10:会いに行く婚約者
……何もしてこない。
アルバートはそわそわしていた。父や母に至っては絶望している。
三週間ほど前、アルバートを振り向かせると啖呵を切ったクラリッサが、会いに来なければなにも仕掛けてこないのだ。
……強く言い過ぎただろうか。
アルバートとて、クラリッサは条件的には理想的な結婚相手だ。美しい少女であるし、博識でどの貴族に嫁いでもいいだろうに、こんな貧乏貴族に嫁いできてくれると言う。
しかも、自分を好いていると言うではないか。演技をしていない、そのままのアルバートを。
アルバートだってわかっている。拒否するべきところはなにもない。
ただ単純に、怖い。すごくグイグイきて怖いのだ。
いつか結婚するにしても、まだ少し先延ばしにしたい、それが正直な気持ちであった。
「アルバート……私たちは見捨てられてしまったのかしら……?」
母が憔悴した様子で訊ねてくる。
クラリッサから連絡がなくなって、もうだめかもしれないと思っているらしい。実際クラリッサに見捨てられたら我が家は終わりだ。
鉱山や領地も手放し、貴族としてではなく、平民として生きることになるだろう。
アルバートは、もうそれでもいいのではないかと思っているが、父と母は貴族というものに誇りがあるらしいので、できればこのまま貴族でいたいという夢を叶えてあげたいとは思っている。
「アルバートォ! 会いに行きなさい!」
父がアルバートの背中を叩いた。痛いと思いながらアルバートは背中を摩る。絶対手形がついている。
「クラリッサ嬢に嫌われるわけにはいかないんだよぉ! アルバートォ!」
「わ、わかったわかった! 会いに行くよ!」
中年のおじさんの泣き顔は見たくない。アルバートは鼻水まで垂らしながら泣く父に引きつつ、頷いた。
どのみち、会いにいかなければいけないとは思っていたのだ。
父と母が目に見えて顔を輝かせるのに気付いて、人知れずため息を吐いた。
◇◇◇
あのクラリッサと観劇に行って以来、訪れていなかったクラリッサの実家にアルバートはいた。
正確にはその門前で佇んでいた。
なんとなく訪れにくく、またどういった態度でいればいいのかわからず、足が遠のいていた。
父と母のために来てみたはいいが、ここまで来てアルバートは躊躇っていた。できれば会いたくないなあと思っている。
しかし、そういうわけにもいかない。結局クラリッサはアルバートの婚約者で、結婚してもらえないとこちらが困るという間柄なのだ。
アルバートは意を決して足を進めた。
門の前には警備の人間がいる。その人間はアルバートに気付くと、快く門を開けてくれた。
入ってしまった。もう逃げられない。
クラリッサが元に戻っていることを祈り、いや元のクラリッサはそれはそれで嫌だなと気付き、祈るのをやめた。
家の中に入ると、玄関で待ち構えていた執事によって、応接室に案内される。商談で使用する部屋でもあるとのことで、室内は広く、清潔で、調度品も上品だ。今腰かけているソファーも、アルバートが買うことなど絶対できないであろう高級なものであるのがわかる、最高の座り心地だ。
――うちのベッドより気持ちよく眠れそうだ。
切ない気持ちになりながらふかふかを堪能する。ふかふか、ふかふか。
アルバートはそのままソファーに横になった。
今までもアルバートはこの素晴らしいソファーをこうして堪能していた。疲れた体に沁みる優しい弾力。ありがとう、高級ソファー。ありがとう、お金持ち。
どうせクラリッサはドレスに着替えたり、化粧を整えたりで、準備に時間がかかる。だからこうして休むことができた。時間は大体三十分ほど。少し休むには十分だ。
アルバートは壁に掛けられている意匠の時計をちらりと見て、時間を数える。ああ、このまま眠ってしまいたい……。
アルバートは毎日働きづめで疲れていた。
――あと十分も休める。
そう思ったとき。
「アルバート様、お待たせいたしましたわ!」
まさかのクラリッサが元気に扉を開け放って入って来た。
当然アルバートはソファーで横になったままである。よその家でしていい姿でない。
アルバートのくつろぐ姿を見て、クラリッサは目を見開いた。
まずい。まずいぞ。
アルバートはすぐさま起き上がり、姿勢を正した。
そして何事もないように笑みを浮かべようとし――
「素敵ですわアルバート様!」
浮かべようとしてクラリッサの歓声に頬が引き攣った。
「す、素敵……?」
「ええ、素敵です!」
クラリッサはうっとりとした表情でアルバートの傍まで歩み寄った。
「そのくたびれた哀愁漂う男の姿! いい! いいですわ! 疲れ切った働く男の匂いがしますわ!」
クラリッサは目を輝かせて力説するが、残念ながらアルバートにはまったく理解できなかった。理解したくもなかった。
「……クラリッサ嬢」
話を変えたくてクラリッサに声をかければ、クラリッサがまあ、と口に手を当てた。
「もうアルバート様ったら。クラリッサとお呼びくださいな」
「……いや、あの、クラリッサ嬢」
「クラリッサと」
「クラリッサ嬢話を」
「ク、ラ、リ、ッ、サ、と!」
「わかったわかった! クラリッサ!」
アルバートが根負けしてクラリッサを呼び捨てにすると、クラリッサはそのなだらかな頰を桃色に染めた。
「嬉しいですわ」
アルバートは呻いた。
そう、クラリッサはとてつもなく美しく愛らしい見た目の美少女なのだ。その美少女に水色の瞳を潤ませ、頬を桜色に染め、うっとりした表情を浮かべられると、さしものアルバートもクラリと眩暈を感じた。
が、すぐに変な女だったと思い出し、気を取り直した。
「クラリッサ……その、三週間どうしていたんだ……?」
アルバートは、クラリッサはすぐに何か行動に移すだろうと思っていた。しかし、実際は三週間音沙汰なし。そして両親に尻を叩かれたアルバートがこうして会いに来た次第である。
ちなみに王子様の仮面を被っていた間は、アルバートのほうから一週間に一回は会いに行っていた。
「うふふ……知りたいですか?」
「いや別に」
「知りたいですわよね!」
クラリッサはアルバートの言葉を遮った。アルバートはその勢いに引きながら頷いた。
アルバートが頷いたのを確認したクラリッサが指をパチンと鳴らすと、侍女がさっと現れた。前にアルバートの家でアタッシュケースを差し出してきた侍女である。
その侍女は、今度はアタッシュケースの代わりに、皿を持っている。その上にはクッキーが載っている。
これがなんだ? とアルバートが首を傾げると、クラリッサはふふんと胸を張った。
「手作りクッキーでございます!」




