はじめまして。
何と言い表そう。痛みとは違う何か。言葉では形容し難いそれに、僕は恐怖を感じなかった。
そして、そこにある違和感を覚え、僕は目を覚ます。
「っ…はっ…はぁ、はぁ」
呼吸は浅い。身体からはバケツに入った水を頭から被ったくらいの汗が噴き出している。
「せ、成功した…?」
驚きだ。本当に成功するとは。これは普通では絶対にあり得ないことが起きたと言っていいだろう。
逡巡しているとある違和感を覚える。それは、目を醒ましたときに感じた首元に対する違和感ではない。あるものが変わってないことに対する違和感だった。
「あ、あー、あーー」
僕は母音の一番最初の文字を発し、もう一度自身の声を確認する。
「な、なんで…?」
そして、枕元にいつも寝る際に置いてあるスマホに飛びつく。
---『5:03』
僕がそれを決行したのは、確か夜。そして日付は僕が彼女と別れた一週間前だった。
僕が戻りたいと願ったのは中学校の入学式の日。僕は中学生の序盤に変声期はきていない。
だから違和感を覚えたのだ。
なんでよりによってこの日に戻ったかはわからないが、願いに反することが起きたのは確か。
「これは、何かの罰なのかな…。」
落ち込んだ。一週間しか戻れていないのなら彼女の気持ちは別れに傾いているだろうし、なによりこれから彼女の気持ちを変えられる自信が僕にはなかった。
結局またあの絶望を味わうことになるのかと思うと、どうしようもない憂鬱が僕を襲った。
「もしかしたらこれは夢なのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。あの時死んだのだって…。僕は長い夢を見ているに違いない。」
「明晰夢だ。」僕はそう解釈した。
思えばさっきすんなり事を受け入れた自分がおかしかったのだ。
だが、疑いが自分の中で完全に晴れたわけではない。
ベッドから出て机の抽斗を開ける。そこには殆ど使わなくなった文房具類が散乱している。
その中から1本のカッターナイフを取り出した。
「ゆ、夢なら…。」
そう、独り言を呟き、僕は小指を机の上に置く。
カッターが3回ほど音を鳴らし、刃を見せる。
刃を第一関節の付け根の上に乗せ、下へ向かって力を入れようとしたが、僕は躊躇った。
「フーーッ、フーーッフーッ!」
呼吸が荒いことに気づく。変な汗もかき、心臓は最速と言っていいほどにまで加速していた。
なぜだろう、自決を図ったときにはあんなに落ち着いていたのに。自分自身この焦りがどこからくるものなのかわからなかった。
もう一度いこうと思ったが、やっぱりやめた。
結局これが現実だと腑に落ちたからだ。
僕はカッターを机に放り、部屋を出る。
もちろんリビングの小さいテーブルに鍋はなく、無機質な印象の部屋が広がっていた。
そのまま台所へ行き、水道レバーを捻る。
流れてくる水を吐水口からそのまま飲んだ。汗をかいていたため喉が渇いていたのだ。
満足いくまで飲み、顔を上げる。身体の隅々まで水が染み渡っていくのを感じた。
食欲はあまりなかったのでリビングへ戻り、テレビの電源をつける。
テレビには朝のニュースが映し出され、今日の天気やら事故の情報を読み上げている。
正直殆ど聞き流していたが、拳銃二丁を保持した者がこの町の付近を現在逃走中と報じられていたことだけ覚えている。
物騒な世の中だ。せめて夜に出歩くのは控えることにしよう。
そう思った矢先、今日大学で講義があることを思い出した。
本来なら今日僕は大学へ行くはずなのだがどうしても行く気にはなれなかった。
寝室のベッドに寝転がり天井を見上げていると、いつの間にか目を瞑って眠りに落ちていた。
□□□
携帯の着信音で目が覚めた。誰か確認するとそこには彼女の名前。
「…。」
出るべきか悩んだ。それは自分が今まともに会話できるかどうかの不安。
自殺を図った要因が電話越しにいる感覚を少し想像したが、悩んでいても仕方がないと結論に至り電話に出る。
「もしもし?」
「あ、はじめまして」
「は?」
「ははっ、驚いた?今日の君にはじめまして~!」
こっちは身構えていたというのにそれは驚くだろう。相変わらず少しだけ変わってるところがあるなと思い、思わず頬が緩んだ。
「元気?」
「まぁ。」
「そっか~。あ、今日どうしたの?風邪ひいた?」
「うん、体調悪くて。何も連絡なしにごめん。」
「心配したよほんと~。夕方まで忙しくて連絡できなかったけど、携帯見たらなんもきてないから死んでるのかと思った。」
「あはは、ご、ごめん。」
実際死んでここにいるのだが、もちろんそんなこと言えるはずもない。今気づいたが、どうやら僕は夕方まで眠っていたらしい。そして彼女は聞いてきた。
「明日は来れそう?」
「明日には行けると思う。」
「そっか~よかったほんと。今日は早く寝るんだよ?あ、友達きたから切るね?」
「ありがとう。また明日。」
「うん、また明日。」
そうして通話は終了した。
彼女は僕との別れを本当に切り出そうとしているのだろうか。電話越しであるとはいえ、そう疑わざるを得ないほどあの子からはその感情が見えなかった。
そんなことで考えを巡らせていると、再び電話が鳴った。友人からだった。
「もしもし。」
「もしもし?変なもんでも食ったか?」
普通そこは体調不良かどうかから聞くのが定石だろう。
「まぁそんなとこ。明日には復帰できる。」
「そうか、ところで今から河川敷これるか?」
「ほぼ病み上がりだってわからないのかよ…。」
「どうせ一日寝てたんだろうから大丈夫だろ。つべこべ言わずに早く来い。」
「はぁ。」
「すぐ来いよ。」そう友人は言い、通話を切った。面倒くさいと思ったが、外の空気を吸いに行くついでだと思うことにしよう。