闇の底より這い出たモノ
宙に浮かんだアイを見据え、即座に『術式知覚:視界』を発動する。
アイの背後に影の様な物を確認。召喚では無くどうやら具現化、物体を一度魔力に分解し、再構築する術式である事を確認する。
気色の悪い色の筋肉で編まれた、長い足がアイを捕える。アイの背後に現れたのは、昆虫の足を持った細身の影だった。
足が後ろからアイの細い体を抱き寄せる。その足を伝って、蛆や百足がアイの白い肌に這い寄るのが見えた。
「お久しぶり……で良いのかな?」
無数の虫の生理的嫌悪感に意識せずとも表情が歪む。言葉にも形にも、魔力ですらもない、言外のプレッシャーが僕の背筋に冷や汗を流す。
「「あ」あ、「「そう」だな、おひさ」」しぶり。「余」の名「「は」ベ「ィ・ル」ー「・」「「ズ」ィー」。「「気」楽に」呼「「「ん」で」く」れたまえ」
どんな芸当なのだろう? 無視の羽音を束ねたかのような不快な雑音が『意味』を持った言語として耳に伝わる。
不快感を露わにしながらも、近くに置いていた『粉砕する者』の柄に手を掛ける。
凶悪な刀身が露わになり、目の前の悪魔の血を吸わせろと冷ややかな輝きで僕に訴えかけた。
「挨拶もそこそこで悪いんだけどね、口をつぐんで元の世界へ帰ってくれないかな? その声ね、君達の世界では普通なのかもしれないけど、僕達からすれば捻りつぶしたくなるほど不快でしょうがないよ」
安い挑発。この程度で乗ってくるような奴ならそんなに怖くも無いのだが、やはりそうな行かないようだ。
「「「ふは」はは」は「ははは「は」ははは」……「じゃあ」「これで」どうかね?」
見る間に声がチューニングされていく。意外と芸達者な悪魔の様で、今の短い台詞の間に、可愛らしい女の子の声を作りやがった。
だけど、そんな声を聞いても僕の心の中に生まれるのはどうしようもない不快感だけだ。
周りの客は最初こそこの異常事態が理解できなかったようだけど、アイの体を這いまわる無数の虫を目撃した瞬間に、蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。こう言う時に生理的嫌悪感って便利だなぁと痛感する。
「悪いけど、どんな声だろうと関係無いね。この世界から消えろ」
「あははははは、酷いな? この街で入手できた情報では一番人気の人の声と言うヤツなのだがな? これは」
話は通じないと判断、実力でアイを取り戻す。
その場で加速、予備動作は無し、完全に虚を突く形で間合いを零に。
切りに行くと見せかけ、手を伸ばしてアイの細い手首を掴む。
このまま引き寄せてっ!
「駄目っ!」
しかし、その手は拒絶の声と共に、アイによって振りほどかれた。
驚愕する僕の耳元に、勝ち誇った悪魔の声が転がり込む。
「そう、彼女は君と約束を交わしたのと同じように、余ともまた、契約した。そして、君と主の契約は終わってしまったが、余と主の契約は完璧に履行された。すなわち……主は今、私だけのモノだ」
間合いを一歩離す。僕が居た場所に、一瞬遅れて蟲の群れが湧いた。
「楽しかったよ、君と主の間にあった、ほんのひと時のすれ違いは……とても陳腐で戯曲的な内容だった、これは褒め言葉だ、勘違いするなよ?」
僕の目の前で、離れかけたアイの体を再び虫が引き寄せた。
その悪魔を形作るのは、蛆虫に百足、蠅にゴキブリ、蛞蝓と後は名前も解らない無数の気色悪い虫たち。……それらが絡み合い、アイをとらえているその様、胃の裏側から灼熱の怒りと吐き気が込み上げてきた。
しかしそんな僕にお構いなく。饒舌な悪魔は続ける。
「実の所、主との契約を機に貴様の事は知っている。主との過去も、当然な」
奥歯が鳴る。『粉砕する者』を握りしめた手が震える。
コイツは間違いなく敵だ。それも、人の領域にズケズケ勝手に入り込んでくる、最悪の種類の敵だ。
「いやぁ……あの時、夜の街にて余の邪魔をした貴様の顔を見た瞬間、まさかこのような運命の巡り合わせがあるものかと本気で驚いたよ」
人を心底馬鹿にした声で、虫が喋りかける。
「君と主の約束が壊れたあの時、君は主を……」
「黙れよ、クソ虫」
とうとう堪え切れなくなり、言葉が唇を付く。
僕には虫の表情なんて見えないけど、もしそんな物があったとしたら好物を見つけて、極上の笑顔を浮かべてやがるだろう。
「あ、はは、コレはコレは。君は、責任感から主を守ろうと思ったのだろう? 良いのか? 騎士様がそんな、関係者に多少痛い所を突かれたぐらいで怒りに身を任せて。
まぁ、だからこそ、余の遊びも幾分面白味を増すという物だがな」
「お遊び?」
「そう、余なりの遊び心というものだ。主と君のひと時の逢瀬と終わりは、非常に愉快な幕間劇だった」
悪魔が語る。
大仰に、愉し気に。
その言葉は戯曲めいていて、その光景は悪夢めいている。
一方の僕はというと、自分の腹の底に巻き上がる黒い感情を押さえるのに、理性の全てを総動員中。
「本当に最高だ、実に良い。
君は責任を感じてたようだったが、それはどこに向けてたのかね? 主は全てを忘れていると知っていたろうに?
論理的に考えれば、彼女がやり直すのにあの地獄の様な記憶も、過去も必要ないものだ。君はそれを自分勝手な自慰の為に掘り起こしたのか?」
「答えない変わりに聞くけど、そんな下らない事を聞きたくてノコノコこの場にでてきたのか? お前」
「まさか……『知ってて』聞いたし行ったに決まってるだろう? 余がこの遊び場に呼び出される条件は『貴様が約束についてをアイに語る』事だった。
君は思惑通り、主にとって最悪の記憶をその手で掘り起こしてくれたわけだ。無意味な行いでは無いかね? ……アイが全てを失っていたのだから、最初からやり直せば良かった物を」
「どうやら、お前は本当にくだらない嫌味を言うためだけに出てきたみたいだね。心底呆れるよ」
「おっと、勘違いはするなよ。余は遊び心こそあれ、完全に無駄な事は好まん。繰り返すが唯の遊びだ。主と契約した時に観た『あの時』の君の顔が実に良かったのでな、そこに『楽しむ』という意味を見出しただけのこと」
虫が言葉を切る。ざわざわと虫がざわめき、大仰に群体が震える。
「あの顔、迷いと歪みと苦痛と……いや! こんな綺麗な言葉で語るのは君に失礼だな! 自己満足! 死への恐怖! 明日を生きる為の生贄! そして自分の心を繋ぎとめるための自責!
涙で汚れて血を吐いて、主を捧げ喰らって『嗚呼生き残って良かったな』では無い。君は絶望した! 人として、主を捨てた事実に嘆き、絶望した! 何よりも雄弁にその表情で語ってくれた!」
不思議な気分だ。僕の中でとうとう一周した怒りのせいで、逆に頭が芯まで冷えてきた。
だけど、血が熱い。脈打つ鼓動の一つ一つが熱になり、こいつを殺す動力として全身に送られる。
憎悪が僕の心に影を落とし、生まれた殺意に僕の体内の全細胞が歓喜して震える。
「君はどこまで人間なのだ? 人は何よりも簡単に人を止める、修羅も羅刹も鬼も悪魔も、定義するのは何時だって人間。どこまで行っても『ひとでなし』など『人間』にしか存在しない。
なれば聞こう。君は何故、人として主に声を掛けた? 君は何故、人として彼女を見捨てた事を後悔した?
安穏たる日々に生きたものであれば解る、唯の人として生きただけだ。
しかし君は違う! 何故、あの中で修羅として生きて尚、人間らしく生き、迷い、嘆いたのだ? 何が貴様を最後まで人にした?」
好き勝手ほざきやがって、大人しく聞いてるこっちの身にもなれっていうんだ。
……まぁ、それが勝つ為ならば我慢が必要なんだ。もう少しだけ、もう少しだけ我慢して、会話をしないと。
「どうせ最後なんだし、答えてやるよ」
そろそろ始まるだろ。この乱痴気騒ぎはここら辺でお終いだ。
「あえて理由を答えるなら、それは僕が一度も『僕は人間である』なんて意識して生きたことが無かったからだよ」
虫どもを睨みつけ、静かにだけど、だけどハッキリと言ってやる。
虫が群れを震わせる。もうこれで終わりだ。
「じゃあね、クソ虫、最初の警告で消えなかったキミが悪い。そのまま死ね」
その瞬間、横合いから光が飛び込む。光の線が虫の群れを消し飛ばしフードコートの反対側に突き刺さって建物の反対側に突き抜けた。
光の先に目を向けると、敵の知覚を逃れるために、フードコートの反対側からイリスが虫の群れに真っ直ぐ魔杖を向けているのが見えた。
杖の先のサリエルⅨが過剰演算で煙を上げている。杖に内蔵されている魔力を凝縮した結晶体、珠晶石が魔力を使い切り、輝きを失ってチャンバーから排出され、固い音と共に床を転がった。
「最大出力の『魔力砲撃:偽・煉極災杖』をアレだけ絞るとは、ね。我が相棒ながら凄いな、アイツ」
本来なら広範囲の敵を超高熱の熱線で焼き払い殲滅する、大群殲滅用の超火力攻撃術式であり、イリスの切り札の一枚である。
攻撃範囲を絞る為には自身の魔力で無理矢理収束するしか無い為、今みたいに範囲を限定しようとすると、出力に二乗して術者の魔力を食いつぶす。
……つまり、アイを巻き込まないようにしつつ、あの虫の群れ全てを吹き飛ばそうとするとかなりの魔力を消費している筈なんだけど、彼女はしっかりとやってくれた。
……うん、正直『魔力砲撃:偽・煉獄災杖』なんて言う馬鹿みたいな超火力砲撃魔法をするとは思って無かったけど。
まぁ効果はあった、魔力の光とその周囲の高熱によって虫の群れは九割近くを消し飛ばされ、残った僅かな羽虫の類が僅かにアイの周囲を飛び回るのみになった。もちろん、そんな物で人間の体重を支えられる筈も無く、アイの体が糸の切れた人形の様に落ちる。
彼女の背中についた火傷の痕が痛々しいけど、それはすぐに直せる。今は彼女を助ける方が先だ。
「アイッ!」
駆け寄る。一歩、彼女の元へ。
しかし、そんな僕の所に。
もう一人、少女が割り込んだ。
「何だっ!」
『粉砕する者』で応戦。少女は何の抵抗も無く真っ二つにされ、吹き飛ぶ……前に気色の悪い肉と、無数の蠅、蛆が集まってその間をつなぐ。
「ケイ! こいつらの体ッ!」
叫ぶイリスの射線上に更に一人、砲撃の盾になるべく前に出る。
「コイツらがっ!」
やっぱりまだ仲間がいたのかっ!
その後ろでは、アイが自分の足で立ち上がるのが見えた。
「ははははははっ! やってくれるっ、まさか砲撃術式で狙撃してくるとは! すまんなぁ、私が油断していたよ!」
声が聞こえる。くそっ! アレだけ吹き飛ばしてもくたばらないのか!
「さて、話がずれてしまったようだな、遊びの話に戻ろう。もう一つのお遊びはこれからの行動だ。余達の用意した壇上がどこにあるのか、君も含むでそろそろ魔術師共も気が付く頃だ。そうすればどうなるか、予想のつかない君でもあるまいよ?
予言しておこう、余は昏き地の底の中央、泥沼の玉座に座し、行動を開始する。主もまたそこに居る。人ならざる、人の中の人、貴様の返答を行動にて問おうぞ」
肉塊を切り捨てながら舌打ちする。視線の先では、アイが踵を返してここを去ろうとしているのが見えた。
「アイィィィィィィィィィィィィィィィィィっ!」
叫ぶ、アイは最後にこちらを見て、悲しそうに呟いた。
「ねぇ、ケイ。何で、私の友達……殺そうとしたの?」
「アイっ! そいつらは悪魔だっ! こっちに戻って来いっ!」
僕の言葉に、アイが不思議そうな顔で首を傾げた。
「ケイ……悪魔って何? ケイが私に優しかったのと同じくらいに、この人も優しか
った、それって、何か悪いの?」
唸る肉塊の触手を切り裂いて、叫び返す。
「違う! 違うんだよアイ! ソイツは君を利用して! 役立てようとしてるだけだ!」
僅かの間、そして、答え。
「そんな事、彼が優しいから、いいの。ケイと、おんなじ」
「………………っぁ!」
その言葉に、僕の中で次の言葉が凍って消える。
その間に、アイは蠅どもが生み出す闇の奥に消えていった。
「くっそぉ! アイ! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアイッ!」
叫び声が木霊する。答えは意味の解らない、肉塊の叫び声だけだった。




