第8話 動揺
「そなたには、驚かされてばかりだ」
蒼纏に帰還したのち、炎寿は大成王の褒詞にさらされた。
それもそのはずで、山梨軍との兵力差を考えれば撃退するのには時間がかかる、と大成王はみていたからである。
にもかかわらず、炎寿は赤子の手を捻るような容易さで山梨軍を撃破し、さらに山梨国主に都下の残党を処刑させて帰ってきた。
喜ぶなというほうが無理な話であろう。
「宴だ、宴の用意をせよ」
無邪気にはしゃぐ大成王の一声で、炎寿のための酒宴が再びひらかれることになった。
そこには前回と同じく大成王の正妃とその子らも出席し、このときの伯凰と伯鳳は7歳である。
以前と比べて伯凰についてはこれといった変化はなかったが、伯鳳については火の霊力を発現するという大きな変化があった。
そんな伯鳳をみて炎寿は、
――ひとつ、成長されたのだな。
と、しみじみ感じた。
伯鳳が群臣から嘲笑われていた原因の1つに、霊力の属性をもっていないことがある。
それを克服しようと思えば、多大の努力を要することなど想像するに難くない。
何事も得ようと思って行動すれば苦しく、投げ出したくなる瞬間もあったはずである。
にもかかわらず、伯鳳は逃げ出さずに最後までやりきった。
そこには伯凰の補助があり、それなくして完遂することは難しかったという者もいるだろうし、それはその通りかもしれない。
しかし、伯鳳の変わりたいという意思があったからこそ努力は形になったのであり、わざわざ他の物事を持ち出してまで否定する必要はあるまい。
「ひとつ、お願いを申し上げてもよろしいでしょうか?」
大成王の子らから酒を勧められる儀になったとき、炎寿は願いがあると申し出た。
大成王は無言で頷き、許しを得たと考えた炎寿は、
「この国は、この15年で大きく変わりました。建国の頃より国土は拡がり、それにつれて多くの民が住むようになりました」
といい、続けて、
「決して大国とはいえないこの国は、時勢に翻弄されながら今後も変化してゆくでしょう。そこで太子はもちろん、伯凰様と伯鳳様がこの国をどのようにしてゆきたいのか。酒坏を頂戴するまえに労いの代わりとして、ぜひお聞かせ願いたいのです」
とも言った。
子である炎心の年齢をみれば分かるように、炎寿は決して若いとはいえない年齢である。
人の寿命は永遠ではなく、その人生にはいつか必ず終わりがやってくる。
炎寿の場合、それは50年も100年も先の話ではない。
むろん10年以内には⋯⋯といった明確な話でもないが、国政に携わる者の尺度からすれば、10年という時間でさえ瞬きする間に過ぎ去ってしまう。
それゆえ炎寿は近頃、
――あと、どれほどのことが出来るか。
そのように考え込むことが増えた。
炎寿が死んだとしても大京国は無くならず、そこで生きる人々の生活は続いてゆく。
その人生が実り多きものであることを願い、それを実現するために為政があると信じている炎寿としては、次代の担い手である大成王の子らの考えを知りたかったのである。
「実に興味深い。太子から述べてみよ」
炎寿の問いは大成王にとっても興味があったらしく、酒宴の和やかな雰囲気が一転して厳粛なものへと変わった。
このときの大成王は、父親として太子をみていなかったはずである。
太子を次期国王として扱い、現国王としてその意中を探ったと考えたほうがよい。
それに勘付いた太子は姿勢を正し、炎寿のほうを向いてみずからの考えを述べた。
「社稷を安らかにせんと欲せば、関東を制覇する必要があると考えます」
社稷とは国家と同義語であり、太子は軍拡によって国力を強大化させ、関東において覇を唱えることが繁栄につながると言ったのである。
それについて炎寿は、民が強いられる犠牲や負担を問うたが、
「犠牲を伴わない発展や変革はありません。国として補償する姿勢を示せば、民は理解してくれるでしょう」
「太子の国を思うお気持ち、よく分かりました」
あくまで軍事力によって国を発展させてゆこうとする太子の考えを、重ねて知るだけの結果になった。
炎寿が問いを止めたのをみて、大成王が次に発言を促したのは伯凰である。
伯凰の考えは太子ほど強硬ではなく、近隣諸国との外交も視野に入れていたものの、その根底には同じく軍拡があった。
それゆえ炎寿の問いも似たようなものになり、ここでも、武威をみせて従わない国は征伐するしかない、という伯凰の考えを重ねて知る結果となった。
最後に残ったのは、伯鳳である。
大成王は伯鳳が人前で発言するのを好まないことを知っているだけに、前の2人の時とは違って、
――答えたくなければ、答えずともよい。
という、父親としての思いやりをみせた。
そのため伯鳳が黙ったまま俯けば、炎寿の問いは伯凰までで終わったはずである。
けれど、
「民を愛し、民に愛されれば、いかなる困難に見舞われようとも国は滅びません。逆に民から見放されれば、極限に達した栄華も一朝にして瓦解するでしょう。自国・他国を問わず民を慈しみ、その未来を明るいものにできれば、天下の人材はこぞって我が国を目指し、諸国もそれに倣うのではないでしょうか?」
伯鳳は俯かず、はっきりとみずからの考えを述べた。
この芯を感じさせるような言動は、伯鳳の面倒をみている伯凰に不思議さを抱かせ、大成王には、
――末子が天下を述べるとは。
と、つよく興味を抱かせた。
そのせいであろう。
太子と伯凰のときとは違い、
「炎寿よ、末子の意見についてどう思う?」
大成王は、わざわざ炎寿に発言をうながした。
意見を求められた形になった炎寿は、
「他国を優遇すれば自国の民から恨まれ、自国を優遇すれば他国から謗られます。理想は方途がなければ実現せず、伯鳳様の掲げるものは空論にすぎません」
なんと太子や伯凰のときとは違い、その意見をばっさりと切り捨てた。
炎寿とすれば、ここで伯鳳が引くのであれば、やはりその意見は空論に過ぎない。
声高に理想を叫ぶだけで、行動しないという人間は五万といる。
そういった人種は常に他責思考であり、ろくに努力もしないくせに、自己が正当化されない環境では不満を漏らす。
みずからの非を認めることは決してせず、そのせいで周囲が困難に直面しても助けてもらうのが当然であり、どこかそのために他人が存在していると盲信している節さえある。
そのような者が掲げる理想は、周囲を不幸にすることはあっても、幸せにすることはない。
だからこそ、理想というのは難しい。
一国の運営に携わる者であれば尚の事であり、行動を伴わない無責任な人間が廟堂に上がれば、その国は一朝にして瓦解してしまう。
宰相として廟堂に立ち、次代のための礎となる者として、炎寿は伯鳳に先に挙げた人種とは違うということを、ここでも行動をもって証明してほしかった。
それゆえ、あえてその意見を切り捨てたといってよい。
「国家の宝は自国の民であり、それを優遇するのは当然のことです。それを謗る国があれば毅然と対応すればよく、その意見に慄いて宝を手放すなど有り得ません」
炎寿の考えを察して動いたわけではあるまい。
けれど伯鳳は引かず、その行動は炎寿の願いを満たした。
「武力に訴えることになったとしても、ですか?」
「1度目を許せば2度目があり、2度目があれば3度目がある。気に食わないという者がいて、武力でしか解決できないのであれば躊躇うことはないでしょう。やみくもに振り回すのではなく、使うべき時に使うのが武力ではないでしょうか? そのためにも内を固めるべきであり、そこに乱れがあっては外に力を向かわせるまでに自滅してしまう」
「なるほど。良きお考えかと存じます」
そう言いつつ、炎寿は大成王に向けて頭を下げた。
それは確認すべきことは確認できたという証であり、それをみた大成王は、
「それぞれの考え、興味深く聞かせてもらった。我が国の発展ため、今後も研鑽に励むように。⋯⋯さて、それでは炎寿には酒を飲んでもらおうか。これをせぬと宴が終わらぬ」
中断していた功臣に酒を勧める儀を再開させた。
まず太子が酒を注ぎ、それを炎寿が飲み干したのをみて伯凰が注いだ。
伯凰の酒が飲み干されれば、次は伯鳳の順番である。
前回の宴のとき、伯鳳は酒を注ぐときに上手く労いの言葉を紡げなかった。
それによって群臣から不審の眼差しを向けられたことは、記憶に新しい。
けれど今回は労いの言葉の代わりとして、先に炎寿の願いを叶えている。
それゆえ、前回のようなことは起こらない。
そう考えて半ば安心していた伯鳳であるが、
「こちらは頂けません」
「え⋯⋯」
炎寿は伯鳳の想定内には収まらず、その行動はにわかに場をざわつかせた。
困惑する伯鳳をみた大成王が、
「炎寿が要らぬというのであれば、末子のは余がもらおう」
と、咄嗟にその酒杯を飲み干したことで場を取り繕ったが、炎寿によってもたらされたこの小さな異変は、そのまま消え去るようなものではない。
なにせ以前の酒宴においても、炎寿は伯鳳の酒杯だけを受け取っていない。
それが今回も⋯⋯となれば、そこに何かあると考えるのが普通である。
そのため翌日には早速、噂好きの臣下達のあいだで格好の話題となり、瞬く間に宮中に広まった。
やがて、憶測などが入り混じったこの噂は、大成王の耳に届くまでになった。
苦い表情を浮かべた大成王は、すぐに炎寿を呼びつけた。
むろん、伯鳳への態度を問いただすためである。
振り返ってみて、これまで臣下が伯鳳についてとやかく言おうと、大成王は静観を決め込んできた。
それは伯鳳の行動が原因となっていたためであり、将来的には伯鳳を王佐として廟堂に上らせたい、という考えが大成王のなかにあったためでもある。
そのためには伯鳳が自力でその価値を臣下に認めさせる必要があり、であれば大成王が下手に動くわけにはいかないであろう。
だから前回の酒宴で、炎寿が伯鳳の酒杯を拒んでも見て見ぬふりをした。
しかし、今回は違う。
大成王からみて、今回は伯鳳に落ち度があったとは考えられない。
みずからの要望を満たさせておきながら、一方的に伯鳳の威信を毀損させた炎寿に原因があるといってよい。
「1度ならず2度までも、末子の酒杯を受け取らなかった理由は何か?」
炎寿が姿を現すと大成王は不快感を露骨にしながら、その非を詰った。
遁辞を許さない、という厳しい目容である。
これほどまでに不機嫌な大成王というのは珍しく、下手なことをいえば首を飛びかねないという恐怖心から、並みの臣下であればまともに口を開くことすらできなかったであろう。
しかし、そこは炎寿とでもいうべきか。大成王の怒りにさらされても平静さを崩さず、
「お答えするのはやぶさかでありませんが、その前に史官を呼んでいただきたく存じます」
と、史官の同席を願い出た。
史官とは朝廷における記録官であり、その職務は朝廷内で起こったことを巨細なく記録し、保管することにある。
つまり史官に記録されたことというのは大京国が存続する限り、将来にわたって歴史として残り続けるということである。
史官が記録したものを消させるのは難しく、ゆえに大成王は眉を顰めたが炎寿が口を開きそうもないことから、史官を呼ぶために側近を走らせた。
やがて史官がやってくると、大成王は改めて炎寿に行動の真意を問いただした。
それに対する炎寿の答えは大成王が予想だにしなかったものであり、未来を知る者からすれば僅かに歴史が動いた瞬間でもあり、それほどの衝撃を秘めていた。
「伯鳳様の名にある伯とは覇のことであり、鳳とは鳳凰のなかでも雄のことをいいます。伯は覇者に通じ、鳳凰は王者にのみ許される象徴です。名は体を表すと言われるように、さきの酒宴での伯鳳様のお考えは天下を主宰する者の考えそのものでした。いつの時代であっても多数を思いやって輯睦を忘れない者こそが民の主であり、万人が慕い寄る徳器とは努力の果てにあるものです。杯を受けるということはその志をも受けるということであり、であればどうして私ごときが伯鳳様の杯を受けられましょうか」
この発言には、炎寿の思想が色濃く表れている。
壮年期を終えようとする炎寿は、これまで様々な人をみてきた。
そして、そこには常に不条理であったり、理不尽が溢れていた。
易しさは少なく、辛さがあった、といってよい。
努力する者は苦しみ、怠ける者は愉しむ。
もっといえば、努力する者は泣き、怠ける者は笑う。
炎寿が見てきた人の世とは、そういうものである。
もしもそんな世で理想を追いかけようと思えば、どうなるか。
一生を費やす大事業となるのは、いうまでもない。
そしてそのほとんどは成就することなく、愉悦を貪る者達の嘲笑の的となって消えてゆくであろう。
では、それらは全て無駄なのかを問われれば、炎寿は決して頷かない。
仮に死して熄むばかりだとしても、そこには必ず残るものがある。
すべての物事に完成がないとするならば、理想にも終わりはなく、それを追いかける人の行いに終わりがあるはずがない。
理想に向かって努力することが生きるということであり、古来よりそこに意義を見いだせる者だけを、成人と呼んだのである。
正しく成人である炎寿は大望を持ち、理想を実現するために努力を欠かしたことはない。
そんな炎寿の目に映った異才は伯凰ではなく、群臣から嘲笑されている伯鳳であった。
炎寿はこの場で、伯鳳こそが自身の志を継ぐ者であると、そう明言したにひとしい。
これには大成王は驚きのあまり暫く呆然としていたが、
「わざわざ、こうする必要があったのか?」
と、絞りだすような声で問うた。
こうするとは、史官まで呼んで記録させたことを指している。
――こんな回りくどいことをせずとも、酒宴の席で言えば済むことだったのではないか。
大成王がそのように考えるのは、ある意味当たり前のことである。
「酒の席での発言と、そうでない発言。衆人の受け止め方は同じではありますまい」
炎寿の答えは、じつに簡潔である。
伯鳳に聞かせるだけであれば、これほどの回りくどさは必要ない。
けれど、頑なに伯鳳を認めようとしない者達に知らしめるのであれば、酒の席での発言では重みが加わらず、やはりそこには仕掛けが必要となる。
大成王は伯鳳が自らの力で群臣からの信頼を勝ち取ることを望んでいたようだが、炎寿からすればそれは無理な話である。
噂というのは膨らめば膨らむほど、本来の意味や目的が希薄になっていく。
それを放置し続ければ、どうなるのか。
事実かどうかは重視されず、単に噂に関わる人間の恣意を満たすだけのものになり果てるであろう。
そうなれば噂されている当人がどれだけ努力しようが打ち消すことはできず、改善しようと思えば第3者の介入が必要になる。
伯鳳についての噂はその段階まで来ていたといってよく、伯鳳に変化の兆しが見えたこの時に、炎寿が動いたのである。
実際、炎寿の読み通り、発言の内容が群臣に伝わると朝廷ではどよめきが起こった。
それもそのはずで、これまで炎寿は公の場で大成王の子に言及することはなかった。
ゆえに群臣は、炎寿の忠誠心は大成王に向けられ、その関心は国事のみに向けられていると考えていた。
それが、どうであろう。
炎寿は全ての人の意表を突くようにして、伯鳳に関する評判を真っ向から覆す発言をしたのである。
卓犖たる実績をもち、宰相として人臣の頂点に立つ炎寿は、実力・信用ともに国内最高の人材である。
そんな炎寿の発言を軽視できる者など、いるはずがない。
「炎寿殿には、伯鳳様が大器にみえるらしい」
「大器は晩成するという。伯鳳様の器は、我々では計れないということか?」
「英雄は英雄を知るという言葉もある。炎寿殿が言うのであれば、伯鳳様の将来は明るいのかもしれん」
炎寿の発言以降、群臣の伯鳳に対する意識に変化が生じた。
いきなり認めることはなくとも、その成長を見守ろうとするようになったのである。
ちなみに余談であるが、この変化を一番喜んだのは伯鳳ではなく伯凰である。
伯凰は姉として、双子の弟である伯鳳の将来を誰よりも真剣に考えてきたといってよい。
多大な時間を割いて伯鳳の修練に付き合ってきたのが、良い例であろう。
そんな伯凰にとって何よりも苦痛であったのが、群臣が自身と伯鳳に向ける眼差しであった。
伯鳳がどれほど努力しようとも、群臣はそれを否定し続けてきた。
その代わりに、伯凰の優しさと努力を絶賛した。
――鳳の努力は本物だわ。
間近で伯鳳の努力する姿を見続け、心を痛め続けてきた伯凰にとって、炎寿の発言は天からの救いにひとしかったのである。