに何本も刺さっているのを見て、心が弾む。
「いいよ。ばあちゃんは、ぶどうあめにするだわ」
「ばあちゃんも食べるんだ」
「いけんかね? ばあちゃんも、今日は贅沢ディだわね」
口をわざと尖らせたばあちゃんにお腹の中でクツクツ笑う。
赤い棒を手にして、かじると、舌がびりびりするような甘さと、イチゴの酸味が広がる。
視界はあちこちに動いた。面白そうな出店がたくさんあった。
いちごあめはあっという間に咀嚼し終えて、次の目的を探す。
不意に、視界が、水色の露店をとらえた。
は、と息を詰める。体温が一気にさがる。
金魚すくい。
夜風が、髪をなでて、背筋がぶるっと震えた。
見ると、赤と、黒の金魚が大量に泳いでいた。
ぐにゃり。
視界が、歪んだ。
*
「この金魚たちって名前あるのかな?」
水槽に餌を落としながら、智明に問いかける。黒いデメキンが一匹と、赤いデメキンが一匹。いきものがかりは誰も、真面目にやりに来ないので、すっかり私が専属になっていた。
「えっと、うーん、ないんじゃないかな?」
智明がマンガを描いていた手を止めて、振り返る。
「じゃあ、お前たちの名前は今日からデメ太とデメ子だ」
餌をパクパク食べる小さな魚に話しかける。
「ええ、適当すぎない?」
「いいでしょう。黒い方がデメ太で、赤い方がデメ子だよ」
餌の袋のチャックを閉めて、智明の前の席に座る。
「どう? 原稿は?」
「まずまずだよ」
頬をかいた智明の手にインクが付いていて、ぷっくりした顔に黒い模様ができる。
智明の手は不思議だ。
クリームパンみたいに小さくて丸い手をしているのに、描き出す線はこれでもかというくらい繊細で、力強い。
マンガを覗きこみながら指さす。
「これが、トーン。これがベタ」
「正解。それでもってこれが、効果線」
智明が、原稿用紙を細かく回しながら。定規で絶妙なラインを描いていく。
「わ、すごい」
真ん中にいた登場人物がこれだけの作業で際立って見える。
「八月に間に合いそう?」
原稿に目を落としながら聞くと、智明は「ううん、なんとか間に合わせるよ」と再び頬をかいた。また、黒い模様が広がった。
智明と、こうして、放課後を共にするようになって、二週間。智明が応募する新人賞は二人で、八月締め切りのものに決めた。大賞を取ると、連載が確約され、三百万円の賞金が出る。
「三百万だよ? なにに使う?」
「まだ出してもないのに、決めないよ」
「夢がないなあ」
椅子にだらっともたれかかると、智明がくすくす笑った。このごろ、彼は私に前で笑ってくれることが増えた。でも。
彼の笑顔を見るたびに、私の胸には苦い気持ちが広がる。
「ねえ、智明」
声のトーンを落とした私に気づいたのだろう。智明が顔をあげる。
「なに?」
「私たちって友だち?」
まだ。彼とは。放課後以外の教室内で話したことがなかった。
智明が短いまつげをぱちぱちさせて、それから耳を赤くして顔を伏せた。
「え、えっとお、そうだったらいいなって思うことは……、あ、でも、いやだよね、ごめ、いた!」
デコピンした私に智明が額をおさえる。
「嫌とか言ってないのに、勝手に結論付けしようとするな」
「ご、ごめん」
怒った顔をしてみせてから、口角をあげて笑った。
「智明がそうだったらいいなって思うなら、友だちだよ」
素直に、友だちでありたいと思われていることが嬉しかった。
「友だち……?」
「そう、友だち」
智明がはにかむ。
「友だちだね」
「うん」
手を離した彼の額が黒く染まっていた。