11:クッキーを食べる婚約者
手作り。ということは、これはクラリッサが作ったのだろうか。
見た目は普通のクッキーだ。手作りなのがわかる、少し形が歪んだ、平凡なクッキー。
「わたくし初めて料理をしましたのよ! 始めは黒ずみを生み出しましたけれど、三週間でようやく形になりましたの」
初めてというのは本当のことだろう。お金持ちのお嬢様であるクラリッサが料理をする必要はない。頼めばすべてしてくれる使用人がいるのだから。
しかし、これは本当にクラリッサが作ったのだろう。クラリッサの手には丁寧に手当てされた傷がいくつかある。クッキーにはチョコレートが入っているのが見てわかる。これを入れるために包丁を使ったのだろう。
チョコレートが好物だと、以前ぽつりと漏らしたことを、覚えていたのか。
それを告げたときは、クラリッサはアルバートにあんなに興味を持っていなかった様子だったのに、何気なくした会話を覚えていたのか。
アルバートはらしくもなく、気恥ずかしい気持ちになって、差し出されたクッキーを口に入れた。
「…………」
アルバートは無言になった。クラリッサはキラキラした瞳で見つめてくる。
「……美味しいよ」
アルバートが絞り出した声でクラリッサに告げる。笑顔のおまけはできなかったが、アルバートの一言に、クラリッサは喜んだ。
「まあ! 嬉しいです! 頑張って作った甲斐がありましたわ! では、私もおひとつ」
「あ、待った!」
クッキーとひょいっと指で持ち上げたクラリッサを、アルバートは慌てて止めたが間に合わず、クラリッサの手作りクッキーは彼女の小さな口の中に放り込まれた。
「!」
クラリッサが驚愕で目を見開いた。
「しょっぱああああああああああい!」
いつもの上品さをかなぐり捨てて叫ぶクラリッサに、アルバートは静かにテーブルに置かれていたお茶を差し出した。
クラリッサはゴクゴクと喉を鳴らしてお茶を喉に流し込み、あっと言う間に飲み干したが、その表情はいまだに渋い。眉間に寄せた皺を自らの指で伸ばしながら、重い口を開いた。
「なんですの……今まで食べたものの中で一番しょっぱかったですわ……」
理解できないと首を振るクラリッサに、アルバートは静かに事実を告げた。
「砂糖と塩を間違えたんだろ」
「そ、そんな……!」
クラリッサが絶望の表情を浮かべたとき、皿を持っていた侍女が皿を抱えたまま跪いた。
「申し訳ございませんお嬢様ー! もう味見をするのが嫌で嫌で嫌で見た目と作業工程を見て大丈夫だと判断してしまいました! どうかお許しくださいいいいいいい!!」
プルプル小鹿のように震える侍女に、その動きに合わせて震える皿とクッキー。ちょっと面白いなと思った自分が噴出さないように、アルバートは今夜のラッセンガル家の貧相な夕食を思い描いた。悲しくなった。
「あなた、いつも怯えているのに手を抜くなんて、なかなか根性ありますわね……」
クラリッサが青白い顔をしながら侍女を見つめる。多分クッキーのせいで気分が悪いのだろう。
いまだに皿を掲げてプルプル震えている侍女は涙目になりながら口を開いた。
「だって全部とんでもなくまずかったんですよぉ……」
思い出したのかしくしく泣き出した。
クラリッサはバツが悪そうに唇を尖らせた。
「……仕方ないでしょう……作ったことなかったんですもの……でも悪かったですわね、ずっと味見をさせていましたものね……ごめんなさい」
少しばかり肩を落としながら、クラリッサはエイダに謝罪した。アルバートはそれには目を瞬いた。アルバートの驚いた表情に気付いたクラリッサが目を吊り上げた。
「なんです、わたくしだって謝ることぐらいします」
「い、いや、そういうつもりじゃ……」
そういうつもりじゃないと言いながら、正直謝ることを知らない高飛車お嬢様だと思っていた。
――そうか、人に謝ることができる金持ちもいるんだな。
アルバートはいつの間にか持っていた自らの偏見を恥じた。
アルバートに接してきた金持ちは、皆一様に高飛車で傲慢で、使用人は顎で使うような人間ばかりだった。そうした人間を見ているうちに、いつの間にか、金持ちはそういうものだと思い込むようになってしまっていたのだろう。
クラリッサのことも、鼻持ちならないお金持ちのお嬢様という目でしか見ていなかった。
――この子は、今まで見てきた金持ちと違う。
性格はよくはないけれど、人間をむやみやたらと下には見ていない。もしそうなら自らの侍女に謝るなどしない。
「アルバート様?」
物思いにふけっていたアルバートの顔をクラリッサがひょいと下からのぞき込み、綺麗な水色の瞳とかち合って慌ててアルバートは体を離した。
「うわあああ! クラリッサ! むやみに顔を近付けるんじゃない!」
「まあ」
顔を赤らめて距離を取ったアルバートを見て、クラリッサは嬉しそうに両手を合わせた。
「わたくしにトキメキましたのね? 安心してくださいませ。わたくし、好いた殿方以外には顔を近付けないどころか近付いたらぶん殴ります」
「それはそれでやめろ」
クラリッサが自信満々に拳を握りしめて掲げた手を下げさせようと、アルバートがその手を握ると、クラリッサが嬉しそうに微笑んだ。
「うふふ、手をつないでしまいましたわ」
「これを手を繋いだに数えるな」
照れくさそうに言うクラリッサからアルバートは手を離した。クラリッサが不満そうに頬を膨らませたが見なかったことにする。
「今回は失敗しましたが、待っていてくださいねアルバート様! わたくし最高のクッキーを今度こそ作って見せますわ! リベンジです!」
アルバートが握った手をすりすりともう片方の手で撫でまわしながら、クラリッサは高らかに宣言した。
「やめろ!!」
アルバートの本気の怒声が屋敷内に木霊した。
 




