5章 水の女神(1)
ミユ達は美しい泉のある草地に足を付けた。
「ここは…どこ?過去よね?もしそうだとすれば、水の女神様がいらっしゃるはず…」
メグがか細く小さな声で呟いた。メグは敵に打ち勝った事で安心し、すでにソユアの応急措置の疲れで眠くなってきていたのであった。すると、草地の奥の方から二、三人程の者達がソユア達の方へ歩み寄って来た。メグは一人の女性の後ろを歩いて来た二人の女性を見て、ぞくりとするような恐怖を感じる。
(何なの、この人達…何だか変な違和感と、恐怖を感じてしまう…)
だが、ミユとメーデルはこれといった違和感や恐怖も無く、平気のようだった。
「そなたらがソユアの仲間か。ソユアも成長したものじゃのう。わらわが水の女神じゃ。そなたら、わらわについて来い。屋敷へ案内しようぞ」
いきなり現れた水の女神にメグとメーデルは驚いたが、ミユはまた別の事に驚いているようだった。
「あなたが水の女神様…。し、身長が低い…」
ミユの言葉に、水の女神は怪訝な顔をする。元々、気にしていたらしい。
「失礼な者じゃのう。わらわは元々背が低いのじゃ。人間は勝手に偉い者は背が高く大きいと考えておる!何という事じゃ!全くもってけしからん!…まあとにかく、ソユアを館へ運ぼうか。わらわの館はすぐそこじゃ。ついて参れ」
水の女神がくるりと後ろへ向いたとき、ミユは女神の後ろに立っていた人物が誰なのかを悟った。
「シルク!ミリア様!どうしてここに?」
ミユが叫ぶと水の女神が振り向いた。
「この者達はわらわが連れて来た。ミリア、ソユアはとても危険な状態じゃ。…悲しむのは後にし、先に看病をしてやらねばの」
そう言って水の女神は歩き出した。皆もその後ろについて行く。周りが焦っているのに、水の女神は呑気なものである。
「ソユア…ソユア…どうしてこんな姿に…。時の塔の近くに敵がいたのか?」
「そうなんです。ザキリア将軍っていう人で…」
メグが急いで説明した。ミリアの顔が一気に歪む。
「ザキリア将軍!あいつが…あいつがやったのか。ザキリアは私達勇者一行が討ち損ねた魔物に魔法を教えられていた奴だ。多くの集落を滅ぼし、罪無き人々を殺した。あの時、私達が魔物もろともあの女を倒していれば、こんな事には…」
ミリアは辛そうに言葉を口から漏らした。
「悔いても元に戻りはせぬ。ミリア、そう気を落とすでない。わらわも、倒すべき敵を倒せず、悔いた事は幾度もあった。しかし、ザキリア将軍は人間。人外であれば、彼女の残虐さによる被害はもっと酷かったであろう。仕方あるまい」
「将軍は元々人間だったんだ…」
ミユは呆気にとられたように、口をあんぐり開けて呟いた。
「そうさ、老魔術師ハクストの部下の将軍達は皆人間だ。クレイン将軍だって、元は人間なんだ…」
ミリアが唇を噛み締めながら言った。その隣を歩くメーデルは過去にザキリア将軍と手合わせをした時の事を思い出しており、完全に上の空の状態である。
(あの時、私は初めて自分の死を覚悟したな)
彼女の頭の中に、その時の情景が浮かび上がった。
六年前、ザキリア将軍とメーデルは手合わせをさせられた。メーデルの師匠である剣士シュテルは反対した。しかし、ただ老魔術師ハクストが、そうさせよと命令をさせた。その一言で、手合わせは決まった。もちろん、誰もメーデルが勝つなどと思っていない。メーデルも、最悪命を落とす事を覚悟していた。しかしそれも、軽い覚悟である。心の奥底に、自分のためにザキリア将軍が手加減をしてくれるのではないかと、そういう甘い考えがあった。だが手合わせが始まった途端、この世界にそのようなものは無いのだと悟った。
『メーデル』
広がる湿地の中で鞭を構え、ザキリア将軍は言った。
『この場は見世物よ。多くの見物人達が、私達の戦いを見ているの…娯楽としてね。だからこそ、私は手加減をするつもりは無い…お互い本気で、命を懸けるのよ?』
彼女は不気味に微笑んでいる。そう、メーデルとザキリア将軍の手合わせは、他の将軍、闇の三大魔術師、老魔術師ハクストへの見世物だった。見世物として、メーデル達は舞うのである。メーデルとザキリア将軍は、見物人を楽しませなければならない。そのために、この二人は死と隣り合わせの戦いを―本気の戦いをするのである。
(馬鹿馬鹿しい)
メーデルはそう思った。
(こんな奴らを楽しませるために、命を懸けなければならないなんて)
辺りは暗く、雨がぽつ、ぽつ、と降ってきていた。
『そろそろ始めよ。いつまで待たせるつもりだ』
老魔術師ハクストが立ち上がり、二人を睨み付ける。見物をする将軍達も、痺れを切らしてきている。
『早くおやりなさい、ザキリア。ハクスト様がお怒りですよ』
リリアーネ将軍も立ち上がり、二人を急かす。ザキリア将軍はリリアーネ将軍から視線をメーデルへ戻し、鞭を振るった。
『メーデル、あなたはまだ覚悟が出来ていないようね?ならば、私がその気にさせてやるわ…』
ザキリア将軍がすっと鞭を握り、構えをした。メーデルも剣を構える前に、鞭がメーデルを叩きのめした。魔力の籠った守備力の高まる服を着ているのに、皮膚が腫れてしまう。
『将来暗殺者になる運命を持っているのに、なぜそんなに躊躇うの?どうせ、同じ事なのに。あなたの将来は決められている。そして、逆らう事が出来ない。この、私のように』
ザキリア将軍が鞭を振り上げた。その目は残酷で、メーデルの怯えを面白がっているようだった。
『早く反撃しなさいよ。全く面白くないじゃない。私、見てみたいの…あなたが私の鞭で弱っていって、苦しみ足掻く姿を…。でも、されるがままなんて魅力が無いわ。もっと私を殺そうと思って、斬ってみなさいよ』
鞭が振り下ろされた。メーデルから少しずれた地面に鞭が叩き付けられる。地面に長い亀裂が走った。
『ほら、早く』
ザキリア将軍はぺろりと舌で唇を舐める。そして笑みを浮かべた。しかし、目は笑っていない。
『……』
メーデルは二本の短剣を腰に掛けてある鞘から出した。そして強く握り、足に力を入れる。「ザッ」と音を立て、飛び出した。右手に握る短剣をザキリア将軍の腰に向かって横に振るう。ザキリア将軍は軽く腰を後ろへ退かせた。避けられた。続いて、左も振るう。再び、避けられる。
『そんなふうに振るだけじゃ、当たらないわ』
ザキリア将軍はふわりと退いたり、前に軽く飛び出したりしながらメーデルの短剣を避けていた。一向に、メーデルはザキリア将軍を斬る事が出来ない。
それを見ていた闇の三大魔術師の一人、鏡の魔術師シトレアは杖を握って、呟いた。
『《鏡界の魔法》』
ザキリア将軍の手の先が、一瞬だけ銀色に光った。しかし、見物人も、メーデルも、ザキリア将軍さえも気づかない。鏡の魔術師シトレアが魔法を唱えたという事も。
(?何か、変な予感が…?)
ザキリア将軍は何か違和感を感じたらしかったが、短剣を避け続けている。
『まだまだね。次は私よ―』
ザキリア将軍は鞭を振ろうとした。すると、体に大きな衝撃を感じる。パッと辺りを見回すが、何かが起こっている様子は無い。何かが恐ろしくなって、目を瞑ってしまった。
(つまり、これは私の体内で…)
瞑っていた目を開けると、辺りには鏡の世界が広がっていた。
『なっ…』
後ろから、ドンと押されたような感覚が走ったかと思うと、目の前の鏡に映る自分の周りを数え切れない程多くの黒い硝子のような破片が、舞っているのが見えた。
『闇の衣が…剝がされた?』
(しかも、《光の魔法》とは全く別の魔法で…強力な《光の魔法》以外の魔法では解けないはずなのに…)
よく見ると、鏡側にいる自分は先程まで自分がいた湿地に浮かんでいた。意識を失ったようにぐったりとし、目を閉じている。
(まさか、何者かが私の意識をこの世界に送り込み、闇の衣を打ち破った…!)
この鏡の世界を創り出し、操る事が出来るのはただ一人。ザキリア将軍よりもはるかに大きな魔力を持ち、“孤鏡の舞姫”との異名を持つ闇の三大魔術師の一人、鏡の魔術師シトレアだけだった。
『まさか、シトレア様が…』
その時、ザキリア将軍の意識は現実世界に引き戻され、鏡の世界での記憶は消えてしまった。
『体の動きが遅く…』
メーデルの短剣を避け、鞭を振ろうとしたザキリア将軍の横腹を短剣がえぐる。
『!』
体に鋭い痛みが走る。鞭を取り落としてしまった。思わず地面に膝をついてしまったザキリア将軍の首に、メーデルは短剣を当てた。
『…よくぞやった、メーデル。ザキリア、お前は…』
老魔術師ハクストの声を聞いて、ザキリア将軍ははっと体をこわばらせ、必死に頼んだ。
『…お願いです、ハクスト様。どうか、斬首だけは…』
老魔術師ハクストは絶望と皮肉の意を顔に浮かべながらはっきりと言い放った。
『お前はこのまま将軍を続けよ。メーデル、お前はクレインの右腕となり、暗殺者としてクレインに仕える事とする』
それを聞いた剣士シュテルが膝をつけて座り込んでしまった。手で顔を覆い、すすり泣いていた。
『メーデル…そんな…』
元々、剣士シュテルはメーデルを暗殺者にさせる事には強く反対していた。これまで、護身のためとしてメーデルに剣技を教えてきたつもりだったのである。
『師匠…』
メーデルは短剣を落とし、泣く師匠の姿を見ながら倒れてしまった。鞭で打たれた傷が痛む。彼女は、目を瞑った。
この時のメーデルの記憶は、ここで途切れている。
 




