第二章 5
家に帰ってからも、智明のお母さんが言った言葉が反芻して、ムカムカが収まらなかった。食事もそこそこに自分の部屋にこもってベッドに身体を沈ませた。
智明はあんな言葉を毎日聞いているのだろうか。それは、すごく、辛いだろうな。スマホを手に取って連絡先を開いて猫のアイコンをタップする。
あんな家でマンガ家になれるのだろうか。智明はどうやってマンガ家になるって言ってたっけ。たしか、東京で持ち込みがしたいって。
検索バーを出して、『マンガ 持ち込み』で検索する。
有名な出版社の名前が出てきて、持ち込みの流れが書いてある。画面をスクロールしていくと、『WEB持ち込みの方はこちら!』と書いてあった。
「WEB持ち込み?」
スクロールしてタップする。
『アナログ原稿のスキャン、写真での持ち込みが可能!』
目を瞬かせる。これなら。
智明は今からでも、持ち込みができるのではないか。
さらに画面をスクロールすると、『○○マンガ新人賞』と書いた記事があった。
「新人賞?」
タップすると、募集要項が出てくる。
『ストーリー漫画、十五~五十五ページ。アナログ原稿可』
「え、これ、智明も応募できるんじゃ……」
『大賞はデビュー確約!』
「これだ!」
大きな声が出て、「莉央! 静かにしなさい!」と母さんにリビングから怒られる。
ドクドク、と身体がたぎっていた。これなら。きっと。
私はホーム画面に戻ってメッセージアプリから猫のアイコンをタップした。
「えっと、昨日送ったとおりなんだけど、私はこの新人賞がおすすめ! 賞金が三百万なの!」
翌日、放課後。
いつも通り机をくっつけて漫画を描く智明にスマホの画面を差し出していた。
「えっと、よくわからないんだけど、どうして、僕が新人賞出すことになってるの?」
「だって、智明、マンガ家になりたいんでしょう?」
「そう、だけど……」
目をぱちぱちさせる智明に人差し指をつきだす。
「調べてみたら、小学生でも、出してる人、いるって! 最年少のマンガ家は中学生だし!」
「ええと、でも、僕の家は母さんと父さんが許さないだろうから、家を出てからって考えてたんだけど……」
「それがだめ!」
人差し指をぐっとつきだす。避けようとした智明がのけぞる。
「なりたいなら、早いうちから勝負して、損はないはずでしょ?」
「でも、親は……」
「そこで、新人賞だよ! 賞金とって、納得させるの!」
人差し指で智明の額を押す。
「ぎゃふんと言わせたいじゃない? あんな言葉に負けたくないでしょ?」
「そう、だけど」
「やろう。智明」
人差し指をしまって、真剣に彼を見つめる。
は、としたように、智明が息を詰める。
「……うん。莉央ちゃんがいてくれるなら、できる気がする」
「そうこなくちゃ」
私が笑うと、智明が照れたように頬をかいた。
二人だけの教室に風が吹く。新しい、なにかが始まろうとしていた。
*
「莉央ちゃん」
スマホのメモ画面に視線を落として、放心していると、いつの間にかばあちゃんが隣に来ていた。
「ばあちゃん」
「ちょっと、疲れたねえ。お茶でも飲んでいこうか」
ばあちゃんが目じりにしわを寄せてそう言った。
館内にあるカフェは庭園を一応に見渡せる作りになっていた。贅沢な景色を楽しみながら、ふかふかした椅子に座る。
ばあちゃんはアイスコーヒーを、私はオレンジジュースを頼んだ。
すぐに飲み物は運ばれてきて、ばあちゃんと談笑する。
「莉央ちゃんはどの絵がよかったかね?」
「えっと、横山大観の絵はさすがに引き込まれるものがあった。あと、大展示室の絵はどれもよかった」
「そげかね。絵はいいが?」
ばあちゃんが窓の外に目を移しながらコーヒーに口をつける。
「うん。とっても良かった」
「この庭園はね、ほかの庭園とは違うところがあーよ。どこだと思う?」
違うところ。尋ねられて、首をひねる。日本一きれいというだけあって、見ごたえは素晴らしい。違うと言えば、すべて違う気がするし、違いなんてない気もする。
頭を悩ませていると、ばあちゃんが正解を言った。
「この庭園は、歩けないだわ」
「あ、……」
合点がいってうなずく。たしかに、完璧に作られた美は他者が介入することを許さない。
「窓からね、日本風景画と同じように楽しむようにできてるんだわ」
ばあちゃんの視線をたどって庭園に目を移す。
空の青と、木々の緑と、砂利の白。
これが本当に風景画なら、この絵が一番好きかもしれない。
オレンジジュースに口をつける。
ほのかな酸味と、軽やかな甘みが口いっぱいに広がった。